第一章 A級大盾戦士 ブロリン
「その盾、テーブルから下ろせ!」
隅の席に座る大男に、俺は怒鳴った。
ひどい無精ひげだ。あれでこすれば、硬い木のテーブルだって角が丸くなりそうだ。顔に刻まれた深いしわには、いつも洗い落とせない汚れがたまっている。今は目を糸みたいに細めていた。その細い目と四角いでかい頭が妙にちぐはぐで、なんとも間抜けに見えた。
大男は、ご機嫌を取るような、それでいてずるそうな笑みを浮かべた。
「なあ、大将。ほかの連中はいいのに、俺だけ駄目かい?」
そう言って、別のテーブルに座る勇者たちを横目で示した。自分だけがよほど不当な扱いを受けている、とでも言いたげに。
「あっちは小さい木の丸盾だろ! お前の鋼の大盾と一緒にするな! それに、置くなら自分のテーブルに置けよ。なんで隣に置くんだ。ほかの客が座れないだろうが!」
俺はなおも怒鳴った。
「いや……こっちに置いちまったら、飲み物を置く場所がなくなるだろ……」
「わかってるじゃねえか! 下ろせ!」
奴は渋々、隣のテーブルから大盾を下ろした。何度も位置をずらした末に、ようやくうちの雨よけを支える木の柱に、倒れないよう立てかけた。
俺の背丈よりも大きな盾だった。ぴかぴかに磨き上げてある。目立つへこみがいくつかあるのを除けば、防具屋に並ぶ最高級の新品と見分けがつかない。
「で、何飲むんだ!」
まだ腹の虫が治まらず、ぶっきらぼうに尋ねた。
「いつものやつさ! はちみつミントのひえひえ茶、二杯!」
隣の席の勇者たちが、危うく吹き出しかけた。新顔なのだろう。この巨漢の飲み物の好みを、まだ知らなかったらしい。
「なあ、ブロリン。俺にはわからん。本当にわからん。毎日これを飲んでる男の勇者なんて、お前のほかにいるか? もうちょっと、その見てくれに合ったもんを頼めないのか?」
「むはははは!」
奴はいきなり大笑いすると、さっさと持ってこいと言わんばかりに手を振った。
俺はため息をつき、両手を前掛けで拭った。きれいな水を張った大桶から陶器のカップを二つ取り出し、中の水を空ける。それから、冷気の漂う桶に柄の長い木のひしゃくを入れ、はちみつミントのひえひえ茶を二杯分注いで、奴の前に置いた。
一杯目はぐいっと。二杯目はちびちび。それがこいつの飲み方だ。
A級大盾戦士、ブロリン。背丈は二メートル近い。全身が岩みたいにごつごつした筋肉の塊で、しまいには顔まで筋肉でできているように見える。四十代に見えるが、本当はもう少し若いのかもしれない。十五年前から、だいたいこの顔だった。
いつも鋼の武具を身につけ、その上から山獅子の毛皮のマントを羽織っている。自分で仕留めたものか、買ったものかは知らない。背には柄の短い片手斧と、ひと束の投げ槍。鋼の鎧も一見すると立派なものだが、よく見ればへこみと汚れだらけだ。盾だけは新品同然に手入れしているくせに。
あの大盾さえなければ、山賊の親玉だと言われても俺は信じる。
ほかの勇者によると、大盾戦士がA級まで上がるのは、相当難しいらしい。昇級の決まりなんぞ知らないし、毎日はちみつミントのひえひえ茶を飲みに来る男が、戦場でどんな活躍をしているかなんて、なおさら知りたくもない。
俺にわかるのは、そのA級大盾戦士様が今、ひえひえ茶をちびちび飲みながら、通りを行く若い娘を一人残らず目で追っていることだけだ。深くくぼんだ大きな目の中で、黒目だけがやけに忙しく動いている。その妙な器用さが、まるで顔に似合っていない。
ただのろくでなしじゃねえか。
通りの向こうの勇者ギルドから何人か出てきて、こちらに声をかけながら、まっすぐ俺の茶の屋台へやってきた。
「よう、ブロリン。今日は依頼を受けてないのか?」
弓手らしい男が言った。
