第二章 B級剣士 エリオット
この王都オストランドでは、毎日、似たようなことが繰り返されている。朝、太陽は鉄山門の向こうから昇り、夕方にはルル門の向こうへ沈む。各国の商人たちが南の饗宴門から次々と入り、ブル地区の中央市場では、南の海の湿った潮風の匂いまでしてきそうだ。
国王もたまに、華やかな行列を引き連れて街をひと回りする。大勢に担がれた高い席から、頭を垂れる民を見下ろすのは、どんな眺めなんだろう。俺にはわからない。ただ、国王が通るときは、鶏も犬も家に閉じ込めて、鳴かせないようにしなけりゃならない。
貴婦人たちは、海を渡ってソラニア東大陸から届いた絹をまとい、南の暖陽海で採れた真珠や珊瑚の飾りを選ぶ。地元産の上等な葡萄をつまみ、最高級の香辛料入りの薬草茶を飲む。
あんなもの、うちの茶の方がうまい。上等な薬草茶なんて飲んだことはないが、それでもそう思う。俺の茶は、ちゃんと客に認められてるんだからな。
小さな寝台に寝転がって、俺はそんなことをとりとめもなく考えていた。ブロリンがツケを全部返したら、安息日にブル地区の市場でもぶらつこうと思っていたのに。
くそっ! この野郎!
明日から、ひえひえ茶を仕込む量を減らそう。それで仕入れ代も少しは浮く。ほかの茶を多めに作るか、それとも、いっそ新しいのを出してみるか。
考えるほど眠れなくなった。指を折って勘定を続け、月が夜空の半ばを過ぎたころ、ようやくうとうとと眠りに落ちた。
ブロリンの盾が戻った、その翌日。
寝坊した。
大慌てで小さな荷車を引いてルシエ広場へ駆けつけたころには、もう昼近かった。ようやく店の支度を済ませると、勇者ギルドの入口脇の壁に、何か貼り紙があるのが見えた。人が集まって読んでいる。俺も前掛けを結びながら、何が書いてあるのか見に行った。
訃報
フラノワ・ブロリン
A級 盾戦士
王国暦二三七年四月十三日
魔物討伐中に殉職
通算依頼数:三一二
通算討伐数:七五三
グラテン王国
オストランド勇者ギルド
フラノワって名前だったのか。あのごつい図体と顔には、まるで似合わない名前だ。うん、うん。
周りで勇者たちががやがやしゃべっているのを聞きながら、そんなことを考えた。それから人垣を抜け、屋台に戻って商売を始めた。
昼を少し過ぎた、いちばん客の多い時間だった。俺は下を向いて手を動かしながら、朝の寝坊でふいにした分を少しでも取り返そうと考えていた。そのとき、誰かがふらりと近づいてきて、目の前で立ち止まった気がした。慌てて顔を上げる。
ユラだった。
「店主さん、あの人のツケを払いに来ました」
ひどくかすれた声だった。
俺は一瞬、固まった。何と返していいのかわからない。とにかく、座ってもらってから話を聞くことにした。
ユラは空いている席に静かに腰を下ろした。青い瞳には何の生気もなく、頬は前よりこけ、まぶたも目の周りも腫れている。ずいぶん長く泣いていたのだろう。向かいに座ってその姿を見ていると、こちらまでつらくなった。
「昨日、あの人の遺品を整理していたら、帳面が見つかったんです。いろんなお店のツケが書いてありました」
ん? うちだけじゃなかったのか。あの野郎。
そう思ったが、口には出さず、続きを聞いた。
「こちらには、まだ銀貨二枚分のツケが残っていますよね。それを払いに来ました」
ユラは小さな布袋から銀貨を二枚出し、そっとテーブルに置くと、顔を上げて俺を見た。申し訳ない、とその目で言っているようだった。
「あの、ほかにもいろいろ入り用なんじゃないか? 返すのは急がなくていい。先に必要なことに使ってくれ。また今度でいいから」
銀貨を彼女の方へ押し戻した。今この金を受け取ったら、いくらなんでも薄情すぎる気がした。
「いえ、店主さん。実は……お金なら、たくさんあるんです……」
最初は懸命に伝えようとしていたが、声はだんだん小さくなり、最後はほとんど声にならず、息だけが漏れた。ユラは少しうつむいた。視線が定まらず、どう言葉を続ければいいのかわからないようだった。
面食らった。
なんだ。あいつの家、金には困ってなかったのか。
「あの……何か飲んでいくか? 一杯おごるよ。はちみつミントのひえひえ茶はどうだ?」
少しでも空気が和らげばと、無理に話の種を探すように言った。
「私……実は、好きなのは……ヘビ草の苦麦茶で……」
ユラはうつむいたまま、気恥ずかしそうに答えた。
仰天した。
なんなんだ、この夫婦は?! 飲み物の好みが妙だってところじゃ、お似合いじゃねえか!
