第十一話 情と理
夜も更けた頃、治安司長室では紙をめくる音だけが静かに響いていた。
各務は机上に積まれた書類に目を通していた。
必要な指示を脇に書き添えていく。
「……」
ふと、各務の手が止まった。
その脳裏を過ったのは、さっきまで一緒にいた湯呑のことだった。
最初の――あの、あまりにも現実離れした出会い。
実家に連れて行った時に見せた隠しきれない動揺。
両親が作った陶器を愛おしそうに見つめていた横顔。
そして……菓子を作る時に見せた、別人のように研ぎ澄まされた眼差し――。
“湯呑は……パティシエと言ったな”
“はい”
“どういう仕事をしていたんだ?”
“朝から晩までケーキを作っていました。最近はメニュー開発……新しいケーキの考案もしていました”
“……大変ではなかったのか?”
“大変でした。でも好きなことなので、やめたいと思ったことは一度もありませんでした。作る過程も好きでしたし、出来上がったケーキは子供のように可愛いし、お客さんが美味しいって言ってくれると、また頑張ろうって思えるんです”
迷いなく言い切ったあの時の笑顔。
気付けば口走っていた。
“似ているな”と――。
だからあの時――身体を心配してくれたあの時、容易に想像できた。
湯呑が何を考えているのかも。
きっと泣いているだろうことも。
(俺は――)
その時、不意に司長室の扉が叩かれた。
「……ご多忙のところ大変恐縮ではございますが、各務司長、少々宜しいでしょうか」
慇懃無礼な声の主に、一瞬身構える。
「……ああ」
現れたのはやはり、藪内だった。
「各務司長、こちらの確認をお願いいたします」
「……これは?」
「例の西町の件でございます」
報告書を受け取り、一通り目を通す。
「関係者の意見はまだ全部集まっていないだろう」
「はい。しかし、いつまで待ったところで全員の意見がまとまるはずはありません。全てを拾い上げていては効率を損なうかと」
「期日は延ばしたはずだ」
各務の言葉に、藪内がわざとらしく溜め息を漏らす。
「……相変わらず、随分と各務司長は現場に肩入れなさる」
柔らかな物言いのまま、言葉だけが僅かに鋭さを帯びる。
「民の声に耳を傾けること自体は否定いたしません。ですが――」
そう言いながら、藪内が一歩机に歩み寄る。
「それを全て汲み取ろうとすれば、組織は前に進みません。上に立つ者には、取捨が必要かと」
室内に短い沈黙が落ちた後、各務は藪内を真っ直ぐに見つめる。
「……必要なことは、見極めているつもりだ」
「ええ、もちろん。各務司長のご判断を疑うつもりは毛頭ございません。ただ――」
一見恭しさを保っているものの、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。
「私などが申し上げるのは差し出がましいですが、あまりに寄り添い過ぎておられるようにお見受けいたします。情に引かれた判断は、いずれ綻びを生むこともあるかと」
畳みかけるような藪内の言葉に、各務は肯定も否定もせずこう告げた。
「――私は情で動いているわけではない」
短くそれだけを言い、筆を取る。
まるで、それ以上は語らないという意思表示のように――。
藪内は数瞬、各務を見つめた後、静かに頭を下げた。
「……失礼いたします」
扉が閉まると、再び静寂が戻った。
「……」
各務は筆を動かしながら、藪内の言葉を反芻する。
“あまりに寄り添い過ぎておられるようにお見受けいたします”
“情に引かれた判断は、いずれ綻びを生むこともあるかと”
(……情などで動いてはいない。少なくとも――)
***
(……ふぁぁぁ、よく寝た)
東の空はすっかり明るんでいる。
昨夜は温泉のせいか、帰宅してすぐ爆睡してしまった。
(各務様、疲れてないかな……)
あの後、私を送り届けてすぐに仕事に向かった。
身体が本当に心配だ。
(仕事が終わったら焼成に来るって言ってたよね。朝ご飯作って待っていよう)
立ち上がって縁側へ出ると、コッコが元気に庭を駆け回っていた。
「……何か、もうここにいることに慣れちゃったね」
そう声をかけながら、水を替え、餌を足す。
「……あっ!」
藁を取り換えようとして、隙間から白いものを見つける。
そこにはまた生みたての卵――。
(コッコ、ありがとう!)
卵を両手にのせて台所に向かおうと思ったちょうどその時、戸が開いた。
「か、各務様!」
***
各務様にお茶を差し出す。
「早かったですね」
「ああ、予定より早く仕事が片付いたからな」
とは言え、幾分顔が疲れているようにも見える。
「少しお休みになりますか?」
「いや、先に焼成する」
お茶を飲み干すと、各務様が立ち上がった。
「私にも何かできることはありますか?」
「……ならば、朝食を作ってくれるか?」
「はい!」
***
離れに入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
「……」
使わなくなってもう三年も経つのに、不思議なことに未だに両親の息遣いを感じる。
昨日作った二つの壺が乾いているのを確認し、窯の前へ運ぶ。
手を入れたばかりの炉内は整えられ、三年ぶりの火入れを待ち侘びていた。
火打石を打ち、火口に落とす。
ふっと息を吹きかけると、かすかな赤が灯る。
小さな赤はやがて細い煙を上げ、火へと姿を変える。
「……」
(案外、覚えているものだな……)
薪へと移した途端、窯の中に炎がゆっくりと広がっていく。
各務は、かつて何度も目にしてきた光景に目を細めた。
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