第十三章 旅の伝道師 セヴィアン
あとでレオンティスの友人たちに聞いた話では、あいつはあのダイヤモンドを売り、銀の鎧に赤みがかった金のめっきを施してもらったそうだ。薔薇色の光沢を放つようになったという。一日じゅう酒を飲み、A級勇者の肩書を振りかざして女たちと遊び歩くようになったが、依頼はもう受けず、友人たちともほとんど付き合わなくなった。
冬が過ぎると、通りの行商人や露店はほとんど姿を消した。それでも、一時は物の値段が下がったのだから、町の人たちはみんな大喜びだった。
テルソン川に春の水が流れ込むころには、何もかもが穏やかな日常に戻ったようだった。冬の騒ぎも、ある者にとっては安く買えた品を自慢する話になり、ある者にとっては胸の内に残る記憶になった。
王国暦二三九年、三月。
トラレンツが帰ってきた。
退屈そうにうちの屋台で茶を飲んでいる。木の柵の外には、ファンが大勢ひしめいていた。目の下の隈はずいぶん薄くなったが、そのせいで、かえって死んだ魚のような目の形が際立っていた。今では、あの巨大な石剣さえ持ち歩いていない。
「また、あの人たち相手に稼ぎます?」
笑いながら、小声で聞いてみた。
「もう稼がない。面白くなくなったから」
片手で頬杖をつき、気だるそうな目をルシエ教会の方へ向けている。
「もう、お金には困ってないんですか?」
からかい半分で尋ねた。
「ああ、運がよすぎてね。リンドヒルのカジノで勝ちまくった」
指先で、規則正しくテーブルを叩いている。
俺は何も返さなかった。本当に、つかみどころのない奴だ。
「店主、わかる? わざと金貨を千枚以上引きずって街を歩いても、誰も奪いに来ない感じ」
何だ、その質問……。俺には一生わからねえんじゃないか?
何ともいえない顔で笑ってみせた。
「で、そのお金、何に使ったんです?」
気になって聞いてみた。
「うーん……何だったかな……まず、ジラス川で金貨を投げて水切りして、少し使った……」
何だって?
「それから山を一つ買って、何日か一人で遊んでた。つまらなかったから、麓の農民にやった」
何だって??
「ああ、そうだ。帝国の西の沈暮海で、金貨を餌にして釣りした。それでも少し使った」
何だって???
「それから、船を一隻買って……」
「もういいです! それ以上は!」
頭がおかしくなりそうだ。普通の人間がやりそうなことが、一つもねえ。金貨で水切り? 金貨を餌にして釣り? 魔物の言葉でも聞かされてるのか?
トラレンツは、あの死んだ魚の目で俺を横目に見た。
「じゃあ、今度……俺にも……少し分けてもらえません?」
俺は、いかにも人のよさそうな笑顔を作った。
「ああ……気が向いたらね。何なら、あの船やろうか? まだイズリルの海辺に泊めてある」
「いや……遠慮しときます」
ぎこちなく笑った。そもそも、そこまで行けねえんだよ。
今回は、こいつと組んで稼ぐのは無理そうだ。おとなしく茶を売ろう。まだ洗ってないカップが山ほどある。
俺は桶の前へ戻り、カップを一つずつ洗い始めた。あのファンたちはまだ柵の外にひしめいていて、やかましいことこの上ない。トラレンツがたまに振り返ると、「きゃあ!」「きゃあ!」と声が上がった。
しばらくして、まだ黙々と洗っていると、柵の外の騒ぎが少し変わった気がした。言い争いか何かの声が混じっている。何となく顔を上げた。
女神教の服を着た聖職者が、ファンたちに何か話していた。近くの教会の神官ではない。神官服の模様と縁取りの色からすると、教廷国から来た自由伝道師だろう。
毎年、春になって万物が息を吹き返すと、女神教はそれに合わせて布教やさまざまな宗教行事を行う。自由伝道師を送り出すのも、その一つだった。各地を旅して回り、土地の教会に縛られず、その場その場で自由に布教できる連中だ。
