第十五章 白魔法使い ロワール
この年の仲夏祭は、カラカ湖へ灯籠を流しに行かなかった。行きたくなかったわけじゃない。怪我をしていたのだ。話は、少し前にさかのぼる……。
今年の夏は、とにかく暑かった。南風が熱気を運び、体中の毛穴がべたついて、塞がってしまったように感じる。屋台にはいつもより多めにきれいな水を用意し、汗を拭く手ぬぐいも一本置いていた。しばらく働くたびに冷たい水で手ぬぐいを濡らし、体を拭いて熱を冷ます。それでもこの夏は、屋台で何度も暑さにやられかけた。
仲夏祭まで、あと二日という日の夕方。そろそろ店じまいをしようとしていた。朝から休まず働いていたせいか、また暑さにやられたらしい。頭がどうにもぼんやりする。大きな木桶を荷車に載せようとした、そのときだった。ふっと腰の力が抜け、両手が滑った。桶は立ったまま真下へ落ち、硬く分厚い底の縁が、右足の指を直撃した。よりによって夏だから、履いているのはつま先の出たサンダルだ。足先から、全身を貫くような痛みが走った。
口が大きく開き、思わず息を吸い込んだ。声が出ない。腹と胸にばかり力が入り、しばらく息を詰めたまま、ようやく何度かうめき声を漏らした。足を押さえ、そのまま地面に倒れ込む。
この一部始終を、鍵をかけに出てきたポカペラにばっちり見られていた。あいつは馬鹿でも見るような目で俺を見て、ため息を一つ。地面を転げ回る俺を置いて、一人で帰っていった。
激痛をこらえ、どうにか荷車を引いて家へ戻った。湯を沸かして足を浸すと、少し痛みが引いた気がしたので、足を引きずりながら仕込みを済ませ、そのまま寝た。
ところが翌朝、目が覚めると、昨日より痛い。右足の指はひどく腫れ上がり、まるで動かせなくなっていた。やっとのことでサンダルに足をねじ込み、荷車を引いて家を出る。右足はかかとだけを地面につけ、ずりずりと、一歩ずつ屋台まで進んだ。親切な人が荷車を押してくれたおかげで、ようやくたどり着き、のろのろと店を出して営業を始めた。
蒸し風呂みたいな暑さに加え、うっかり足の指に何か触れれば激痛が走る。その二重苦に耐えながら、どうにか午後まで持ちこたえた。客たちも俺の有り様を見て、茶を自分で取りに来たり、飲み終えた杯を返しに来たりしてくれる。だが、今は稼ぎ時だ。茶は次々に出るし、客の入れ替わりも早い。気を遣ってもらったところで、歩き回る回数は大して減らなかった。
太陽がルル門に近づき、暑さがほんの少し和らいできた頃、向かいのギルドの扉が開いた。ポカが白魔法使いを一人連れて立っている。俺を指さすと、そいつはこっちを見て、ポカにうなずいた。ポカはギルドへ戻り、白魔法使いだけがこちらへ歩いてくる。
よく見ると、おや。去年の秋、レオンティスに付き添って帝国へ行った奴じゃないか。何か月か見かけなかったな。
そいつは俺の前まで来ると、腫れ上がった足の指を見て、はははと笑った。
人の痛みがわからねえ奴だな。
「店主さん、お久しぶりです。どうしたんですか、それ?」
俺は痛みをこらえ、泣きそうな顔で答えた。
「昨日、桶を運んでてな。足に落としちまった」
「まだ仕事、残ってますよね? じゃあ、先にお茶を一杯ください。店じまいが済んだら診ますから」
そいつは笑いながら、さっさと席に着いた。
「俺がこんななのに、まだ仕事を増やすのかよ」
恨めしげに言ってやる。
「ははは、大丈夫、大丈夫。あとでよくなりますから」
茶を一杯すくって注いだが、自分から取りに来る気はないらしい。またかかとで地面をずりずり擦りながら、そいつのテーブルまで運んだ。
「このお茶、お代は払いませんよ。ははは」
「わかったよ! 払わなくていいよ!」
仕方がない。腹を立てたって始まらない。本当に治してくれるなら、茶の一杯なんて安いものだ。
ようやく太陽がルル門の向こうへ沈み、客もほとんど帰っていった。残っているのは、そいつだけ。俺はどうにかほかのテーブルを拭き終えたが、その拍子に足の指をぶつけて、悲鳴を上げた。
そいつは吹き出し、口の中の茶を噴いた。
「さあ、店主さん。こっちへ来て、テーブルに横になってください」
