最終章 勇者たち、そして私
濃い霧は、窓や扉の隙間から家の隅々にまで湿気を運び込み、壁にも床にも、細かな水滴がびっしりと浮いていた。家に帰ると、俺はひとまず荷物を背負い袋にまとめた。もちろん、親父が残したあの配合の紙も入れた。もし明日、王都が落ちたら、逃げ出せるかどうかはわからない。それでも、支度をしておいて損はねえだろ。
何度も寝返りを打った。だが、もう頭の中を巡るのは、取り留めのない想像ではなかった。ほかに何か、今のうちに準備しておけることはないか。俺は真剣に考えていた。
やがて身を起こし、寝台の板の下へ手を差し入れて探った。ようやく、あのずっしりと重い小さな布袋をつかんだ。引っ張り出して手のひらで軽く弾ませ、重みを確かめてから、口を開いて中をのぞいた。
金貨が三十枚余り。二十年以上、食うものも切り詰めて貯めてきた金は、これですべてだった。
俺は立ち上がり、箱や戸棚をあちこち探して、針と糸を見つけた。オイルランプの明かりを頼りに、麻のズボンの内側、右脚のところに、その布袋を丁寧に縫いつけた。
これでいいだろう。あとは運を天に任せるしかない。
そう思いながら、湿って肌にまとわりつく毛布を頭までかぶり、ようやく深い眠りに落ちた。
空が明るくなり始め、久しぶりに太陽が顔を出した。窓を押し開け、外を見た。通りでは衛兵たちが行き来して見回っていた。昨日と、さほど変わらない空気だった。
パンを何口か食べ、茶の樽と道具を小さな荷車に積み込んだ。背負い袋も載せた。ズボンは右脚のほうだけ少し重く、歩きづらかった。
荷車を押してルル通りに出ると、城壁のほうを振り返った。壁の上では、兵士たちが今にも敵が押し寄せるかのように、弓矢を手にじっと立っていた。門の内側でも、兵士たちは槍を固く握ったまま、ルル門のほうを向いて地面に座り、休んでいた。
俺はそのまま屋台へ向かった。どうか今日一日、何事もなく過ごせますように。心から、そう祈りながら。
大樽を一つずつ荷車から下ろし、屋台の中に並べた。テーブルの上に載せてあった木の腰掛けも、一つずつ下ろし、並べていった。その一つひとつのひびも、木目も、俺はよく知っていた。
天幕を張り、支柱の根元がぐらつかないか確かめてから、木柵を巡らせた。布巾をきれいな水に浸して絞り、テーブルの天板と脚を一つずつ拭いて回った。それから腰掛けも拭いた。道具を拭き上げ、前掛けを締め、そのポケットに俺の木のひしゃくを差した。
親父がこうして屋台の支度をする姿を、十数年見てきた。それからは自分で、二十年以上やってきた。もし今日が、最後だとしたら……。
それ以上は、怖くて考えられなかった。湯を沸かし始め、いつものように、前掛けで手を拭いた。
俺が屋台の支度を整えたころには、勇者ギルドの前に勇者たちが集まり始めていた。ニコライがいた。ロワールがいた。久しく顔を見せなかったレオンティスも、トラレンツも。皆が来ていた。
来るとは思ってもみなかった人たちまでいた。
薬屋の老魔法使いが、杖をついてやってきた。勇者たちの中にいた数人の魔法使いと、にこにこしながら挨拶を交わしていた。以前からの知り合いらしかった。
すでに引退した老勇者たちも、武器を手に、鎧を着込んで駆けつけてきた。誰かが知らせに行ったのか、それとも昨日のウルフの演説をどこかで聞きつけたのか。老人たちは皆、かくしゃくとしていた。刀剣は磨き上げられて光り、鎧もきれいだったが、縁にはまだ少し錆が残っていた。ひと晩かけて磨いてきたように見えた。
小隊長も十人余りの部下を連れて、ギルドの前へやってきた。一行は勇者たちの集まりのいちばん外側に立った。若い衛兵の何人かは緊張した顔をしていて、そばにいる年かさの衛兵たちが声をかけ、落ち着かせていた。
ウルフが姿を現し、ギルドの入口の階段に立った。目の前には、昨日よりも少し多くの人が集まっていた。
「隊長、君まで……」
ウルフは驚いた顔で、小隊長とその部下たちを見た。
小隊長は片腕に兜を抱え、空いた手で頭をかいた。笑いながら言った。
「いやあ、命令に背いちまった。本当は鉄山門と王家大通りの守備に加われって命令だったんだが、皆で話し合ってな。やっぱり、西区の人たちと一緒にいたいと思ったんだ」
そこで小隊長は、口調を改めた。
「俺も、俺の小隊も、今日、ウルフ会長の指揮に従う」
