第十七章 勇者ギルド会長 ウルフ
王国軍は潰走した……。
その衝撃的な報せが届いたのは、王国軍がヤラの戦場へ発ってから、わずか半月余りのことだった。
閲兵式が終わり、軍が去ったあとも、王都が閑散とすることはなかった。ただ、あのひとときの熱狂だけが唐突に終わり、人々はいつもの暮らしへ戻っていった。ブル中央市場は相変わらず人であふれ、饗宴大通りの両側に並ぶ高級品の店も、客足が絶えることはない。誰もが冬の訪れを前に、さまざまな品を買い揃えていた。戦争は、ただ食卓の話題になった。
雨の季節が訪れ、王都の外を流れるテルソン川は水かさを増し始めた。濡れた通りの石畳を、苔が少しずつ這っていった。ときおり、場違いにもヒキガエルが道の真ん中へ跳び出してきて、逃げ遅れたものは、通り過ぎる馬車の車輪に押し潰されていった。
ごくありふれた、雨の午後だった。屋根の布の縁から、雨水が幕のように滴り落ち、地面をぽたぽたと打っていた。通りに人影はまばらで、俺は屋台で、仕入れたばかりの新鮮な金糸草の花を煮ていた。やかんから立ちのぼる湯気と薪の火が、肌にまとわりつく湿った冷気をいくらか和らげてくれた。目の前には魔法薬の店の老魔法使いが座り、ひげをなでながら、俺とぽつりぽつりと話をしていた。
デューク通りのほうから、何人かが走ってきた。傘も差さず、フードもかぶらず、雨に全身を打たれるまま、死に物狂いで走り、声をからして叫んでいた。人通りの少ないルル通りで、その姿も声も、ひどく異様だった。
「王国が負けたぞ! 早く逃げろ!」
「帝国軍が来るぞ! 逃げろ! 早く!」
通りの両側で、一斉に窓が開いた。市民たちが顔を出し、信じがたい報せに言葉を失った。通りに響くのは、走る数人の声だけだった。
だが、その異様な沈黙も、ほんの一瞬のことだった。今度はあらゆる建物の戸が押し開かれ、人々が慌てふためいて通りへ飛び出してきた。何をすればいいのか、誰にもわからない。ただ互いに事実を確かめようとするばかりで、本当のところを知る者は一人もいなかった。
通りが、沸き返った。
小隊長が、動かせる衛兵をほぼ全員率いて、ルル通りを走っていた。たちまち大勢の市民に取り囲まれ、それでも怯える人々を必死にかき分け、ルル門へ進もうとしていた。うちの屋台にいた数人の勇者も、全員立ち上がった。拳を握りしめ、突然の事態を見つめていた。俺も木のテーブルのそばで、呆然と立ち尽くしていた。手が、勝手に震え始めた。
老魔法使いが、俺の手をそっとたたいた。俺は彼を見た。
「慌てるな。まずは何が起きているのか、様子を見よう」
小隊長は部下を連れ、ようやく屋台のそばまでたどり着いた。俺に目をやると、衛兵を何人か連れて中へ駆け込んできた。
「店主、緊急事態だ。ちょっと借りるぞ」
衛兵たちに目配せすると、そいつらはうちのテーブルを一つ持ち上げた。一行はまた人混みに分け入り、押し寄せる市民の間を苦労して抜けながら、ルシエ広場へ向かっていった。
俺も、屋台にいた勇者たちと一緒に、人波に交じってあとを追った。
衛兵たちは広場の真ん中にテーブルを置いた。押し合う人々にもまれながら、小隊長がその上によじ登った。広場には次から次へと人が集まってきた。泣き叫ぶ者、祈る者。それ以上に多くの者が、本当の戦況を教えてくれと声を上げていた。
「静かにしろ! 全員、静かに!」
小隊長が怒鳴った。
広場が一瞬で静まり返った。小隊長は腰に両手を当て、何度か大きく息をつくと、まず、ついてきた部下たちに叫んだ。
「お前たちはルル門へ急げ! 早く行け!」
衛兵たちは顔を見合わせた。人々が自ら道を空け、そいつらはルル門へ駆けていった。小隊長はその背中を見送り、少し間を置いた。息を整え、ようやく口を開いた。
「我々の敵、ヘルレン帝国軍は、教廷国内を流れるテルソン川の上流を経て、我々に奇襲を仕掛けてきた。今日の午前中、帝国艦隊はカラカ湖に到達し、すでに兵を上陸させた。敵の数は、およそ一万二千から一万五千。夕方までには王都に到達する見込みだ」
小隊長は、ひと言ごとに息を継ぎながら、どうにかそこまで告げた。広場には、恐ろしいほど重苦しい空気がのしかかった。
「敵がまだ来ていないうちに、逃げたい者は早く逃げろ!」
声を振り絞った叫びだった。
驚愕、恐怖、泣き叫ぶ声、怒り。それらが一つになり、絶望という名の、風さえ通さぬ球体となって、ルシエ広場を包み込んだ。震える足でルシエ教会へ向かう者もいれば、身を翻して通りへ飛び出し、家へと駆け戻る者もいた。俺と一緒に来た勇者たちも、勇者ギルドへ走っていった。残った何人かは、俺も含めて、ただ呆然と広場に立ち尽くしていた……。