口元を拭い、笑いながら俺を呼ぶ。
足を引きずりながらそいつの前のテーブルによじ登り、右足のサンダルも脱いで横になった。まな板の上の魚みたいに、あとは好きにされるのを待つ。
白魔法使いが右手を上げ、俺の右足の上へかざした。すると、何もなかったところに淡い白い光が現れる。少しの間そのままにしてから、そいつは手を下ろした。
「いやあ、思ったよりひどいですね。指が二本、骨折してます。親指のほうは、骨が三つに折れてますよ。よくこれで営業できましたねえ」
まだにこにこしている。
「おい、どうすりゃいいんだ。治るのか?」
少し焦ってきた。
「治りますよ。これくらいなら、三、四回治療すれば、すっかりよくなります」
おいおい、そんなにすごいのか、これ。骨が三つに折れてるのに、三、四回で治るって? 俺は驚いてそいつを見た。
「じゃあ、店主さん。そのまま動かないでくださいね。一回目、始めますよ。少し時間がかかりますから」
「待った!」
俺は慌てて止めた。
「く、首の下に何か入れてくれ。このままじゃ、横になってるのもつらいんだよ」
そいつは妙な顔で俺を見たあと、肩に掛けていた布の鞄を外し、頭の下に敷かせてくれた。これでずっと楽になった。
再び右手が上がり、ゆっくり俺の右足へかざされる。今度はさっきより少し温かみのある、淡い黄色の光が手の下に生まれ、足を徐々に包んでいった。足の甲に、ほのかな温かさが満ちてくる。光が皮膚を通して染み込むにつれ、痛みがぐっと和らいだ。足の指の骨が、かすかにむずがゆい。
ちょうどそのとき、ポカがギルドの鍵をかけ、勇者に向けるあの愛想のいい笑顔でやってきた。俺の右足をじっと見ている。白魔法使いも振り返り、笑いかけた。
「ロワールさん、店主さんのお怪我、そんなにひどいんですか?」
ポカが元気いっぱいの声で尋ねた。
「いえいえ、それほどでも。足の指が二本、骨折してるだけです。何度か治療すれば治りますよ」
「あら、命に別状はないんですね。それは残念です」
どういう意味だ。俺に死んでほしいのか? それにしても、その嘘くせえ笑顔、どうにも慣れねえな。
白魔法使いも、少し困ったように笑った。
するとポカまで右手を上げた。中指の爪を親指の腹にぐっと押しつけ、その手を俺の右足へ伸ばしてくる。
「何すんだ――ああああああっ!」
ポカは中指にぐっと力をため、俺の右足の親指を思いきり弾いた。俺の口からすさまじい悲鳴が上がり、隣の白魔法使いまでびくっとした。
「てめえ……頭おかしいんじゃねえか?」
白魔法使いが左手で押さえてくれなかったら、テーブルから跳ね起きていたところだ。
「ははは……治療が一日延びましたね」
白魔法使いも、苦笑いを浮かべていた。
ポカペラは満足そうに拳を握り、白魔法使いに言った。
「それじゃ、ロワールさん、頑張ってくださいね!」
くるりと背を向け、あの作り物の元気を振りまきながら、弾むような足取りで帰っていった。
ロワールはまた足元へ目を落とし、治療に専念した。ようやく、邪魔する奴がいなくなった。
「店主さん、ポカさんとは仲がいいんですか?」
ロワールが何気なく尋ねた。
これには返事に詰まった。考えてみれば、ポカペラと知り合って、もう二年ほどになる。話す回数なら、屋台の常連たちのほうがずっと多い。かといって、ただの顔見知りかと言われると、あいつとの付き合いは、常連たちとはどこか違う気もする。しばらく考えたが、結局よくわからなかった。
「ああ……まあ、そうかもな」
ひとまず、そう答えた。
「なるほど、それでですか。王都に戻ってまだ何日もたってないのに、今日、ポカさんに呼ばれましてね。何か急ぎの用かと思ったら、店主さんの足を治してほしいって。お友達なら、納得です」
腑に落ちたというように、ロワールはうなずいた。
「ロワールっていうんだな。レオンティスの友達だったよな?」
治療中、ずっと寝ているのも退屈なので、こちらから話を振ってみた。
「ええ。去年、あいつに付き添って行ったのも僕ですよ」
「あいつ、最近どうしてる? 人づてに聞いた話じゃ、あんまりよくなさそうだが。うちにもずっと来てねえし」