ウルフはうれしそうに微笑み、何か言おうとした。そのとき、内城とデューク通りの方角から、突然、蹄の音と、車輪が石畳を転がる音が響いてきた。馬車の列らしかった。一台や二台の音ではなかった。
たちまち皆が黙り、ルル通りの東側へ目を向けた。俺も皆と一緒に、音のするほうへ目を向けた。
次に目に入った光景は、恐怖とともに俺の脳裏に焼きついた。
二列に並んだ王家の衛兵に率いられ、馬車の列が、まだ消えきらぬ朝霧の中から現れた。
馬車はどれも四頭立てで、巨大な木の荷台を備えていた。その上には絞首台が立ち、すでに息絶えた青白い死体が、一体ずつ吊り下がっていた。その体に掛けられた木札には、官職と名前。
そんな馬車が、十数台も連なっていた。
先頭の王家の衛兵が、歩きながら声を張り上げた。
「国王陛下は昨夜、降伏を企てた逆賊どもを、ことごとく絞首刑に処された! 臣民一同、これを戒めとせよ! さらに降伏を望む者があれば、その末路も同じと知れ!」
馬車が進むにつれ、死体が揺れた。ギルド前の勇者たちは道の両側に分かれ、馬車の列に道を譲った。
俺は通り過ぎる死体に掛かった木札を、一枚ずつ見た。
内務大臣、外務大臣、王都警備官、王都市政官……。
どれもこれも大層な肩書きだった。普段なら庶民が仰ぎ見るしかない、豪華な馬車で出歩くお偉方ばかりだった。
それが、たった一晩で、命のない、冷たく乾いた死体になっていた。秋風に揺れる姿は、市場で吊るして売られる干し魚のようだった。
この一昼夜のあいだに、彼らは何を経験したのか。どうやって、貴族から干し魚へと変わったのか。俺にはわからなかった。目を見開いたまま、この皮肉な光景を見つめていた。
先頭の王家の衛兵は、通り過ぎるとき、わざわざ意味ありげな視線をウルフへ向けた。ウルフは硬い表情のまま、その視線に応じなかった。
「狂ってる。上の連中は、みんな狂っちまってる」
馬車の列が去ったあと、誰かがそう漏らした。
「会長、どうします?」
「ここで待機だ」
ウルフは答え、少し考えてから続けた。
「先に、ギルドの後始末をしてくる」
そう言って、ウルフはギルドの中へ戻った。扉は固く閉ざされた。
街は静まり返っていた。人々は家の中に隠れ、外へ出るのを恐れていた。ときおり、一人二人が窓から顔を出して外の様子をうかがっては、また引っ込めた。
俺は屋台の腰掛けを通りへ運び出し、できるだけ多くの勇者が座れるようにした。それから陶器の杯を全部出してテーブルに並べ、ひしゃくで一つずつ、杯いっぱいに茶を注いでいった。
「皆! 好きなだけ飲んでくれ! 今日は俺のおごりだ! 足りるかどうかは、わからねえけどな」
勇者たちは笑顔で俺を見た。空気が少し和らいだ。何人かの常連が先に屋台へ入り、自分で杯を取って飲み始めた。並べた杯は、あっという間に全部持っていかれた。
やっぱり、足りねえか。
「店主、今日は大出血サービスか? ははは!」
常連の一人が、朗らかに笑った。
「そうそう。今日、俺たちが誰も大出血しねえで済むなら、うちの屋台が大出血したって、どうってことねえだろ?」
「ははははは!」
屋台に大きな笑い声が上がった。
「それでも、店主に大出血させっぱなしってわけにはいかねえな。この先、俺たちがちゃんと埋め合わせしてやらねえとな」
太陽が真上に近づくころ、ウルフが出てきた。勇者たちが皆、俺の杯を手に、くつろいだ様子で笑いながら話しているのを見て、少し驚いた顔をした。それから俺にも目を向けた。何も言わなかったが、その表情には、俺への感謝がにじんでいるようだった。
その後ろから、あの刺客までついて出てきたのには、俺も少し驚いた。
ウルフは振り返って刺客を見て、うなずいた。あいつは壁を何度か蹴って軽やかに跳び上がり、屋根の上へ消えた。ウルフは勇者たちの中へ進み、空いた席に腰を下ろした。両手の指を組み、親指どうしをこすり合わせていた。
パンや保存食を取り出して食べ始める者もいた。俺も持ってきたパンを取り出し、何口かかじった。城内は、相変わらず静かだった。このまま一日が過ぎてくれればいい。そう思った。
だが、世の中はいつだって、願ったとおりにはいかない……。
昼を少し回ったころ、王都の東と南から、轟音が響き始めた。皆が振り向き、緊張した面持ちで、鉄山門や饗宴門のある方角を見やった。
「城攻めが始まった……」
誰かが小声で言った。
「町の人たちが無事だといいが……」
別の誰かが、それに続いた。