「C級の討伐ばっかりさ。ああいうのは若い連中に譲ってやらんとな。それにしても、王都暮らしもますます退屈になってきたねえ!」
ブロリンは太い両腕を広げ、長々と伸びをした。勇者たちは笑い、それ以上は話しかけず、空いている席に腰を下ろした。
「大将、勘定だ!」
ブロリンがテーブルをひっぱたいた。脚がはっきりぐらつくのが見えた。
「おや、もう家に帰るのか?」
俺はからかった。
「むはははは! 家だって? ちょいと楽しんでくるのさ!」
奴はそう言って片手をひらりと振り、銅貨を十枚、テーブルに放った。
「また一杯分しか払わねえのかよ。おい!」
銅貨を一目見てわかった。今日もこいつから全額取り立てるのは無理だ。
「まあ、そう言いなさんな。払ってるじゃないか。今度A級の依頼を一つ片づけたら、まとめて全部返すさ!」
「いや、お前はそう言うけどな。ツケ、結構たまってるぞ」
本当にどうしたものか。金を払わない奴かと言えば、毎回半分は払って、こっちに期待を持たせる。じゃあ払う奴なのかと言えば、残りがいつ返ってくるのか、さっぱり見当がつかない。
「はいはい、大将! じゃあな、じゃあな!」
ブロリンは立ち上がり、面倒くさそうに手を振った。それから両手であの大盾を持ち上げ、鼻から下を隠すと、背を丸め、こそこそと通り脇の路地へ向かった。
「その図体で顔だけ隠して、何の意味があるんだよ!」
背中に怒鳴ってやったが、言い終わるころには、もう路地の角を曲がって見えなくなっていた。
俺はため息をついて首を振り、今しがた席についた勇者たちに飲み物を運んだ。
「奥さんは、あいつがああいうことしてるの、知ってるのか?」
さっきブロリンに声をかけた弓手に尋ねた。
「知ってる……んじゃないか?」
弓手も、なんとも言えない顔をしていた。
不意に、背後から声がした。
「店主、カラグニア猫って知ってる?」
振り返ると、屋台のもう一方の隅、日よけの陰になった壁際の席に、刺客が一人座っていた。そこにいたのを、すっかり忘れていた。
「何猫だって?」
「カラグニア猫。西のカラグニア旧領の森にしかいない猫らしいよ」
「知らないな。それがどうした?」
気になって尋ねると、刺客は言った。
「あの猫、図体はでかいのに、妙にこそこそしてるんだ」
それだけ言って、静かに茶をひと口飲んだ。
俺は吹き出した。刺客にまで「こそこそしてる」なんて言われる大盾戦士。まったく、勇者ってのは妙な連中だ。
夕日は高い城壁の向こうに半ば隠れていた。勇者ギルドの職員たちも、正面の扉に鍵をかけ、それぞれ帰っていく。
夜は俺の出番じゃない。勇者たちはたいてい、王城の南にあるブル地区へ一杯やりに行く。王国でいちばんにぎわう市場があり、南方諸国や、北の帝国やアイカドからの商隊も集まる場所だから、酒場もやたらと多い。毎週の安息日にも、王国で唯一、堂々と商売を続けていい地区だ。俺もたまには飲みに行くが、今日はそんな気分じゃなかった。
店じまいをして、腰掛けを逆さにして木のテーブルに積んだ。それから、まっすぐ延びるルル通りへ出る。ルシエ広場を通り、西のルル門へ向かって四百歩ほど歩き、北側の路地に入れば俺の家だ。その路地には入らず、さらに六百歩ほどまっすぐ行けば、もうルル門だ。門の外には、王都の西の野が広がっている。晴れた日なら、大きな門の向こうに、はるか西の山々の稜線までうっすら見える。
家に帰って帳面を開いた。おいおい、ブロリンの奴。一杯銅貨十枚のひえひえ茶で、銀貨三枚分もツケをためてやがる。
翌日。
昼を少し回り、日が西へ傾き始めたころ、ブロリンが来た。目の下の濃い隈は、遠目にもはっきりわかった。
まず向かいの勇者ギルドに入り、しばらくして、何人かの勇者と一緒に出てきた。入口でひと言ふた言交わすと、それぞれ別の方向へ歩いていく。ああいうときは大抵、これから依頼に出るので、各自で必要なものをそろえに行くのだ。