「早く軍を呼び戻してくれ!」
「降伏だ! 降伏するべきだ!」
「ふざけるな! 死んでも王都を守るんだ!」
叫びが次々と上がった。意見の食い違った者同士が、地面を転がりながら殴り合っていた。胸に渦巻く感情を、拳で同胞の肉体に叩きつけていた。
小隊長は両腿に手をついて、ようやくテーブルから下りた。人混みを抜け、俺のそばを通るとき、虚ろな目を一度こちらへ向けた。
「城門へ行く……」
そう言っただけで、まっすぐルル門へ歩いていった。
俺はテーブルを広場に置き去りにした。魂が抜けたように足を引きずって屋台へ戻り、椅子に崩れるように腰を下ろした。無意識に老魔法使いの前の杯を取り、震えながら茶を一口飲んだ。それからゆっくり顔を向け、歳月の刻まれた、その穏やかな顔を見つめた。
「どうして……どうして、こんなことに……」
老魔法使いは答えなかった。ただ、通りを入り乱れて走る人々を、静かに見つめていた。
「どうするつもりだ? 逃げるか?」
「俺は……ここを離れたくねえよ……」
頭の中はめちゃくちゃだった。自分が今口にしたことが正しいのかどうかも、わからなかった。それが本当の気持ちなのかさえ、わからなかった。
「そうか……なら、残ればいい。そろそろ店に戻るとしよう」
老魔法使いは俺の手を強く握った。それから杖をついて立ち上がり、ルシエ広場に目をやった。もう一度俺を見下ろし、笑って言った。
「人は皆、ただ運命に翻弄されながら生きていく。だが、その運命もまた、必ず答えをくれる」
そう言うと、老魔法使いは杖をつきながら、混乱する人波の中へ歩いていった。
どれほど長く椅子に座り込んでいたのか、わからなかった。ぼやけた視界の中で、俺はただ通りを眺めていた。ウルフを乗せた馬車が内城のほうへ去り、ギルドへ集まってくる勇者の数は増すばかりだった。荷車を押す者、馬を引く者、大きな荷を背負う者、子供の手を引く者。通りに現れた人々は、城門を目指して進んでいった。やがて城門が轟音とともに閉ざされ、ルル門の前で、すがる声と泣き叫ぶ声が入り交じった。
「店主? 店主?」
誰かが俺の肩を揺すっていた。
「店主、大丈夫か?」
はっと我に返った。雨はいつの間にか上がり、空もすでに薄暗くなっていた。ニコライと、いつもうちに来る勇者が何人か、心配そうに俺を見ていた。
「俺は……」
手のひらで顔をぐいとぬぐった。
「大丈夫だ。大丈夫」
そう答えると、ニコライたちの顔から不安が薄れ、笑みが浮かんだ。
「ならよかった。片づけは手伝うから、家に帰りなよ」
ニコライが言った。
「ああ……今、どうなってるんだ?」
「帝国軍に王都を囲まれた。でも、まだ攻めてはきてない。まだどうにかなるかもしれない。とにかく、今は家に帰りなよ」
俺はぼんやりとうなずいた。勇者たちは手際よく屋台を片づけ、荷車に道具を積んでくれた。
「大丈夫か? 家まで送ろうか?」
俺はそいつらを見て、うなずいた。それから荷車を引き、ルル門のほうから引き返してくる大勢の人々の間を抜け、家へ向かった。
その夜は、まったく食欲がなかった。この先どうなるのか、あれこれ考えていた。ただでさえぱさついた干し肉は、いくら噛んでも味がしなかった。
囲まれた。だが、まだ攻めてはきていない。まだどうにかなるかもしれない。
その言葉を、頭の中で何度も繰り返した。荷物をまとめたほうがいいのか。明日の茶は、まだ仕込むべきなのか。敵が攻めてきたら、どうすればいい。
食い終えると、まっすぐ二階の寝室へ上がった。寝台に横たわり、毛布を頭までかぶった。このまま朝まで、ぐっすり眠ってしまいたかった。だが、ついこの間、屋台であの刺客に聞かれたことが、また頭に浮かんだ。
「負けたら、どうする?」
「そうなったら考えるさ」
あのとき、俺はそう答えた。
だが、いざそうなってみると、考えようにも、頭の中は空っぽだった。あのときはあんなに平然と答えたくせに、現実になったら、何もできやしねえ。
今日、老魔法使いが言った言葉も思い出した。
「運命は、必ず答えをくれる」
じゃあ、俺の答えは何だ。死ぬってことか。誰か、俺をうちの墓地に埋めてくれるんだろうか。考えてみりゃ、若いころ、人の真似をして娼婦を買いに行ったぐらいで、俺はまだ、ろくに女とも寝てねえじゃねえか。
親父、おふくろ。俺、嫁も子供もいないままだ。今度会ったとき、責めないでくれよ。
そんな脈絡のないことを、次から次へと考えていた。気がつくと、枕が濡れていた。そのまま、少しずつ眠りに落ちていった……。
