99. もう泳げない。姉あざらしを越えてゆけ
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『るるちゃん! るるちゃん、るるちゃんっ。あああ、どうしよう……』
ポトリーグの小舟にぴったりと寄り添い、苦しそうに息を継ぐ姉の脇で、うず雄はうろたえる。
蛇の王の仕掛けた罠を打ち破り、その沈む巨体の作り出した渦をどうにか逃れて、湾の外へ脱出できた一行だった。
しかし無傷では、済まなかったのである。
海の底へ逃げのびる蛇の王が、去り際に放った尾の一撃。
巨大な鞭のようなしなりは、風を切ってポトリーグと小舟を打ちかけた。
その時、舟の横腹を力まかせに押し出し、姉あざらしは全力で沖をへ泳ぐよう弟に叫んだ――。同時に蛇の王の尾が、るる波の右の後脚をもぎ取ってしまったのだ。
水の中から背で小舟を押し、弟とポトリーグとともに渦から逃れようと泳いでいる間は、痛みなんて感じなかったのだとるる波は言う。
「るるっち……。るるっちは舟に乗せらんねえ。けど俺が支えてるからよ、うずっち! とにかく≪かいぎゅう島≫まで、引っ返そうッ」
星明りに、るる波が力なく上げて見せた後脚からは、血が流れ出ている。
姉あざらしはもう、泳ぎ進むことができない。
『だめよ、ポトリーグ。蛇どもがこれから、どう出るかわからないわ……。今のうちに、≪氷の海≫へ行きなさい』
苦痛に耐えながら、るる波は言った。
『≪かいぎゅう島≫へ引き返す時間はない。うずちゃんと二人で、南へ行くのよ』
『るるちゃんは、どうするのん!! 泳げなくなっちゃったのに!』
「そうだ! るるっち置いて行けるわけ、ねえだろ!? おら、行くぞっ」
ポトリーグは身を乗り出して、るる波の頭を抱きしめようとした。
でも、……とっかかりどころがない、抱きしめるしかできない。
舟はうず雄に引いてもらうとして、どうやって支えていけばいいのだ。
その間にも、るる波の脚からは血が流れ、生命が逃げてゆくのに!
「うううっっ、 ……るるっちぃ!!」
焦りと苛立ち、無力感にぶちのめされて、ポトリーグはうめいた。
涙が噴き出てしまって、るる波のひげに落ちる。
『大丈夫。≪ひげあざらし島≫のるる波お姉ちゃんが、こんなところでへたばるわけはないわ。絶対どうにかして生きのびるから、あなたはやるべきことをやり切るの。あなたの群れに帰るのよ、ポトリーグ』
るる波の声はやさしくて力強いのに、……ポトリーグは悲しくってたまらない。
こんな風にるる波と別れるのは、いやだ!
「けど、よう……!」
『おおーい。かいぎゅうの娘を連れてきたぞ!』
その時、ふいと周りが明るくなった。と同時に小舟の脇にずぼり、と浮いて出たものがある。
『ああ、ねねちゃん……!』
蛇の王が一行を囲い始めた時、るる波は光る鮭に頼んで、ずっと真下についてきたねね風を、さらに海の底深くに潜らせていたのである。
光る鮭とともに蛇の壁を越えていた仔かいぎゅうは、≪海の下の道≫に根気よくへばりついて、蛇の渦にもびくともしなかった!