しばらくのあいだ、轟音は途切れなかった。王都の東側からは、何筋もの濃い煙が立ち上った。それなのに、ルル門の外は静かなままだった。
「ルル門の外はどうなってる? 攻めてこねえのか?」
「西には三千しかいないって話だ。帝国は東と南に主力を回したのかもしれねえな」
二人の戦士が話していた。その言葉を聞くうちに、俺の気持ちも次第に張り詰めてきた。杯の茶を一口飲み、無意識に右手で、ズボンの右脚のあたりに触れた。
太陽が西へ傾き始めた。なぜか、南からの音は途絶えていた。東から響く音はますます大きくなり、立ち上る煙も増えていった。かすかに、戦いの叫びまで聞こえてきた。
勇者たちは皆、息を詰め、東の煙の柱が次第に近づいてくるのを見つめていた。そのとき、刺客が屋根から飛び降り、ウルフのそばへ降り立った。着地の音は、まったくしなかった。
ウルフの耳元へ顔を寄せて話そうとすると、ウルフが口を開いた。
「皆に話してくれ」
そこで刺客は、勇者たちのほうへ向き直って話し始めた。
「南門は落ちた。フィスター家が大勢の商人を率いて饗宴門を開けた。帝国軍は城内へ入り、大聖堂とブル市場区全域を支配下に置きつつある。民間人に危害は加えられていない」
皆の口から、ほっとしたようなつぶやきが漏れた。刺客は続けた。
「鉄山門は、それよりも先に破城槌で破られている。王都第一団の竜騎兵が王家大通りで死闘を続けているが、八百人いた兵も、もうほとんど残っていない。帝国の騎兵は間もなくデューク通りと内城に達する。さらに悪いことに……」
刺客はいったん言葉を切った。
「東から入ってきた帝国軍は、十数年前にヤラで惨敗した部隊のようだ。占領した地区で民間人を虐殺している。すでに大勢が殺されている」
その瞬間、座っていた勇者たちが一斉に立ち上がった。ついさっきの安堵は、跡形もなく消えた。
「それから……」
刺客はうつむき、少し黙った。何か考えているようだった。
「くそっ、一度に全部言えねえのかよ!」
焦れた勇者が、声を荒らげた。
「ついさっき、ここへ戻ってくるとき、国王ホレンデ三世が内城の高い塔から身を投げ、命を絶った……」
国王が死んだ……。
俺はどうしていいかわからず、その場に立ち尽くした。聞かされたことはあまりに多く、複雑で、何がどうなっているのか、まるで判断がつかなかった。
「それで全部か?」
青ざめた顔をこわばらせ、ウルフが尋ねた。
「ああ。もうじき、東から避難民と帝国の騎兵部隊がここへ来るだろう」
皆が口々に話し始めた。どうすれば、この状況を切り抜けられるのか。ウルフも黙って考え込んでいた。俺のそばにいた勇者が、ひどく不安そうな顔をした。
「一部の帝国兵が住民を殺して略奪を始めれば、それがたちまち広がってしまう。住民の大半が、ただでは済まなくなるかもしれない」
「今はルル門を開けて、町の人たちを西へ逃がすしかない。だが、門の外にはまだ、少なくとも三千の帝国兵がいる……」
皆が不安げに言葉を交わし、何とかこの状況を切り抜ける方法を探していた。
何かを決めたように、ウルフが不意に顔を上げ、目の前の勇者たちを見た。
「私がルル門の外へ出て、帝国軍と交渉する。話がつかなければ、血路を開いて民を城外へ逃がすしかない。共に来てくれる者はいるか?」
多くの勇者が手を挙げた。一歩前へ出る者もいた。ウルフは重々しくうなずき、同行する者を選んで出発しようとした。そのとき、人混みの中から、誰かが手を挙げて跳びはねながら叫んだ。
「僕! 俺! 私!」
その場にいた皆が、声の主に目を向けた。
トラレンツが立っていた。
「会長、俺が行くよ。会長は行かなくていいから」
トラレンツのあんな顔は、初めて見た。いつもの退屈そうな様子はなく、見るからに興奮していた。まるで、野山へ泊まりがけで遊びに行けると聞いた子供のようだった。
ウルフはそんなトラレンツを見て、厳しい顔に思わずかすかな笑みを浮かべた。それから、軽く首を横に振った。
「なら、一人で行ってくれ。いいか、まずは交渉だ!」
ウルフは強い口調で念を押した。
「ああ、いいから、いいから」
皆が見守る中、トラレンツはあの巨大な石の剣を背負い、軽い足取りで、固く閉ざされたルル門へ向かっていった。ほどなく、緊張した面持ちの衛兵たちの列をいくつか抜け、門の前に着いた。門がわずかに開き、トラレンツはその隙間から城外へ出ていった。
