100. ≪氷の海≫へ
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東の空が白んできた。
金の曙光はまだ見えないが――ポトリーグとうず雄の前に在る、青白い壁を見分けるには十分な明るさである。
「うずっち、見えてきたなッ」
『あと、もうちょっと。ポトリーグ』
眠気も疲労もなかった。冷たい水と空気とを切り裂いて進むふたりは、ひたすらそこにいない姉あざらし、るる波の思いに押されるようにして急ぐ。
無事に行け、南にゆけ、と。
水平線の先に浮かんで見える、青白い盛り上がり。
それこそはポトリーグが越えてきた≪氷の海≫、故郷への帰りみちである!
ポトリーグとうず雄、ふたりの胸いっぱいに咲きかけた期待はしかし、陽光が昇りゆくとともに不安へとすり替わっていった。
『……ポトリーグ』
とうとう、うず雄が言った。
『海ん中で水の流れ、読んでるのんけど……』
「……」
『ここ。端とか割れ目とかが、 ……どこにもないのん』
「俺にも、見えねえ」
毛織り修道衣の頭巾を深くかぶり、紐で引きしめたポトリーグの丸顔から、煙のような真っ白い息が噴き上がる。
「……どこにも、すきまの通り道が……見えねえぞ?」
ふたりは今、旅の目的地を前にしていた。≪氷の海≫の始まり、ポトリーグが通ってきたはずの場所、故郷ヒベルニアへの帰り道。
しかし海は突如として、そそり立つ高い崖……氷の壁に阻まれて、終わっていた。
「……何なんだよ。これ」
帆をたたみ、たゆたう小舟の中からポトリーグは見上げる。
頂は見えなかった……。それは空に向かって融けゆくほどに、高い壁。
ただ青白い光を放つだけの、つめたく巨大な壁なのである。
それが見渡す限り、東西に果てしなくのびていた。
ふたりの吐く息が白い。
ポトリーグとうず雄は、壁にそって東へ進んでみた。
けれど何も、ない。
垂直に切り立つ無情なる崖、接岸すらできない壁は、海中にも深く続いていた。
うず雄は潜ってみたが、魚影もない。生きているものの気配は、皆無。
完全なる、いきどまり。
全てを拒む壁が、どこまでもそそり立っているだけなのだ。
『……ポトリーグの越えてきた海とは、ちがうのんか』
「全然ちがう。こんな壁はなかったし、氷は島みてえなかたまりが、いっぱい浮いてて……。俺はそのすきまを、進めたんだ」
答えるポトリーグの顔が、手が……。氷の壁みたいに青白くなってきている、とうず雄は不安になる。ここは寒い。基準よりもずっとぽっちゃり系のひげあざらし、うず雄にきついのだ。ポトリーグには辛かろう。
「……蛇の王が言ってたのは、これだったんだな……。≪氷の海≫は、どこにもないって。あいつ本当のこと、言ってやがった」
小舟の中に、ポトリーグはうずくまった。
うず雄はそばへ泳ぎ寄る。
「俺は、ヒベルニアへ帰れない」
言って、ポトリーグは寂しく笑った。むりやり唇をひん曲げて、……そこにつうー、となみだが流れた。
『ポトリーグ』
下を向いたポトリーグの顔から、ぽたぽたとしずくが幾つも落ちてゆく。
『自分はな、ポトリーグと一緒にいるど』
「うずっち」
『どこまでも、いつまでも。ポトリーグの旅の終わりまで、つきあうど』
「ほんとかよ、もう」
『ほんと。大事な友達の、ポトリーグだから』
ポトリーグはくしゃくしゃの顔を上げて、海上のうず雄の顔を見た。
かじかんだ手をのばして、長いひげを握る。黒い円い瞳を、じいと見つめて……。
そこにある真実を、ポトリーグは知った。
たれかけた鼻水を、ず~~とすすり上げて、ポトリーグは立ち上がる。
「ほんじゃ帰ろうか。うずっち」
『ポトリーグ?』
櫂を使って、ポトリーグはぐるりと小舟の向きを変える。青白い壁をいま背にしたポトリーグを見て、うず雄は内心で問うた。どこへ……?
「帰ろう。うずっちとるるっちのいるとこが、俺の帰るとこだ」
帆を張りかける手は、感覚を失いかけてもたついている。
しかし涙の筋の残るそばかす丸顔の中、ポトリーグの蒼い瞳が輝いているのを、うず雄は見た。
そうしてうず雄もまた、そこにある真実を知る。知って理解して、ひげを揺らし笑った。
「とばすぞ~、うずっち!」
『だね。しんき臭い蛇んちは、思いっきり避けてやるのん』
ふわり、と風が小舟を押し出す。うず雄も勢いよく、潜水した。
青白い氷の壁、越えてきたはずの場所、うしろに置いてきたもののことを、ポトリーグはもう振り返らない。
明るくなった空いっぱい……緑の空に向けて、ふあああっ!
ポトリーグは息を吐いた。少年の生命と熱とがそこに白く、確かに咲く。
だいだいがかった金色の光が、小舟に乗った少年とあざらしとを包み込む。
ふたりが帰る方角は、お帰り、と両腕をさしのべているかのように――――あたたかい輝きに満ちていた。




