第2話 遭遇
それから一週間。
俺は、自分の体に起きた変化を誰にも話していなかった。
力が強くなった。
走るのも速くなった。
以前なら疲れていた仕事も、今ではほとんど疲れない。
病院に行こうかとも思ったが、見た目には何も変わっていない。
体調も悪くない。それどころか、以前より調子がいい。
だから、とりあえず黙っていることにした。
ただ、一つだけ困ったことがある。
「腹減った……」
最近、やたらと腹が減る。
朝飯を食べても昼前には腹が減る。昼飯を食べても夕方にはまた腹が減る。
食費が少し増えた。
「さすがに食いすぎだろ」
仕事帰り、コンビニで弁当を二つ買う。
家に帰って二つとも食べた。
それでも、まだ少し物足りない。
「……おかしいな」
冷蔵庫を開ける。
中にあった鶏肉を取り出して焼く。
それを食べ終えたところで、ようやく満足した。
最近はこんなことばかりだ。
翌日も仕事は普通に終わった。
会社を出て駅へ向かっていると、スマホが鳴った。
『緊急速報』
「ん?」
画面を見る。
『○○市内で大型動物による被害。周辺住民に注意を呼びかけています』
「大型動物?」
ニュースを開く。
道路を走る何かが映っていた。
映像がかなり遠く、姿はよく見えない。
ただ、犬や鹿のような普通の動物とは明らかに違っていた。
『警察によりますと、現場では車両数台が破壊されており――』
俺は画面を見ながら歩いていた。
その時、前から走ってきた男とぶつかりそうになった。
「危ない!」
「すみません!」
男はそのまま走っていった。
俺は振り返った。
何かから逃げているようにも見えた。
「……?」
その直後、駅の向こう側から大きな音が響いた。
ドンッ。
周囲の人たちが一斉に振り返る。
もう一度、音がした。
今度は近い。
駅前にいた人たちがざわつき始めた。
「何?」
「事故?」
「消防車来てるぞ」
俺も人の流れに合わせて駅前へ向かった。
道路の先に、何台かのパトカーが見える。
その向こうには、倒れたガードレール。
そして、道路の中央に大きな爪痕が残っていた。
「……何だよ、これ」
俺は足を止めた。
爪痕は、俺の手のひらよりずっと大きかった。
その日の夜から、ニュースは同じ話題を繰り返していた。
『○○市で発生した大型動物による被害について、警察は引き続き捜索を――』
テレビには、壊れた車やガードレールが映っている。
動物の姿は、はっきりとは映っていない。
SNSを見ても、目撃情報ばかりだった。
『犬みたいだった』
『熊じゃないか?』
『熊にしてはデカすぎる』
『角があったって話もあるぞ』
「結局、何なんだよ……」
俺はスマホを置いた。
翌日。
仕事を終えて会社を出る。
駅へ向かって歩いていると、スマホが鳴った。
『○○地区で野生動物による被害が確認されています。付近を通行する方は十分注意してください』
「またかよ」
昨日とは別の場所らしい。
俺は少し遠回りして帰ることにした。
人通りの少ない道を歩いていると、路地の奥から何かが飛び出してきた。
「……え?」
黒い影が道路を横切る。
四本の足。
大きな体。
そして、異様に長い爪。
影が止まり、ゆっくりと振り返った。
街灯に照らされた姿を見て、俺は言葉を失った。
犬に似ている。
でも、犬じゃない。
体長は二メートル近い。
全身を黒い毛が覆い、口からは鋭い牙が覗いている。
目が合った。
獣が低く唸る。
「……マジかよ」
一歩、後ろへ下がる。
獣も一歩前へ出る。
次の瞬間、地面を蹴った。
「っ!」
目の前まで一瞬だった。
俺は反射的に腕を上げた。
ガンッ!
鋭い爪が腕に当たる。
「ぐっ……!」
衝撃で体が後ろへ飛び、背中から地面に叩きつけられた。
普通なら、立ち上がることもできないような衝撃だった。
でも――
「……痛くない?」
俺はゆっくり起き上がった。
腕を見る。
服は破れている。
皮膚には浅い傷があるだけだった。
「嘘だろ……」
獣が再び唸る。
俺は立ち上がった。
怖い。
それでも、なぜか逃げられる気がしなかった。
獣が飛びかかってくる。
今度は、動きが見えた。
「右……!」
体を横へずらす。
爪が目の前を通り過ぎた。
そのまま獣の横を抜ける。
「速い……」
自分の動きに驚く。
獣が振り返る。
すぐに向かってくる。
俺も地面を蹴った。
距離が一気に縮まる。
獣の頭が目の前まで来た。
「うおっ!」
反射的に拳を振り抜く。
ドンッ!
拳が獣の顔面に入った。
獣の巨体が横へ吹き飛び、道路に転がる。
「……え?」
俺自身が一番驚いていた。
今の一発で、あれだけの巨体が飛んだ。
獣が起き上がる。
まだ動ける。
唸り声を上げ、再び突っ込んでくる。
「来るな!」
俺は両手を前に出した。
獣の頭を正面から受け止める。
「ぐっ……!」
凄まじい力だった。
足が地面を滑る。
それでも、押し負けない。
「こいつ……こんなに重いのかよ!」
俺は歯を食いしばった。
そして、両腕に力を込める。
「うああっ!」
獣の体を持ち上げる。
そのまま地面へ叩きつけた。
ドンッ!
地面が震える。
獣は動かなくなった。
「……」
俺はその場に立ち尽くした。
荒い息を吐きながら、倒れた獣を見る。
「……俺が、倒した?」
信じられなかった。
さっきまで、こいつに殺されると思っていた。
それなのに。
俺の方が強かった。
しばらくして、獣が小さく動いた。
「まだ……!」
俺は身構える。
だが、獣は起き上がらなかった。
完全に動かなくなっていた。
俺はゆっくりと拳を下ろした。
「……何なんだよ、これ」
静まり返った路地に、俺の声だけが響いた。