ウルフの顔には、再び指揮を執る者の威厳が戻った。
「A級、B級は全員、ルル通りに防衛線を敷け! C級、D級はただちに住民を避難させ、ルル門の前で待機させろ! 弓使いは全員、屋根へ上がれ!」
その一声で、全員が動き出した。ランクの高い戦士たちは、俺の屋台の前の通りに、素早く何列もの人の壁を作って防御陣を敷いた。ニコライたち弓使いは屋根へよじ登り、矢をつがえて弓を引いた。ランクの低い勇者たちは、大声で呼びかけながら通りを駆け、一軒ずつ扉を激しく叩いて住民を外へ呼び出し、ルル門へと誘導していった。
刺客はまだウルフのそばに立ち、その様子を見ていた。
「会長、俺はどうすればいい?」
ウルフは振り向き、改まった口調で刺客に告げた。
「君がすべきことをしに行ってくれ。さようなら」
刺客はうなずき、かすかに笑った。それから通りへ目を向けたかと思うと、意外にもこちらへ視線を移し、俺に片目をつぶってみせた。続いて、ほんの数歩で屋根へ跳び上がると、すさまじい速さで駆け去り、視界から消えた。
俺はまだ、刺客が消えた方角をぼんやりと見ていた。突然、ルル門の外から、天地を揺るがすような轟音が立て続けに響いた。陣を組んだばかりの勇者たちは皆、思わず首をすくめた。呼び出されて通りへ出てきたばかりの人々は、耳をふさいで悲鳴を上げた。俺も耳鳴りに襲われながら、皆と一緒にルル門を振り返った。
轟音のした方角で、巨大な土煙の柱がいくつも、爆発で吹き上げられたかのように城壁より高く舞い上がった。その中には、吹き飛ばされた人影がいくつも交じっているように見えた。その人影は手足をばたつかせながら、宙から落ちていった。
ほどなく、ルル門が開いた。
遠くから門の向こうを見やったが、帝国軍の姿は見えなかった。ただ、城外の野原と、遠い山々の稜線だけが見えた。
「早く、住民を城外へ逃がせ!」
ウルフはそう叫ぶと、すぐに身を翻し、ギルドの中へ入っていった。
通りと広場は、たちまち騒がしくなった。西区の人々は皆、家族を連れ、荷車を押したり家財を抱えたりして通りへ押し寄せ、ルル門へと向かっていった。包囲される前の、あのときと同じだった。ランクの低い勇者たちは老人に肩を貸し、懸命に通りの秩序を保っていた。人々は次々と、急ぎ足で城外へ出ていった。
俺も、もう行ったほうがいいのか?
でも、本当に行くのか?
俺は本当に、ここを離れたいのか?
俺は繰り返し自分に問いかけ、答えを見つけようとしていた。
俺が迷っていると、デューク通りのほうから、すさまじいどよめきと泣き叫ぶ声が響いてきた。続いて、ルル通りの東の端に、大勢の人々が姿を現した。秩序を保って避難していた西区の人々とは違い、彼らは泣き叫んでいた。血に汚れ、傷を負った者もいれば、服がぼろぼろになった者もいた。恐ろしい魔物に追われるように、ルル門めがけて逃げてきた。
それは、正気を失い、ただ生き延びようとする何千、何万もの人々の奔流だった。
人々は逃げ道を奪い合うように、勇者たちの防御陣にも、俺の屋台にもなだれ込んだ。屋台のテーブルや腰掛けにつまずいて倒れ、すぐに起き上がってまた逃げる者。陣を組む勇者に激しくぶつかる者。勇者ギルドの階段を跳び越えていく者。俺は人波に押され、屋台の一番奥の壁に押しつけられたまま、身動きひとつ取れなかった。秩序を保って進んでいた西区の避難の列も、この奔流に巻き込まれ、めちゃくちゃになった。悲鳴と泣き叫ぶ声が、あちこちで次々と上がった。
ギルドの扉が開いたらしかった。ウルフと職員たちが、皆、外へ出てきた。ひしめく人々の間から、ポカやほかの職員が、それぞれ書類を山ほど抱えているのが見えた。ポカは外へ出た途端、逃げてきた人にぶつかられて倒れ、人波の中に消えた。
それでも、ほどなく人波の間に、またあいつの頭が見える。小さな丸い帽子は、もうない。何かを探すように辺りを見回していたポカが、屋台の壁際に押しつけられ、動けずにいる俺に気づく。
怯えていた顔に、ふっと笑みが浮かぶ。次の瞬間、俺に向けられるのは、いつも勇者たちに見せる、あの元気いっぱいの笑顔。
ウルフがポカをひと押しし、ルル門のほうを指さして何か言う。ポカはその笑顔のまま、もう一度俺を見て、迷いなく前を向く。その姿は再び、逃げ惑う人々の奔流の中へ。
もう、見つけられない。
俺は何度か叫んだが、声はすぐに、すさまじい泣き声と叫びにかき消された……。