この伝道師は若かった。まだ三十にもなっていないだろう。長い金髪が、顔の両側にきちんと垂れていた。目は小さく、鼻は高い。聖職者なら誰もが浮かべている、あの親しげな笑みを浮かべている。
今は、そのファンたちと言い争っていた。何を話しているのか気になって、俺は耳を澄ませた。
「なぜ女神を讃えず、偶像に付き従うのですか。いかなる人間も、崇拝の対象にしてはなりません。崇めるべきは、女神ただお一人です」
伝道師が言った。
「私たちが誰を好きだろうと、女神様と何の関係があるの? それに、女神様だって讃えてるわよ」
先頭にいたファンが答えた。
「女神を讃えているのなら、なぜ一人の人間をそれほどまでに崇拝するのですか」
伝道師は続ける。
「伝道師さん、余計なお世話。それに、トラレンツ様はただの憧れの人じゃないの。英雄なのよ」
「英雄ですか。この世の英雄は皆、女神の導きに従う者です。そうではありませんか。人が英雄を崇めるにしても、女神より上に置くことは許されません」
「しつこいわね。布教なら、よそでやってくれない?」
女たちは、はっきりと嫌な顔をし始めた。
「神ならぬ人間を崇めるのは、欲望の罪です。どうか私に、皆さんを女神の救いへと導かせてください」
俺が聞いていても、ますますわけのわからない話になってきた。女たちも、もう聞いていられない様子だった。
三十代くらいのファンが一人、若い伝道師の前へ進み出た。いたずらっぽく笑ってみせ、伝道師の注意を引く。
かと思うと、いきなりその目の前で、長いスカートをまくり上げた。
「な……何という、はしたないことを!」
伝道師は驚きと恥ずかしさで、慌てて目を覆った。
「伝道師さん、こういうのが欲望の罪っていうのよ」
女はスカートを下ろしてそう言うと、ほかのファンたちと一緒になって笑い転げた。
伝道師は、明らかに侮辱されたと感じたらしい。忌々しげに女たちをにらみ、それから怒りに満ちた目をトラレンツへ向けた。
当のトラレンツは、相変わらず片手で頬杖をつき、退屈そうにしていた。何が起きたのか、気にも留めていない。そもそも、今の言い争いすら耳に入っていなかったんじゃないか。
伝道師は姿勢を整えると、柵を回り込んで、まっすぐうちの屋台へ入ってきた。ぎょっとして止めようとしたが、間に合わなかった。
トラレンツの前で足を止め、座っている本人を見下ろした。
「そこの方。皆さんのお話では、あなたは英雄だそうですね」
唐突に話しかける。
「あ? あの人たちが言ってたの?」
トラレンツは、今ようやく我に返ったようだった。やっぱり、さっきまでのことは何も知らないらしい。
「では、英雄であるあなたにお聞きします。女神を信じていますか」
伝道師が尋ねた。こうやって自分の望む言葉を言わせ、外のファンたちを感化するつもりなのかもしれない。
「女神? 信じてるよ」
トラレンツは何気なく答えた。
「では、もう一つお聞きします。ご自分の力が、女神よりも強いと思いますか」
まずい。
心の中で声が出た。こいつ、トラレンツのことをまるでわかってねえ。普通の人間の常識で、こんな真面目な質問をしたって、ろくなことにならねえぞ。
「あ? 比べたことない」
ほら。早速だ……。
伝道師の顔が、さっと険しくなった。柵の外では、今の言葉を聞いたファンたちが盛大な歓声を上げ、口々にはやし立てている。伝道師は険しい顔のまま、怒りで全身を震わせていた。
「い……今、何と言いました? そのような戯言を口にするからには、ご自分の力が女神を上回るとでも?」
「わからない。機会があれば、勝負してみたいけど。そんな機会、ないだろ」
トラレンツは頬杖をついたまま、さらりと言った。
トラレンツを除く全員が、その場の空気が張り詰めているのを感じていた。この伝道師が、次の瞬間には何をしでかすかわからない。俺は本気で怖くなってきた。
