88. 長かいぎゅうの宮
――で……、でけぇええーっっ!!
いったいどのくらい、長く大きいのだろう?
鼻だけでゆうにるる波ほどもあるそのかいぎゅうは、荒波にもまれ続けた巌みたいな身体をしていた。
表面いたるところに深く刻まれたしわ、そこにふじつぼや巻き貝、いそぎんちゃくがどっさりと貼りついている。
大きな眼と口をどうにか見分けてから、ポトリーグは言った。
「かいぎゅうの長じいちゃんに、聖母さまの祝福をッ。ちわーす!」
『はーい、よく来たね。きみがポトリーグ?』
かいぎゅうは、ふじつぼのこびりついたまぶたを下げ、目を細めて笑ったようだった。低い声だが、朗らかに軽やかな口調である。
『人間は、いつまでも水の中にいては冷えてしまう。そこの小島にお上がり。すてきな若あざらし達も、一緒に』
『は、はいっ。行きましょう、うずちゃん』
『うん、……』
光る樹の根元にうず雄は這いのぼり、ポトリーグはその背から下りた。
その時はじめて気が付いたのだが……震えが、止まらないのである!
ぴとん。ぴとッ!
左右にあざらし姉弟が、貼りつくように立つ。ふたりのおにくが放つ熱に励まされて、ポトリーグは深く息をついた。
「長じいちゃん、人間のこと知ってんの?」
水面に浮かぶ長かいぎゅうの全貌が、なんとなくだがポトリーグに見えてきた。ブレンダン修道院長や修道士たちと乗った船、二本帆柱のウェネテース船ぐらいに大きい。
『ああ。知っているよ』
「どうして……?」
『前にいた世界で、時々見たことがある』
ポトリーグは、ばちばちばちとまばたきをした。
『若き人間の子、ポトリーグや。私もその昔……あの≪氷の海≫を越えて、ここへたどり着いたものなのだよ』
がこん、ポトリーグは口を四角く開けた。うず雄とるる波も同様に開けたのだが、いかんせん長いおひげで見えにくい。
『長さまは、≪一番はじめのかいぎゅう≫のひとりなのですよ。はるか彼方の時代、べつの場所からこの地この海へ渡って来られた、創始かいぎゅう群の生き残りなのです』
ここまで案内してきたおじいちゃんかいぎゅうが、穏やかに言い添えた。このひとも、初めて見た時はなんて大きいのだろうとポトリーグ達はぶったまげたものだが……。長かいぎゅうを前にしては、それほどでもなかったのだなと思えてしまうから不思議だ。
『長さま。自分にはまだ、聞いてはならない話もあると思いますので……。先に湾へ帰りますね。るる波さんにうず雄さん、もう帰り道は大丈夫でしょう?』
『はい』
『では。もし何かあったら、大きく呼んでくださいよ』
おじいちゃんかいぎゅうが水面下に消えると、長かいぎゅうはうなづいた。さざ波が立つ。
『長さまは、そんな昔に遠くから泳いでいらしたのですか?』
静まり返った中で問うたのは、るる波である。
『そうなのだ、美しきあざらしのお嬢さん。私と……私の群れのいたところは、空の下に白い大地の見える海だった。そこの空と海とは、ポトリーグの瞳と同じ色をしていたよ』
うず雄がポトリーグの顔を見る。
『蒼かったのん、そこの空?』
『そう。けれどある時、私と私の群れは追われて、逃げることになった。昼に夜をついで泳いでいた時、夜空に緑色の光が満ちて、それが私たちのいる水の中にも差し込んだ。ずっとその中を進んでいって、次に海上に頭を出したとき――』
そこに広がる空は緑色だったのだ、と長かいぎゅうは言う。
『後ろには、びっしりと島のような氷がそびえていた。いま、我々が話の中に≪氷の海≫と呼ぶところだね』
自分のくぐり抜けてきた過程によく似ている、とポトリーグは思う。
「火柱の、ずっきゅん・ばっきゅんは見なかったんかい?」
『うむ! 私もそんなの見たことないのだ。きみの話をまたぎきした時、何だそりゃと思ったのだけど。いったいどんなのだね??』
うず雄やるる波もそうだったが、皆ここの部分はすこぶる食いつきがいい。
ポトリーグが改めてその様子を語ると、老かいぎゅうは感心したのか、ふお~と鼻づらを揺らした。ざううん、とまた水面に波が立つ。
「まあ、たまたま俺たちが通った時だけ、派手に火柱が出てたのかもしんないけどー」
『だろうねぇ。私らかいぎゅうはびびり屋だから、そんな風に恐ろしく海が荒ぶっていたら、渡って来れなかったろうよ。ははは』
老いた長かいぎゅうは、朗らかに言った。