「どこ行くんだ?」
俺が大声で呼びかけると、ブロリンは両手を頭の後ろに組んだまま、歩きながらこちらを向いた。
「ひと仕事さ。二、三日もすりゃ戻る。そしたら金も返すよ、大将!」
「仕事なら、先に買い出しだろ? なんで城門へ行くんだよ!」
なおも声を張り上げると、
「むはははは! 準備なんぞいらんよ! じゃあ、また何日かしたらな!」
あのでかい背中が、大股でルル門へ遠ざかっていく。鼻歌まで歌って、ずいぶん気楽そうだった。
俺は向き直り、使い終わったカップを洗い始めた。屋台に座っている勇者たちも、あの背中を見送っているのが目の端に映った。そのうちの一人が、小さく独り言を漏らした。
「ブロリンが依頼に?」
手は止めず、俺も何気なく聞いた。
「どうかしたのか?」
勇者は腑に落ちない顔でカップを置き、俺を見た。
「あいつ、何の依頼に行くんだ? 今日はろくな依頼がなかったぞ。一番上でもC+だ。B級に届くかどうかって程度だろ。C級の一隊で十分だ。報酬だって、一人頭、銀貨二袋しか出ないぞ。A級のブロリンが何しに行くんだよ。ゴブリンやイノシシでも手当たり次第に狩るつもりか?」
そう言われてみれば、そんな気もしてくる。それに、こっちも少しは考えるそぶりを見せないと、話している相手に悪い気がした。俺は手を止めてルル門の方を眺め、しばらく考えるふりをした。そもそもゴブリンやイノシシが何級なのか、俺は知らないんだが。
「まあ、最近は仕事を探すのもひと苦労だよな。いい依頼が少なすぎる」
同じテーブルの別の男が話に加わった。
「世の中が平和になって、王国内じゃ魔物どころか猛獣までずいぶん減った。いいことなのか、悪いことなのかね」
「そうそう。今の新人がいちばん気の毒だよ。俺たちのころは、新人でもすぐに昇級できたもんだ。今のD級の依頼なんて、家を建てろ、堰を直せ、いなくなった家畜を捜せ、だろ? このごろはD級でも、スライム退治すらろくにない。北のアイカド王国なら、まだ氷狼を狩れるらしいけどな。南の暖陽海沿いの国々じゃ、勇者をやめて、別の仕事に就く奴も多いって聞くぞ」
話が盛り上がってきたので、俺はようやくカップ洗いに戻れた。どんどんしゃべって、その分どんどん茶を頼んでくれ。うん。
魔物のことはわからんが、いつか勇者がみんな商売替えしてしまったら、うちの商売にも響く。とはいえ、普通の人たちが安心して暮らせることが、何より大事ではある。
いつか勇者ギルドそのものが要らなくなったら、俺の屋台はどうなるんだろう。
俺はそんなことを、黙って考えていた。
それから数日、ブロリンは姿を見せなかった。本当に依頼に出たらしい。
ある日の午前中、ブロリンが何人かの勇者と一緒に戻ってきた。みんな気楽そうで、怪我をした様子もない。そのまま俺の目の前を通り、勇者ギルドへ入っていった。
しばらくすると、一人、また一人と出てきて、ひと言ふた言交わしただけで、それぞれ散っていった。ブロリンの手には、小さな布袋が二つあった。ずっしりと重そうで、中には硬貨がぎっしり詰まっているらしい。
茶を飲んで、ツケを返していくものだと思っていた。ところがあいつは、にやにやしながらこちらを見ただけで、
「大将! 先に家に帰るよ! 明日だ、明日返しに来るからな!」
そう言うと、二つの袋を手の上で放り上げては受け止めながら、さっさと行ってしまった。
俺も何も言わず、仕事に戻った。銀貨三枚は、俺にとっては小さな額じゃない。だが、A級の勇者が気に留めるような金額でもない。だから俺も、勇者ならいずれ払うだろうと踏んで、ツケを許している。この辺で勇者をやってる連中だって、メンツくらいはあるだろう。