次に目を開けたとき、雲間から顔を出した月が、空の真ん中に浮かんでいた。真夜中だった。窓の外では、見回りの兵士たちの鎧が、がちゃがちゃと鳴っていた。窓を開けると、湿った風が顔にまとわりついた。俺はそのまま、手で顔をこすった。
服を着て、夜のルル通りへ出た。なぜなのかはわからなかった。ただ、自分の屋台に行って、少し座っていたかった。城壁の上では灯火が行き来し、ルル門も、内側から大量の土嚢と丸太で塞がれていた。
ルシエ広場のそばを通りかかると、小隊長が一隊の衛兵を連れて見回っていた。通りを歩く人影に気づき、部下を連れて近づいてきた。手にした灯りを掲げ、俺の顔を照らした。
「なんだ、あんたか。こんな時間に、まだ外にいたのか」
俺だとわかると、小隊長は警戒を解いた。
「……屋台で、ちょっと座っていたいんだ」
正直に答えると、小隊長はため息をついた。
「行ってこい。ただ、うろつくなよ。夜間の外出は禁止されてる。ほかの場所まで歩き回ったら、俺にもかばいきれん」
そう言い残し、部下を連れて去っていった。
屋台に着くと、テーブルの上から椅子を一つ下ろし、背筋を伸ばして腰を下ろした。まるでこの通りを見納めるかのように、周りのすべてをじっと見つめた。道の向こうの勇者ギルドは、まだ扉に鍵がかかっていなかった。一階も二階も暗く、三階にあるウルフの会長室の窓にだけ、灯りがあった。
そうして、しばらく座っていた。秋の風が吹いていたが、まだ寒さはほとんど感じなかった。この通りは、隅々までなじみ深かった。思い出の光景が、ひとりでに脳裏を流れ始めた。
幼い俺の手を引いて、ルル通りを駆けていく親父とおふくろ。
おふくろが死んだあと、ルシエ教会で捧げられた祈り。
親父が死んだ日、ハンターさんや何人かの勇者と一緒に、ルル門の外へ運んだ棺。
ひとりで屋台を切り盛りした初日、茶の配合を間違えた俺を責めもせず、声を上げて笑ったあいつら。
三階の会長室の灯りが消えた。ほどなく、勇者ギルドの扉が開いた。
紫色の会長の制服に、長いマント。短い金髪を後ろへ撫でつけたウルフは、目が落ちくぼみ、顔もすっかりやつれていた。それでも、表情に宿る厳しさと威厳は変わらなかった。俺をちらりと見て扉に鍵をかけると、意外にも、こちらへ歩いてきた。
「店主、まだ帰っていなかったんですか。もう夜間の外出は禁止されていますよ」
穏やかな声だった。
「眠れなくてな。屋台で少し座っていたくなったんだ。さっき衛兵には話してある」
俺が答えると、ウルフは微笑んだ。
「私も少し、座ってもいいですか?」
少し驚いて顔を上げた。その大きな体を見上げても、不思議と圧迫感はなく、かえってどこか安心できた。
「あ、どうぞ、どうぞ」
長椅子の端へ尻をずらして場所を空けると、ウルフは俺の隣に腰を下ろした。
「不安ですか?」
静かに尋ねられた。
「ああ。死ぬのが怖い」
俺は率直に答えた。
ウルフは両手の指を組み、親指同士をこすり合わせた。
「もし本当に死ぬとしたら、その前に何か、したいことはありますか?」
俺のほうは見ず、ずっとギルドの扉を見つめていた。
「女と寝たい!」
ウルフは一瞬きょとんとして、それから微笑んだ。
「笑わないでくれよ。この歳までずっと独り身なんだ。若いころに人の真似をして娼婦を買いに行ったぐらいで、ろくに女とも寝てねえんだよ」
俺は情けない顔で、慌てて説明した。
「ええ……笑ったりしませんよ。人間ですからね。情欲は最も原始的な衝動です。何もおかしくはありません。でも、ほかにしたいことは?」
こちらを向き、真剣な目で俺を見た。
俺は顎をつまんで、少し考えた。
「ある」
「聞かせてもらえますか?」
「ほら、うちの地精草玄米茶なんだけどな。ずっと親父が残した配合どおりに作ってるんだが、実はずいぶん前から、ちょっと味に引っかかるところがあってな。地精草ってのは、もともと少し苦いんだ。煮出せば、普通の人にはわからねえくらいまで苦みは薄くなる。ところが玄米と合わせると、どうも、ほんの少し酸味と渋みが出る気がするんだよ。だから、香草を少し合わせるか、それとも花の蜜をほんの少し加えたら、もうちょっと味がうまくまとまるんじゃねえかって。ただ、親父が残した配合だし、常連もずっと何も言わねえから、変えずにいたんだ」
ウルフは少し驚いたような笑みを浮かべ、俺を見ていた。口を挟むこともなく、ただ黙って聞いてくれた。
「それから、二年以上前に来たエルフに、金糸草花茶の大地の味が何か違うって言われてな。どこが違うんだろうって、ずっと考えてたんだ。葡萄の根茎を掘り出す季節がよくなかったのか。それとも、葡萄が育つ土そのもののせいなのか。別の場所で育った葡萄の根茎に変えたら、少しはよくなるんじゃねえか、とか……こんな話、退屈じゃねえか?」
