↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/18

第十七章 勇者ギルド会長 ウルフ

 王国軍は潰走(かいそう)した……。

 その衝撃的な報せが届いたのは、王国軍がヤラの戦場へ発ってから、わずか半月余りのことだった。

 閲兵式(えっぺいしき)が終わり、軍が去ったあとも、王都が閑散とすることはなかった。ただ、あのひとときの熱狂だけが唐突に終わり、人々はいつもの暮らしへ戻っていった。ブル中央市場は相変わらず人であふれ、饗宴(きょうえん)大通りの両側に並ぶ高級品の店も、客足が絶えることはない。誰もが冬の訪れを前に、さまざまな品を買い揃えていた。戦争は、ただ食卓の話題になった。

 雨の季節が訪れ、王都の外を流れるテルソン川は水かさを増し始めた。濡れた通りの石畳を、苔(こけ)が少しずつ這(は)っていった。ときおり、場違いにもヒキガエルが道の真ん中へ跳び出してきて、逃げ遅れたものは、通り過ぎる馬車の車輪に押し潰されていった。

 ごくありふれた、雨の午後だった。屋根の布の縁から、雨水が幕のように滴(したた)り落ち、地面をぽたぽたと打っていた。通りに人影はまばらで、俺は屋台で、仕入れたばかりの新鮮な金糸草の花を煮ていた。やかんから立ちのぼる湯気と薪(まき)の火が、肌にまとわりつく湿った冷気をいくらか和らげてくれた。目の前には魔法薬の店の老魔法使いが座り、ひげをなでながら、俺とぽつりぽつりと話をしていた。

 デューク通りのほうから、何人かが走ってきた。傘も差さず、フードもかぶらず、雨に全身を打たれるまま、死に物狂いで走り、声をからして叫んでいた。人通りの少ないルル通りで、その姿も声も、ひどく異様だった。

「王国が負けたぞ! 早く逃げろ!」

「帝国軍が来るぞ! 逃げろ! 早く!」

 通りの両側で、一斉に窓が開いた。市民たちが顔を出し、信じがたい報せに言葉を失った。通りに響くのは、走る数人の声だけだった。

 だが、その異様な沈黙も、ほんの一瞬のことだった。今度はあらゆる建物の戸が押し開かれ、人々が慌てふためいて通りへ飛び出してきた。何をすればいいのか、誰にもわからない。ただ互いに事実を確かめようとするばかりで、本当のところを知る者は一人もいなかった。

 通りが、沸き返った。

 小隊長が、動かせる衛兵をほぼ全員率いて、ルル通りを走っていた。たちまち大勢の市民に取り囲まれ、それでも怯(おび)える人々を必死にかき分け、ルル門へ進もうとしていた。うちの屋台にいた数人の勇者も、全員立ち上がった。拳を握りしめ、突然の事態を見つめていた。俺も木のテーブルのそばで、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた。手が、勝手に震え始めた。

 老魔法使いが、俺の手をそっとたたいた。俺は彼を見た。

「慌てるな。まずは何が起きているのか、様子を見よう」

 小隊長は部下を連れ、ようやく屋台のそばまでたどり着いた。俺に目をやると、衛兵を何人か連れて中へ駆け込んできた。

「店主、緊急事態だ。ちょっと借りるぞ」

 衛兵たちに目配(めくば)せすると、そいつらはうちのテーブルを一つ持ち上げた。一行はまた人混みに分け入り、押し寄せる市民の間を苦労して抜けながら、ルシエ広場へ向かっていった。

 俺も、屋台にいた勇者たちと一緒に、人波に交じってあとを追った。

 衛兵たちは広場の真ん中にテーブルを置いた。押し合う人々にもまれながら、小隊長がその上によじ登った。広場には次から次へと人が集まってきた。泣き叫ぶ者、祈る者。それ以上に多くの者が、本当の戦況を教えてくれと声を上げていた。

「静かにしろ! 全員、静かに!」

 小隊長が怒鳴った。

 広場が一瞬で静まり返った。小隊長は腰に両手を当て、何度か大きく息をつくと、まず、ついてきた部下たちに叫んだ。

「お前たちはルル門へ急げ! 早く行け!」

 衛兵たちは顔を見合わせた。人々が自ら道を空け、そいつらはルル門へ駆けていった。小隊長はその背中を見送り、少し間を置いた。息を整え、ようやく口を開いた。

「我々の敵、ヘルレン帝国軍は、教廷国内を流れるテルソン川の上流を経て、我々に奇襲を仕掛けてきた。今日の午前中、帝国艦隊はカラカ湖に到達し、すでに兵を上陸させた。敵の数は、およそ一万二千から一万五千。夕方までには王都に到達する見込みだ」

 小隊長は、ひと言ごとに息を継ぎながら、どうにかそこまで告げた。広場には、恐ろしいほど重苦しい空気がのしかかった。

「敵がまだ来ていないうちに、逃げたい者は早く逃げろ!」

 声を振り絞った叫びだった。

 驚愕(きょうがく)、恐怖、泣き叫ぶ声、怒り。それらが一つになり、絶望という名の、風さえ通さぬ球体となって、ルシエ広場を包み込んだ。震える足でルシエ教会へ向かう者もいれば、身を翻(ひるがえ)して通りへ飛び出し、家へと駆け戻る者もいた。俺と一緒に来た勇者たちも、勇者ギルドへ走っていった。残った何人かは、俺も含めて、ただ呆然と広場に立ち尽くしていた……。