「それが、正直、僕にもわからないんです。あのとき戻ってきて、ファレンナさんが亡くなったと聞いたでしょう。それから何日もしないうちに、僕は帝国の勇者ギルドへ貸し出されまして」
「はあ? そんなこともやるのか、お前らのギルド。国が違っても、人を貸し借りすんのか?」
そんな話は初耳だ。がぜん興味が湧いてきた。
「僕たち治療系が、ちょっと特殊なんでしょうね。西大陸のどこであれ、人手が足りないところへ、何人かずつ交代で派遣されるんです。帝国と北のエイカドがずっと戦争をしていて、民間人にも怪我人が大勢出ていましたから。僕も交代要員として、治療に行っていたんですよ」
ロワールは笑みを浮かべ、ゆっくり話した。
「ああ、だから何か月も見なかったのか。で、今は交代の時期が来たってわけか?」
「いえ、一か月ほど前に、帝国とエイカドが急に停戦したんです。帝国の人に聞いたんですが、何年も続いていた戦争が突然止まって、理由は誰にもわからないそうで。でも、普通に暮らしている人たちにとって、平和なのはいいことでしょう? 新たな怪我人も出なくなったので、戻ってきました」
「そりゃそうだ。平和に越したことはねえよ。みんなで金を稼いでるほうが、よっぽど楽しいだろ。戻ってきたんなら、レオンティスの奴にも、ちょくちょく付き合ってやれよ」
「店主さん、意外と面倒見がいいんですね」
「当たり前だろ! お前らがそろいもそろって来なくなったら、俺は誰相手に商売すりゃいいんだよ!」
それからも治療はしばらく続き、俺たちはあれこれと話した。
太陽は、もうすっかり沈んでいた。温かな色の光がゆっくりとロワールの手のひらへ収まり、そいつは立ち上がった。
「今日はこれくらいですね。店主さん、まだ気をつけてくださいよ。足の指には力を入れないように。明日もこの時間に来ますから」
俺はテーブルの上で体を起こし、まず左足を慎重に地面へ下ろした。それから右足も下ろし、そっとついてみる。確かに、ずいぶんよくなっている。たちまち気分が明るくなり、笑って礼を言ってから、店じまいに取りかかった。ロワールも手伝ってくれて、そのあと荷車を押して、家まで送ってくれた。
簡単に夕飯を済ませ、かかとで地面を擦りながら翌日の仕込みを終えた。また足の指を、そっと床につけてみる。
いける。そんなに痛くない。あと何日かすれば、すっかり治りそうだ。
その晩は、安心して眠れた。
翌日、荷車を引いて店へ向かうとき、家から枕を一つ持ち出して、荷台に載せておいた。
午後も、せっせと働いた。足の指の腫れがかなり引いたおかげで、昨日より手際よく仕事が進む。太陽が西へ傾き、そろそろロワールが来る頃だと思ったが、どういうわけか、姿が見えない。
客はみんな帰り、ポカまで鍵をかけて帰ってしまった。あいつは帰り際、わざわざ俺に指を弾く仕草を見せていきやがった。一瞬、ひやっとしたじゃねえか。
先に片づけを始めようかと思っていたところで、ようやくロワールが通りに現れた。
「店主さん、すみません。ちょっとあって、遅くなりました」
ひどく汗をかいたらしく、何筋かの髪が顔に張りついている。それでも、いつもの穏やかな笑みは変わらない。
「さあ、横になってください。今日の治療を始めましょう」
言われたとおり、持ってきた枕をテーブルに置き、サンダルを脱いで横になった。近くで見て初めて気づいたが、白いローブの下に着ている服に、何か染みがついているようだった。暗い色の服なので、何がついたのかはよくわからない。ただ、南風が吹くたび、かすかに血の臭いが鼻をかすめた。
ロワールはもう手をかざしていて、右足には温かな光が灯っている。顔に変わったところはない。何もかも、昨日と同じに見えた。
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です」
目はこちらへ向けず、口だけで答える。
「服についてるの、血か?」
そう言うと、ロワールは慌てて左手で白いローブをめくり、中を一目確かめて、また戻した。