「悪いが、あんなとんでもなく苦いのは、うちにはないんだ。ひえひえ茶にしよう」
返事も待たずに桶の方へ向き直り、柄の長い木のひしゃくで一杯すくって、彼女の前に置いた。ユラは陶器のカップを両手で包み、何口か大きく飲んでから、長く息を吐く。ひどくやつれた顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「このお茶、今の若い女の人たちには、きっと人気があるんでしょうね」
ああ、そうそう。あんたの、あのでかくてごつい旦那が大好きな茶だよ。
そう言いたくなるのをぐっとこらえ、彼女が続きを話すのを待った。
「私の父も、勇者だったんです。あの人と、一緒に冒険をしていて……」
そういう話になるとは思わなかった。
「ある依頼で、父がひどい傷を負って……最期に、私をあの人に託したんです。私はまだ小さくて……父に託されたということを、あの人とは違うふうに受け取っていたのかもしれません」
ユラは思わず顔をそむけ、小さく二度、鼻をすすった。青い瞳に、涙が光っていた。
「私は、あの人でなければ嫌でした。でも、あの人は、絶対に私とは結婚しないと言い張って。何度も、何度も駄々をこねて……最後には、結婚してくれないなら死ぬとまで言いました。それで、あの人も折れて、結婚してくれたんです。でも、結婚して十年以上……夫婦らしいことは、一度もありませんでした」
ユラはかすかに体を揺らしながら、昔のことをたどるように話していた。ゆっくりと、ゆっくりと。
あの野郎のことが、少しずつわかってきた。
「私が薬でも盛るんじゃないかって怖がって、夜はだんだん家に帰ってこなくなりました。でも、依頼から戻るたびに、報酬の大半を私に渡してくれました。家のためじゃありません。……私に、です。店主さん、わかりますか?」
正直、彼女の気持ちがわかるとは言えなかった。ただ、あのごつい男の考えは、少しわかる気がする。俺は黙ってうなずいた。
「あの人、いつも何かを守ろうとするんです。これも、あれも……。でも、守り方は、いつも不器用で……」
そこまで言うと、ユラは手で口元を覆い、声をこらえた。涙は、あとからあとからこぼれる。
俺はただ、黙って彼女を見ていた。
しばらくして、ユラはどうにか泣きやんだ。頬の涙を拭い、また口を開いた。
「すみません。取り乱してしまって。その……とにかく、お金はたくさんありますから。この銀貨は、どうか受け取ってください。夫がご迷惑をおかけしました」
銀貨をもう一度、俺の前へ押し戻すと、座ったまま少し身をかがめ、浅く、けれど丁寧に頭を下げた。それから立ち上がり、服の裾を整える。
「店主さん、こんな話を聞いてくださって、ありがとうございました。ほかのお店にもツケを返しに行きますので、これで失礼します」
「ああ、うん」
俺も慌てて立ち上がり、銀貨二枚を手に握ってみせた。確かに受け取ったぞ、と伝えるつもりで。
「体には気をつけてな」
そう言って送り出した。
ユラはかすかに笑って、背を向けた。ふと、向かいの壁に貼られた訃報に目を留めたようだった。ゆっくりと通りを渡り、その前で足を止めた。
そのとき、もう一人の女が別の方から歩いてきて、訃報に目を留め、足を止める。気がつけば、ユラと肩を並べていた。