どれほどの時間がたったのか、わからなかった。逃げる人の流れが次第にまばらになり、勇者たちはすぐさま防御陣を組み直した。俺は疲れ果て、壁際の隅にぐったりと座り込んでいた。荒い息をついていた。手足がしびれ、胸は何か重いものに押さえつけられているようだった。そのしびれが、手足と胸から全身へ広がっていった。混乱した頭で何一つ考えをまとめられないうちに、ルル通りの東から、重い蹄の音が響いてきた。
頭が真っ白なまま、俺は反射的に東へ目を向けた。人馬ともに全身を鎧に覆われた帝国の重装騎兵が、ゆっくりと馬を進めてきた。何騎いるのかは、わからなかった。勇者たちの防衛線から百歩もないところで足を止め、陣を広げた。勇者たちの顔がこわばった。武器を固く握り、まだ城門を出ていない避難民たちを振り返った。
騎兵たちの体も、馬の鎧も、真っ赤な血にまみれていた。
「そこの武装した逆賊ども! 武器を捨て、帝国に降伏せよ!」
帝国騎兵の陣から、大声が飛んだ。
ウルフがゆっくりと、勇者たちの陣の前へ歩み出た。もうギルドの制服は脱いでいた。腰の両側には長剣が一本ずつ。マントの下では、白金のめっきを施した胸甲が、気高い輝きを放っていた。
「戦争は国と国の争いだ! この国の王はすでに死に、軍も敗れた。お前たちは、なぜなお民を虐殺する!」
ウルフはそう叫びながら、ときおり、まだ広場を逃げていく人々へ目を走らせた。
「もう一度言う! 逆賊ども、ただちに武器を捨てて降伏せよ!」
「帝国の軍人でありながら、名誉も誇りもないのか!」
帝国の騎兵たちから、笑い声が上がった。声を張り上げていた、指揮官らしい騎兵が、背後の者に何か言った。すると、矢の雨が騎兵たちの頭上を越え、ルシエ広場へと飛んできた。
あの矢、少し高すぎねえか? まずい! 狙ってるのは勇者たちじゃなくて、後ろでまだ逃げてる町の人たちじゃねえのか?
矢の雨が勇者たちの頭上を越えようとした、そのときだった。通りに突然、つむじ風が巻き起こり、矢を残らず巻き込んで地面へ落とした。
杖をついた老魔法使いが、勇者たちの中から歩み出た。ウルフと肩を並べ、陣の最前列に立った。
それを見た帝国騎兵の指揮官が片手を上げると、騎兵たちは一斉に長槍を前へ構えた。その腕が振り下ろされた途端、騎兵の列が突撃してきた。
老魔法使いは片手で杖を横に構え、もう片方の手を何度か動かしながら、何かを唱えた。杖から、目もくらむような青い光がほとばしり、通りに光の壁が立ち上がった。そこへ、最前列の帝国騎兵が正面から激突した。人も馬も、ことごとくもんどり打って倒れた。
老魔法使いは術を続けながら、振り返った。
「早く、民を逃がせ!」
広場で避難を手伝っていた勇者たちは、すぐさま人々を引っ張り、急いで城外へ追い立てた。陣にいた数少ない魔法使いたちも、そろって杖を横に構え、老魔法使いとともに、青い光の壁を補強した。倒れた帝国騎兵たちは立ち上がり、さまざまな武器で光の壁を叩き続けた。
ほどなく、城内に残る避難民は、わずかとなった。
だが、魔法使いたちの術も、いよいよ限界に近づいていた。帝国の重装騎兵たちは、長槍や柄の短い槌を振るい、狂ったように攻撃を浴びせていた。青く透き通った光の壁は、ますます色を失っていった。老魔法使いは片脚を激しく震わせ、がくりと膝をついた。それでも、手にした杖は下ろさなかった。
何に突き動かされたのか、自分でもわからなかった。どこからともなく湧いた勇気なのか、それとも、極度の恐怖が引き起こした本能的な反応なのか。気がつくと俺は、花や草を刻む先の尖ったナイフを握り、勇者たちの防衛線、その最後列の端に、震えながら立っていた。「俺だって、今日は命を張ってやる」。そんな思いに突き動かされ、荒い息をつきながら、帝国騎兵の列をにらみつけた。体中の筋肉に、ますます力が入っていった。
「失せろ!!!」
怒鳴り声と同時に、腹に強い衝撃が走った。どうすることもできず、体ごと後ろへ吹き飛ばされ、数メートル先の屋台の木柵にぶつかってようやく止まった。一瞬で正気に戻り、理性が再び体を支配した。その途端、恐怖が全身へ押し寄せてきた。俺は地面に力なく崩れ落ち、腹を押さえながら、呆然と俺を蹴り飛ばした勇者を見た。後列にいた戦士だった。
こいつ、誰だっけ。いつもうちに茶を飲みに来てるけど、俺、こいつの名前知ってたっけ? ほかに、一緒に何かしたことがあったっけ?