「ああ……今日は早めに来ようと思ってたんですけどね。デューク通りのほうの平民街を通りかかったら、助けなきゃいけない人がいまして。そのときについたんでしょう。家でローブを着替えてきたのに、気づかれちゃいましたね」
俺は横になったまま、顔をそいつへ向けた。
「その人、助かったのか?」
「助かりませんでした。亡くなりましたよ」
表情は変わらない。
……。
言葉が喉につかえて、何と返せばいいかわからなくなった。
「ああ……そうか。そんな、死んじまうなんてな……」
独り言のように漏らす。
「飛び降りたんです。あの辺りは、商人の屋敷が多いでしょう。商売が立ち行かなくなったんですかね」
穏やかな笑顔のまま、何でもないことのように話す。あまりにさらりと言うものだから、俺も気持ちを大きく揺さぶられはしなかった。ただ、もう話をつなげられそうになかった。
それきり何も言わず、黙って治療を受けた。足先の温かさが、脚全体にまで広がってくる。こんなに暑いのに、その温かさを不快には感じない。むしろすっきりして、気持ちよく目を閉じた。どれほどまどろんでいただろう。もう少しで深く眠りに落ちそうになったとき、ロワールのつぶやきが聞こえた。
「店主さん、わかりますか、ああいうの。お腹が裂けて、腸が出ていて、もう助からないのに、それでも助けようとしなきゃいけないんです。口の中は血の泡だらけで、何か言ってるんですけど、声がくぐもって、何を言ってるのか聞き取れなくて。それで、こっちの手を握っていた手が、ふっと緩んで。そのまま、亡くなるんです……」
右足の温かさが消えた。
はっと目を開けると、ロワールは両手を握りしめて膝に置き、空を見上げていた。泣いてはいない。表情さえ、ほとんど変わっていなかった。
「ああ……俺にはわからねえよ」
寝起きのせいか、まだ頭がぼんやりしている。いきなりそんな話をされても、とてもついていけなかった。
ロワールはもうしばらく空を見つめていた。それから、再び温かさが戻ってきた。右手をかざし、治療を続けている。
「店主さんなら、きっとわかります。わかるはずです」
微笑みながら、確信したように言った。
「いや、俺は治療系でも何でもねえんだぞ。わかるわけねえだろ」
「去年の火事、あそこにいたでしょう? 僕、見ましたよ」
左手で俺を指さし、その指を軽く振る。
そうだった。去年の仲夏祭の火事では、市の北側の入口に、白魔法使いや聖職者が大勢集まっていた。あの中にこいつもいたのなら、なるほど、話は通る。
「ああ、そういうことなら……わかるのかもしれねえな」
少し考えてから、そう答えた。
ロワールは俺へ顔を向け、かえって笑みを深くした。
「明日から仲夏祭ですね。その足じゃ、市に店を出すのは無理でしょう?」
「今年は祭りの市、取りやめだよ。めでたい祭りが弔いになっちまうなんて、王様だって二度はごめんだろ」
俺とロワールは、声を上げて笑った。
すっかり夜になっていた。満天の星に見守られながら、二日目の治療が終わった。
仲夏祭、一日目。
ロワールの言いつけどおり、店は出さなかった。家からも出ていない。花車の巡行で外は人だらけだから、また足の指をぶつけて、怪我を悪化させかねないという。そこで俺は、二階の寝室の窓から、祭りの様子を眺めていた。
窓から見えるルル通りは、路地の出口の幅だけに切り取られている。花車も、ここからではひと続きの行列には見えない。一台ずつ先頭が現れ、全体が見え、やがて後ろだけになる。そして、路地の出口でぷつりと途切れる。
これまでは屋台から、車列が通り過ぎるのを初めから終わりまで眺めて、ただただ盛大だと思っていた。だが今日は、路地の向こうを過ぎていく花車が、妙に新鮮に見えた。外の歓声がどれほど耳をつんざいても、次に路地の向こうへ現れるのがどんな花車なのか、俺にはわからない。
しばらく眺めて、飽きた。そうなると、外の歓声まで、ただやかましいだけだった。
昼を過ぎると、騒ぎは少しずつ遠のいていった。例年なら、間もなく南の饗宴大通りから、祭りのにぎわいが聞こえてくる頃だ。だが今年は、あの連中、ほかに行くところがあるのだろうか。
