92. さらわれた仔かいぎゅう
『ポトリーグくーん!!』
『あざらしさーんっっ』
海の上に頭を出して、何頭かのかいぎゅう達が呼びかけてきた。
よく見えないが、声から判別するに案内役だったおじいちゃんかいぎゅう、そしてねね風のおばだ。
「どうしたんだっ!?」
『ねねちゃんが! ねねちゃんが、蛇たちにさらわれました――』
「ああああああんだってえええ!?」
ポトリーグは口を四角く開けて、ぶったまげる。しかし同時に小舟を波打ち際に下ろし、迷わずに海に騎り出していった。
「ねねっちは、どっちに連れていかれたんだ!!」
『み、みみみ南です』
『若いかいぎゅう達がいま先に立って、みんなで追いかけているのだけれど、……』
「南、だなっっ!?」
おろおろと慌て惑い、まどろっこしくしかしゃべれないでいるかいぎゅう達の言葉を、ポトリーグは最後まで聞かない。
「行くぞぉ、引っぱってくれうずっち! るるっちは先に潜って、やつらの尻尾をめっけてくれッッ」
ばしゃっ、ぶしゃっ!!
あざらし姉弟は、即座に海中へと潜る。
ポトリーグは思いっきり、白樫の櫂を押し出した。
ぐうん――。風のない、凪いだ夜の始まり。静かな海をかき分けて、ポトリーグの皮の小舟はぐんぐんと進み始める。
るる波の先導、うず雄の牽引は安定していて頼もしかった。
勢いをつけて出てきたはいいが、夜の航海にポトリーグは慣れていない。
けれど、不安とかどうとか言ってる場合じゃねえのだ、と自分に言い聞かせた。
『――行って、どうするんだ! 若僧どもッ』
だからすぐ近くで怒鳴られた時は、さすがのポトリーグも驚いて、うっかり櫂を落っことしかける。
ぱしゃーん!! ……びたっっ。
いきなり、まばゆく光るものが跳んで現れ、ポトリーグの小舟の底に落っこちる。
『あーっ、その声! お鮭さまじゃないのッ!?』
ずばッと水面に顔を出したるる波が、前方から叫んでよこす。
その通り、長かいぎゅうの宮の中にいたあの不思議な鮭が、ポトリーグの舟底でびちびち跳ねているのだ!
「……どうすんだって、決まってんだろお鮭さま! 鍋で蛇を、どつくんだよッ。ねねっちはまだ赤んぼだろ!? 蛇に食わすわけにいかねぇじゃんかッ」
『どつくだあぁ!?』
跳ねつつ言う鮭は、びかびか白銀に光ってまぶしいほどである。
と、その時るる波が、硬く緊張した声で言った。
『ポトリーグ、うずちゃん! わたし達、かいぎゅう達の群れを追い抜くわよッ』
ぼちゃっ! 鮭が海中へ跳ね入った。
瞬間、小舟の周りが透けるように明るくなる。銀の光に照らされて、かいぎゅう達がずっと深いところを群れなし泳いでいる姿が、ポトリーグにも見えた。
それはすぐに後ろへ流れて、消える。皮の小舟を引くうず雄のほうが、ずっとずっと速いのだ!
小舟の脇を泳ぐ鮭もまた、速かった。その光のおかげで、ポトリーグはずっと下の方にある水底までを垣間見ることができる。
長かいぎゅうのところで見た、六角形の石柱が、まるで石だたみのように続いていた。
一行は今、蛇の群れを追って≪海の下の道≫の真上を進んでいるのだ!
『たしかにな。かいぎゅうどもは今、さらわれた娘を追って泳いではいるが……。あいつらは、戦い争いのできん生きものだ。ただついてきているだけに過ぎん』
海中にいるはずの鮭の声が、なぜかポトリーグの耳には近く聞こえる。
『蛇どもと対峙して、娘を助けられるのはお前だけだ、ポトリーグ。盟約違反の非難糾弾は俺がやるから、ポトリーグはどうにかして娘を取り戻せ』
「……?? うん、わかったけどよ。あんたは何でついてきたんだ、お鮭さま?」
『友達の代理に決まっとるだろうが。この世の叡智をあずかる者として、蛇のやつがどうして旧い盟約を破ったのかも、質さにゃならん。≪知恵の鮭≫の言うことは、聞くもんだぞ』
「はあ……」
どこかで聞いたような、そうでないような鮭の肩書。とりあえず周囲がほのかに光って手元が明るいのは、非常に助かる。昼の航行と何ら変わらない。
ふわあん、と夜風がなびいてきた……。
「風、来たーッッ!! うずっち、俺ぁ帆ぉ張るぞーッッ」
『うおーう』
瞬時、うず雄が水面上に頭を出した。
しゅぱッと張ったぼろ帆布が、ほたて殻みたいに膨らむ!
さらに速度を増して、小舟は南を目指す。
暗い夜の海を見通して先導する姉あざらし、その後を的確に追ってゆくうず雄。その首元に結ばれたきずなが、ポトリーグを導いてゆく。
「神さまイエス様、聖母さまっっ。頼むから、見守っていてくれええええッ」
真っ暗な海上を、少年の本気の祈りが走ってゆく。
「我らがヒベルニアの聖ポドリーグ様にぃ、ブレンダン修道院長ぉぉぉー!! ねねっち助けるのに、俺を間に合わせてくれーッッ」