戦士の怒りに満ちていた目が、ふっと和らいだ。その顔に浮かんだのは、ひどくぎこちない、それでも心のこもった笑みだった。
「なんでまだいるんだよ。さっさと行けよ。邪魔すんな」
人々を逃がし終えたランクの低い勇者が何人か、まだ屋台のところに俺がいるのに気づいた。すぐさま駆け寄り、地面にへたり込んだ俺の両腕を支え、立たせようとした。
後ろの騒ぎに気づいたウルフが振り返り、辺りを見回した。その視線が勇者たちの列を抜け、俺と、駆け寄ってきた数人にとまった。
「おい、君たち!」
そのとき、青い光の壁がとうとう完全に色を失い、砕け散った。老魔法使いの杖が地に落ち、帝国騎兵が横一列に長槍を構えて、百歩も離れていないところから突撃してきた。
「物語を語り続けてくれ」
俺は必死に前へ手を伸ばしたが、その大きな背中には触れることすらできず、引き止めようもなかった。
ウルフは左右の手で、腰の長剣を一本ずつ抜いた。戦馬のいななきと敵の雄叫びを前に、揺るぎない足取りで、迫る帝国騎兵に向かって歩いていった。
「店主! 早く行くぞ! 行くぞ!」
数人の勇者に引っ張られ、俺はどうにか体の向きを変えた。背負い袋を胸に抱え込み、二歩ほど走った、そのとき。
「ファレンナ!」
俺ははっと振り返る。赤みを帯びた金色の鎧が、陽の光をまぶしく照り返す。顔にまだあどけなさの残るあの青年が、両手剣を振り上げ、亡き恋人の名を叫びながら駆けていく。剣を手に歩くウルフを追い越し、真っ先に敵陣へ飛び込む。
狂風に舞う薔薇のように、剣を振るう。その一振りで、数人の騎兵が馬もろとも地に倒れ、血の霧が噴き上がる。薔薇はなおも前へ進み、ついには帝国騎兵の列の中へ消える。刀剣のぶつかり合いで飛び散る火花だけが、宙を埋めている。
通りを震わせる雄叫びが上がり、勇者たちが一斉に突撃する……。
俺は腕を引かれて城門へ走りながら、少し進むたびに振り返る。
一度目。大柄なウルフが、騎兵の突撃を真っ向から受け止め、二本の剣で、二人の騎兵を馬上から斬り落とす。
二度目。脚に矢の刺さったニコライが、屋根に座ったまま、なおも弓を引き、矢を放つ。
三度目。勇者の一人が盾を激しく叩きつけ、帝国兵をギルドの扉の向こうへ弾き飛ばす。直後、その勇者が背中を斬られ、ロワールが駆け寄って魔法をかける。
四度目。小隊長が衛兵たちとともに、長槍で帝国の戦馬を激しく突く。はね飛ばされた衛兵の体が、俺の屋台の屋根を支える柱にぶつかり、屋台が丸ごと崩れ落ちる。
「もう見るな、もう見るな!」
俺の後ろを走る勇者は、目をつぶり、顔じゅうを涙で濡らしている。それでも、どうして見ずにいられる。この通りを、命懸けで戦うあの姿を。
そして、五度目。勇者が一人、槍で最後の一突きを繰り出し、ギルドの入口の階段で斬り殺される。
六度目。長槍に体を貫かれた魔法使いが、最後の攻撃魔法を放ち、棒のように倒れる。
七度目……。
八度目……。
数人に押され、ほとんど転げるようにしてルル門の下へたどり着いたころには、避難民の大半はすでに城外へ出ていた。俺は振り返り、ルシエ広場のほうを、最後にもう一度だけ見た。
通りには火の手が上がり、煙と土ぼこりが空へ吹き上がって、その先の眺めを覆っていた。炎の明かりの中に見えたのは、地面を埋める死体と、遠く小さくなった、まだ戦い続ける人影。服も顔も見分けられず、ただ、武器がなお振るわれ、体がなおぶつかり合うのだけが見えた。
帝国兵を、一人たりとも通していなかった。
俺はようやく目を閉じ、前に向き直ると、数人の勇者とともにルル門を駆け抜けた。
門の外には、城内とはまるで違う光景が広がっていた。数千もの帝国兵が脇へ退き、通り過ぎる避難民をただ見送るばかり。どういうことだ? よく見ると、歩兵たちは刀剣を固く握りしめ、鬼でも見たような顔で、ある一点を凝視していた。