翌朝早く、ブロリンは先にギルドへ顔を出すと、今度は堂々と胸を張って、こちらへ歩いてきた。
俺はちょうどテーブルを拭き終えたところだった。前掛けで手を拭いながら、あの得意満面の顔を見ていると、それだけで笑えてきた。口を横に広げて、へへ、と小さく笑っている。無精ひげには、パンだか何だかの食べかすがまだついていた。顔のしわにたまった汚れは、少し薄くなっている。昨夜はちゃんと顔を洗ったんだろう。
「おや、今日はブロリン様が一番乗りか?」
腰に手を当てて迎えると、ブロリンは背中の大盾を下ろした。いつもの調子でテーブルに載せかけ、何かを思い出したように俺を見た。
俺の目つきに気づいたのか、途中で手を止めると、そろそろと盾を壁に立てかけた。それから、どかっと腰掛けに座り、両脚を大きく開いた。
「はちみつミントのひえひえ茶、二杯!」
でかい手で顔をこすり、その手をテーブルに置く。指を順に動かして、天板をとんとんと叩いていた。
「ああ。ちょうど今朝、氷が届いたところだ。今がいちばん冷えてるぞ」
俺は振り向いて柄の長い木のひしゃくを取り、桶からひえひえ茶をたっぷり二杯すくって、目の前に置いた。
あいつはさっそく一杯目を飲み干し、二杯目をのんびり飲み始めた。
機嫌はよさそうだし、ほかに客もいない。少し世間話でもするかと思った。
「この前の依頼、そんなに上の級じゃなかったんだって?」
ブロリンは、どん、とカップを置いた。
「ちょいとした仕事さ。西の村に、たいしたことのない魔物が出ただけでね。若い連中の練習につき合ってやったようなもんだよ」
そこで、話が途切れた。
まさか「銀貨を二袋もらったんだって?」と続けるわけにもいかない。俺は戦いだの魔物だのに、これといって興味がない。あいつも、俺にもう話の種がないことと、わざわざ持ち上げて武勇伝につき合う気もないことに、気づいたらしかった。
気まずい。
よりによって、屋台には俺とあいつしかいない。気まずくて、いたたまれなかった。
無理にでも何か話そうとしたのか、ブロリンが唐突に口を開いた。
「いつも一人で店をやってるが、かみさんは手伝いに来ないのかい?」
「ああ、俺は所帯を持ってないんだ」
「そうかい」
ますます気まずくなった。
だが、そう言ったきり、ブロリンは何か考え込んでいるようだった。ただぼうっとしているのか、何か思うところがあるのかはわからない。あいつがこんな様子を見せるのは、珍しかった。
少しして、また口を開いた。
「そうか。所帯を持ってないのか。そりゃいい。そりゃいいよ」
今度は俺がわけもわからず首をかしげる番だった。何の話だ。何がよくて、何が悪いんだ。なんで急に俺の身の上話になってるんだよ。
「へえ。どういいのか、聞かせてくれよ」
笑って言うと、
「所帯を持たなきゃ、気楽じゃないか。なあ? 気楽でいいよ! 大将だって、俺とそう歳は違わんだろ。俺たち男ってのは……」
「ああ、悪い。客が来たから、ちょっと行ってくる。茶が足りなきゃ呼んでくれ」
今しがた席についた二人の客に、心の底から感謝した。何と返せばいいのかわからなくなる一方の、この男との会話から、ようやく抜け出せた。
新しい客のところへ行き、何を飲むか聞きながら、ちらりとブロリンを見た。あいつはもう少しぼうっとしていたが、やがていつもの調子に戻り、ひえひえ茶をちびちびやりながら、行き交う若い娘を目で追い始めた。
客はだんだん増え、じきに満席になった。ブロリンはそのまま、昼まで一人で黙って座っていた。
カップが空になると、テーブルを叩いて勘定を頼んできた。手が空くまで少し待ってもらい、それからあいつのテーブルへ行った。
ブロリンは自信たっぷりに、腰帯に下げたぺたんこの小袋に手を入れた。銀貨を一枚取り出し、ぱん、とテーブルに置く。