午後の西日が訃報の紙を照らし、二人の背にも降りそそぐ。
やがてユラは向きを変え、ルシエ教会の方へ歩いてゆく。もう一人の女は、そのまま数歩進んで路地へ折れ、角の向こうに姿を消した。
ぼんやり見送っていると、不意に屋台から声がした。
「さっきの女、ブロリンの奥さんだろ?」
その声に我に返り、振り向いた。
見覚えのある顔だった。何度か来ている客だが、親しいわけじゃない。ろくに話した覚えもなかった。
男は壁際の席で、だるそうに壁にもたれている。いつも黒い布のシャツに、織り目の細かいズボンという格好だ。シャツの下が妙に膨らんでいるのは、中に板金鎧でも着込んでいるからかもしれない。少し長めの濃い茶色の髪が乱れて目にかかり、頬は痩せている。顔立ちは、ごく普通だった。
それでも覚えていたのには、理由がある。こいつが勇者なのかどうか、いまだにわからないのだ。
一度も、武器を持ってきたことがない。
「ああ、ブロリンの嫁さんだ」
注文のやり取り以外で、こうして話すのは初めてだった。
男はまだ、向かいの勇者ギルドの壁に貼られた訃報を見ていた。その目は暗く、独り言のようにつぶやく。
「気の毒な女だ。本当に、気の毒な女だ」
そうだとも、違うとも言わず、俺はただ男を見ていた。
男は少し興が乗ってきたらしい。壁から身を起こして前かがみになり、両肘を膝にのせると、薄く笑って尋ねた。
「ブロリンがどうやって死んだか、知ってる?」
俺は気のない声で返した。
「じゃあ、聞かせてくれ」
こちらが食いつかないのはわかったようだが、もう口まで出かかった話を引っ込める気にもなれないらしい。男はまた壁にもたれ、俺から目をそらすと、ぼそぼそと話し始めた。
「昨日、あの依頼でブロリンと一緒だった弓手に会った。ギルドの情報が間違ってたそうだ。依頼主の話じゃ、B級の仕事で、不死族も少ししかいないはずだった。ところが、現地で戦いが始まってみれば、不死族の高位魔法使いがいた」
俺には、それがどういうことなのかぴんと来なかった。ただ、「不死族の高位魔法使い」と聞いた途端、ほかのテーブルの勇者たちが一斉に男の方を見た。男はその視線を気にも留めず、話を続ける。
「連中、どこかに身を隠して二日待ったんだと。魔物が引いてから、ようやく盾を拾ってきたらしい」
「その盾は?」
「昨日の夜、ギルドの人間が家まで届けた」
男はため息をつき、そのままつぶやいた。
「死ぬべき奴は死なず、死ぬべきじゃない奴が帰ってこない」
そう言って立ち上がり、銅貨を何枚かテーブルに放った。
「じゃ、店主。あんたたちも、せいぜい気をつけて」
ほかの客にもそう言い残すと、男はしっかりした足取りで出ていった。
まだ頭を切り替えられずにいるうちに、別のテーブルから勘定を頼まれた。そばへ行き、客が金を出すのを待っていると、一人がふいに声を落とした。
「店主、さっきの男とは親しいのか?」
「いや、何度か茶を飲みに来ただけだ。どうかしたか?」
「あいつとは、関わらない方がいいぞ」
勇者はもったいぶった口ぶりで言った。
「へえ、なんでだ? ちょっと気になるな」
何のことだか、さっぱりわからない。