その怯えた視線をたどると、そこには鬼神さながらのトラレンツが立っていた。秋風を受けて、熊皮のマントの黒い毛並みが波打ち、あの巨大な石の剣はトラレンツの頭上に浮かび、切っ先を帝国軍へまっすぐに向けていた。その前には、幅が十数メートルもある大穴がいくつも開き、帝国兵の死体が黒々と地面を埋めていた。少なくとも、数百人。だが、あいつの銀白色の鎧には、一滴の血さえついていなかった。
俺たちはトラレンツから二十数歩ほど離れたところを通りながら、呆気に取られて、その対峙を見つめた。人数の差があまりに大きく、どこか馬鹿げてさえ見える光景だった。トラレンツは死んだ魚のような目で帝国軍をじっと見据え、口元には満足そうな笑みさえ浮かべていた。
まだ逃げてくる人がどれだけいるのか、確かめるように、あいつの視線がこちらへ動いた。そして、俺に気づいた。
「あっ、店主!」
ぱっと表情を変え、手を上げて俺に向かって振った。まるで、取り巻きたちに囲まれた、いつもの午後のように。
あいつを見て、一瞬、今がいつで、ここがどこなのか、わからなくなりそうだった。
「また機会があったら、一緒に稼ごうよ」
死んだ魚のような目を細め、あいつは笑った。
俺は歩きながら体を横に向け、あいつを見つめていた。何かひと言でも返したかったが、頭の中は真っ白だった。そばの勇者が、俺の腕を引いて言った。
「店主、見てないで! 早く行くぞ!」
結局、たったひと言さえ、口にできなかった。
数百歩ほど進んでも、帝国兵は追ってこなかった。ようやく、俺たちは息をついた。俺の気持ちもゆっくりと落ち着き始め、脚にも少しずつ力が戻ってきた。しびれの残る体を、その脚で前へと運んだ。
王都郊外の畑は、刈り入れを終えたばかりで、地肌をさらしていた。藁を焼く老人の姿もあった。畑の間を道が延び、列の中からは、ときおり子供の泣き声が聞こえた。ほんの少し歩いただけなのに、もう武器のぶつかる音も聞こえず、城内の煙も火の光も見えなかった。まるで、二つの別々の世界。どちらが現実ではないのか、俺にはわからなかった。
俺は前に続く道を見た。このまま進んで、それから北西へずっと行けば、林の縁に着く。一年半前、俺と何人かの勇者は、ルル門から夢中で駆け出し、この道を通ってあの林の縁へ向かった。木の張りぼてを着込んでオークに化け、あの馬鹿馬鹿しくておかしな芝居を演じた。俺に火の玉を投げてきたあの小僧、元気にしてるだろうか。そんな思い出で頭がいっぱいになり、目が潤んだ。口元も、いつの間にかほころんでいた。
避難する人々に続き、俺たちはずっと列の最後尾を歩いていた。前方の列は西へと延び、果てが見えなかった。このまま歩けば、数日で王国第二の都市、アムニウに着く。人々が目指すのも、きっとそこなのだろう。俺はズボンの右脚のあたりに触れてみた。あの小袋は、まだそこにあった。
太陽のまわりに橙色の光がにじみ、西の地平線に連なる遠い山々は、次第に色を失って、影絵のようになっていった。さらにしばらく歩くと、あの小川のほとりの粉挽き小屋に着いた。さらさらと流れる水を見て、その向こうの小さな丘を見て、俺は足を止めた。
「店主? どうした?」
勇者たちも足を止め、俺のほうを振り返った。
「西へは行かない」
深く息を吸い、前を行く避難民の列が遠ざかっていくのを見ていた。
「え? アムニウには行かないのか?」
「あそこも、いずれ落ちるんじゃねえかな……」
少し考えて、そう言った。
「じゃあ……どこへ行く?」
「南へ。ティバラに行く」
南の空を眺めていると、よく笑う昔なじみの顔が、あいつが語った異国の話とともに浮かんだ。気づけば、俺もかすかに笑っていた。
「でも……どうやって行くんだ?」
「知ってる小道がある。そこから南の街道へ回れるかもしれねえ」
勇者たちは顔を見合わせた。
「わかった。俺たちも行く」
俺は皆を見て、それ以上は何も言わなかった。