「大将、今日の分と、前からのツケとで、銀貨一枚ありゃ足りるだろ?」
そう言って、にっこり笑った。まるで大借金をきれいに返したような顔だった。
俺の顔から、すっと笑いが消えた。この勇者は、わざとやってるのか。それとも、本当に気づいていないのか。
「ああ、実はな。お前のツケ、もう銀貨三枚になってるんだ」
ブロリンは仰天した顔で、深くくぼんだ大きな目を見開き、俺を見つめた。瞳に映った自分の姿まで、はっきり見えた。
「大将、そんなにたまってたのかい?」
「ああ。この前までで、ちょうど三十杯だ。一杯銅貨十枚で、銀貨三枚。銅貨なら三百枚だな」
ブロリンは頭の中で数えているらしかった。本当にそんなに飲んだのか、と。しばらく考えた末に、自分のでかい頭をひとつ叩いた。
「大将、こうしよう。今日は銀貨一枚払う。残りは次の仕事のあとまで待ってくれないかい? 今は、どうにも手持ちがなくてね」
後半は声を落としていた。
「ブロリン、俺だってうるさく言いたくはないけどな。昨日、仕事を終えて報酬をもらったばかりだろ? あの金はどうしたんだ?」
なるべく怒りを顔に出さないようにして、肝心のところを聞いた。
「ああ、盾の手入れに使ったよ」
「たいした依頼じゃなかったんだろ。盾の手入れで、そんなにかかるか? 残りは?」
「むはははは! 昨日、全部かみさんに渡しちまったよ!」
何も言えなかった。
本当に、返す言葉がなかった。
あいつはまだ続けている。
「だからさっき言ったじゃないか。所帯を持たなきゃ気楽でいいって。大将みたいな暮らしなら……」
「わかった、わかった。銀貨一枚はもらっとく。もう行っていいぞ。次の仕事が終わったら、忘れずに返してくれればいい」
また話を遮った。これ以上、何か言い合う気にはなれなかった。銀貨一枚でも、ツケの三分の一は返ってきたわけだ。それだけで大した進歩だ。
ブロリンは立ち上がり、右の拳で左胸をとんとんと叩いた。感激したような顔で俺を見ている。
「ああ、ほら、行った行った。また飲みたくなったら来てくれ。じゃあな、気をつけてな」
あいつは大盾を背負って屋台を出ると、一度こちらを振り返った。
正直、あの盾があんなにでかくなけりゃ、外へ放り投げてやりたかった。俺は見送らなかった。さっさと商売に戻って、損を取り返す方が先だ。そう思った。
それから三日、ブロリンは来なかった。
四日目も、朝から昼にかけては姿を見せなかった。だが、午後になって、少し思いがけないことが起きた。
日が西の空を半ばまで下ったころだった。俺は忙しくテーブルを拭きながら、ときどき客の勇者たちと、とりとめのない話をしていた。
そのとき、平民らしい身なりの女が一人、向かいの勇者ギルドへ入っていくのが見えた。
ほどなくして出てくると、女はこちらの屋台を一度見た。それから、うつむいて静かに歩いてきた。
「皆さん、勇者の方ですよね。どなたか、ブロリンを見かけませんでしたか?」
声をかけられて初めて、俺も客たちも、その顔をまともに見た。
細身の美人だった。
三十歳くらいだろうか。長い髪を後ろでまとめ、鼻筋は細く通っていて、頬骨の線は柔らかい。目尻の少し下がった目に、澄んだ青い瞳が光っていた。なんて優しい目をした人だろう。
だが、唇は乾き、目の下には濃い隈があった。ひどくやつれていて、何か重いものを背負っているように見えた。
「ここ数日、ブロリンを見かけた方はいらっしゃいませんか?」
俺も客たちも、まだその人を見ていた。誰も答えなかった。
「ユラと申します。ブロリンの妻です。ここ数日、あの人を見かけた方がいらしたら、教えていただけませんか?」
その言葉に、その場にいた全員が、一瞬、驚きをあらわにした。