「あの男はエリオットっていう剣士だ。実力はとっくにA級並みなのに、昇級しようとしない。弱い魔物を一方的に殺すのが楽しくて仕方ないんだ、って話もある。勇者の仕事とは別に、表に出せない仕事を個人で請けてるともな。とにかく、薄気味悪い噂の多い奴だよ」
いろいろ聞かせてくれたが、俺が引っかかったのは、どうも別のところだった。
「へえ。で、剣は? あいつが武器を持ってるところなんて、一度も見たことないぞ」
「『剣は、抜くべき時にだけあればいい』ってのが、あいつの信条らしい。だから、普段は持ち歩かないんだと」
へえ。ちょっと変わったことを言う。
エリオットという剣士のことが、前より少し気にかかるようになった。
太陽がルル門の方へ傾いていた。ともかく、ツケの件だけは、これで丸く収まった……。
銀貨も手に入ったんだ! 買い物にでも行かなきゃな。
安息日。
たっぷり寝た。起きてから、翌日の商売に使う何種類かの茶の材料を水に漬け込んでおく。それから銀貨三枚といくらかの銅貨を持って、上機嫌で家を出た。
西のルル通りから、南のブル地区にあるブル中央市場までは、少なくとも一万歩はある。
まずルル通りを東へ突き当たりまで歩き、デューク通りへ曲がる。内城壁をぐるりと囲む通りだ。そのまま南へ回り込み、内城の南向きの門の前まで来ると、そこから南の城門――饗宴門へ向かって、饗宴大通りがまっすぐ延びている。
ここまで来れば、人通りはもう西側とはまるで違う。王都でいちばん栄えている南部でも、この大通りは王族や貴族が金を使って遊ぶための場所だ。両側には豪華な宿や迎賓館、高級な宝飾店、服屋が軒を連ね、道端には立派な馬車がいくつも停まっている。
ちょうど通りかかると、絹の長衣にビロードのズボンをはいた金持ちが、召使いに手を借りて馬車を降り、店へ入っていくところだった。
饗宴大通りをさらに南へ進み、堂々とそびえるオストランド大聖堂を過ぎて、左の通りへ入る。この道がブル中央市場へ続いている。
ここまで歩いても、疲れは感じなかった。こんなふうにのんびり買い物に出るのは久しぶりだ。それに、安息日に商売を許されているのは、王都ではブル地区だけ。街じゅうの人間が集まってくるのだから、とにかく賑やかで仕方がない。
市場が近づくにつれ、通りには異国の気配が濃くなってくる。南の暖陽海沿岸の国々から来た商人たちが、珍しい品を担いだり抱えたりして行き交っていた。ラクダを引く者もいる。その背に積まれた袋からは、品々が不思議な光沢をのぞかせ、珍しい香りが漂ってくる。
市場に入っても、これといった当てはなくぶらついていた。銀貨何十枚もする品が、そこらじゅうに並んでいる。俺の懐具合では、いかにも心細い。あっちをのぞき、こっちで品を手に取ってみる。まあ、見聞を広めに来たと思えばいい。
あちこちから、さまざまな訛りのお国言葉で客を呼ぶ声が上がっていた。
こちらの露店には、暖陽海の大きな貝から採れた、桃色の大粒の真珠。金貨二枚。
あちらの店先には、ソラニア大陸南東部のナイメティア森林地帯で捕まえた妖精が、鳥籠に入れられている。金貨五枚。
見かけた中でいちばん高かった品には、こんな札がついていた。
片手剣――旧領銅星
カラグニア鋼製
金貨六十枚
目を疑った。片手剣一本だぞ? どうすりゃそんな値段になるんだ?
