98. 小さき者、巨大を前に怯むことなかれ
『さあポトリーグ、鉄の器を捨てるのだ。そして選びなさい。≪境を越えてきた者≫として、わたしの友になるか? あるいは悩みなき温かな死の中へ、生まれ変わる来世へと送ってやろうか??』
くはあっ……。
言いつつ蛇の王は、その巨大な口をとうとう縦に広げた。
生温かい息が風のように吹きつけて、ポトリーグの黒い巻き毛を揺らす。
ポトリーグは腰をかがめ――ゆっくりと、鉄鍋を舟底におろした。
『ちょっと、……ポトリーグ!?』
うず雄がぎょっとして、ひげを震わせる。
『だめよっ、やつの言うことなんか――』
るる波が悲鳴に近い声をあげかけた、その時。
と、すッ。
立ち上がりざま、ポトリーグは何かを素早く宙に放り投げた。
それを、すこ――――んっっっ!
両腕に構えたとねりこ杖の一閃、腰を切って思い切り・ぶっ叩いた――撃った!!
びしッ。
『え』
蛇の王は、一瞬まぬけな声を出した。
何が起こったのかわからない……。目の前にいる小さな人間の子どもが、棒切れを振ったように見えたが。攻撃をしかけてきた、とも思えなかった。
だからとりあえず、ぱちぱちとまばたきをするべく……あれっ??
『痛っ、……いたたたたたたぁッッ』
その目が……。右の眼が閉まらない、と言うか強烈にいたいっっ!!
「おいこら、シルワ・ケルヌア。お前いろいろ知ったかぶりしてっけど、ダビデの話は知らねえんだろがッッ」
『なッッ……』
蛇の王は驚いた。予想してもみなかった、こんなちっぽけな存在が、まさか自分に歯向かってくるなどと!?
ポトリーグが自分に従うか、食われるか、それ以外の行動を選ぶと全く思っていなかった蛇の王は、激高した。
『おまええええ――』
びしッ!!
すると左眼にも、かすかな衝撃が走った。永遠を生きる蛇の王シルワ・ケルヌアは、愕然とする。
両眼がしまらなくなってしまった……。まぶたを閉じようとすれば、そこからじんじんと激痛が目に身体にはしる! ……まばたきが、できない!?
「見たか、俺の制球力!! 涙目むいて、かかってきやがれ! ごるぁッ」
とねりこ杖をびしっと突きつけ、ポトリーグはどや顔でどなった。
「自分よか小っせえやつが、全部いいなりになると思うんじゃねえッ」
蛇の王シルワ・ケルヌアの、眼とまぶたの間のわずかな隙間に、ポトリーグはとねりこ杖でほたて殻を撃ち込んだのである。
あざらし姉弟の大おばがくれた、聖ヤコブ貝の大きな殻を!!
きしゃあああああッッ!
蛇の王は怒り狂い、猛った。そうして野生の怒りに引きつられるまま、目の前のちっぽけな人間を乗り物ごと、ひとのみにする気で口を開く。食いつきかける。
じゅああああ――――ッッッ!!
蛇の唇の先から、息ではない白いけむりが噴き出した。
鉄鍋を頭にかぶって小舟にふんばったポトリーグ、その珍妙なかぶとに、シルワ・ケルヌアが触れた瞬間。
太古の蛇の王の口先は、赤くなって焼けただれていった。
閉じることのできない双眸に、涙の膜がにじむ。その痛みの向こうにシルワ・ケルヌアは、思いだしていた。これは二度目だ。
百年の昔、蛇に同じ痛みを与えて故郷から追い出した人間の男の姿が、はっきりと脳裏に思い浮かぶ。
――この私、ポドリーグが命じる。邪なる支配者のお前は、この島から去れ!!
『ぎゃあああああ、ああ――ッッッ』
外側そして内側から身体に襲いかかる、強烈な痛み。シルワ・ケルヌアは耐えられず、ぐいっと首をのけぞらせた。
しかし目を……。痛む両眼を、とじることができない!!
ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃああああああ!!
ようやく癒えてきた古傷をぱっくりとこじ開けられて、シルワ・ケルヌアは身も心も千々に引きちぎられる思いでいる。
ば、っしゃ――ん!!
苛立ちまぎれ、小賢しいちっぽけな人間のいる辺りを乱暴てきとうに尾の先で一打撃した後、ずぶずぶと海中へ沈んでいった。
『あの男! ≪ポドリーグ≫という名の、あの人間! わたし達を追い出した、あの男の威光なんざ、永遠に続くものか。あの緑の島にもいずれ人間がみち満ちて、たがいに喰いあいを始めるのだ! そこを追い出される人間どもこそ、≪氷の海≫で凍みこごえて死ぬがいい。滅びよ人間、滅びよヒベルニア! 滅びよ、いとおしきエリウの地! ≪ポドリーグ≫とその眷属に、矮小なるポトリーグに! 呪いあれぇぇぇぇぇ』
耳に入れた者がそのまま吐きたくなるような、おぞましい呪詛を水中に叫びながら、蛇の王は深みに消えていった。巨体が海を引きつらせ、そこに渦が発生する。
暗い混沌へ、死の淵へ、ポトリーグの黒い皮の小舟を引き込もうとする、その強力な流れ。
それに力の限り抗って、湾の外へと向かうのは――――自らもその名に渦をもつ、弟あざらし。
うず雄だった。