「茶、飲むのか?」
前へ出て、口を挟んだ。まるでかみ合っていないこの会話を、どうにか終わらせなければ。
伝道師が振り向き、目を見開いて俺を見た。
「飲まねえなら、出てってくれ。うちの客に絡むな」
遠慮なく言った。
「あ……あなたも、女神を信じないのですか?」
伝道師の言葉がつかえる。
「俺が信じるのは金だけだ。だから、出てってくれ」
そう言って、出口へ手を差し出した。
伝道師は、魔物でも見るような目で俺を見た。それからトラレンツを見て、外のファンたちへと目を移す。
トラレンツは何を考えているのか、伝道師の方などまるで見ていなかった。
伝道師は顔を真っ赤にして拳を握り、外へ歩きながら、小声で言った。
「この国の人間は、愚かで救いようのない罪人ばかりですね」
「うちの国じゃ、人の信仰にいちいち口出ししねえんだよ」
俺も一言返した。
屋台の外まで送り出すと、伝道師は黙ってルシエ教会の方へ歩いていった。トラレンツのファンたちが、また歓声を上げた。
「店主さん、格好いい!」
そんな声まで聞こえる。
「はいはい、あんたらも帰ってくれ。あんたらのトラレンツ様は、今日はサインしねえぞ」
笑いながら帰るよう勧めると、意外にも、女たちは大して抵抗せず、素直に散っていった。
屋台へ戻った。トラレンツは、今の出来事が理解できていないらしい。
「あいつ、何だった?」
俺に聞いてきた。
「さあな。教廷の連中は、わけのわからねえことばっかり言うからな」
翌日から、トラレンツは屋台に来なくなった。またどこをうろついているのやら。
あの若い伝道師も、うちには来なかった。その代わり、ルシエ教会のそばの広場に粥を配る屋台を出し、無料で振る舞い始めた。毎朝、北区から貧しい人たちがやってきた。普通の町の人も混じっている。粥を配り終えると、受け取った人たちは広場に残り、しばらく彼の説教を聞いていた。
俺も、ときどきその様子を眺めた。粥を配るときも、説教をするときも、その顔にはずっと笑みが浮かんでいた。一見、温かみのある笑顔だった。
何だ、まともにやれるんじゃねえか。
一昨年の盗難騒ぎ以来、教会の連中にはいい印象がなかった。それでも、こうして普通に人助けをしている分には、これ以上嫌う理由もない。
そんなある日の、昼を少し過ぎたころだった。
屋台で忙しく働いていると、声をかけられた。
「店主さん?」
振り返ると、あの伝道師が屋台の外に立ち、にこにこしながら俺を見ていた。
「何か用か?」
手を止めず、そっけなく返した。
「実は、配るはずのお粥を、うっかり桶一つ分こぼしてしまいまして。炊き直したいのですが、水が少し足りないんです。きれいな水を分けていただけませんか?」
ちょうどカップを洗い終えたところだった。手を拭き、広場の粥待ちの列をちらりと見る。
「うちの茶は、前もって淹れて持ってきてるんだ。水だけで用意してる分は大してねえよ。あんたにやったら、俺は何を使うんだ?」
「……この貧しい人たちのために、何かしてあげようとは思わないのですか?」
「思わねえ」
きっぱり答え、布巾を取ってテーブルを拭き始めた。
若い伝道師は、少し黙っていた。
「では、お金を払って買うのなら?」
俺は布巾を置き、彼を見た。
「余ってるなら、喜んで売るよ。でも、余ってねえんだ。だから、力にはなれねえ」
「わかりました。もし気が向いたら、いつでもお手伝いにいらしてください。歓迎します」
そう言って、一人で広場へ戻っていった。
その日は本当に粥が足りなかったらしい。しばらくすると、広場の人たちが一斉に不満の声を上げ、それから散っていった。うちの屋台の前を通る何人かの顔には、落胆の色が見えた。
ちょっと、あいつにきつく当たりすぎたか?