「早く軍を呼び戻してくれ!」

「降伏だ! 降伏するべきだ!」

「ふざけるな! 死んでも王都を守るんだ!」

 叫びが次々と上がった。意見の食い違った者同士が、地面を転がりながら殴り合っていた。胸に渦巻く感情を、拳で同胞の肉体に叩きつけていた。

 小隊長は両腿(りょうもも)に手をついて、ようやくテーブルから下りた。人混みを抜け、俺のそばを通るとき、虚(うつ)ろな目を一度こちらへ向けた。

「城門へ行く……」

 そう言っただけで、まっすぐルル門へ歩いていった。

 俺はテーブルを広場に置き去りにした。魂が抜けたように足を引きずって屋台へ戻り、椅子に崩れるように腰を下ろした。無意識に老魔法使いの前の杯を取り、震えながら茶を一口飲んだ。それからゆっくり顔を向け、歳月の刻まれた、その穏やかな顔を見つめた。

「どうして……どうして、こんなことに……」

 老魔法使いは答えなかった。ただ、通りを入り乱れて走る人々を、静かに見つめていた。

「どうするつもりだ? 逃げるか?」

「俺は……ここを離れたくねえよ……」

 頭の中はめちゃくちゃだった。自分が今口にしたことが正しいのかどうかも、わからなかった。それが本当の気持ちなのかさえ、わからなかった。

「そうか……なら、残ればいい。そろそろ店に戻るとしよう」

 老魔法使いは俺の手を強く握った。それから杖をついて立ち上がり、ルシエ広場に目をやった。もう一度俺を見下ろし、笑って言った。

「人は皆、ただ運命に翻弄(ほんろう)されながら生きていく。だが、その運命もまた、必ず答えをくれる」

 そう言うと、老魔法使いは杖をつきながら、混乱する人波の中へ歩いていった。

 どれほど長く椅子に座り込んでいたのか、わからなかった。ぼやけた視界の中で、俺はただ通りを眺めていた。ウルフを乗せた馬車が内城のほうへ去り、ギルドへ集まってくる勇者の数は増すばかりだった。荷車を押す者、馬を引く者、大きな荷を背負う者、子供の手を引く者。通りに現れた人々は、城門を目指して進んでいった。やがて城門が轟音(ごうおん)とともに閉ざされ、ルル門の前で、すがる声と泣き叫ぶ声が入り交じった。

「店主? 店主?」

 誰かが俺の肩を揺すっていた。

「店主、大丈夫か?」

 はっと我に返った。雨はいつの間にか上がり、空もすでに薄暗くなっていた。ニコライと、いつもうちに来る勇者が何人か、心配そうに俺を見ていた。

「俺は……」

 手のひらで顔をぐいとぬぐった。

「大丈夫だ。大丈夫」

 そう答えると、ニコライたちの顔から不安が薄れ、笑みが浮かんだ。

「ならよかった。片づけは手伝うから、家に帰りなよ」

 ニコライが言った。

「ああ……今、どうなってるんだ?」

「帝国軍に王都を囲まれた。でも、まだ攻めてはきてない。まだどうにかなるかもしれない。とにかく、今は家に帰りなよ」

 俺はぼんやりとうなずいた。勇者たちは手際よく屋台を片づけ、荷車に道具を積んでくれた。

「大丈夫か? 家まで送ろうか?」

 俺はそいつらを見て、うなずいた。それから荷車を引き、ルル門のほうから引き返してくる大勢の人々の間を抜け、家へ向かった。

 その夜は、まったく食欲がなかった。この先どうなるのか、あれこれ考えていた。ただでさえぱさついた干し肉は、いくら噛んでも味がしなかった。

 囲まれた。だが、まだ攻めてはきていない。まだどうにかなるかもしれない。

 その言葉を、頭の中で何度も繰り返した。荷物をまとめたほうがいいのか。明日の茶は、まだ仕込むべきなのか。敵が攻めてきたら、どうすればいい。

 食い終えると、まっすぐ二階の寝室へ上がった。寝台に横たわり、毛布を頭までかぶった。このまま朝まで、ぐっすり眠ってしまいたかった。だが、ついこの間、屋台であの刺客に聞かれたことが、また頭に浮かんだ。

「負けたら、どうする?」

「そうなったら考えるさ」

 あのとき、俺はそう答えた。

 だが、いざそうなってみると、考えようにも、頭の中は空っぽだった。あのときはあんなに平然と答えたくせに、現実になったら、何もできやしねえ。

 今日、老魔法使いが言った言葉も思い出した。

「運命は、必ず答えをくれる」

 じゃあ、俺の答えは何だ。死ぬってことか。誰か、俺をうちの墓地に埋めてくれるんだろうか。考えてみりゃ、若いころ、人の真似をして娼婦(しょうふ)を買いに行ったぐらいで、俺はまだ、ろくに女とも寝てねえじゃねえか。

