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鍋聖人ポトリーグの異界イムラヴァ航海譚  作者: 門戸
第十三踏 ≪蛇の島≫
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100/101

100. ≪氷の海≫へ

 ・ ・ ・ ・ ・


 東の空が白んできた。


 金の曙光はまだ見えないが――ポトリーグとうずの前に在る、青白い壁を見分けるには十分な明るさである。



「うずっち、見えてきたなッ」


『あと、もうちょっと。ポトリーグ』



 眠気も疲労もなかった。冷たい水と空気とを切り裂いて進むふたりは、ひたすらそこにいない姉あざらし、るるとんの思いに押されるようにして急ぐ。


 無事に行け、南にゆけ、と。


 水平線の先に浮かんで見える、青白い盛り上がり。


 それこそはポトリーグが越えてきた≪氷の海≫、故郷への帰りみちである!


 ポトリーグとうず雄、ふたりの胸いっぱいに咲きかけた期待はしかし、陽光が昇りゆくとともに不安へとすり替わっていった。



『……ポトリーグ』



 とうとう、うず雄が言った。



『海ん中で水の流れ、読んでるのんけど……』


「……」


『ここ。とか割れ目とかが、 ……どこにもないのん』


「俺にも、見えねえ」



 毛織り修道衣の頭巾ずきんを深くかぶり、紐で引きしめたポトリーグの丸顔から、煙のような真っ白い息が噴き上がる。



「……どこにも、すきまの通り道が……見えねえぞ?」



 ふたりは今、旅の目的地を前にしていた。≪氷の海≫の始まり、ポトリーグが通ってきたはずの場所、故郷ヒベルニアへの帰り道。


 しかし海は突如として、そそり立つ高い崖……氷の壁・・・に阻まれて、終わっていた。



「……何なんだよ。これ」



 帆をたたみ、たゆたう小舟カラハの中からポトリーグは見上げる。


 いただきは見えなかった……。それは空に向かってけゆくほどに、高い壁。


 ただ青白い光を放つだけの、つめたく巨大な壁なのである。


 それが見渡す限り、東西に果てしなくのびていた。


 ふたりの吐く息が白い。


 ポトリーグとうず雄は、壁にそって東へ進んでみた。


 けれど何も、ない。


 垂直に切り立つ無情なる崖、接岸すらできない壁は、海中にも深く続いていた。


 うず雄は潜ってみたが、魚影もない。生きているものの気配は、皆無。


 完全なる、いきどまり。


 全てを拒む壁が、どこまでもそそり立っているだけなのだ。



『……ポトリーグの越えてきた海とは、ちがうのんか』


「全然ちがう。こんな壁はなかったし、氷は島みてえなかたまりが、いっぱい浮いてて……。俺はそのすきまを、進めたんだ」



 答えるポトリーグの顔が、手が……。氷の壁みたいに青白くなってきている、とうず雄は不安になる。ここは寒い。基準よりもずっとぽっちゃり系のひげあざらし、うず雄にきついのだ。ポトリーグには辛かろう。



「……蛇の王が言ってたのは、これだったんだな……。≪氷の海≫は、どこにも・・・・ないって。あいつ本当のこと、言ってやがった」



 小舟の中に、ポトリーグはうずくまった。


 うず雄はそばへ泳ぎ寄る。



「俺は、ヒベルニアへ帰れない」



 言って、ポトリーグは寂しく笑った。むりやり唇をひん曲げて、……そこにつうー、となみだが流れた。



『ポトリーグ』



 下を向いたポトリーグの顔から、ぽたぽたとしずくが幾つも落ちてゆく。



『自分はな、ポトリーグと一緒にいるど』


「うずっち」


『どこまでも、いつまでも。ポトリーグの旅の終わりまで、つきあうど』


「ほんとかよ、もう」


『ほんと。大事な友達の、ポトリーグだから』



 ポトリーグはくしゃくしゃの顔を上げて、海上のうず雄の顔を見た。


 かじかんだ手をのばして、長いひげを握る。黒いまるい瞳を、じいと見つめて……。


 そこにある真実ほんとのことを、ポトリーグは知った。


 たれかけた鼻水を、ず~~とすすり上げて、ポトリーグは立ち上がる。




「ほんじゃ帰ろうか。うずっち」


『ポトリーグ?』



 かいを使って、ポトリーグはぐるりと小舟の向きを変える。青白い壁をいま背にしたポトリーグを見て、うず雄は内心で問うた。どこへ……?



帰ろう・・・。うずっちとるるっちのいるとこが、俺の帰るとこだ」



 帆を張りかける手は、感覚を失いかけてもたついている。


 しかし涙の筋の残るそばかす丸顔の中、ポトリーグのあおい瞳が輝いているのを、うず雄は見た。


 そうしてうず雄もまた、そこにある真実ほんとのことを知る。知って理解して、ひげを揺らし笑った。



「とばすぞ~、うずっち!」


『だね。しんき臭い蛇んちは、思いっきり避けてやるのん』



 ふわり、と風が小舟を押し出す。うず雄も勢いよく、潜水した。


 青白い氷の壁、越えてきたはずの場所、うしろに置いてきたもののことを、ポトリーグはもう振り返らない。


 明るくなった空いっぱい……緑の空に向けて、ふあああっ!


 ポトリーグは息を吐いた。少年の生命と熱とがそこに白く、確かに咲く。


 だいだいがかった金色の光が、小舟に乗った少年とあざらしとを包み込む。


 ふたりが帰る方角は、お帰り、と両腕をさしのべているかのように――――あたたかい輝きに満ちていた。



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