そんな気がして、翌日からは毎日、予備の水を少し多めに持ってくるようになった。ただ、広場の粥は、それきり足りなくなることもなかったようだ。
何日かたった。
夕方、営業を終え、屋台を片づけようとしていると、伝道師がまたこちらへ歩いてきた。
「店主さん、もう店じまいですか?」
相変わらず、にこにこと親しげな顔をしている。
「ああ。これから片づけるところだ」
そう答えてから、少し考え、もう一言足した。
「粥を配る方は、最近どうだ?」
それを聞くと、彼はひどくうれしそうな顔をした。
「おかげさまで、順調です。女神の導きを受け入れてくださる方も、増えてきました」
彼はうれしそうに声を立てて笑った。俺は、その話には何も返さなかった。
「店主さん、片づけをお手伝いしましょうか?」
急にそう言うと、返事も待たずに屋台へ入り、荷物を片づけようとした。
「いや、いいよ。自分でやるから」
慌てて答えた。
「遠慮なさらず。運ぶのを手伝いますよ」
俺が桶を持ち上げようとするのを見ると、有無を言わさず手を貸してきた。そうして、大きな空の桶をいくつも荷車へ積むのを手伝ってくれた。
「ありがとよ。じゃあ、帰るから」
荷車を引いて出ようとすると、後ろから押す力が加わり、車が少し軽くなった。振り返れば、伝道師が後ろで押している。
「押すのも手伝いますよ」
押しながら、笑顔で言った。
何だって、こんなに親切にしてくるんだ。少しうっとうしくなった。だが、親切でやってくれているのに、怒るのもおかしいか。何も言わず、そのまま押してもらいながら黙って歩いた。
ほどなく、うちへ入る路地の前に着いた。俺は足を止め、振り返った。
「うちは、この路地を入ったとこだ。ここまででいいよ。ありがとな」
伝道師は荷車の後ろで体を起こし、俺を見てから、路地の入口へ目を向けた。
「どういたしまして、店主さん。女神のご加護がありますように」
そう言って、ルシエ広場の方へ帰っていった。
翌日。
午後、粥をもらい、説教を聞いていた人々がルシエ広場から引き揚げると、伝道師がうちの屋台へ来た。
「何か用か?」
何気なく聞いた。
「いえ、店主さん。今日はお茶を飲みに来たんです」
笑いながら言う。
「そうか。じゃあ、座ってくれ。何にする?」
腰に両手を当てて尋ねた。
「一番よく売れているものをお願いします」
空いている席を選んで腰を下ろすと、屋台のさまざまな客を、のんびり眺めている。
俺は、一番売れていない茶を木のひしゃくですくい、カップに注いで渡した。彼は背筋を伸ばして座り、カップを持ち上げ、そっと一口飲んだ。
「ええ、おいしいですね」
カップを置き、俺を見る。
「店主さん。こんなお茶を作れるのも、女神の恵みだと考えたことはありませんか?」
また始まった。口を開けば女神の話だ。
「考えたことねえな。女神とも関係ねえし」
俺は背を向け、ほかの仕事に取りかかろうとした。
「関係がないはずはありません。テタラントは大地の女神です。お茶に使う材料も、女神からの賜物ではありませんか?」
まだ何か言っている。
俺は小さく笑い、もう一度向き直った。金色の髪と、親しげに見えるその笑顔を見る。
「伝道師、名前は?」
「教名はセヴィアンです」
俺は身をかがめ、片手をテーブルにつき、もう片方を腰に当てた。一言ずつ、はっきり言ってやる。
「セヴィアン、覚えといてくれ。俺の茶は、うちに代々伝わる作り方で作ってる。材料は、買ったものもあれば、自分で摘んできたものもある。土から生えてくるものは、あんたの女神がくれたんだって言うなら、その考えは尊重するし、否定もしねえ。で、ほかの話がしたいなら、付き合うよ。でも、まだ布教を続けたいなら、うちの屋台ではやらないでくれ」
そこで一度言葉を切り、もう一つ付け足した。
「この茶は銅貨十三枚だ。先に払ってくれ。二杯目は頼まねえだろうからな」
セヴィアンの表情は変わらなかった。ただ、目尻がかすかに何度かぴくついた。それから銅貨を取り出し、俺の手に渡した。
俺は背を向け、それきり相手にしなかった。
その後も何日かの間に、荷車を押そうか、荷物を運ぼうかと、何度か向こうから言ってきた。そのたびに、俺はやんわり断った。どうにも、こういう理由のわからない「親切」にはなじめない。
茶を飲みにも二度来た。茶はいつも通り売ったが、それ以上の話はしなかった。
やがて、少しずつ来なくなった。俺はかえって気が楽になった。あの終わりのない宗教の話に付き合わずに済む。
ところが、いつのころからか、屋台で働いていると、焼けつくような視線を感じるようになった。
ときどき辺りを見回し、誰が見ているのか探したが、見つからない。視線を感じたとき、粥をもらったり説教を聞いたりしている、ルシエ広場の人々に目を向けたこともあった。だが、セヴィアンは笑顔で粥をよそっているか、真剣に教えを説いているかのどちらかで、俺のことなど気にしていないようだった。
気のせいか?