 親父、おふくろ。俺、嫁も子供もいないままだ。今度会ったとき、責めないでくれよ。

 そんな脈絡(みゃくらく)のないことを、次から次へと考えていた。気がつくと、枕が濡れていた。そのまま、少しずつ眠りに落ちていった……。

 次に目を開けたとき、雲間から顔を出した月が、空の真ん中に浮かんでいた。真夜中だった。窓の外では、見回りの兵士たちの鎧が、がちゃがちゃと鳴っていた。窓を開けると、湿った風が顔にまとわりついた。俺はそのまま、手で顔をこすった。

 服を着て、夜のルル通りへ出た。なぜなのかはわからなかった。ただ、自分の屋台に行って、少し座っていたかった。城壁の上では灯火(ともしび)が行き来し、ルル門も、内側から大量の土嚢(どのう)と丸太で塞がれていた。

 ルシエ広場のそばを通りかかると、小隊長が一隊の衛兵を連れて見回っていた。通りを歩く人影に気づき、部下を連れて近づいてきた。手にした灯りを掲げ、俺の顔を照らした。

「なんだ、あんたか。こんな時間に、まだ外にいたのか」

 俺だとわかると、小隊長は警戒を解いた。

「……屋台で、ちょっと座っていたいんだ」

 正直に答えると、小隊長はため息をついた。

「行ってこい。ただ、うろつくなよ。夜間の外出は禁止されてる。ほかの場所まで歩き回ったら、俺にもかばいきれん」

 そう言い残し、部下を連れて去っていった。

 屋台に着くと、テーブルの上から椅子を一つ下ろし、背筋を伸ばして腰を下ろした。まるでこの通りを見納(みおさ)めるかのように、周りのすべてをじっと見つめた。道の向こうの勇者ギルドは、まだ扉に鍵がかかっていなかった。一階も二階も暗く、三階にあるウルフの会長室の窓にだけ、灯りがあった。

 そうして、しばらく座っていた。秋の風が吹いていたが、まだ寒さはほとんど感じなかった。この通りは、隅々までなじみ深かった。思い出の光景が、ひとりでに脳裏を流れ始めた。

 幼い俺の手を引いて、ルル通りを駆けていく親父とおふくろ。

 おふくろが死んだあと、ルシエ教会で捧げられた祈り。

 親父が死んだ日、ハンターさんや何人かの勇者と一緒に、ルル門の外へ運んだ棺(ひつぎ)。

 ひとりで屋台を切り盛りした初日、茶の配合を間違えた俺を責めもせず、声を上げて笑ったあいつら。

 三階の会長室の灯りが消えた。ほどなく、勇者ギルドの扉が開いた。

 紫色の会長の制服に、長いマント。短い金髪を後ろへ撫(な)でつけたウルフは、目が落ちくぼみ、顔もすっかりやつれていた。それでも、表情に宿る厳しさと威厳(いげん)は変わらなかった。俺をちらりと見て扉に鍵をかけると、意外にも、こちらへ歩いてきた。

「店主、まだ帰っていなかったんですか。もう夜間の外出は禁止されていますよ」

 穏やかな声だった。

「眠れなくてな。屋台で少し座っていたくなったんだ。さっき衛兵には話してある」

 俺が答えると、ウルフは微笑んだ。

「私も少し、座ってもいいですか?」

 少し驚いて顔を上げた。その大きな体を見上げても、不思議と圧迫感はなく、かえってどこか安心できた。

「あ、どうぞ、どうぞ」

 長椅子の端へ尻をずらして場所を空けると、ウルフは俺の隣に腰を下ろした。

「不安ですか?」

 静かに尋ねられた。

「ああ。死ぬのが怖い」

 俺は率直に答えた。

 ウルフは両手の指を組み、親指同士をこすり合わせた。

「もし本当に死ぬとしたら、その前に何か、したいことはありますか?」

 俺のほうは見ず、ずっとギルドの扉を見つめていた。

「女と寝たい!」

 ウルフは一瞬きょとんとして、それから微笑んだ。

「笑わないでくれよ。この歳までずっと独り身なんだ。若いころに人の真似をして娼婦(しょうふ)を買いに行ったぐらいで、ろくに女とも寝てねえんだよ」

 俺は情けない顔で、慌てて説明した。

「ええ……笑ったりしませんよ。人間ですからね。情欲(じょうよく)は最も原始的な衝動です。何もおかしくはありません。でも、ほかにしたいことは?」

 こちらを向き、真剣な目で俺を見た。

 俺は顎(あご)をつまんで、少し考えた。

「ある」

「聞かせてもらえますか?」

「ほら、うちの地精草玄米茶《ちせいそうげんまいちゃ》なんだけどな。ずっと親父が残した配合どおりに作ってるんだが、実はずいぶん前から、ちょっと味に引っかかるところがあってな。地精草(ちせいそう)ってのは、もともと少し苦いんだ。煮出せば、普通の人にはわからねえくらいまで苦みは薄くなる。ところが玄米と合わせると、どうも、ほんの少し酸味と渋みが出る気がするんだよ。だから、香草を少し合わせるか、それとも花の蜜をほんの少し加えたら、もうちょっと味がうまくまとまるんじゃねえかって。ただ、親父が残した配合だし、常連もずっと何も言わねえから、変えずにいたんだ」