ウルフはただ、微笑んで首を横に振った。
それで俺は、これまで考えるだけで試さずにいた茶の改良案を、次から次へと話し続けた。
「これで全部だ」
長く息を吐いて、そう告げた。
「どうやら、ここでもっとお茶を飲んでおかなかったことが、一生の心残りになりそうですね」
ウルフは少し笑って立ち上がり、道の向こうの勇者ギルドを見つめた。俺は、その大きな背中を仰いだ。
「やってみてください。天はそう簡単には落ちてきません。」
微笑みながら俺にうなずくと、そのまま歩いていった。
俺はその場で、長いあいだぼうっとしていた……。
不意に、深い眠りから覚めたように我に返った。家へ駆け戻り、物置へ飛び込んで、さまざまな花や草を取り出した。台所のまな板で、急いで刻み、配合していった……。
夜が明けた。
王都オストランドの、包囲一日目が始まった。
夜通し茶の仕込みにかかりきりで、終わってから少し眠るつもりが、起きるのが遅くなってしまった。用意した材料と木桶を荷車に積み、屋台へ駆けつけると、ギルドの前ではウルフが、ポカペラや集まった大勢の勇者たちに何か話していた。
皆の視線を浴びながら、俺は大急ぎで開店の支度を始めた。誰もが初めは驚いた顔をしたが、それから俺に笑顔を向けてくれた。ウルフもポカも、例外ではなかった。
ちょうど屋台の準備が整ったころ、ウルフも話を終え、ポカと一緒にギルドの中へ戻っていった。
勇者たちはそれぞれ散っていき、ロワールとほかの数人が屋台に入ってきた。
「店主さん、いつもどおり営業してますよね?」
ロワールはにこにこしていた。
「もちろんだ! 配合もちょっと変えてみたんだ。飲んでみるか?」
俺は袖をまくり、仕事に取りかかった。
「いやあ、店主さん、張り切ってますね。ははは」
勇者たちはテーブルについた。
ほどなく、配合を変えた地精草玄米茶を四杯、彼らの前に並べた。それぞれ陶器の杯を手に取り、一口飲んだ。
「前よりほんのり甘くなりましたね。いい味です」
ロワールが満足そうに俺を見た。ほかの勇者たちも、何度もうなずいた。
気に入ってもらえたのだから、当然うれしかった。俺は彼らのそばへ寄り、話しかけた。
「なあ、さっきウルフは何の話をしてたんだ?」
「これから数日間の仕事の割り振りです。治安兵団に協力して街の治安を守る人もいますし、僕たちはこのあと、不安がっている市民を落ち着かせに行きます。そんなところですね」
「そうか……帝国軍がいつ攻めてくるとか、こっちの援軍がいつ来るとか、そういう話はなかったのか?」
気になることを続けて尋ねた。
ロワールは茶を一口飲んだ。ほかの勇者たちも含め、皆の表情が少し曇った。声を落として、ロワールが答えた。
「会長は何も言ってません。ただ、昨日、鉄山門で治安の維持を手伝っていたとき、衛兵から聞いたんですが、今のところ、城外の帝国軍には攻城兵器が見当たらないそうです。このまま包囲して、僕たちが死ぬのを待つつもりなのかもしれません」
それを聞いて、俺も少し気が沈んだ。
ルル通りに目を向けた。人々は昨日に比べれば、ずいぶん落ち着きを取り戻していた。それでも、行き交う一人ひとりの顔には、不安と恐怖が残っていた。
俺はしばらく、その様子を見つめていた。
「まあ、飲んでくれ。足りなかったら呼んでくれよ」
ロワールたちにそう言った。
「いえ、これを飲んだら仕事に行きます。店主さんも気をつけてくださいね。僕たちが店主さんまでなだめに来る羽目にはしないでくださいよ」
「そりゃねえよ。俺は大丈夫だ。心配すんな」
今日はろくに売れないだろうと、屋台を出す前から思っていた。誰もが目の前のことに追われ、疲れ果てているときに、落ち着いて座り、一杯の茶を最後まで飲める奴などいない。
一日かけて売れたのは、ほんの数杯。商売として見れば、大赤字もいいところだった。
それでも俺は、この一日にも、自分自身にも感謝していた。
包囲一日目は、悲惨な出来事もなく、静かに過ぎていった。
包囲二日目。
午前中も、新しい報せはなかった。人々は恐怖から少しずつ立ち直り、日用品を買いに出る者もいた。街では、仕事や商売もわずかながら動き始めていた。働き手や若者たちが、さまざまな物を積んだ荷車を押して城壁へ走っていった。荷台には大きな石、油、矢、長い棒。それに、木の柄に鉄の穂先を縛りつけた、簡単な作りの長槍なども載っていた。
