第三十七話 芳川邸 ー下ー
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(千歳……?)
そこにいるはずの千歳の姿が見当たらない。
“客として招かれているのはゆの様だけにございます。私は離れたところにおりますが、ちゃんと見守っていますのでご安心ください”
そう言ってくれてたのに……。
「千歳……?」
思わず立ち上がって辺りを見回す。
それに気づいたお付きの人が駆け寄ってくる。
「いかがされました?」
「千歳がいないんです。さっきまでそこにいたのに」
指さした方をお付きの人が見つめる。
「ああ、そこにいらした女性でしたら、お手洗いへと行かれましたよ」
「なんだ……良かった……」
全身から力が抜ける。
「……あ」
気付くと芳川様と都様が、揃って私を凝視している。
「す、すみません。失礼いたしました」
「いや……それにしても、ゆの殿のそちらの着物、とても素晴らしい。良い生地を使っていらっしゃる」
芳川様の言葉で立ち上がっていた事に気付き、慌てて着席する。
「ありがとうございます。こちら九頭見様にいただいたもので」
その瞬間――明らかにその場の空気が一変する。
(言っちゃいけないことだったっけ……って、そういえば都様と九頭見様って……!)
“都様ご存じですよね? 芳川様のご令嬢の”
“はい”
“都様は、九頭見様の婚約者候補の中で最有力と言われていらっしゃいます”
(ど、どうしよう……緊張で完全にふっとんでた!!)
でも、今さら“冗談です“なんて言うのもおかしい。
なんて取り繕えば――。
縋るように振り向いても、まだ千歳の姿はない。
(どうしよう……)
「父上、ゆの様と二人きりにしていただけないかしら?」
(え……?)
「……あ、ああ」
娘の唐突な言葉に戸惑いの表情を浮かべながら、芳川は席を後にした。
◇ ◇ ◇
「……」
「……」
都様との間に沈黙が流れる。
(怒ってる……よね……)
でも、謝るのもおかしい。
どう言葉を切り出せばいいのか分からない。
「――ゆの様」
「はい」
(何を、言われる……?)
「今度、私にお菓子作りを教えていただけないかしら?」
「えっ!?」
あまりにも思いがけない一言。
「こんなに素敵なお菓子、自分でも作れたらと思って」
(急にどうして……?)
でも、目の前の都様はにっこりと微笑んでいる。
「窯がないとできません」
「窯……?」
都様はお嬢様育ちだ。
おそらく自分で料理などされたことはないだろう。
「この菓子を焼くためのものです。職人に作ってもらった特別なもので、移動させられません」
「……でしたら、私、そちらにお邪魔してもよろしいですか?」
「えっ!?」
「駄目かしら……?」
(お嬢様が……本気……?)
「いえ、駄目などでは……」
「では決まりですね」
そう言って都様は私の両手を握りしめる。
「九頭見様には父から話を通します。よろしくお願いしますね!」
「は、はい……」
***
「……ゆの様、本当にお疲れ様でした」
あの後戻ってきた千歳が、帰りの駕籠の中で労ってくれる。
「申し訳ございません。お手洗いに行ったのですが屋敷が広すぎて迷ってしまい――」
「ううううん」
首を振った後、都様とのさっきの会話を思い出す。
“今度、私にお菓子作りを教えていただけないかしら?”
“えっ……?”
“こんなに素敵なお菓子、自分でも作れたらと思って”
「……都様って、ちょっと意外だったな」
「意外、でございますか?」
「うん……もっと近寄りがたい方かと思ってた」
「人は見た目だけでは分かりませんから」
「確かに。あれだけ美しいとちょっと気後れしちゃうよね」
明るく笑う私の声に、千歳が呟くように言い放つ。
「……ゆの様はお強い方ですね」
「え?」
「いえ――」
***
ギィー。
治安司長室の隅に置かれた鍵付きの棚を開く。
中から白い布に包まれたものを取り出すと、ゆっくりとその布を外す。
露わになったのは、あの日湯呑から渡された一枚の皿。
“各務様、お話したいことがあります”
“改まってどうした?“
“……こちらご覧いただけますか?”
“これは……?”
“料理方からもらった皿です。触れてみてください”
あの日から、止むことのない疑念が渦巻いている。
裏印を指でゆっくりとなぞる。
(どうしてこのようなものを父上と母上が……)
日々焼成に明け暮れていた父。
黙々と仕上げを担当していた母。
利益よりも、誰かに喜んでもらうことを遥かに大切にしてきた両親。
時に窯から爆ぜる音がしたこともあった。
それでも特殊な釉薬を編み出し、唯一無二の陶器を作り出した。
その額に滲む汗も、寸分の違いも許さぬ指先も、間違いなく職人そのものだった。
(なのに、なぜ……?)
この皿を床に叩き落として割りたい程の衝動に駆られる。
しかし、これは唯一の両親に繋がる手掛かり――。
(必ずや両親を……)
静かに誓う各務の横顔を、夜の帳が包んでいった。