ところが、その俺の目は、もう角の店に釘づけになっていた。
木の家具を売る店だった。だが、気になったのはテーブルでも椅子でもない。棚にずらりと掛けられた、柄の長い木のひしゃくだ。
俺はさっさと人混みをすり抜けて店に入り、ひしゃくの列へまっすぐ向かった。
店主は南の島の人間で、肌は赤銅色。南の島々に特有の頭巾を巻いていた。真似したら舌がもつれそうな訛りの西大陸語で、愛想よく説明を始める。
「ああ、これね。うちの島にしかない、火竜白檀って木で作ってるんだよ。ほかじゃ採れない木だよ」
俺は並んだひしゃくをじっくり見た。長い柄には、この木ならではの不思議な濃い木目が浮かんでいる。細いくせに、驚くほど硬くて丈夫だ。茶をすくう小さな筒形の部分も、外側まで滑らかに丸く削られていた。ひしゃく全体から、ほのかに落ち着いた香りがする。
これだ。この香りなら、うちの茶はもっとうまくなる。間違いない。
「これ、いくらだ?」
「安いよ。銀貨五枚でいいよ」
店主はにこにこと俺を見た。
「銅貨五十枚で売らないか?」
店主の顔から、すっと笑みが消えた。赤銅色の肌が、青黒く見える。
「買わないなら邪魔しないでくれ。あんた、まともに買う気がないね。出てってくれ」
「待って、待ってくれ。こいつが本当に気に入ったんだ。ただ、そんなに金がないんだよ。いくらならいい?」
「このひしゃくはね、見てよ、この作り。それに、ここまで運ぶのにだって……」
「いくらだ? いくらならいいんだ?」
「どうしたって銀貨三枚はもらわないとね」
「二枚! 銀貨二枚で頼むよ!」
おだてたり、頼み込んだり。何とか買わせてもらおうと必死だった。
「はあ……二枚じゃ、本当に赤字だよ」
「そこをなんとか! よろしくお願いいたします!」
俺は何度も何度も頭を下げた。
とうとう店主も根負けして、銀貨二枚で売ってくれることになった。俺は大喜びで金を出そうとしたのだが、うっかり銀貨を三枚とも取り出してしまった。
「三枚あるじゃないか」
言い終わるのも待たずに、二枚を店主の手へ押し込み、もう俺のものになったひしゃくをつかんで、一目散に逃げ出した。
背中に、南の島の言葉で罵る声が追いかけてきた。
残りの銀貨一枚で、南国の果物と、その土地ならではの草をいくつか買った。帰ったら、新しい飲み物を試してみるつもりだった。
大きな荷物を提げて市場を歩いていると、少し先に、見覚えのある後ろ姿が見えた。
ん?
黒い布のシャツ。その下が妙に膨らんでいる。織り目の細かいズボンに、濃い茶色の、少し長めの乱れた髪。
エリオットじゃないか。
声をかけるつもりはなかった。向こうの方が足も速いし、わざわざ追いつこうとも思わない。ただ、偶然だなと思っただけだ。あいつは市場で何を買うんだろう。
二十歩ほど後ろをのんびり歩きながら、その背中を見ていた。足取りは相変わらずしっかりしているのに軽く、少しずつ間が開いていく。
見ているうちに、妙な気がしてきた。行き先がはっきり決まっているようで、両側の店にも品物にも目を向けない。買い物に来たんじゃないのかもしれない。
それだけじゃない。何か、いつもと違う。
考えている間にも、背中は遠ざかり、人混みに紛れていく。その姿が見えなくなるころ、ようやく気づいた。
剣を持っていた。
夜、家に帰ると、買ってきた南国の果物でどんな茶が作れるか、さっそくあれこれ試したくなった。エリオットのことは、もう頭になかった。そもそも、あいつが剣を持とうが持つまいが、俺には関係ない。
あの信条とやらは面白かったが、噂は噂だ。でたらめかもしれないじゃないか。
そんなことより、俺の火竜白檀のひしゃくだ。へへへ。
翌日。
買ったばかりの長柄のひしゃくを持って店に出た。昨日試した新しい飲み物も、いくつか客に味見してもらう。
反応はまちまちだった。南の島の果物や草は、やはり誰の口にも合うというわけじゃないらしい。
ところが、いつもの茶については、みんなが前よりうまくなったと言う。本当に、あのひしゃくの香りが茶に移っているのか?