半日かけて、ぽつぽつと数杯売れただけだった。それでも、通りかかる勇者たちは、うちへ来たことのある者なら誰でも、うなずいて挨拶してくれた。俺も笑顔を返し、また茶の配合をあれこれ考えるのに没頭した。
昼を少し過ぎたころ、貴族の紋章をあしらった、大きく豪華な馬車が、衛兵の列に護られて勇者ギルドの前に止まった。降りてきたのは、ひどく華やかな衣服をまとった中年の男だった。いかにも貴族らしい巻き毛に、鷹のように鋭く光る目。数人の衛兵を伴い、ギルドの中へ入っていった。
ほどなく、三階の会長室から激しく言い争う声が聞こえてきた。下を通る人々まで、足を止めて見上げていた。
どれほど続いただろう。やがて、声は静まった。
俺が茶の配合に意識を戻して間もなく、ギルドの扉が内側から勢いよく開き、ばん、と音が響いた。あの貴族らしい男が、怒りに顔を染めて出てきた。衛兵がすぐに馬車の扉を開けたが、男は乗ろうとしなかった。怒りに満ちた目で辺りを見回し、その視線が、うちの木柵に止まった。
俺が何かする間もなかった。男は数歩駆け寄るなり、木柵を思いきり蹴りつけ、そのまま地面へ倒してしまった。
起こしに行こうとしたが、男は険しい形相で歯を食いしばり、拳を青筋が浮くほど握りしめていた。俺は椅子に座ったまま固まり、近づけなかった。
「ウルフめ……下賤な勇者どもが……」
吐き捨てるようにつぶやいた。その目には凶暴な光が宿っていた。殺気が顔に出るとはこういうことかと、俺はこのとき初めてわかった気がした。
「西と南の、あの恩知らずどももだ……」
巻き毛は乱れ、噛みしめた唇から血が流れていた。口の端を伝い、華やかな衣へ滴り落ちた。
「宰相閣下! 閣下! お身体に障ります。どうか、参りましょう」
背後に立つ衛兵が、小声でなだめていた。
「誰も彼も、守りきれないと思っているんだな……いいだろう……私が守りきってみせる!」
王国の宰相は、血の泡がにじむ歯の隙間から、その言葉を絞り出した。振り返りもせず馬車に乗り込み、衛兵たちに囲まれて去っていった。
男が去って、俺もようやく木柵に近づき、壊れていないか確かめた。幸い、あの蹴りにはたいした威力もなかったらしい。倒れただけで、どこも壊れてはいなかった。
だが、さっきの言葉はどういう意味だ? ウルフは、この王都を守りきれないと思っているのか?
考えているうちに、あの言葉を思い出した。
「天はそう簡単には落ちてきません」
俺は、あの人を信じることにした。
その夜、家へ帰ると早々に翌日の茶を仕込み、床に就いた。夢は見なかった。
包囲三日目。
事態が動き始めた。
朝、荷車を引いて屋台へ向かっていると、突然、ルル門の城壁の上で兵士が必死に叫ぶ声がした。
「危ない!」
慌てて振り返った。無数の矢が城壁を越え、街の中へ降ってきた。俺はとっさに頭を抱え、荷車の下へ飛び込んだ。矢は、狙いなどないかのように、街のあちこちへ降り注いだ。朝早く、通りに人がほとんどいなかったのが幸いだった。
矢の雨は、それきりだった。
頭を抱えたまま、荷車の下から城壁のほうをうかがったが、兵士がまた叫ぶ様子もなかった。ようやく勇気を出して這い出し、辺りを見回した。
荷台にも一本、矢が落ちていた。何かが結びつけてあるようだったので、拾って確かめた。
驚いたことに、矢尻は丸く、人を傷つけるような作りではなかった。軸には、丸めた粗末な紙が細い紐で結びつけられていた。その紙を外そうとしたときだった。
「店主! 大丈夫か?」
ちょうど近くにいたニコライが、俺に気づいて駆け寄ってきた。
「大丈夫だ。なあ、これ、何だ?」
手にした矢を見せた。
「俺も一本拾った。そこら中に落ちてる。これは人を傷つけるための矢じゃない。普通は命令や知らせを伝えるのに使うんだが、これほど大量に使うのは初めて見た」
ニコライも、自分の拾った矢を振ってみせた。
俺たちは顔を見合わせ、それぞれの矢に結ばれた紙を外した。広げると、そこにはこんな文面があった。
偽りの国の民に告ぐ
汝らの悖逆の軍は、すでにヤラにて我が帝国に撃ち破られた。汝らの北部領主は皆、過ちを悟り、帝国に帰順した。
我が帝国軍は、明日午後より攻城を開始する。我が皇帝陛下は慈悲深き君主であり、無用な流血を望まぬ。
明日、帝国軍が入城した折には、我が軍を迎える者はすべて帝国の民として遇する。抵抗する者はすべて反逆の罪に問い、その場で処刑する。
ヘルレン帝国
ニコライの持つ紙と照らし合わせた。書き写した筆跡が違うだけで、内容はまったく同じだった。ニコライが身震いした。
「これで、先が読めなくなるな」
小さな声だった。
「これに書いてあるとおりなら、明日みんなで降伏すりゃ、誰もひどい目に遭わずに済むんじゃねえのか?」