次第に、あまり考えないようにした。
ところが、ある日を境に、事態は思いもよらない方へ動き始めた。
その日の夕方、俺は荷車を引き、ルル門にかかる夕日に向かって家路をたどっていた。
不意に、またあの視線を背中に感じた。
ずっと、ついてくる。
思わず身震いした。その感覚が強まっていくのに耐えかねて、俺はぴたりと足を止め、勢いよく振り返った。辺りを念入りに見回す。怪しい奴は誰もいない。
だが、また荷車を引いて歩き始めると、視線が戻ってきた。背中に、まっすぐ突き刺さっている。
家のある路地へ曲がって、ようやくその感覚は薄れていった。
家へ入るなり扉に鍵をかけ、二階の寝室へ駆け上がった。窓から、そっと路地の入口をうかがう。木の葉が何枚か風に流され、家路を急ぐ人が何人か通り過ぎた。それだけだった。
気にしすぎか?
息をつき、階下へ戻った。鍋に野菜と干し肉を入れ、夕飯の支度をした。夕風に扉がきしみ、かまどの下では薪がぱちぱちと音を立てて燃えていた。
スープが煮え、パンを浸して食べていると、視界の端で何かが動いた。
扉の下の隙間に、外から差し込んだ影が、さっとよぎった。
俺は飛び上がった。口の中のパンも飲み込まないまま、まな板の上の包丁をつかみ、慎重に扉へ近づいた。
そっと閂を外し、ほんの少しだけ扉を開けて、外をのぞいた。
ただの通行人が、路地の奥へ歩いていくところだった。
その夜は、ろくに眠れなかった。夜中に誰かが窓から這い込んでくる気がして、服も脱がず、包丁を枕元の木の棚に置いた。風の音で二度、目が覚めた。そのたびに何もないことを確かめてから、ようやく浅い眠りに戻った。
朝早く、ぼんやりと目を覚ました。頭も体もひどく重い。茶の桶を荷車に積むだけでも、ずいぶん骨が折れた。
その日は一日じゅう頭にもやがかかったようで、何をするにも一拍遅れた。様子がおかしいと気づいた勇者に、具合でも悪いのかと聞かれたが、よく眠れなかっただけだと答えておいた。
夕方、どうにか屋台を片づけ、荷車を引いて帰る途中で、またあの感覚が戻ってきた。
今度は、振り返る勇気がなかった。俺は力いっぱい荷車を引き、小走りで家まで帰った。
家へ入り、扉に鍵をかけた。荒い息をつきながら二階の寝室へ上がり、窓から下を見た。やはり、何もおかしなものはない。
しばらく寝台に横になっていると、ようやく動悸が静まってきた。
飯を作る気にはなれず、干し肉を出し、水で流し込んだ。食べ終えると、かまどの前で火に当たりながら、目を閉じて少し休んだ。
どれくらい眠ったのか。ぼんやり目を開けて、明日の茶の材料をまだ用意していないことを思い出した。
どうにか立ち上がり、物置から花や草を持ってきた。まな板に載せ、包丁で刻んだ。
蝋燭の炎はまっすぐに立ち、かまどの片側を照らしていた。扉がまた、風に吹かれて、ぎい、ぎいときしんでいる……。
……。
でも、今日は風なんか吹いてねえぞ。
一気に目が覚めた。包丁を握る手に、思わず力が入った。
「誰だ!」
怒鳴り、包丁を握ったまま扉へ駆け寄った。その脇の壁にぴたりと身を寄せ、包丁を構えた。
「誰だって聞いてんだ!」
もう一度叫んだ。返事はなかった。
俺は勇気を振り絞り、勢いよく閂を上げ、扉を押し開けた。
路地は、静まり返っていた。
月は、もう空の真上にあった。青白い月明かりが降り注ぎ、包丁を手に戸口で震えている俺だけを照らしていた。
その夜は、ますます眠れなかった。大きな桶を扉に押し当て、板と釘を探し出して、窓を全部ふさいだ。そこまでして、ようやく冷や汗に濡れたまま、うとうとと眠りについた。
翌朝、荷車を引いて家を出ると、外の壁に、うっすらと手の跡がついていた。
壁の前に立ち、手の位置を確かめてみた。
間違いない。誰かが、この壁に身を寄せて立っていた跡だった。
昼ごろには、よく晴れていた。とうとう眠気に耐えられなくなり、常連たちに一声かけてから、空いているテーブルに突っ伏して少し眠った。目を開けると、日はもう少し西へ傾いていた。
駄目だ。何とかしねえと。このままじゃ、頭がおかしくなる。
ろくに働かない頭を必死に動かし、使えそうな手をあれこれ考えた。
ふと、思いついた。
あいつ、今日は来てるか?