 ウルフは少し驚いたような笑みを浮かべ、俺を見ていた。口を挟むこともなく、ただ黙って聞いてくれた。

「それから、二年以上前に来たエルフに、金糸草花茶(きんしそうはなちゃ)の大地の味が何か違うって言われてな。どこが違うんだろうって、ずっと考えてたんだ。葡萄(ぶどう)の根茎(こんけい)を掘り出す季節がよくなかったのか。それとも、葡萄が育つ土そのもののせいなのか。別の場所で育った葡萄の根茎に変えたら、少しはよくなるんじゃねえか、とか……こんな話、退屈じゃねえか?」

 ウルフはただ、微笑んで首を横に振った。

 それで俺は、これまで考えるだけで試さずにいた茶の改良案を、次から次へと話し続けた。

「これで全部だ」

 長く息を吐いて、そう告げた。

「どうやら、ここでもっとお茶を飲んでおかなかったことが、一生の心残りになりそうですね」

 ウルフは少し笑って立ち上がり、道の向こうの勇者ギルドを見つめた。俺は、その大きな背中を仰(あお)いだ。

「やってみてください。天はそう簡単には落ちてきません。」

 微笑みながら俺にうなずくと、そのまま歩いていった。

 俺はその場で、長いあいだぼうっとしていた……。

 不意に、深い眠りから覚めたように我に返った。家へ駆け戻り、物置へ飛び込んで、さまざまな花や草を取り出した。台所のまな板で、急いで刻み、配合していった……。

 夜が明けた。

 王都オストランドの、包囲(ほうい)一日目が始まった。

 夜通し茶の仕込みにかかりきりで、終わってから少し眠るつもりが、起きるのが遅くなってしまった。用意した材料と木桶を荷車に積み、屋台へ駆けつけると、ギルドの前ではウルフが、ポカペラや集まった大勢の勇者たちに何か話していた。

 皆の視線を浴びながら、俺は大急ぎで開店の支度を始めた。誰もが初めは驚いた顔をしたが、それから俺に笑顔を向けてくれた。ウルフもポカも、例外ではなかった。

 ちょうど屋台の準備が整ったころ、ウルフも話を終え、ポカと一緒にギルドの中へ戻っていった。

 勇者たちはそれぞれ散っていき、ロワールとほかの数人が屋台に入ってきた。

「店主さん、いつもどおり営業してますよね?」

 ロワールはにこにこしていた。

「もちろんだ! 配合もちょっと変えてみたんだ。飲んでみるか?」

 俺は袖をまくり、仕事に取りかかった。

「いやあ、店主さん、張り切ってますね。ははは」

 勇者たちはテーブルについた。

 ほどなく、配合を変えた地精草玄米茶を四杯、彼らの前に並べた。それぞれ陶器の杯を手に取り、一口飲んだ。

「前よりほんのり甘くなりましたね。いい味です」

 ロワールが満足そうに俺を見た。ほかの勇者たちも、何度もうなずいた。

 気に入ってもらえたのだから、当然うれしかった。俺は彼らのそばへ寄り、話しかけた。

「なあ、さっきウルフは何の話をしてたんだ?」

「これから数日間の仕事の割り振りです。治安兵団に協力して街の治安を守る人もいますし、僕たちはこのあと、不安がっている市民を落ち着かせに行きます。そんなところですね」

「そうか……帝国軍がいつ攻めてくるとか、こっちの援軍がいつ来るとか、そういう話はなかったのか?」

 気になることを続けて尋ねた。

 ロワールは茶を一口飲んだ。ほかの勇者たちも含め、皆の表情が少し曇った。声を落として、ロワールが答えた。

「会長は何も言ってません。ただ、昨日、鉄山門で治安の維持を手伝っていたとき、衛兵から聞いたんですが、今のところ、城外の帝国軍には攻城兵器(こうじょうへいき)が見当たらないそうです。このまま包囲して、僕たちが死ぬのを待つつもりなのかもしれません」

 それを聞いて、俺も少し気が沈んだ。

 ルル通りに目を向けた。人々は昨日に比べれば、ずいぶん落ち着きを取り戻していた。それでも、行き交う一人ひとりの顔には、不安と恐怖が残っていた。

 俺はしばらく、その様子を見つめていた。

「まあ、飲んでくれ。足りなかったら呼んでくれよ」

 ロワールたちにそう言った。

「いえ、これを飲んだら仕事に行きます。店主さんも気をつけてくださいね。僕たちが店主さんまでなだめに来る羽目にはしないでくださいよ」

「そりゃねえよ。俺は大丈夫だ。心配すんな」

 今日はろくに売れないだろうと、屋台を出す前から思っていた。誰もが目の前のことに追われ、疲れ果てているときに、落ち着いて座り、一杯の茶を最後まで飲める奴などいない。

 一日かけて売れたのは、ほんの数杯。商売として見れば、大赤字もいいところだった。

 それでも俺は、この一日にも、自分自身にも感謝していた。

 包囲一日目は、悲惨な出来事もなく、静かに過ぎていった。

 包囲二日目。

 午前中も、新しい報せはなかった。人々は恐怖から少しずつ立ち直り、日用品を買いに出る者もいた。街では、仕事や商売もわずかながら動き始めていた。働き手や若者たちが、さまざまな物を積んだ荷車を押して城壁へ走っていった。荷台には大きな石、油、矢、長い棒。それに、木の柄に鉄の穂先(ほさき)を縛りつけた、簡単な作りの長槍なども載っていた。