『あのう、長さま。わたし達も、蛇たちが怖いんです。なのでポトリーグを≪氷の海≫へ連れてゆくのに、蛇たちのすみかを最大限に迂回したくて』
穏やかに、るる波が本題を切り出した。
『ですからどうか、蛇の島の場所を教えていただけませんか?』
『お願いします。ポトリーグを無事に、群れに戻したいのんです』
姉に続き、うず雄が一生懸命に頼み込んでくれている。
ぴとー、ポトリーグはうず雄により近く貼りついた。おにくが温い。
『ああ、いいとも。……君たちの足もとを、よくごらん』
長かいぎゅうに言われ、ポトリーグとあざらし姉弟は視線を落とした。
『ふつうの岩場や地面とは、ちがうのだ。わかるかね?』
「えー? だなあ、光る樹ってふつうじゃねえけど~」
『ふふ、樹は樹でまた異なるがね。岩地の形をよくごらん、ポトリーグや』
ポトリーグは目を凝らす。隣のうず雄のおにくが、もようんと波打った。
『そろってない? これ』
「あ~? ……あ、本当だ! なんで六角形なんだ!?」
『……ろっかてい……? なあにそれ、ポトリーグ』
ポトリーグはしゃがみ込み、るる波のお腹すぐ下の岩地に走る、割れ目を指でなぞってみせた。
「こういう、角の六つある形をそう呼ぶんだ」
『あらら。……言われてみれば、同じ形がぴっちり組み合わさって、かたまっているわね!?』
『ふしぎ~~』
そう。ポトリーグの鍋くらいの大きさの六角形の石が、蜂の巣みたいに隙間なく並んで、地面になっているのである!
『ここの洞窟ぜんたいが、その同じ形の石柱でできている』
長かいぎゅうは、ついと頭を上に向けた。
その視線の先を追うと、確かにぼんやりと見える洞窟の壁という壁は……うねり寄り集まるように上に向かう、細い石の柱でできているらしい。
全てが六角の石柱でできている、と言うことなのだろうか?
『奇妙だけれども、この石の柱のうねりはここから、≪蛇の島≫まで続いているのだよ。それこそ、海底を貫く通り道のようにね』
『えっ? それじゃあ――』
『ここの宮から石の柱の道を通ってゆけば、半日弱のその先に蛇たちの島がある。≪氷の海≫のてまえにある、蛇の王の宮へと通じているんだ』
長かいぎゅうの言葉に、ポトリーグとあざらし姉弟は顔を見合わせた。
『わかりました。……ではわたし達は、その道を大きく避けて南へ向かいます!』
「ありがとう、長じいちゃん。でもそれ、他のひとには言っちゃいけないんだよな?」
ポトリーグが先回りして言うと、長かいぎゅうはゆっくりまばたきをした。
『……そう。いずれのかいぎゅうも、最後にはそこへ旅立つことになるのだけどね』
謎めいた長の言葉に、ポトリーグは小首をかしげた。巨大な長かいぎゅうは、とても悲しそうに見える。
「……どういうことなんだ、それ? 長じいちゃん。かいぎゅう達が、≪蛇の島≫へ行くっつうこと?」
『うううーん……』
長い長い、ためらいのうなり声。そこにひょいと、高らかな別の声がはさまってきた。
『良いんでないのか~? たまには俺以外のやつに吐き出したってよう。ひげあざらしは遠くから来てんだから、ほとんど関係ないし』
あれ、とポトリーグおよびあざらし姉弟は目をむく。
案内してきたおじいちゃんかいぎゅうは帰ってしまって、洞窟には自分たちと長かいぎゅうしかいないはずなのに? なぜ、別の男性の声が……どこから聞こえてきたのだろう?
『ついでに言や、人間の小僧は善玉だぞ。鉄鍋で俺をすくっときながら、放しやがった。すくって救うの二重らせんで、生命が繋がったい』
『そうだねぇ。鮭や』
ぱしゃん!
長かいぎゅうのすぐ前の水面に、何かが跳ねた――。樹とはまた別の、光源が現れる。
『しゃ・け――ッッッ』
瞬間、るる波の野生本能が一挙に燃えさかる!
それを察知したポトリーグもまた本能的に、姉あざらしのおにくに両腕で抱きついた!
「るるっち! 今はだめっぽい気がすんぞ、おさえろッ」
『ふっっっは――ッッ。……失礼、すぅはあ……』
すんでのところで理性を取り戻した姉あざらし、……しかしまだ顔の輪郭が濃ゆい……!
『よしよし、よく我慢したなお姉ちゃん。今食われちまっちゃあ、戻って来るのに時間がかかっちまうしよう。まどろっこしくて仕方ねんだから、ちっとこらえてくんなよ? ここんち長かいぎゅうの、友達のよしみでな』
『……鮭が光って、しかもしゃべっているわ。何がどうなっているの……』
茫然として、るる波はつぶやく……。




