94. 蛇の王、あらわる
ポトリーグがこれまで見たうち、一番大きな生きものは、文句なしに長かいぎゅうのじいちゃんであった。
全貌がよくわからなかった≪いさな≫よりも、はるかに巨大だったと確信できる。
ブレンダン修道院長と修道士の兄さん達とで乗り込んだ、あのウェネテース帆船と同じくらいに大きくいかつかったのだから。
しかしその最大記録が、こうも早くに塗り替えられてしまうとは……。ポトリーグは信じられない思いで唇を噛み、目の前に出現したものを仰ぎ見ている。
巨大な長かいぎゅうと同等……いや、長さならこちらが大幅に上回っている。巨大にして長大すぎる怪物が、波間からすういとなめらかに頭を出したのだ!
鮭の光に照らされて、その怪物の身体表面を覆う硬そうなうろこが光っている。
北アルモリカの港湾都市、アレートを囲っていた堅牢な石壁が、そのまま海中でうねっているかのような錯覚をポトリーグは覚えた。
城壁みたいな身体をくゆらせ、巨大な蛇はポトリーグの小舟とあざらし姉弟、その真下の海深くにいるねね風に、通せんぼをしているのだ。
白銀の鮭の輝きに、大蛇の巨体は何色にも反射する。青っぽくも白っぽくもなり、時折あかがねのように鈍く輝いては、暗くなった。長すぎる鎌首をもたげ、じっとポトリーグを見下ろしてくる瞳だけが、赤く燃えるようである。赤と赤で、不吉に赫い巨大な双眸。
その赫いまなざしにさらされ、わなわなと震えそうになる両足を、ぎゅうっと舟底に踏みしめる。
ポトリーグは白樫の櫂を足もとに置き、鉄鍋の取っ手を握りしめた。低く囁く。
「――るるっち。ねねっち連れて、左手へ行け! うずっち、俺らは右手へ全力だ。お鮭さまはどっちでもいいけど、何んとか目くらましっぽく泳げねえか!?」
『えっ』『のん?』『ああ~??』
るる波、うず雄、そして光る鮭。
やはり低い三つのささやき声が、驚く。
「図体でっかい分、あいつとろいんじゃねえのか。三手に分かれて行こう、でもって向こう側にいるはずのかいぎゅう群とこで合流だ!」
『わかったわ!』
すばやく姉あざらしが答えた、その時である。
『待て、と言うに。せっかく来たのだ、話してゆかぬか? 人間よ』
つめたい声が再び腹底にひびいて、ポトリーグの身体をぞくりと震わせる。
『獲って食うために、仔かいぎゅうを連れてこさせたわけではない。お前をここへおびき寄せるための、囮に過ぎなんだ』
空耳ではない。おぞましい声は、はっきり眼前の巨大な蛇の口から漏れ出ている!!
『お前のことも、食おうとして呼んだのではない。ただ会って、話がしたかったのだ。名は何という? 人間の子よ』
「……こちとら急いでんだっ。俺はあんたに用はねえ! 食う気ないなら、とっととそこんとこ、どきゃあがれッ」
これまで十四年の人生中、一番の危機を前にして、しかしポトリーグは啖呵を切った。圧倒的な恐怖を前に……いまいち、声に力が入らないが!!
『話をしたらどいてやろう。この蛇の王シルワ・ケルヌアに対して、お前は何者だ?』
怪物の赫い目は、まっすぐポトリーグを見ている。
と、その瞬間。ふしゅうううう、とつむじ風のような息を吐いて、巨大な蛇はふるふると頭を回した。
海面が沸き立ったかのように、しぶきが上がる。
怪物のまわりの水中には、多くの中小蛇たちが潜んでいたようだ。そいつらはしゅうしゅうと騒がしく息をしながら、さざ波さながらに海面すれすれをうねり泳ぐ。やがて≪蛇の島≫の方へと去って行った。
『今のは、ごく一部の近衛だが……。わたしの配下は、≪黒き島々≫の各地にひそんでいる。北端の島に突然あらわれた時から、お前のことを見張らせていたのだ』
「なんだとうッ!?」
淡々と言う怪物の言葉が、ひやりとポトリーグの胸中に刺さった。つまりポトリーグは初めから今まで、蛇たちに見張られていたということなのか。
『ずいぶんと、わたしの子たちを殺したそうじゃないか? まあ、卵なぞ無限に産めるからね。いっこうにかまわないのだが』
「……」
ポトリーグはどうにか息をしつつ、怪物をにらみ返す。胸の内では≪やどりぎ島≫にいた、あの白蛇のことを思いだしていた。
――あいつの言ってた、≪王さま≫……。長かいぎゅうのじいちゃんと、約束をしときながら破ったやつが、こいつか!!
ポトリーグは震えを抑えるために、深く息をついた。わざと低く、ゆっくりと言う。
「じゃあ、そいつら子分どもから聞いてわかってんだろ。俺はあんたら蛇を、滅ぼす力を持ってんだ。あんたがそこをどかねぇんなら、力づくで通らさしてもらうぞ?」
『いいなあ、はったりと言うのは』
蛇の王は、……もしかして笑ったのだろうか?
『だから、通すと言っているだろう。お前が何者で、どこから来てどこへ行くつもりなのかを、聞かせてくれれば』
「本当だな、こら? 約束ほごにしたら、ばちが当たんぞッ」
今、ポトリーグの小舟のそばには、うず雄が寄り添うようにして立ち泳ぎをしている。少し後ろの方にるる波も頭を出して、息をのんでいるらしい。仔かいぎゅう・ねね風の姿は見えないが、姉あざらしの真下、ずっと深いところにいるのは確かだ。
あざらし姉弟にも、蛇の王の言葉はしっかり理解できるようだった……長かいぎゅうの時と同様に。
鮭の白銀の光に照らされる、小舟のまわりにかたまった一行。その中心で、ポトリーグは渾身の勇気をふりしぼり怒鳴った。
「――俺は、ヒベルニアから来たッ。シャナキール修道院の、ポトリーグだ!!」
ポトリーグの蒼い眼光を受け止めている蛇の赫い目が、ぴくりと引きつる。
「ちなみにここんち、≪黒き島々≫では。ひと呼んで、鍋聖人ポトリーグじゃあッ!! これから≪氷の海≫を越えて、故郷ヒベルニアへ帰るとこでぇッッ」