そんなことを考えながら、口にパンを詰め込み、足の指を見下ろした。腫れはもう、ほとんど引いている。ひと眠りしてから窓の外を見ると、そろそろいい時間だった。俺は枕を持ち、ゆっくりと屋台へ向かった。
テーブルを一つ空け、ロワールを待たずに枕を置いて横になった。真上を見ながらぼんやりしていると、視界に、ぬっと人の上半身が入り込んだ。
「おや、店主さん。もう横になってるんですか?」
「おう。あとはお前が来るのを待つだけだ」
ロワールはすぐには治療を始めず、まず足を診てくれた。
「治りが早いですね。明日もう一度やれば、だいたいよくなりますよ。そのあとは何日か、歩くのを控えて、足の指にあまり力を入れずに過ごしてください。それですっかり治りますから」
右足が、再び温かさに包まれた。
「明日の治療が終わったら、飯でもおごるか?」
「おや、店主さん。気前がいいですね。けちじゃなくなったんですか?」
ロワールがにこにこと聞き返す。
「抜かせ。俺がいつけちだったよ?」
「去年の、あのアルパカの毛のマフラー……」
「あれは掘り出し物だ! 掘り出し物ってわかるか?」
……。
仲夏祭、二日目。
午後、最後の治療が終わった。腫れはすっかり引いている。体を起こし、足の指を何度か動かしてみた。二番目の足指は、もう自由に動く。骨が三つに折れていた親指は、まだ少し具合が悪いものの、どうにか曲げたり伸ばしたりできた。地面に下りて試してみると、指に力を入れすぎなければ、普通に歩く分にはほぼ支障がない。
「よし、行くか。何が食いたい?」
すっかり気分がよくなった。
「ポカさんの仕事が終わるのを待って、一緒に誘いませんか?」
この二日ほど、治療中にポカが鍵をかけるところを見かけていたので、ロワールも、あいつが仲夏祭だというのに残業しているのを知っていた。
「あいつを呼んでどうすんだよ。俺たちだけで行こうぜ」
「店主さん、そもそも僕を呼んでくれたのはポカさんですよ? お礼くらい言わなくていいんですか?」
それでいいんですか、とでも言いたげな顔をする。
俺があいつに礼を? 呼んだら呼んだで、一晩中あの元気いっぱいの顔をしてなきゃならねえんだろ。考えるだけで、こっちまで疲れる。呼ばねえのが、いちばんのお礼だ。
「いいんだよ。ほら、行くぞ。二人で食いに行こうぜ」
有無を言わせずロワールの肩を抱き、通りへ歩き出した。
祭りの市がなくなったぶん、いつもなら一か所に集まる人々が、あちこちの通りへ散らばっていた。祭りのにぎわいも、王都の隅々まで広がっている。
店先にはテーブルや椅子が並び、人々は杯を掲げ、遠慮もなく飲み、笑い、語り合う。ぶつかる杯から麦酒がこぼれ、石畳を濡らし、運の悪い蟻を溺れさせる。酔った男が、通りかかったきれいな若奥さんに近づいて、手を伸ばしてつねった。たちまち、連れの男と取っ組み合いになる。
向かいの店から、陽気な楽の音が流れてくる。扉が開き、杯を掲げた一団が、店の中から通りまで踊り出てきた。地面には鳩やほかの鳥が群れ、こぼれた食べ物をついばんでいる。腹をぱんぱんにした太った猫は、半分残った焼き魚のそばで、眠り込んでいた。
そんな、足の踏み場もないような通りを、俺たちは歩いていく。
こういう雰囲気も、悪くねえな。
「この先に、葡萄酒が安くてうまい酒場があるんです。香辛料を利かせたローストチキンもいけますよ。そこにしませんか?」
先を行くロワールが、人混みをかき分けながら振り返った。
「いいぞ。高くなけりゃな」
半地下にある、小さな店だった。入口へ下りる階段が道端まで延び、その先には分厚い木の扉がある。押し開けた途端、騒ぎ声と肉の焼ける匂いが、どっと押し寄せてきた。
俺とロワールは隅の空いたテーブルに座り、王国産の葡萄酒を二杯と、店自慢の香辛料を利かせたローストチキンを頼んだ。店の中は、声を張らないと互いの話が聞き取れないほど騒がしい。だが、それで料理や酒の味が落ちるわけじゃない。
さすがはグラテンの葡萄酒だ。うまい。ぱりっと焼けた鶏の皮と肉を頬張り、酒で流し込む。葡萄酒の甘酸っぱい風味が、肉汁たっぷりの鶏肉を引き立てて、ますますうまくなる。
俺とロワールは食べながら、取り留めもなく話した。去年、レオンティスと旅をしたときの話もしてくれて、俺は興味津々で聞き入った。