「ああ、奥さんでしたか。ええと、実は、一昨日の晩に会ったんですが」
ようやく、一人の勇者が口を開いた。
「どちらでですか?」
ユラのやつれた顔に、焦りが浮かんだ。だが、勇者の方は困ったような顔になった。少しためらっていたものの、すがるような青い目で見つめられるうち、とうとう口を開いた。
「……タラン街で」
その瞬間、屋台の空気が凍りついた。ユラの目から、さっきまでの切実な光がすっと消えていった。
ただ一人、見慣れない顔の若い勇者だけが、何も察していない調子で聞いた。
「なんでみんな黙ったんだ? タラン街って、どんなところだ?」
「ああ、その、ほら。早く茶を飲めよ。冷めちまうぞ。飲め飲め」
俺は慌てて口を挟み、どうにかごまかそうとした。
「え? これ、もともと冷たいけど」
そいつと同じテーブルにいた、少し年かさの勇者が、懸命に目配せをしていた。黙れ、と顔で伝えようとしている。
「奥さん、一昨日の晩にタラン街で会ったのは確かです。そのあとは、見ていません」
最初に答えた勇者が続けた。
ユラは少し黙っていた。それから、ほんのわずかに頭を下げた。
「わかりました。皆さん、ありがとうございます。これからも、あの人と一緒に依頼に出ることがありましたら、どうぞよろしくお願いします」
そう言うと、静かに背を向けた。うなだれたままゆっくりと遠ざかり、ルシエ広場の向こうへ姿を消した。
途端に、屋台が騒がしくなった。勇者たちは、われ先にと噂を始めた。
「ブロリンの奴、何が不満なんだ?」
「ブロリンの嫁さん、あんな若い美人なのかよ! ずいぶん歳が違うじゃねえか!」
「なあ、あいつ、何か人に言えない事情でもあるのか? それとも妙な趣味か?」
「わからん。さっぱりわからん」
「で、タラン街って、どんなところなんだ?」
さっき場違いなことを言った新人が、また同じ質問をした。
同じテーブルの年かさの勇者は、茶をごくりと飲んだ。まだユラの去った方を見ながら、何か考えるように答えた。
「お前、王都に来てまだ日が浅いんだろ。知らなくても無理はない。『タラン街の若後家』って、聞いたことはあるか?」
「ないな」
「じゃあ、ヤラの戦いは知ってるか?」
「知ってるよ。十何年か前に、王国とヘルレン帝国が国境で戦ったんだろ。王国が、大きな犠牲を払って勝ったっていう」
年かさの勇者は、その答えを聞くと、続けた。
「タラン街に住んでたのは、もともと大半が王国竜騎兵王都第三団の兵士の家族だったんだ……」
そこで一度、言葉を切った。北東の空へ目を向け、絞り出すように付け加えた。
「兵たちは、ほとんどヤラで命を落とした……」
誰もが知っている話を、俺はその場でまた聞いていた。
噂話で騒がしくなった屋台で、黙っていたのは、その男と新人だけだった。
二日後の夕方。
勇者ギルドがじきに閉まるので、俺も客に勘定を済ませてもらって、店じまいをしようとしていた。そこへブロリンが、大盾を背負い、太い腕を振りながらやってきた。
「よう、大将!」
片手を上げて挨拶すると、盾をきちんと壁際に置き、適当な席に腰を下ろした。
「昼にギルドへ来たんだが、ずいぶん忙しそうだったからね。邪魔しちゃ悪いと思ってさ」
俺はいつものように、前掛けで手を拭いた。
「おや、今日はずいぶん気を遣うじゃないか。で、またひえひえ茶か? 閉めるから、さっさと飲んでくれよ」
「いやいや、大将。今日は何もいらんよ。ちょいと顔を出しに来ただけさ」
へえ。それは珍しい。
俺は左手をテーブルにつき、右手を腰に当てた。何も言わず、あいつを見ていた。一体何を言い出すのか、聞いてやろうじゃないか。
ブロリンは一瞬黙ってから、口を開いた。