俺はニコライに尋ねた。
「そうとは限らない……戦争なんて、騙し合いだ。それに、十数年前のことを忘れたのか? 王国にはタラン街ができた。それでも、勝ったのは王国だ。向こうはどうだ? 向こうには、何が生まれた?」
全身に寒気が走った。そうだ。十数年前にはもう、消えることのない憎しみが芽生えていたのかもしれない。
「店主、この手紙は持っていないほうがいい。あんたのためにならない。俺に渡してくれ」
「ああ、わかった。持ってってくれ」
ニコライは俺の手から矢と手紙を受け取り、重いまなざしを俺に向けると、そのまま立ち去った。
ニコライが見越していたとおりになった。
その日の午後、王都全域で、矢と手紙の一斉没収が始まった。治安兵団が総出で動き、王家の衛兵も加わった。手紙を持ちながら差し出していないと確認された者は、その場で捕らえられ、連れていかれた。
俺は屋台に座り、二人の市民が衛兵に連れていかれるのを見ていた。ニコライに渡しておいてよかった。そうでなければ、今度ばかりは小隊長でも俺をかばいきれなかったかもしれない。
空は黒い雲に覆われ、また雨が降り始めた。客のいない屋台に座り、俺は考えていた。明日、本当に王都が落ちたら、どうすればいい。今夜のうちに、誰か勇者をつかまえて相談しておいたほうがいいだろうか。
そのとき、二十人余りの王家の衛兵が、完全武装でやってきた。手には長戟、腰には剣。一歩進むたび、鎧の鉄板がぶつかり合う音が響いた。全身を板金鎧で固めた指揮官に率いられ、雨の中を隊列を崩さず進み、勇者ギルドの前で足を止めた。その後ろには小隊長も、ひどく心配そうな顔で、治安兵団の部下たちを連れて続いていた。
「囲め!」
指揮官が手で合図すると、王家の衛兵たちはすばやく半円を描くように並び、長戟の鉄の穂先をギルドの扉へ向けた。小隊長も仕方なさそうに合図を送り、長槍を手にした部下たちが、その後ろに並んだ。通りを見回っていた数人の勇者が、この光景を見るなり駆けつけ、剣を抜いてギルドの扉を背に立ちはだかった。たちまち、一触即発の空気が張り詰めた。
俺は呆然としていた。上の連中は何を考えてるんだ。みんな気でも狂ったのか? 敵と味方の区別もつかなくなるほど、馬鹿になっちまったのか?
「ウルフ! 出てこい!」
指揮官が叫んだ。
ほどなく、ウルフが扉から姿を現した。顔はたちまち雨粒に覆われたが、表情ひとつ変えず、指揮官を見た。その後ろからも、次々と勇者たちが出てきた。
「何の用だ?」
「ウルフ! 宰相閣下からの伝言だ。最後にもう一度だけ問う。お前とお前の勇者ギルドは、王都の防衛に加わり、外敵の侵略を食い止める意思があるか?」
「加わらない」
ウルフは、きっぱりと言い切った。
「よかろう! 命令を伝える! 逆臣ウルフを捕らえよ!」
指揮官は振り返り、王家の衛兵たちに命じた。
数人の衛兵が長戟を構えて踏み込もうとした。勇者たちが進み出て、その穂先を剣で払いのけた。どちらも一歩も引かなかった。
「お前たちまで反逆するつもりか!」
指揮官が怒鳴った。
ウルフは勇者たちの肩を軽くたたき、その間を抜けて、一番前に出た。そして、衛兵の長戟の穂先に、自ら胸を押し当てた。
「君たちだけで、私を捕らえられるのか?」
何でもないことのように言った。だが、その両目には、獣を思わせる凶暴な光がかすかに宿っていた。ウルフがこんな目をするのは、めったにないことだった。
剣を抜いていた勇者たちは、その言葉を聞いて声を上げて笑った。それぞれ武器を収め、数歩下がって場所を空けた。
指揮官も衛兵たちも、ウルフの迫力にのまれ、半歩さえ踏み出せなくなっていた。
「今は王都を守るために、人手が必要なときだ。戻りなさい。君たちを傷つけたくはない。宰相閣下が私を捕らえたいのなら、ご自身で来るよう伝えてくれ」
「貴様! この逆賊め! かかれ!」
指揮官が再び命令を下した。
ウルフの胸に穂先を当てていた衛兵が、勇気を振り絞り、前に出した足に力を込めた。そのまま鉄の穂先を胸へ突き入れようとした。
何が起きたのか、俺には見て取れなかった。
次の瞬間には、長戟はウルフの手にあった。衛兵は数歩後ろへよろめき、地面に倒れ、水しぶきを跳ね上げた。
ウルフは長戟を両手で握り、胸の前で横に構えた。両手で下へ力をかけると、鉄の柄の両端が、まるで火にあぶられたかのように下へ曲がった。ウルフは、さほど力を込めたようにも見えなかった。
嘘だろ。ウルフはあんなに物腰が柔らかくて、背は高いが、特別がっしりしているわけでもない。こんな怪力を持った勇者だったのか?