 半日かけて、ぽつぽつと数杯売れただけだった。それでも、通りかかる勇者たちは、うちへ来たことのある者なら誰でも、うなずいて挨拶してくれた。俺も笑顔を返し、また茶の配合をあれこれ考えるのに没頭した。

 昼を少し過ぎたころ、貴族の紋章をあしらった、大きく豪華な馬車が、衛兵の列に護られて勇者ギルドの前に止まった。降りてきたのは、ひどく華やかな衣服をまとった中年の男だった。いかにも貴族らしい巻き毛に、鷹(たか)のように鋭く光る目。数人の衛兵を伴い、ギルドの中へ入っていった。

 ほどなく、三階の会長室から激しく言い争う声が聞こえてきた。下を通る人々まで、足を止めて見上げていた。

 どれほど続いただろう。やがて、声は静まった。

 俺が茶の配合に意識を戻して間もなく、ギルドの扉が内側から勢いよく開き、ばん、と音が響いた。あの貴族らしい男が、怒りに顔を染めて出てきた。衛兵がすぐに馬車の扉を開けたが、男は乗ろうとしなかった。怒りに満ちた目で辺りを見回し、その視線が、うちの木柵(もくさく)に止まった。

 俺が何かする間もなかった。男は数歩駆け寄るなり、木柵を思いきり蹴りつけ、そのまま地面へ倒してしまった。

 起こしに行こうとしたが、男は険しい形相(ぎょうそう)で歯を食いしばり、拳を青筋が浮くほど握りしめていた。俺は椅子に座ったまま固まり、近づけなかった。

「ウルフめ……下賤(げせん)な勇者どもが……」

 吐き捨てるようにつぶやいた。その目には凶暴な光が宿っていた。殺気が顔に出るとはこういうことかと、俺はこのとき初めてわかった気がした。

「西と南の、あの恩知らずどももだ……」

 巻き毛は乱れ、噛みしめた唇から血が流れていた。口の端を伝い、華やかな衣へ滴り落ちた。

「宰相(さいしょう)閣下(かっか)! 閣下! お身体に障ります。どうか、参りましょう」

 背後に立つ衛兵が、小声でなだめていた。

「誰も彼も、守りきれないと思っているんだな……いいだろう……私が守りきってみせる!」

 王国の宰相は、血の泡がにじむ歯の隙間から、その言葉を絞り出した。振り返りもせず馬車に乗り込み、衛兵たちに囲まれて去っていった。

 男が去って、俺もようやく木柵に近づき、壊れていないか確かめた。幸い、あの蹴りにはたいした威力もなかったらしい。倒れただけで、どこも壊れてはいなかった。

 だが、さっきの言葉はどういう意味だ? ウルフは、この王都を守りきれないと思っているのか?

 考えているうちに、あの言葉を思い出した。

「天はそう簡単には落ちてきません」

 俺は、あの人を信じることにした。

 その夜、家へ帰ると早々に翌日の茶を仕込み、床に就いた。夢は見なかった。

 包囲三日目。

 事態が動き始めた。

 朝、荷車を引いて屋台へ向かっていると、突然、ルル門の城壁の上で兵士が必死に叫ぶ声がした。

「危ない!」

 慌てて振り返った。無数の矢が城壁を越え、街の中へ降ってきた。俺はとっさに頭を抱え、荷車の下へ飛び込んだ。矢は、狙いなどないかのように、街のあちこちへ降り注いだ。朝早く、通りに人がほとんどいなかったのが幸いだった。

