第24話 越境
境界穴の前に、透明なケースが置かれていた。
中には、一匹のマウスがいる。
「生命反応、正常」
「心拍、安定しています」
「境界周辺の数値も安定」
モニターを確認する隊員たちの表情は硬い。
先日の探査機による実験では、境界穴を通過して向こう側へ到達し、こちら側へ戻ってくることにも成功していた。
しかし、探査機は機械だ。
生物が同じように通過できるとは限らない。
その確認のため、マウスを使った実験が行われる。
「開始します」
ケースがゆっくりと境界穴へ近づいていく。
マウスがケースの中を走り回る。
ケースの先端が境界面に触れた。
一瞬、境界が水面のように揺らぐ。
そして――
ケースの前半分が、境界の向こう側へ消えた。
「通過開始」
モニターの映像が切り替わる。
そこには、見知らぬ森が広がっていた。
木々。
草。
土。
探査機が記録したものと同じ、未知の世界。
ケースがゆっくりと押し込まれていく。
やがて、完全に向こう側へ入った。
「マウス、確認できます」
「生命反応は?」
「正常です」
画面の中で、マウスが動いている。
「一分経過」
異常なし。
「二分」
異常なし。
「三分」
異常なし。
「帰還させます」
ケースがゆっくりと引かれていく。
境界面を抜ける。
こちら側へ戻った。
「帰還成功」
ケースが開けられる。
マウスはしばらく周囲を警戒するように動いた。
やがて、置かれていた餌へ近づいていく。
「外傷なし」
「呼吸、正常」
「血液データも問題ありません」
「生命反応も正常」
室内に、安堵の空気が広がった。
生物でも境界を越えられる。
そして、戻ってこられる。
「次の段階へ進む」
責任者が告げた。
マウスの次は、人間だった。
*
境界穴の前に、一人の隊員が立っていた。
今回の実験に参加するのは、隊員番号127。
人間による越境実験に、自ら志願した隊員だった。
「通信、正常」
「生命維持装置、正常」
「センサー類、正常」
「生命反応、正常」
最終確認が終わる。
今回の目的は探索ではない。
向こう側に存在する知的生命体との接触。
先日の探査機が捉えた、人型の存在。
それが何者なのかを確認する。
「開始します」
隊員が境界穴へ向かう。
一歩。
右足を境界へ入れる。
足先が消えた。
モニターに向こう側の景色が映る。
「通過を確認」
通信機から声が入る。
『聞こえます』
「向こう側の状況を」
『森です』
『地面も確認できます』
順調だった。
探査機も通った。
マウスも通った。
人間も通過できる。
そう思った瞬間だった。
隊員の足が、向こう側の地面に触れた。
警告音が鳴り響く。
「異常値!」
「境界エネルギー、急上昇!」
モニターの数値が一気に跳ね上がる。
「何が起きてる!?」
「境界が不安定化しています!」
通信機から声が響く。
『……何だ、これ』
「戻れ!」
『分かってる!』
隊員が足を引く。
しかし――
『動かない!』
「どうした!?」
『足が抜けない!』
境界面が激しく揺れる。
「引け!」
近くにいた隊員たちが身体を掴む。
「もっと引け!」
「駄目です!」
全員で力を込める。
隊員も必死にこちらへ手を伸ばす。
『離すな!』
「離さない!」
だが、戻らない。
むしろ、身体が少しずつ境界へ引き込まれていく。
『何なんだ、これ……!』
声が震える。
「もう少しだ!」
一瞬、身体の動きが止まった。
引き戻せる。
そう思った瞬間――
境界が大きく歪んだ。
「まずい!」
隊員の身体が一気に引き込まれる。
『うわああああっ!』
伸ばされた手が離れる。
隊員の姿が境界の中へ消えた。
通信が途切れる。
「……」
誰も動かなかった。
境界穴が激しく揺れている。
そして数秒後。
境界穴そのものが消えた。
あとには、何も残っていない。
「生命反応を確認!」
計測担当がモニターへ目を走らせる。
数秒。
「……ありません」
「再確認」
「……ありません」
モニターに表示された生命反応の波形は、完全に消えていた。
*
実験後。
モニターには、これまでの実験データが並べられていた。
探査機。
マウス。
人間。
探査機の通過時には、大きな変化はない。
マウスの通過時にも、大きな変化はない。
しかし、人間が向こう側の地面に触れた瞬間。
境界の数値だけが、異常な上昇を見せていた。
「人間だけ、明らかに違う」
「はい」
「生物が持つエネルギーが、境界に影響した可能性があります」
「まだ仮説だ」
「分かっています」
原因は分からない。
なぜ人間だけが境界を不安定化させたのか。
なぜ境界は隊員を飲み込んだのか。
まだ何も分かっていない。
ただ一つ。
現在の自然発生した境界穴では、人間を安全に通すことはできない。
責任者が、消えた境界穴の記録を見つめる。
「同じことを繰り返すわけにはいかない」
誰も答えなかった。
「なら、条件そのものを変える」
責任者が言った。
「人間が通れる境界を作る」
そして――
「人間が通っても、閉じない境界を」
それが、特災隊の次の目標となった。