俺は目の前の光景に、口を開けたまま見入っていた。勇者たちのほうは、こうなるとわかっていたかのように、その一幕を眺めていた。
ウルフが曲がった長戟を地面に放ると、がらん、と音がした。ウルフが落ち着いた足取りで一歩進むと、衛兵たちはそろって後ろへ下がった。
「戻りなさい。今は武器も不足している」
ウルフは、もう一度警告した。
この人数では、とても相手にならない。指揮官にもそれがわかったらしく、声も少し小さくなった。
「よし、ウルフ。宰相閣下に報告する。お前への処罰は、追って決める!」
ウルフをきつくにらみ、手を振った。衛兵たちは長戟の穂先を上へ向け、隊列を整えて去っていった。
残った小隊長は、額を強くこすった。部下たちはとっくに槍を下ろし、その後ろに控えていた。
小隊長の声はかすれ、重く沈んでいた。
「ウルフ、本当にこれでいいのか? あんたたちは軍の一員じゃない。王都の防衛に加わる義務がないのもわかっている。だが、今、この王都はいつ落ちるかわからない。前線の兵士たちだって、生きているかどうかもわからないんだ。あんたたちもグラテンの人間だろう。侵略してくる敵に抵抗しなくて、本当にいいのか?」
小隊長は、疑問に満ちた目でウルフをまっすぐに見つめていた。
言葉には、切実な思いがこもっていた。聞いている俺にも、小隊長の言うことが間違っているとは思えなかった。
「会長、俺も聞きたいです。こんなことを言うべきじゃないのかもしれませんが……本当に、これでいいんですか?」
ウルフの後ろにいた勇者も、同じ問いを口にした。ほかの数人も、疑問のまなざしをウルフに向けていた。
ウルフは小隊長を見て、それから勇者たちを見た。小さく息をつき、ギルドの扉を押し開け、中へ声をかけた。
「全員、外へ!」
ポカペラと、ほかの職員たちが、指示に従って出てきた。
「勇者を全員集めてくれ。今すぐに」
ポカたちは、すぐに駆け出していった。ウルフは、残っていた勇者たちにも目を向けた。
「君たちも行ってくれ」
彼らもうなずき、皆を呼び集めるために走り去った。
「すまないが、ここで少し待っていてもらえるか。話しておきたいことがある」
ウルフが小隊長に言った。小隊長は、黙ってうなずいた。
それから、ギルドの前には次々と勇者たちが集まってきた。勇者たちは途切れることなく、あちこちから駆けつけてきた。
かなりの時間がたち、ようやくポカが最後の一人を連れ、息を切らして戻ってきた。
全員がそろった。王都にいる勇者は、皆ここにいた。
目の前の顔ぶれを見渡すと、大半が見知った顔だった。数十人もの勇者たちが、ギルドの前にひしめき合っていた。ルル通りの半分以上を埋め尽くし、もう少しでうちの屋台にまであふれてきそうだった。
ウルフが、再びギルドの入口の階段に姿を現した。隣には小隊長が立っていた。雨がまた髪を濡らし、マントを伝って流れ落ちた。
ウルフは、日々顔を合わせてきた勇者たちを見渡した。雨を遮るものは、誰にもなかった。集まった者たちは皆、ウルフと同じ雨に打たれていた。
その顔ぶれを前に、ウルフは穏やかな声で、ゆっくりと話し始めた。
「君たちのほとんどはグラテンの人間だ。私も同じだ。王都が包囲され、戦いが間近に迫っているというのに、なぜ私は抵抗しようともしないのか。そう疑問に思っている者もいるだろう」
そこで言葉を切り、ウルフはもう一度、目の前の勇者たちを見渡した。黙ってうなずく者もいれば、小声で言葉を交わす者もいた。
「ここで君たちに約束しよう。これからの話を聞いたうえで、それでも王都の防衛に加わりたいと思うなら、私に口頭で協会からの脱退を申し出てくれ。そのあとは、志願兵として防衛戦に加わればよい。私は決して止めない」
ウルフは再び口を閉ざした。人々は静まり返り、次に何を言おうとしているのか、誰にもわからなかった。俺も屋台に立ったまま腕を組み、次の言葉を待った。
気持ちを整えるように、ウルフはうつむいた。雨は絶え間なく降り続き、一陣の秋風が、重いマントの裾をわずかに持ち上げた。
