91. いよいよ最後の航海を前に
ポトリーグとうず雄、るる波の一行は、長かいぎゅうの宮を後にする。
海の方へと続く長い通路を戻り、そしてそこからあざらし姉弟は、かいぎゅうたちのいる浅瀬の湾に向けて潜水した。
うず雄の背中にしがみついていたポトリーグは、あのすさまじい海水との衝突に備え、身構えていたのだが……。
今回は思いっきり短い間に済んでしまって、うず雄はぷかっと海上に出た!
「ええっ、もう!? やったら早くねえか、うずっち!」
胸が苦しくなる前に夜空の下に出られて、ポトリーグは嬉しいよりもびっくりした。
『何でも、帰りのほうが短く感じたりするものよ~』
るる波は脇で優しく言ったが、……本当のところは言わない。案内役のおじいちゃんかいぎゅうに続いて往路を行った時、あざらし姉弟はだいぶちんたら泳いでいたのである。彼らの水準では相当にとろかったのだ。
道順を知った今、最短の距離をさらにひげ察知した最適水流にのせて、がつんとぶっ飛ばした。よってポトリーグがほんの一瞬と思う間に、帰ってくることができたのである!
「えー? でもよう、るるっち。俺は≪黒き島々≫に来た時のほうが、だんぜん速かったんだぞ~??」
『あー、そうだったのん』
水面に顔を出したまま、するすると浜辺に向かいながらうず雄が相槌を打つ。
「ヒベルニアに帰る道の方が、長えなげえー」
昏い夜空には、星々が淡く白く輝いている……。そこにまじるポトリーグとあざらし姉弟の息も、しろい。
・ ・ ・
熾火に残しておいた焚き火を再び燃え立たせ、ポトリーグは暖を取った。
「はー、毛織りの修道衣がぬくーい。あんちくしょう~」
浅瀬の湾のほうは、しんと静まっている。かいぎゅう達の声は聞こえなかった。こんぶ林にくるまって、すでに眠ってしまったのだろうか。
そのかいぎゅう達のけはいに気を配りつつ、るる波がそうっと言った。
『……何としてでも避けるべき道が、しっかりとわかったわね。明日の朝、早くにここを発って、全力で南へ向かいましょう』
とにかく、≪氷の海≫へ。危険な障壁、すなわち蛇たちさえ避けられれば、そこへ到達できる。
「帰るついでの蛇退治ってのは、やっぱなしか」
ポトリーグは明るく言ったつもりだったが、るる波はかたい口調で答えた。
『だめだめ。かいぎゅうの長さまに会ったのは、あなたの安全を最優先したからでしょうが。ここまで来て、殴り込みだなんて……。大事なポトリーグに、危ないことは絶対にさせないわよ』
『のん!』
うず雄も、きっぱりと否定する。
「……わかってるって。もう……、言ってみただけだしよー」
あざらし姉弟の反発に、ポトリーグは首をすくめて下を向いた。箱入り末っ子あつかいされたことへの、照れを隠している。
『お天気は、しばらく持ちそうだし。それにかいぎゅう達よりも、わたし達はずっと速く進むことができるから……』
長かいぎゅうが話の中で示した距離感を、るる波はちゃんと憶えていた。
蛇たちのねじろの島までは、衰えた老かいぎゅうが泳いで半日弱。≪氷の海≫はそのすぐ後ろにあるらしいから、ポトリーグとあざらし姉弟がとばせば、日の上がりきる前にそこへ到達できるはずだった。
『そこからひたすら≪氷の海≫を進めば、ポトリーグは必ずたどり着けるはずよ。……あなたの群れのいるところに!』
「うん」
ポトリーグはるる波にうなづく。
そうなのだ……。ブレンダン修道院長たちとの合流まで、あとほんのちょっと。
やるべきことはやった。あとは明日の航海、その最後のふんばりに備えて早めに休んでしまおう、となる。
冷めた水を鉄鍋から皮ぶくろに移し、各種ふくろの口をしばってポトリーグが焚き火を消しかけた……その時だった。
――きゃーっっっ!!
かなたに悲鳴を聞いた気がして、ポトリーグはさっと顔を上げた。
ぐるぐるッ! 地べたに横になっていたうず雄とるる波が、即座に一回転して起き上がる。
――やだやだ嫌だあ、たすけてええええ――……
『女の子の声だわッ』
『海のほう』
「ねねっちでねえのか!?」
ポトリーグとあざらし姉弟は、耳を澄ます。ねね風らしき悲鳴は、それっきり途絶える。
不気味な沈黙が一拍、二拍、三拍……。
ぐおおおおお!!
むぅおおおお!!
ぶぅああああ!!
ポトリーグたちの夜営地の正面、浅瀬の一帯から低い鳴き声が一斉に吹き上がる。
ぎゃあーっっっ……
それに呼応するように、内陸側からは鳥たちの叫びがするどく上がった。
「どうしたんだぁ、かいぎゅうの皆ぁーっっ!?」
少し高くなっていた脇の岩棚にひょいと乗って、ポトリーグは海に呼びかけてみた。
『たすけて、助けてーーっっ。誰かあああ』
ぐおお、ぶおお、と低く響き続ける鳴き声の合間をぬって、ポトリーグは女性の声を聞き取った。
「行ってみよう、うずっちるるっち!」
鉄鍋ととねりこ杖をひっつかみ、ひっくり返してあった小舟をかつぎ上げて、ポトリーグは海の方へ駆け出した。
うねうねっと身体をたゆませそれに続きかけて、うず雄は姉がそこに立ち尽くしているのに気づく。
『るるちゃん?』
『……ごめん。いやな予感しかしないわ』
姉あざらしは下を向いて、頭を振ったらしい。
ひげをしゃらしゃら揺らしてから、るる波は弟とともに勢いよく這い始めた。……




