55. 人間のしろい亡骸
「……」
とねりこ杖を両手で抱きしめるように握って、ポトリーグは土の床に朽ち入ろうとしている、その白骨を見つめた。
だいぶばらばらになって、入り乱れているが……。間違いようのない、人の骨である。
大きく長い脚の骨、ごつごつした背の骨。横にかたむいている頭蓋骨には、あごがなかった。眼窩二つの中に、かつてあったはずの眼差しはなく――虚ろ、である。
本当に骨だけ。衣類も道具も、その人の生のよすがを示しうるようなものは、何もなかった。
ポトリーグは息を止め、そろそろと後じさりをして外に出る。
しばらく石家の前で、立ち尽くし――。
くるり、といきなり振り返る。それから一目散に、夜営地めざして駆け下りた。
下り坂で、しかも荒れ果てた古い道である。何度もすべりかけ、転びかけた。ポトリーグは本当に転んでしまう前に、しゃにむに次の足をじゃかじゃか踏み出すことで、かろうじて小舟の脇にすべり込んだ。
「るるっちぃ――っっ、うずっちぃぃぃぃぃ」
『ちょっと……どうしたのよ、ポトリーグ!?』
『さっきから見てたけど。上の方で、何があったのん?』
ぜぇはあ……ぱたん。
ポトリーグはとねりこ杖を取り落とし、寄ってきたあざらし姉弟の前に両ひざをついた。
「うわ……うわあ。うわぁああああーん!!」
そうしてるる波の首ったまに両腕をまわすと、子どもみたいに泣き出す。
……ちがった。
ポトリーグは、でっかい図体をしてはいるが、いまだ大人ではない。
子どもとして、今見たものの衝撃に耐えられず、決壊してしまったのだった。
・ ・ ・
どのくらい、そうしていただろう。あざらし姉弟は、何も言わなかった。
両腕でるる波にすがりつき、おひげに頬を埋めて泣きじゃくる少年の背中に、うず雄は自分の鼻づらをくっつけている。
あざらしおにくの温かさに、ポトリーグの震えが少しづつ吸い取られ、やがてようやくおさまった。
「……ひとが、死んでたんだよう」
かすれ声で言いつつ顔を離したポトリーグの鼻から、るる波のおひげに鼻水つり橋がかかる。
『あの、上のん方で?』
「うん」
ポトリーグは振り返って、両手でうず雄のひげを握る。
『ポトリーグ……。ひとって、つまり。あなたと同じ種族の人間が、死んでいたというの?』
「そうなんだ。るるっち」
あざらし姉弟にくっついたまま、ポトリーグは島の頂上で目撃したものについて話した。途切れとぎれに、つっかえながら。
それを聞きつつ、るる波とうず雄は衝撃を受けていた。
蛇の群れと大蛇に立ち向かい、慣れない航海でも弱音を吐かないこの少年が、こんなにおびえて泣き崩れてしまうなんて、と。
しかしあざらし姉弟は、やがて理解する。
「……その人はたぶん。ずうっと、ずうーっと大昔に、ここんちの島にたどり着いて……。俺みたいに皮の小舟で、たった一人でやってきて。そのまま出られずにこの島で暮らして、一人のまんま死んじまったと思うんだ」
ぽろん。
ポトリーグの蒼い瞳から、あらたに小さな涙の粒が湧いて、頬を伝った。むい、とるる波はそれを鼻づらでぬぐってやる。
亡くなった先人を、ポトリーグは自分の未来と重ねて見てしまったのだ。
たった一人でやってきて、たった一人で寂しく生き、たった一人で死んで白く骨になる未来。
彼は、帰ることができなかった……。
自分にも同じことが将来おこるのだと、運命から突き付けられたような気がして。
あまりの恐ろしさに、恐怖と絶望のどん底に落とされてしまったのである。
久し振りに見た同族が、無残にさびしい亡骸であったのだから、これは本当に無理もない、とるる波は思う。
特にポトリーグは年少の幼獣だ。群れからはぐれただけでも相当につらいのに、さらにこんな厳しい現実を前にしては、と厚いおにくの下で姉あざらしは胸を痛くしていた。
『……そうだったの。すごく悲しいわね、ポトリーグ』
「うん」
弟とちょっと顔を見合わせてから、るる波は低くポトリーグに言う。
『……かなしい所だから、もうすぐに出発しようか? それとも、もう少し休んでからゆっくり波にのる? ポトリーグがいちばん楽な方法を、選んでいいのよ』
「……」
ポトリーグはしょぼついた眼でるる波を見、そしてうず雄を見た。
「うずっち。何でもいいんだ、……魚とってくれるか?」
もふん、とうず雄はひげを揺らした。
『昨日のやつ。でっかいいわしが、近くにまだまだいっぱいいるのん。それでいい?』
「うん」
ポトリーグがうなづくと、うず雄はするりと岩の合間を這ってゆく。
食べる気持ちが少年にある、とわかってるる波はほっとしていた。
『わたしも何か、とってきてあげようか?』
「るるっちは……。ここに、いててくれ。俺は今からもう一回、上にのぼってくる」
『え、えええっ! なんで?』
ごしごし、と手のひらの底でポトリーグは顔をこする。
「どうしても。……やんなきゃなんない、と思うんだ。俺が」
ポトリーグはゆっくりと立ち上がり、とねりこ杖と白樫の櫂を手にした。
「人間は死んだら、土ん中に埋めるもんなんだ。あの人にはせめて、何かをかぶせなきゃいけないと思う」
『……ポトリーグ』
「やっぱだめそう、ってなったら。るるっちの方、見るからよう」
姉あざらしは長いひげを揺らして、ポトリーグにうなづく。
『わかった。わたしはずっとここにいて、あなたを見ているからね』
緑の空の下に、くっきりとそそり立つ黒い巌の頂。それをもう一度、ポトリーグはふり仰ぐ。
そうしてからポトリーグは、斜面の小道を再びたどり始めた。