俺は勇者たちを連れ、小川の中を歩いて渡り、その向こうの丘に登った。大きな木は、まだそこにあった。野葡萄の蔓が茂る花畑には金糸草の花が咲き満ち、秋風が渡るたび、赤みがかった橙色の夕映えの中で金色が踊った。色をのせた画布に、金粉を散らしたかのように。
花畑を抜けながら、花をいくつか摘み、小さな背負い袋に入れた。木の下の小さな石碑は、少し傾いていた。手でそっとまっすぐに戻し、土を少しほぐして、その周りに盛った。それから立ち上がり、もう一度この景色を振り返って、南東へと歩き出した。
夜になって、俺たちは小川の近くに小さな林を見つけた。勇者たちが野兎を何羽か狩り、火を起こして焼いた。塩はなく、兎肉は少し獣臭かったが、誰も気にしなかった。まだ若い勇者たちは、食べながらティバラでの暮らしに夢を膨らませていた。勇者を続けたい者、海へ出て商売をしたい者、南のきれいな女と結婚して所帯を持ちたい者。
「店主、南にも親戚はいないんだろ?」
一人がそう聞いた。
俺は沸かした小川の水をひと口飲み、唇を軽く鳴らした。
「いねえよ。親戚はみんなアムニウにいる」
その勇者は焦げた兎肉をひと口かじり、口に物を入れたまま、もごもごと尋ねた。
「じゃあ、ティバラに着いたら、何をするんだ?」
それを聞いて、ほかの勇者たちが笑い出した。
「馬鹿だな、お前。そんなの、聞くまでもねえだろ」
一人が笑いながら、俺の代わりにそう返した。
林の中で、何かの鳥が鳴いた。俺は顔を上げ、ルル通りとルシエ広場のある方角を見やった。
「茶屋台をやるよ」
俺はそう言った。
― 完 ―
そして最後に、次の物語を歩く二人を、少しだけ紹介します。
『茶屋台』より十数年前、ヘルレン帝国を舞台に始まる物語の二人です。
サバルト
第一次ヤラ戦役を生き延びた、帝国重歩兵。
デクラス
ヘルレン帝国参謀院次席。
二人がどんな道を歩むことになるのか――それは、また次の物語で。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました!
『勇者ギルドの前で、俺は茶屋台をやっている!』第一部は、これにて完結です。
今回が初めて書いた小説だったこともあって、書き始めたころは一話ごとの文字数なんて、まったく考えていませんでした(笑)。
気がつけば、かなり長い話もいくつかできてしまって……最後まで読んでくださった皆さん、本当にお疲れさまでした!
店主とポカ、そして勇者たちの物語は、ここでひとまず一区切りとなります。
ただ、本作には、まだ答えを明かしていないことがいくつも残っています。
たとえば、グリエルと遠征隊はどこへ行ったのか? ヴィシャはいったい何者なのか?
これらは、決して回収するのを忘れたわけではありません(笑)。
同じ世界を舞台にした別の物語の中で、少しずつ答えを描いていく予定です。
でも、ソラニア大陸の物語は、まだまだ終わりません。
次に皆さんにお届けしたいのは、『茶屋台』より十数年前――ヘルレン帝国を舞台にした物語です。
『茶屋台』では、店主の小さな屋台から、この世界の一角を眺めてきました。
次の物語では、同じソラニア大陸の、まったく違う場所と時代を描いていきます。
二人の若者を中心に、戦争や帝国、そして大きな時代の中で懸命に生きる人々の物語です。
『茶屋台』より少し重く、ずっと大きな物語になると思います。
現在、その第一篇も完成間近まで書き進めています。
こちらもきちんと翻訳を仕上げてから、少しずつ投稿していく予定です。
それでは皆さん、しばしのお別れです!
ここまで店主たちと一緒に歩いてくださったこと、心から感謝しています。
本当に、本当にありがとうございました。
いつかそのとき、またこの物語を見つけていただけたら嬉しいです。
また、ソラニア大陸のどこかでお会いしましょう!