 矢の雨は、それきりだった。

 頭を抱えたまま、荷車の下から城壁のほうをうかがったが、兵士がまた叫ぶ様子もなかった。ようやく勇気を出して這い出し、辺りを見回した。

 荷台にも一本、矢が落ちていた。何かが結びつけてあるようだったので、拾って確かめた。

 驚いたことに、矢尻(やじり)は丸く、人を傷つけるような作りではなかった。軸には、丸めた粗末な紙が細い紐で結びつけられていた。その紙を外そうとしたときだった。

「店主! 大丈夫か?」

 ちょうど近くにいたニコライが、俺に気づいて駆け寄ってきた。

「大丈夫だ。なあ、これ、何だ?」

 手にした矢を見せた。

「俺も一本拾った。そこら中に落ちてる。これは人を傷つけるための矢じゃない。普通は命令や知らせを伝えるのに使うんだが、これほど大量に使うのは初めて見た」

 ニコライも、自分の拾った矢を振ってみせた。

 俺たちは顔を見合わせ、それぞれの矢に結ばれた紙を外した。広げると、そこにはこんな文面があった。

 偽りの国の民に告ぐ

 汝(なんじ)らの悖逆(はいぎゃく)の軍は、すでにヤラにて我が帝国に撃ち破られた。汝らの北部領主は皆、過ちを悟り、帝国に帰順(きじゅん)した。

 我が帝国軍は、明日午後より攻城(こうじょう)を開始する。我が皇帝陛下は慈悲深き君主であり、無用な流血を望まぬ。

 明日、帝国軍が入城した折には、我が軍を迎える者はすべて帝国の民として遇(ぐう)する。抵抗する者はすべて反逆の罪に問い、その場で処刑する。

 ヘルレン帝国

 ニコライの持つ紙と照らし合わせた。書き写した筆跡が違うだけで、内容はまったく同じだった。ニコライが身震いした。

「これで、先が読めなくなるな」

 小さな声だった。

「これに書いてあるとおりなら、明日みんなで降伏すりゃ、誰もひどい目に遭わずに済むんじゃねえのか?」

 俺はニコライに尋ねた。

「そうとは限らない……戦争なんて、騙し合いだ。それに、十数年前のことを忘れたのか? 王国にはタラン街ができた。それでも、勝ったのは王国だ。向こうはどうだ? 向こうには、何が生まれた?」

 全身に寒気が走った。そうだ。十数年前にはもう、消えることのない憎しみが芽生えていたのかもしれない。

「店主、この手紙は持っていないほうがいい。あんたのためにならない。俺に渡してくれ」

「ああ、わかった。持ってってくれ」

 ニコライは俺の手から矢と手紙を受け取り、重いまなざしを俺に向けると、そのまま立ち去った。

 ニコライが見越していたとおりになった。

 その日の午後、王都全域で、矢と手紙の一斉没収が始まった。治安兵団が総出で動き、王家の衛兵も加わった。手紙を持ちながら差し出していないと確認された者は、その場で捕らえられ、連れていかれた。

 俺は屋台に座り、二人の市民が衛兵に連れていかれるのを見ていた。ニコライに渡しておいてよかった。そうでなければ、今度ばかりは小隊長でも俺をかばいきれなかったかもしれない。

 空は黒い雲に覆われ、また雨が降り始めた。客のいない屋台に座り、俺は考えていた。明日、本当に王都が落ちたら、どうすればいい。今夜のうちに、誰か勇者をつかまえて相談しておいたほうがいいだろうか。

 そのとき、二十人余りの王家の衛兵が、完全武装でやってきた。手には長戟(ちょうげき)、腰には剣。一歩進むたび、鎧の鉄板がぶつかり合う音が響いた。全身を板金鎧(ばんきんよろい)で固めた指揮官に率いられ、雨の中を隊列を崩さず進み、勇者ギルドの前で足を止めた。その後ろには小隊長も、ひどく心配そうな顔で、治安兵団の部下たちを連れて続いていた。

「囲め!」

 指揮官が手で合図すると、王家の衛兵たちはすばやく半円を描くように並び、長戟の鉄の穂先(ほさき)をギルドの扉へ向けた。小隊長も仕方なさそうに合図を送り、長槍(ながやり)を手にした部下たちが、その後ろに並んだ。通りを見回っていた数人の勇者が、この光景を見るなり駆けつけ、剣を抜いてギルドの扉を背に立ちはだかった。たちまち、一触即発(いっしょくそくはつ)の空気が張り詰めた。

 俺は呆然(ぼうぜん)としていた。上の連中は何を考えてるんだ。みんな気でも狂ったのか? 敵と味方の区別もつかなくなるほど、馬鹿になっちまったのか?

「ウルフ! 出てこい!」

 指揮官が叫んだ。

 ほどなく、ウルフが扉から姿を現した。顔はたちまち雨粒に覆われたが、表情ひとつ変えず、指揮官を見た。その後ろからも、次々と勇者たちが出てきた。

「何の用だ?」

「ウルフ! 宰相(さいしょう)閣下(かっか)からの伝言だ。最後にもう一度だけ問う。お前とお前の勇者ギルドは、王都の防衛に加わり、外敵の侵略を食い止める意思があるか?」

「加わらない」

 ウルフは、きっぱりと言い切った。

「よかろう! 命令を伝える! 逆臣(ぎゃくしん)ウルフを捕らえよ!」

 指揮官は振り返り、王家の衛兵たちに命じた。

 数人の衛兵が長戟を構えて踏み込もうとした。勇者たちが進み出て、その穂先を剣で払いのけた。どちらも一歩も引かなかった。

「お前たちまで反逆するつもりか!」

 指揮官が怒鳴った。

 ウルフは勇者たちの肩を軽くたたき、その間を抜けて、一番前に出た。そして、衛兵の長戟の穂先に、自ら胸を押し当てた。

「君たちだけで、私を捕らえられるのか?」

 何でもないことのように言った。だが、その両目には、獣を思わせる凶暴な光がかすかに宿っていた。ウルフがこんな目をするのは、めったにないことだった。

 剣を抜いていた勇者たちは、その言葉を聞いて声を上げて笑った。それぞれ武器を収め、数歩下がって場所を空けた。

 指揮官も衛兵たちも、ウルフの迫力にのまれ、半歩さえ踏み出せなくなっていた。

「今は王都を守るために、人手が必要なときだ。戻りなさい。君たちを傷つけたくはない。宰相閣下が私を捕らえたいのなら、ご自身で来るよう伝えてくれ」

「貴様! この逆賊(ぎゃくぞく)め! かかれ!」

 指揮官が再び命令を下した。

 ウルフの胸に穂先を当てていた衛兵が、勇気を振り絞り、前に出した足に力を込めた。そのまま鉄の穂先を胸へ突き入れようとした。

 何が起きたのか、俺には見て取れなかった。

 次の瞬間には、長戟はウルフの手にあった。衛兵は数歩後ろへよろめき、地面に倒れ、水しぶきを跳ね上げた。

 ウルフは長戟を両手で握り、胸の前で横に構えた。両手で下へ力をかけると、鉄の柄の両端が、まるで火にあぶられたかのように下へ曲がった。ウルフは、さほど力を込めたようにも見えなかった。

 嘘だろ。ウルフはあんなに物腰が柔らかくて、背は高いが、特別がっしりしているわけでもない。こんな怪力を持った勇者だったのか?