そんなことを考えていると、エリオットが入ってきた。いつもの隅の席に腰を下ろし、壁にもたれる。
確かめてみた。剣は持っていない。
「今日は何を飲む?」
俺は上機嫌だった。
「地精草の玄米茶を一杯」
エリオットをちらりと見た。茶の好みは、ずいぶん渋いんだな。
地精草は、西大陸ではありふれた薬草だ。根茎が太く、少し苦い。わずかだが、体力を回復させる働きがある。地精草の玄米茶はうちでもよく出る方だが、頼むのはたいてい年配の男の勇者か、依頼から帰ってきたばかりの勇者だった。
俺は宝物のような火竜白檀のひしゃくで、大桶からそっと茶をすくった。どこかにぶつけでもしたら大変だ。
カップに注いでから鼻を近づけてみる。やっぱりだ。ほろ苦い茶の香りに白檀の香りがほのかに混じり、いい具合にまとまっている。
エリオットはのんびり茶を飲み始めた。味が変わったことには、あまり気づいていないらしい。
しばらくして、昼近くになったころ、向かいの勇者ギルドへ何人か入っていくのが見えた。勇者じゃない。揃いの制服に鎧を着け、さりげない模様を彫り込んだ革の鞘に剣を収めている。
王都治安兵団の連中だった。
治安兵団が勇者ギルドに何の用だ?
気になったのは俺だけじゃないらしい。屋台の客たちも、あちこちのテーブルから向こうをのぞいていた。
やがて、治安兵団の連中は帰っていった。その少しあと、ギルドから勇者が一人駆け出してきて、うちの客のいるテーブルへまっすぐ向かった。よく知った仲らしい。茶も頼まず、そこの席に腰を下ろすなり話し始めた。
「事件だ。さっき、王都治安兵団が来たんだよ」
噂を聞かせたくてうずうずしている声に、事件への緊張が少しだけ混じっていた。
「何があった? 治安兵団が何しに?」
同じテーブルの一人が尋ねた。
「昨日の夜、ブル中央市場でいちばん手広くやってる奴隷商が、自宅で殺されたんだ」
顔つきも身振りも、いかにも内緒話といった様子だった。声の大きさは、ちっとも変わっていなかった。
「殺された? だったら犯人を捕まえに行けばいいだろ。なんでギルドに来るんだ?」
「最後まで聞けよ!」
男はあからさまに苛立った。
「治安兵団の話じゃ、市場から家に帰ったところをやられたらしい。家は市場のすぐ近くだ。鎧を着た用心棒八人もろとも、皆殺しだと。全員、剣で。手際もやけによかったらしい。それで、勇者の仕業じゃないかって疑ってるんだ」
男は指を八本立ててみせた。その顔からは浮ついた様子が消え、目には警戒の色が浮かんでいた。
テーブルを拭く手が止まった。布から染み出した水が、卓上に小さく広がっていく。
顔は上げず、目の端で壁際の男を見た。
エリオットは話など聞こえていないように、壁にもたれたまま、ちびちびと茶を飲んでいた。誰を見ているわけでもない。ぼんやりしているのか、何も考えていないのか。
隣の話は続いていた。
「勇者の仕業? それで、ギルドは何て?」
一人が急き込んで尋ねた。
「何も知らない、手がかりがあれば治安兵団に知らせる、だとさ。けど、あんな言い方、関わる気はないってことだろ。何かわかったって、動く気なんかないんだよ」
聞いてきた話に、自分の考えを交えて男は言った。
「それでいいんだよ! 本当に勇者がやったんなら、ギルドは勇者を守るべきだろ」
「そうだ。どうせ奴隷商だ。死んだって構うもんか」
「まったくだ」
口々に声が上がった。
太陽がまたルル門のあたりまで下り、店じまいが近づくにつれて、客たちは一人、また一人と帰っていった。
エリオットには、帰る気配がまるでない。
なぜだか落ち着かず、客がみんな帰って二人きりになると、もう気が気じゃなかった。帰れとも言わず、そちらを見もせず、黙って片づけを続ける。
早く勘定を済ませて、帰ってくれ。
「奴隷商が一人死んだ。惜しいと思うか、店主?」