「依頼を受けてね。これから出発するんだ。戻ったらツケを全部返すから、あと何日か待ってくれって、それを言いに来たのさ」
「これから出発するってのに、準備もしないで、わざわざそれを言いに来たのか?」
「むはははは! 準備なら、午後のうちに済ませたよ!」
そう言って、腰に下げた大きな布袋を叩いた。ぱんぱんに膨らんでいて、ずいぶんいろいろ入っているらしかった。
俺はその袋をちらりと見てから、またブロリンを見た。
「今度は危ないのか?」
「危なくはないよ。B級の依頼さ。ただ、ちょいと遠いんでね。多めに持っていくのさ」
大きな口を横に広げ、笑いながら言った。だが、どうも目の焦点が合っていないように見えた。濃い隈のせいで、視線の落ち着かなさが余計に目についた。
「ああ。この間……奥さんが来たぞ」
「むはははは、知ってる、知ってるよ。おかげでこの二日ばかり、しんどくてねえ。はははは!」
そんなふうに自分を笑うあいつに、合わせて笑うことはできなかった。
やがて、あいつの笑いが収まりかけたところで、俺は言った。
「この間、俺は所帯を持ってないから気楽でいいって、お前言ってたろ?」
ブロリンは、じっと俺を見た。俺はその目を見返さず、続けた。
「あれから、少し考えたんだ」
「何かわかったかい?」
俺はあいつの方を見ず、勇者ギルドを見た。それから、通りを行く人たちに目を移した。
「人にはそれぞれ、巡り合わせってもんがあるのさ」
笑みを浮かべて、そう言った。
ブロリンは静かになった。少しうつむき、両手の指をゆるく組んで、親指を交互に重ねては動かしていた。何か考えているようだった。
しばらくすると、その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
こんな顔をするブロリンを、俺は見たことがなかった。そのときは、顔のしわに入り込んだ汚れまで、ほのかに温かく光っているように思えた。
自分でも一瞬驚いた。それから、なんだか気持ち悪くなった。
俺はどうかしちまったんじゃないか。よりによって、こいつを見て、こんな気分になるなんて。
「あのな。飲まないなら、もう閉めるぞ」
ブロリンはいつもの顔に戻り、立ち上がって腰帯を引き上げた。
「閉めなよ。ちょうど、一緒に行く連中も来た。そろそろ出ないとな」
盾を持ち上げて背負うと、ルル通りへ出て、何人かの若い勇者と合流した。
あいつがこちらへ手を振ったので、俺もひとつうなずいた。
一行はそのままルル通りを歩いていった。夕日に鮮やかに染まった雲へ向かって進み、ルル門の外へ姿を消した。
それからの日々も、暮らしは何も変わらなかった。
勇者ギルドがあるおかげで、屋台は毎日、客に困ることがなかった。前よりやかましい声、前よりくだらない噂、前よりわけのわからない話。このルシエ広場の片隅で、ブロリンがいなくなって変わったことといえば、はちみつミントのひえひえ茶が、目に見えて売れなくなったことぐらいだ。
春が移ろい、花が入れ替わりに咲いては散っていった。
十数日が過ぎた、ある朝早く。
俺はいつものように荷車を引き、飲み物の桶を屋台まで運んだ。カップを浸ける木桶を洗って、きれいな水を張り、空のカップを一列ずつ並べた。テーブルから腰掛けを下ろし、天板を残らず拭いた。
ひと通り支度を終えたころ、東の王城の上から、太陽が大きく顔をのぞかせていた。
ルル門の方から、何かの反射光が一瞬、俺の目を射た。
顔を上げ、手をかざしてそちらを見ると、人影がいくつかあった。朝のまだがらんとした通りで、その姿はやけにはっきりと見えた。ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
近くまで来て、ようやくわかった。
盾は戻った。
あいつはいなかった。