 俺は目の前の光景に、口を開けたまま見入っていた。勇者たちのほうは、こうなるとわかっていたかのように、その一幕を眺めていた。

 ウルフが曲がった長戟を地面に放ると、がらん、と音がした。ウルフが落ち着いた足取りで一歩進むと、衛兵たちはそろって後ろへ下がった。

「戻りなさい。今は武器も不足している」

 ウルフは、もう一度警告した。

 この人数では、とても相手にならない。指揮官にもそれがわかったらしく、声も少し小さくなった。

「よし、ウルフ。宰相閣下に報告する。お前への処罰は、追って決める!」

 ウルフをきつくにらみ、手を振った。衛兵たちは長戟の穂先を上へ向け、隊列を整えて去っていった。

 残った小隊長は、額を強くこすった。部下たちはとっくに槍を下ろし、その後ろに控えていた。

 小隊長の声はかすれ、重く沈んでいた。

「ウルフ、本当にこれでいいのか? あんたたちは軍の一員じゃない。王都の防衛に加わる義務がないのもわかっている。だが、今、この王都はいつ落ちるかわからない。前線の兵士たちだって、生きているかどうかもわからないんだ。あんたたちもグラテンの人間だろう。侵略してくる敵に抵抗しなくて、本当にいいのか?」

 小隊長は、疑問に満ちた目でウルフをまっすぐに見つめていた。

 言葉には、切実な思いがこもっていた。聞いている俺にも、小隊長の言うことが間違っているとは思えなかった。

「会長、俺も聞きたいです。こんなことを言うべきじゃないのかもしれませんが……本当に、これでいいんですか?」

 ウルフの後ろにいた勇者も、同じ問いを口にした。ほかの数人も、疑問のまなざしをウルフに向けていた。

 ウルフは小隊長を見て、それから勇者たちを見た。小さく息をつき、ギルドの扉を押し開け、中へ声をかけた。

「全員、外へ!」

 ポカペラと、ほかの職員たちが、指示に従って出てきた。

「勇者を全員集めてくれ。今すぐに」

 ポカたちは、すぐに駆け出していった。ウルフは、残っていた勇者たちにも目を向けた。

「君たちも行ってくれ」

 彼らもうなずき、皆を呼び集めるために走り去った。

「すまないが、ここで少し待っていてもらえるか。話しておきたいことがある」

 ウルフが小隊長に言った。小隊長は、黙ってうなずいた。

 それから、ギルドの前には次々と勇者たちが集まってきた。勇者たちは途切れることなく、あちこちから駆けつけてきた。

 かなりの時間がたち、ようやくポカが最後の一人を連れ、息を切らして戻ってきた。

 全員がそろった。王都にいる勇者は、皆ここにいた。

 目の前の顔ぶれを見渡すと、大半が見知った顔だった。数十人もの勇者たちが、ギルドの前にひしめき合っていた。ルル通りの半分以上を埋め尽くし、もう少しでうちの屋台にまであふれてきそうだった。

 ウルフが、再びギルドの入口の階段に姿を現した。隣には小隊長が立っていた。雨がまた髪を濡らし、マントを伝って流れ落ちた。

 ウルフは、日々顔を合わせてきた勇者たちを見渡した。雨を遮るものは、誰にもなかった。集まった者たちは皆、ウルフと同じ雨に打たれていた。

 その顔ぶれを前に、ウルフは穏やかな声で、ゆっくりと話し始めた。

「君たちのほとんどはグラテンの人間だ。私も同じだ。王都が包囲され、戦いが間近に迫っているというのに、なぜ私は抵抗しようともしないのか。そう疑問に思っている者もいるだろう」

 そこで言葉を切り、ウルフはもう一度、目の前の勇者たちを見渡した。黙ってうなずく者もいれば、小声で言葉を交わす者もいた。

「ここで君たちに約束しよう。これからの話を聞いたうえで、それでも王都の防衛に加わりたいと思うなら、私に口頭で協会からの脱退を申し出てくれ。そのあとは、志願兵として防衛戦に加わればよい。私は決して止めない」