勢いよく振り返って見回すと、いた。屋台の隅で、あの刺客が腰掛けに座り、片脚を上げて、のんびり茶を飲んでいる。俺が見つけたときには、向こうも気だるそうな目でこちらを見ていた。
「いつからいた?」
「え? とっくに来てたよ。もうずっと座ってるけど」
刺客は俺を見た。
力の入らない脚を踏ん張って立ち上がり、そいつのそばへ寄った。声を落とす。
「ちょっと、手を貸してくれ」
刺客の目に、興奮の色が一瞬浮かんだ。向こうも声を落とした。
「誰を殺す?」
「違うわ! 誰が人を殺せって言った? 誰が人を殺せって言ったんだよ!」
腹が立って、奥歯をぎりぎりとかみしめた。
「何だ。じゃあ、何の用?」
もう興味もなさそうな声に戻っている。
俺は、この二日間にあったことを全部話した。その上で、頼みを口にした。
「今夜、誰が俺のあとをつけてるのか、調べてくれねえか? ついでに、俺を守ってくれ」
「それだけ?」
そんなことに俺を使うのか、とでも言いたげな目だった。
「それだけだよ。もう、おかしくなりそうなんだ。このままじゃ商売もできねえ」
「で、報酬は?」
刺客はカップを持ち、茶を少しすすった。
「茶を十杯、ただで飲ませてやる!」
ひどく嫌そうな目で俺を見た。何も言わない。その顔と沈黙だけで、断られたのがわかった。
「銀貨一枚! 銀貨一枚もつける! これ以上は無理だ。お前だって、ここで茶が飲めなくなったら困るだろ?」
半分は交渉、半分はお願いのつもりで、金額を上乗せした。
「仕方ないな。はあ……今回だけだよ。でも、人には言わないでくれよ。この先やりにくくなるからさ」
渋々ながら、引き受けてくれた。
「それで、何か段取りとか、あるのか?」
こういうことは、まるでわからない。おそるおそる尋ねた。
「別に。店主は今夜も、いつも通りにしてればいいよ。何も心配しなくていい」
「そうか。そうか」
それを聞いて、ほっとした。
夕方、屋台を片づけ、荷車を引いて家へ帰った。案の定、あの視線が戻ってきた。だが、今度は守ってくれる奴がいる。それがわかっているだけで、ずいぶん気が楽だった。
家へ帰り、飯を食い、仕込みをした。桶で扉を押さえることもせず、窓の板も外した。寝床に入るまで、何も変わったことは起きなかった。
ところが、うとうとし始めて間もなく、階下の玄関から、妙な音が聞こえてきた。
誰かが両手の爪を立てて、扉を力いっぱい引っかいているような音だった……。
俺はがばっと起き上がった。窓をほんの少し開け、隙間から外を見る。
月明かりの中、全身黒ずくめで、黒いフードをかぶった奴が、うちの戸口に立っていた。両手で、何度も、何度も、扉を引っかいている。
俺は枕元の火の消えた蝋燭をつかみ、窓からそいつめがけて、思いきり投げつけた。
「失せろ!」
そいつはびくっとして、両手で黒いフードを押さえ、すさまじい勢いで逃げていった。最後まで顔は見えなかった。
あの刺客の野郎! 守ってくれるって話だったろうが!