体がびくりとこわばった。何でもないふりをして、またテーブルを拭く。
「どんな奴かも、何があったかも知らないんだ。何とも言えないだろ?」
そう言って振り返ると、乱れた濃い茶色の前髪の隙間から、鋭い目がこちらを見据えていた。
その視線に俺が気づいたとわかると、エリオットはわざと目元を緩めた。また気だるそうな様子に戻り、今度は両脚まで長椅子に投げ出す。何気ない口ぶりで続けた。
「豚みたいに肥えた金持ちもいれば、骸骨みたいに痩せた貧乏人もいる。そうだろ?」
「おい、あんた、いつもそんな言い方すんのかよ?」
とうとう我慢できず、言い返した。拭き布をテーブルへ放る。もう、どうにでもなれ。
エリオットは怒りもせず、少し笑った。
俺は腹が立ってきて、そのまま問い詰めた。
「じゃあ、あんたは金持ちならみんな死んで当然で、貧乏人ならみんないい奴だと思ってるのか? そうとは限らねえだろ?」
くそっ。俺もいい度胸してやがる。
エリオットは答えなかった。少し黙ってから、ふいに言った。
「店主、商売はどうだ? 暮らしは苦しいか?」
「まあ、それなりだよ。ほかと変わらねえさ。十分の一税だの、屋台の場所代だの、払うもんはある。食っていけて、着るものにも困らなきゃ、それでいいんだよ」
ぶっきらぼうに答えた。
男は何も言わずに立ち上がり、銅貨をテーブルに放ると、俺の前まで来た。
「新しいひしゃく、なかなかいいな」
それだけ言って、背を向けた。
ぞっとした。全身に鳥肌が立った。思わず、新しいひしゃくを懐にしまい込んだ。
なんなんだ、こいつは! 気味が悪いにもほどがあるだろ。どうかしてるんじゃないか?
思わず一歩後ずさり、腰掛けに座り込んだ。道の先にあいつの姿が消えるまで見送り、そのまま十五分ほど座っていた。
ようやく立ち上がり、大急ぎで片づけを済ませ、小さな荷車を引いて一目散に家へ帰った。
それからしばらく、エリオットはちょくちょく屋台に来た。騒ぎを起こすでもなく、茶を一杯頼んで座っている。たまに二言三言話しかけてくるので、俺も適当に返事をしていた。
ただ、何時に来ようと、帰るのは必ず最後だった。
日差しが日に日に強まり、夏の暑さを感じ始めるころ、エリオットはどういうわけか、ぱったり来なくなった。それから、治安兵団の連中が何度か勇者ギルドを訪ねてきた。
やがて、夏も盛りを迎えた。
湿った熱気を帯びた南風に、勇者たちの鎧の鉄臭さと汗の臭いが混じる。勇者にとっては、いちばんつらい季節だ。冷たい飲み物を何杯も飲んで、暑さをしのがなければならない。
俺にとっては、いちばん儲かる季節だった。
ある日、飲み物の大桶に補充の氷を入れ終え、振り向くと、勇者が一人、勢いよく屋台に入ってきた。がたん、と腰を下ろすなり、重い鎖帷子を脱ぎ始める。
鎖帷子を脱いだ途端、すえた汗の臭いが鼻をついた。
男はばつが悪そうに笑った。
「店主、久しぶりだな」
よく見ると、見覚えがあった。前にエリオットには近づくなと忠告してきた勇者じゃなかったか?
「まあ、座って涼んでいけ。何を飲む?」
「冷たけりゃ何でもいい!」
そいつはありがたい。いちばん高いのにしてやろう。
男は冷たい茶を勢いよくあおり、生き返ったような顔をした。それを見ているうちに、つい聞きたくなった。
「なあ、あの陰気な奴。あんたが近づくなって言ってた、エリオット。最近、見かけないんだが」
男はカップを置き、口元を拭って俺を見た。
「ああ、あいつか。店主、まだ知らないのか?」
「どこで知れってんだよ?」
男は少し間を置いた。
「ひと月前、北地区であった殺しのことは知ってるか? 貧民街の徴税官の一家五人が殺されたやつ」
「ああ、何か聞いた気がするな」
「そう、それ。ギルドが揉み消して、あいつは逃げた」