再び顔を上げた瞬間、まるで別人のようだった。その目は炎のように輝き、鋼のように揺るがぬ表情には、圧倒的な威厳があった。ウルフは、力強く響く声で叫んだ。
「栄えあるグラテン王国の勇者たちよ! ソラニア西大陸勇者協会が創設されてから、すでに百六十余年。我らは英雄時代を経て、魔王戦争をくぐり抜けてきた。北はエイカドの凍土から、南は暖陽海の砂丘まで。西はカラグニアの廃墟と丘陵から、東は中央山脈の聖山の麓まで。至るところで、我ら勇者の伝説は語り継がれている。なぜかわかるか? なぜだと思う!」
ウルフは顔を高く上げ、皆を見渡した。
「我ら勇者が、国家や政権の道具となることも、人の世の欲望が生む愚かな争いに加わることも、決してなかったからだ! 我らが勇者となるときに署名した契約には、あの神聖な条項が記されている。今や、それを忘れてしまったのか。あえてここで、確かめさせてもらおう!」
ウルフは深く息を吸い込んだ。その胸から、圧倒的な気迫とともに言葉がほとばしった。
「勇者たる者、純善なる行いをなし、争いに与するなかれ!」
揺るぎない声で、最初の一節を唱えた。
勇者たちは一瞬、呆気に取られた様子だった。だが、誰に言われるでもなく、皆が小声であとに続いた。
「勇者たる者、純善なる行いをなし、争いに与するなかれ」
「勇者たる者、非道なる罪悪を除き、保身に走るなかれ!」
ウルフは二つ目の一節を唱えた。
「勇者たる者、非道なる罪悪を除き、保身に走るなかれ」
勇者たちの声が、少し大きくなった。
「勇者たる者、出自や身分に囚われず、誇り高く世に立て!」
ウルフは声を張り上げ、三つ目の一節を叫んだ。
「勇者たる者、出自や身分に囚われず、誇り高く世に立て!」
勇者たちも、熱を帯びた声で叫び返した。
「勇者たる者、善き心を生涯貫き、純真を忘るるなかれ!」
ウルフが吼えた。
「勇者たる者、善き心を生涯貫き、純真を忘るるなかれ!!!」
全員が一斉に叫んだ。その声はルル通りとルシエ広場を震わせ、幾重もの雷鳴のように、天を突いた。勇者たちは両腕を振り上げ、興奮に沸き返った。
「我ら勇者の剣は、戦争の刃ではない! 民を守る聖剣だ!」
ウルフの声は、高らかに響き続けた。
「明朝、全員ここで待機せよ。帝国軍が入城しても、民に危害を加えぬ限り、我らは民の不安を鎮めるだけでよい。だが、帝国軍が民の命を踏みにじろうものなら、このウルフ、この命に代えても民を守り抜くと誓う!」
風が雨を巻き込み、激しく吹きつけた。雨粒に激しく打たれながらも、威厳に満ちたウルフの立ち姿は、山のように揺るがなかった。厚い雲の奥で、雷鳴が轟いた。目の前で腕を振り上げる勇者たちの雄叫びに、呼応するかのようだった。
俺の胸も激しく揺さぶられていた。髪はすっかり濡れ、顔を伝うものが涙なのか雨なのか、もうわからなかった。ウルフの後ろでは、小隊長も納得したような笑みを浮かべていた。
雨が上がった。勇者たちはそれぞれ散り、持ち場へと戻っていった。それでも、最後に何人かが残り、ウルフに口頭で脱退を申し出た。ウルフも、約束どおり彼らを引き止めはしなかった。
夕方、黒い雲は少しずつ散っていったが、空はまだ曇っていた。王都が平和だった最後の一日。ルル門の向こうへ沈む夕日の姿はなかった。
気持ちを落ち着け、店じまいをしようとしたところへ、ポカがギルドから出てきた。腰掛けにどさりと座った。
「おじさん、まだお茶ある?」
「あるよ。たっぷりな」
俺は笑って、火竜白檀のひしゃくで茶を二杯すくった。あいつに一杯、俺に一杯。
「今日も、鍵はかけなくていいのか?」
笑いながら聞くと、ポカはギルドの建物を顎で示した。三階のウルフの会長室には、まだ明かりがともっていた。
「明日、どうする?」
ポカは茶をひと口すすり、あの丸い目で俺を見た。
「わからない」
俺は微笑んだ。
「明日、どうする?」
俺も茶をひと口飲んだ。
「わからない」
ポカも同じ答えを返した。
俺はあいつを見た。あいつも俺を見た。何も取り繕わず、こうして顔を見合わせて笑えたのは、これが初めてだったのかもしれない。
霧が出た。通りへ流れ込んだ濃い霧が、ゆっくりとうねりながら、俺たちの姿を霞ませていった……。




