96. 追い出された蛇のものがたり
『しかし、シャナキールとはまるで聞いたことがないな。だいぶ南に行ったあたりと思うが、どの辺なのだね?』
しゅらっ、と怪物から気安くふられた問いに、ポトリーグはどきりとする。
『キアレグの民の領地だろうか。あるいは、デルブーナ達の飛び地かな?』
なじみ深い固有名詞が、怪物の口からすらすら淀みなく出てきたことが、一瞬ポトリーグには信じられなかった。
『まあ、彼らはどこにでも移り住むし、新しく作り上げたすみかもあろう。百近くも冬を越せば、だいぶ様相も変わるか……。今のわたしがその地を見ても、すぐにはわからないだろうがね? ふふふ』
ぺらぺらと軽快にしゃべり続ける蛇の王を、るる波とうず雄は怪訝な面持ちで見ていた。
『実はわたしも、お前と同郷なのだよ! ポトリーグ。ヒベルニアに生まれ育ってたのしく生きていたのだが、ある時一族とともに、そこを追い出されてしまったんだ』
蛇の語りは今や、朗らかなものに変わっていた。つめたい声なのは同じだが、故郷の話をされて、ポトリーグは注目せずにいられなくなっている。
『なつかしい、美しいあの緑の島を追い出されて、わたし達は北の海に出るしかなかった。泳ぎにおよいで、たどり着いたのは痛いほどに冷たい≪氷の海≫だった!』
蛇の王は、ふるふると頭を振った。
『ああ、ひどい光景だったよ……ポトリーグ。同胞たちが小さなものから次々に凍み死んで、ずぶずぶと海の深みへ沈んでゆくのを、泣きながら見送りつつ泳いだのだ。その多くは、わたしの卵からかえった子どもらであったと言うのに』
『……なんぼでも卵うめるから別にいい、とか。さっき言ってたのんと、だいぶ違わない?』
静かなるうず雄の突っ込みがポトリーグの耳に届いて、ふあっと我に帰らせる。
「ほんとだな! ……いいぞ~、うずっち」
『演出ってことなんだわ。こっちの感情を劇的にあおり、揺さぶるための……』
『そうだ。皆、内心でどんどん突っ込んでゆけ』
ポトリーグとあざらし姉弟、光る鮭のもそもそ小声をよそに、闇の中空をふいと見上げて、蛇の王は語り続ける。
『絶望とかなしみに、わたしが溺れかけたその時、夜空が輝いた。あえぎ苦しみながら泳ぐわたし達の頭上に、見たこともない緑色の光が降り注いだのだ。次いで、わたし達がそのあいまを縫って進んでいた、海上に浮かぶ白い氷の大地が、すさまじい音を立てて割れ崩れた。真っ赤な火の柱が天に向かって立ちのぼってゆき、耳をつんざく音がとどろいたのだ』
『……蛇の耳って、どこについてるのかしら』
『るるちゃん。それは割と、どうでもいいとこ』
とりあえず、あざらし姉弟のもそもそ会話は、蛇の耳に届いていないようである。本当にどこなのだ、蛇の耳。
『わたし達は恐れおののいて、もうおしまいだと思った。いくつもの火柱が近く遠く、左に右に噴き上がる中を、逃げまどって泳ぐうち。……いつしか静かな海へと来ていた。それが、ここだ』
――俺が見たのと。ほとんど同じ光景じゃねえかよ……。つうか、ヒベルニアから来たって。追い出されたって、……まさかこいつっっ!!
知らぬうちに話に引き込まれ、唇を噛んでいるポトリーグに、蛇はまた目を細めて見せた。
『既視感があるであろう、ポトリーグ? お前はわたしと同じところで生まれ育ち、同じようにして境を越えてやって来たもの。お前とわたしは同じ、おなじ、おんなしなのだよ』
「ちがうっつってんだろ! 話おわったか!?」
『いいや、ここからがお前にとっては知るべき核心。強がってはいても、わたしと言う旧く強い存在に惹かれ始めているポトリーグに、とってもいいことを教えてあげよう。一度その境を越えたなら、再び越えることは、どうしたって叶わないのだ』
「……はあ??」
『真に受けるなよ、ポトリーグ。こいつは自分の見たものごとしか、知らないやつだ』
水面下で鮭が言ったが……。なぜかその声に、先ほどまでの厳しさが足りない。
『お前こそ、自分の知っているものごとしか知らないではないか? 叡智の鮭よ』
一瞬、鼻からふうっと息を抜くようにして蛇は低く、早口で言う。しかしポトリーグには、再び優しい声音で話を向ける。
『ポトリーグよ。わたしはおよそ百年の間、皮を脱いで生命をのばしつつ、南の海を見張ってきた。どこまでもどこまでも、力の限りに泳いでもみたのだ。しかし、あの≪氷の海≫はどこにもない。火の柱の噴き上がる境は、見つからなかった。……それは、どこにもないのだ』
特に最後の部分を、蛇は優しくまろやかに、ゆっくりと言った。
『ポトリーグ。お前は、故郷ヒベルニアへ帰ることができない』