 ウルフは再び口を閉ざした。人々は静まり返り、次に何を言おうとしているのか、誰にもわからなかった。俺も屋台に立ったまま腕を組み、次の言葉を待った。

 気持ちを整えるように、ウルフはうつむいた。雨は絶え間なく降り続き、一陣(いちじん)の秋風が、重いマントの裾をわずかに持ち上げた。

 再び顔を上げた瞬間、まるで別人のようだった。その目は炎のように輝き、鋼のように揺るがぬ表情には、圧倒的な威厳があった。ウルフは、力強く響く声で叫んだ。

「栄えあるグラテン王国の勇者たちよ! ソラニア西大陸勇者協会が創設されてから、すでに百六十余年。我らは英雄時代を経て、魔王戦争をくぐり抜けてきた。北はエイカドの凍土から、南は暖陽海(だんようかい)の砂丘まで。西はカラグニアの廃墟(はいきょ)と丘陵(きゅうりょう)から、東は中央山脈の聖山の麓(ふもと)まで。至るところで、我ら勇者の伝説は語り継がれている。なぜかわかるか? なぜだと思う!」

 ウルフは顔を高く上げ、皆を見渡した。

「我ら勇者が、国家や政権の道具となることも、人の世の欲望が生む愚かな争いに加わることも、決してなかったからだ! 我らが勇者となるときに署名した契約には、あの神聖な条項が記されている。今や、それを忘れてしまったのか。あえてここで、確かめさせてもらおう!」

 ウルフは深く息を吸い込んだ。その胸から、圧倒的な気迫とともに言葉がほとばしった。

「勇者たる者、純善(じゅんぜん)なる行いをなし、争いに与(くみ)するなかれ!」

 揺るぎない声で、最初の一節を唱えた。

 勇者たちは一瞬、呆気(あっけ)に取られた様子だった。だが、誰に言われるでもなく、皆が小声であとに続いた。

「勇者たる者、純善(じゅんぜん)なる行いをなし、争いに与(くみ)するなかれ」

「勇者たる者、非道(ひどう)なる罪悪を除き、保身に走るなかれ!」

 ウルフは二つ目の一節を唱えた。

「勇者たる者、非道(ひどう)なる罪悪を除き、保身に走るなかれ」

 勇者たちの声が、少し大きくなった。

「勇者たる者、出自(しゅつじ)や身分に囚(とら)われず、誇り高く世に立て!」

 ウルフは声を張り上げ、三つ目の一節を叫んだ。

「勇者たる者、出自(しゅつじ)や身分に囚(とら)われず、誇り高く世に立て!」

 勇者たちも、熱を帯びた声で叫び返した。

「勇者たる者、善き心を生涯貫き、純真を忘るるなかれ!」

 ウルフが吼(ほ)えた。

「勇者たる者、善き心を生涯貫き、純真を忘るるなかれ!!!」

 全員が一斉に叫んだ。その声はルル通りとルシエ広場を震わせ、幾重(いくえ)もの雷鳴のように、天を突いた。勇者たちは両腕を振り上げ、興奮に沸き返った。

「我ら勇者の剣(つるぎ)は、戦争の刃(やいば)ではない! 民を守る聖剣(せいけん)だ!」

 ウルフの声は、高らかに響き続けた。

「明朝、全員ここで待機せよ。帝国軍が入城しても、民に危害を加えぬ限り、我らは民の不安を鎮めるだけでよい。だが、帝国軍が民の命を踏みにじろうものなら、このウルフ、この命に代えても民を守り抜くと誓う!」

 風が雨を巻き込み、激しく吹きつけた。雨粒に激しく打たれながらも、威厳に満ちたウルフの立ち姿は、山のように揺るがなかった。厚い雲の奥で、雷鳴が轟(とどろ)いた。目の前で腕を振り上げる勇者たちの雄叫(おたけ)びに、呼応するかのようだった。

 俺の胸も激しく揺さぶられていた。髪はすっかり濡れ、顔を伝うものが涙なのか雨なのか、もうわからなかった。ウルフの後ろでは、小隊長も納得したような笑みを浮かべていた。

 雨が上がった。勇者たちはそれぞれ散り、持ち場へと戻っていった。それでも、最後に何人かが残り、ウルフに口頭で脱退を申し出た。ウルフも、約束どおり彼らを引き止めはしなかった。

 夕方、黒い雲は少しずつ散っていったが、空はまだ曇っていた。王都が平和だった最後の一日。ルル門の向こうへ沈む夕日の姿はなかった。

 気持ちを落ち着け、店じまいをしようとしたところへ、ポカがギルドから出てきた。腰掛けにどさりと座った。

「おじさん、まだお茶ある?」

「あるよ。たっぷりな」

 俺は笑って、火竜白檀(かりゅうびゃくだん)のひしゃくで茶を二杯すくった。あいつに一杯、俺に一杯。

「今日も、鍵はかけなくていいのか?」

 笑いながら聞くと、ポカはギルドの建物を顎(あご)で示した。三階のウルフの会長室には、まだ明かりがともっていた。

「明日、どうする?」

 ポカは茶をひと口すすり、あの丸い目で俺を見た。

「わからない」

 俺は微笑んだ。

「明日、どうする?」

 俺も茶をひと口飲んだ。

「わからない」

 ポカも同じ答えを返した。

 俺はあいつを見た。あいつも俺を見た。何も取り繕(とりつくろ)わず、こうして顔を見合わせて笑えたのは、これが初めてだったのかもしれない。

 霧が出た。通りへ流れ込んだ濃い霧が、ゆっくりとうねりながら、俺たちの姿を霞(かす)ませていった……。


挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。