「それで、店主さんは結婚する気はないんですか?」
「まったくねえな。一人なら気楽で、好きにできるしよ」
「じゃあ、この先もずっと、屋台を続けるつもりですか?」
ロワールが葡萄酒を一口飲んだ。
「それでいいじゃねえか」
俺は、ひいじいさんの代から続く、四代分の屋台の話をした。ロワールも楽しそうに聞いてくれた。
「お前らだって、茶を飲む場所くらいは要るだろ?」
俺はその一言で、屋台の話を締めくくった。
夜が深まるにつれ、酒の回った客たちの声で、店はますます騒がしくなっていった。俺たちも何杯か飲み、まだ話し足りない気分でいたところへ、
「おやぁ~! ロワール様も、いらっしゃったんですかぁ!」
酔っ払いが一人、俺たちのテーブルの前に倒れ込んできた。声までふらふらと揺れ、もがくように体を起こす。
俺もロワールも、酔って絡みに来たのかと思った。だが、よく見ると悪気はないらしく、ただロワールを見て、にへらにへらと笑っている。
「店主ぅ~!」
そいつは酒場の主人を振り返って呼んだ。
「この人たちにぃ、もう何杯か、頼むよぉ。俺のおごりでぇ」
俺とロワールは慌てて断った。さすがに、もう飲めない。
「じゃ、じゃあ、お勘定は俺がぁ。断るなよぉ! 俺が払うからぁ」
有無を言わせず、そいつはふらふらと主人のところへ行き、俺たちの分まで払ってしまった。
いちばん喜んだのは俺だ。また金が浮いた。これなら、俺がけちだってことにはならねえだろ。
「また『掘り出し物』ってわけですか? ははは」
ロワールは俺の顔に浮かんだ得意げな色を見抜き、笑った。
「お前、よくこうして払ってもらうのか?」
俺も笑いながら聞いた。
「まあ、そうですね。治療した人が多くて、ときどき誰が誰だかわからなくなるんです」
俺たちは席を立ち、小さな店を出た。通りは、まだにぎわっていた。酒のせいか、それとも怪我が治りきっていないせいか、右足には少し力が入りづらい。ロワールに腕を支えてもらい、騒がしい一帯を抜け、ルル通りをルシエ広場へ向かって歩いた。
星をいっぱいに散りばめた夜空を、ふいに彗星が一つ、長い尾を引いて流れた。そのまばゆい光は、瞬く間に消えた。振り返ってみたが、あの彗星に気づいた者は、誰もいないようだった。立ち並ぶ家々には、変わらぬ明かりが灯っていた……。
仲夏祭、三日目。
ようやく店を出せるようになった。重い物を持ち上げるときは、まだ気をつける必要があるが、普段の仕事にはもう差し支えない。市が取りやめになったおかげで、昼間の売れ行きは、例年の仲夏祭より少しよかった。
ロワールは来なかった。今日こそ、ゆっくり祭りを楽しめていればいい。もう怪我人なんか出ないでくれよ。
まだ夕方には早いのに、客は少なくなっていた。ちょうどポカが、残業を終えて鍵をかけに出てきた。あいつ、またカラカ湖へ行くつもりだろうか。
道の向こうから俺を見て、自分の足を指さす。たぶん、もう治ったのかと聞いているのだろう。俺は椅子に座って暇を持て余していたので、ふと思いついて手招きした。ポカはこっちを見ると、何の警戒もせずに歩いてきて、俺の前に立った。
いきなり、俺は右足を手でつかんで持ち上げた。あいつの顔の前まで突き出し、ぶんぶん振りながら、指を曲げたり伸ばしたり、動かしまくる。
「おい、見ろよ! 治ったぞ! ほら、五本とも開ける! 親指を隣の指に重ねられるし、隣の指も親指に重ねられる! どうだ、また弾いてみろよ? ほら、やってみろって! もう治ったぞ!」
ポカは何も言わず、ぴくりとも動かなかった。俺のこの悪ふざけに、反応一つよこさない。
ちょっとやりすぎたか? いや、そんなことねえだろ。俺の足の指が折れてるとき、あいつは思いきり弾いたんだぞ。
足を下ろして、ようやくポカの顔が見えた。怒っているような、呆れているような、それでいて、どこか嫌そうな顔だった。
「臭いんだけど……」
鼻をつまんで、それだけ言った。
それから背を向け、東へ歩き出した。ルル通りの夕闇に、その姿が消えていった。
王国暦239年の仲夏祭は、こうして終わった。