怖いし、腹も立つ。結局、寝台の枕元にもたれかかり、座ったままうとうとした……。
空が白み始めた。その晩は、あれ以上何も起きなかった。
顔を洗い、どうにか頭をしゃんとさせた。荷車を引いて外へ出ると、木の扉の外側に、薄い引っかき傷が何本か残っていた。
昼ごろ、刺客が来た。
何か言われる前に、屋台の隅へ引っ張っていき、小声で問い詰めた。
「俺を守れって言っただろ。昨夜、どこにいたんだよ?」
「ああ、あとをつけてた奴、武器も持ってないし、殺気もまるでなかったからさ。危害は加えないだろうと思って、帰ったよ」
何でもないことのように言った。
「……そいつが誰だかは、わかったのか?」
刺客は、ルシエ広場の方を顎で示した。
「あそこで粥を配ってる伝道師。あの金髪の奴だよ。間抜けな奴だった」
俺は目を見開いた。
広場で笑顔を浮かべ、貧しい人たちに粥をよそっているあいつを、じっと見つめた。何で俺にこんなことをするんだ。まるでわからなかった。
「さっき、ちょっと調べてきたんだけど。あいつの黒いフード、ルシエ教会にあるあいつの部屋の箱に入ってたよ。これはおまけ。追加の金はいらないから」
刺客はにこにこしながら、いつもの席に座った。
「そろそろ茶、淹れてくれる? 店主」
二時間後、俺は治安兵団を連れて、ルシエ広場へ戻ってきた。
セヴィアンは広場で説教をしていた。その前には、粥の椀を持った人たちが何列かに並んで座っていた。
俺は構わず歩み寄り、あいつの顔に思いきり拳を叩き込んだ。
不意を突かれたセヴィアンは、地面に倒れた。説教を聞いていた人たちが、どよめきながら立ち上がり、俺を見た。
周りの目など、どうでもよかった。もう一発殴ろうと飛びかかったところで、後ろから治安兵団の兵士に腕をつかまれた。それ以上はやめろ、と制された。
「セヴィアン! 何で毎日俺のあとをつけて、嫌がらせまでしやがる!」
怒りが収まらなかった。
「店主さん。女神が見ておられます。暴力は罪ですよ」
腫れた顔を押さえ、いかにもひどい目に遭わされたという顔をしている。まだごまかすつもりだ。
「こいつが夜にかぶってたフードは、教会にある。こいつの部屋の箱の中だ」
俺は治安兵団に伝えた。
ようやくセヴィアンは、被害者ぶった顔をやめた。少し驚いたようだったが、それ以上に、その顔には憎しみがにじんでいた。
小隊長が手で合図すると、兵士が二人、教会へ入っていった。ほどなく、黒いフードと丈の長い黒服を持って戻ってきた。
「まだ何か言うことはあるか?」
俺は黒いフードを指さし、問い詰めた。
セヴィアンは、しばらく黙っていた。それから、また微笑んだ。
殴られて赤く腫れた顔に、その笑みはひどく不釣り合いだった。伝説に出てくる、人間に似た醜い化け物のように見えた。
そして、一言だけ言った。
「異教徒に、女神の安らぎを授かる資格など、永遠にありません」
それきり、何も言わなかった。
治安兵団が連れていった。
だが結局、俺に実害を与えてはいないということで、治安兵団も身柄を拘束し続けることはできなかった。しかも、教廷の人間でもある。最終的には、王都の西地区へ立ち入ることを禁じられただけだった。
これで終わったのだと、俺は思っていた。
ひと月ほどたった、安息日のことだった。
その日は、ブル中央市場をぶらつくつもりで出かけた。デューク通りを抜け、内城の南門へ回った。饗宴大通りに出る手前で、門外の小さな広場に、大勢の人が集まっているのが遠くから見えた。
その真ん中に、高々と絞首台が組まれていた。縄の先には、すでに処刑された男の死体が一体、ぶら下がっていた。
広場を避け、そのまま饗宴大通りへ出るつもりだった。
だが、吊られた死体の顔が見えた途端、思わず足が止まった。
群衆が叫んでいた。死体に卵や石を投げつける者もいれば、宗教的な掛け声を繰り返す一団もいた。さまざまな声が入り乱れる中、治安兵団の兵士たちが一列に並び、人垣となって群衆を押しとどめていた。
人だかりの一番奥で、王宮の衛兵が掲示板に何かを貼っている。貼り終えるのを待って、俺は群衆の後ろへ歩み寄り、足を止めて読んだ。
告示
伝道師セヴィアンを、殺人の罪により絞首刑に処した。
同人を庇おうとしたオストランド教区の主教を、すでに国外追放に処した。
今後、王都の主教は国王が任命する。
俺は人だかりを離れ、尿を漏らした若い男の死体を、もう一度見た。それから向き直り、饗宴大通りへ出た。
車馬の流れ絶えず、繁華は
変わらずそこにあった。