『あたし、るるちゃんをおんぶできる!』
怖いものから解放された仔かいぎゅうは、健気に言った。
『湾の外側でうろうろしとる、他のかいぎゅう達ともじきに合流できる。かれらと一緒に、るる波は≪かいぎゅう島≫へ戻すから大丈夫だ。お前はうず雄とともに行け、ポトリーグ』
「……」
まだまだ胸が、びりびりに張り裂けそうに痛い。
けれど他に、どうしようもない。
さいごにポトリーグは、るる波の頭を抱きしめて、ひげもじゃにぶちゅうと接吻した。
「ありがとう。俺はるるっちが大好きだ、ぜってぇ達者でいてくれよ」
『ふふん。あなたこそ、元気におうちへ帰るのよ? わたしの末弟、ポトリーグ』
ねね風の背中にのたのたと乗り上げて、るる波はポトリーグとうず雄にうなづく。
『うずちゃん。ポトリーグを頼んだわよ!』
『うん。がんばる』
『あなた達なら。わたしの誇るあなた達ふたりなら、必ずやり遂げられるからね!』
うず雄が潜水した。ポトリーグと小舟が、ぐいっと進んでゆく。
「お鮭さま! ねねっち! るるっちを、頼んだぞおっっ」
『まかしとけー』
『気をつけてねえ、ポトリーグー!』
後ろは振り返れない。それでも胸の中のうずまく混沌……別れのつらさをどうにかしたくて、ポトリーグは帆を操りながら叫びそうになった。
しかし、もっといいやり方が自分にあることを、思いだす。
「――――♪波に抱かれ 海を騎くあなた
永遠にかわらぬ ぬくもりを
この胸のなかに 灯し
私はともにゆく 尊きあなたと」
『いいど。ポトリーグ』
歌ひとかたまりのあいま、波間に顔を出してうず雄が言った。
『どんどん、南むけ行くど』
「おう、うずっちっ」
夜の海をふたりは進んだ。
宙に満天の星々がまたたき、かれらの行く道を波の上に照らし出している。
うず雄の感覚は行くべき南を確かにとらえ、ポトリーグは暗い風をしっかりと帆につかまえていた。
水の流れと風にのって、ふたりは南へ走る。
南へ。
南へ、この旅の始まったところへ。この旅を、終わらせるために。
「♪私はあなたと ともに騎く
永遠にかがやく ほほえみを
なみだを集めた 海にむけ
私とともに あなたは在る――――」
――そう。わたしはあなた達についているわよ、旅が終わるまでね!
ふたりの姿は闇の海、南の方角に見えなくなっていった。
しかし風にのって送られてきたポトリーグの歌をひげに受け止めて、るる波は少しだけ激痛を忘れる。
『……みんな、向こうの方にいるんだよね? 泳いでいくよ、おしゃけさま』
『うむ、そうしてくれ。ねね風や』
『るるちゃん、傷が痛いの、かわいそう……』
仔かいぎゅうは、るる波のくっついた背中だけを海面に出してもぐり、すういと進み始める。
『大丈夫か、るる波』
光る鮭が、そこに並泳してゆく。
『ええ。おんぶしてもらうなんて、……赤ちゃんの時以来よ』
しかもおぶってくれているのは、ほぼ赤ん坊みたいな仔かいぎゅうなのだ……。自分の四倍ほど大きいけれど、とるる波は薄れゆく意識の中で笑った。
『るる波』
『……』
血を失い過ぎていた。それに≪かいぎゅう島≫にたどり着けたところで、もう漁はできない。だから生き延びられるかどうかは、わからない。泳げなくなったあざらしがどうなるのかを、るる波はよく知っている。
――神さま。大おばちゃんが言っていたっけ……。この世のすべてを作ったとか言う、えらいひと……。聞こえているなら、どうかわたしの最後のたのみを引き受けて。大事な弟ふたりを、無事に旅の終わりに導いてあげてね……。
まわりは夜の暗闇、そこに差し入る鮭の明るさが、ふうと弱くなってゆく。
るる波は強烈な眠気をおぼえた。まぶたが、頭が、重い……。
『るる波ッ。おい、るる波っ』
耳元でぎゃんぎゃん呼び立てられて、るる波は薄くまぶたを持ち上げた。
姉あざらしは、ねね風の背中に突っ伏していたのだが。その目と鼻づらのすぐ先に銀色の鮭がのびて、口をぱくぱくさせている。
『お鮭さま……?』
『しっかりしろッ。目を覚ませ! 口を開けて、俺を食えッ』
『……なにを言ってるの?』
言葉のわかる友達を食べるなんて。ポトリーグとの旅を助けてくれた、≪知恵の鮭≫を食べるなんて。できるわけがない……とふらふらする頭の中で、それでもるる波は理性をたもつ。……ぐうー、……お腹すいた……かしら??
『お前にはまだまだ、やることがある。ひげあざらし・るる波は、ここで死んではいかんのだ! ほれ口をあけろッ』
『……いやだわー、いつか見た夢の続きかしら……。口を開けて泳ぐだけで、しゃけが飛び込んでくるすてきな海の夢…… ふ、ごっっ』
ぼんやり笑ったるる波の口。
豊かなひげの隙間をめがけて、鮭は銀に光る身体をおどらせた……。




