【アルカディア編】第4話
ドアが開く。
その瞬間、控室に満ちていた甘いスイーツの香りや、コーヒーの芳香が、一瞬にして吹き飛んだ。
代わりに流れ込んできたのは、ひやりとするほど澄んだ、研ぎ澄まされた冷気。
そして、空間そのものを書き換えてしまうような、圧倒的な存在感。
(あ……)
ソユンは、呼吸をするのも忘れて、その入り口に釘付けになっていた。
そこに立っていたのは、もちろん、数週間前のライブ会場で会った「世界の王」だった。
しかし、その姿はソユンの予想を裏切るものだった。
あの時は、完璧なスーツ姿だったが、今日は上質な黒のハイゲージニットに、細身のスラックスという、驚くほどラフな格好をしていた。
ノーネクタイの首元からは、白い肌と男らしい喉仏が覗き、広い肩幅や鍛えているのであろう厚い胸板のラインが、ニットの柔らかな生地越しに生々しく伝わってくる。
ラフなのに、少しも崩れて見えない。
むしろ、飾り気のないその姿が、彼の素材そのものの美しさと、隠しきれない王者の品格を、残酷なほどに際立たせていた。
「かっこい……」
後ろで、ミジュかサラのどちらかが、吐息のように漏らしたのが聞こえた。
無理もなかった。
そこにいるのは、彼女たちが検索結果として見ていた経済ニュースに出てくる「会長」ではない。
まるで映画のワンシーンから抜け出してきたような、この世で最も洗練された「一人の男性」だった。
Kは、部屋の中にいる4人の少女たちを見渡すと、ふわりと目を細めた。
あの冷徹な瞳が、春の日差しのように和らぐ。
「みんな。久しぶり。また会えたね」
低く、チェロの音色のように響く声。
しかしどこか恥ずかしげでもあった。
その声が耳に届いた瞬間、ソユンの思考回路はショート寸前まで追い込まれた。
(あ、挨拶…!挨拶しなきゃ…!)
Kが、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
一歩、また一歩と近づくたびに、ソユンの心臓は破裂しそうなほど激しく警鐘を鳴らす。
今だ。今しかない。
練習した通りに。
美咲さんに書いてもらった、あの完璧な言葉を。
リーダーとして、FLORIAの品格を示すために。
ソユンは、震える膝に力を込め、カッと目を見開いた。
そして、メンバーの中から一歩踏み出し直立不動の姿勢をとると、ありったけの声を張り上げた。
「コ、コノタビハッ!」
あまりの剣幕に、歩み寄ろうとしていたKが、驚いて足を止める。
後ろにいたカエデやミジュが「あっ」と息を呑む気配がした。
練習して流暢になってきていたセリフも元に戻ってしまった。
けれど、もう止まれない。
ソユンは、しわくちゃになった紙を両手で隠して握りしめる。
Kのほうを見てはいるが目は合っていない。
宙を見つめたまま「呪文」を一気にまくし立てた。
「ワタクシドモ、FLORIAを…キシャがホコル世界的プレステージ・ブランド『アルカディア』のグローバルアンバサダーとして…ゴシメイタマワリ、メンバー一同、心よりアツクオンレイ申し上げますッ!!」
広い控室に、ソユンの張り上げた声だけが反響する。
周りのスタッフたちから不安と緊張の空気を感じる。
しかし今はそんなことはどうでもいい。
噛まなかった。
言えている。
でも、まだだ。
ここからが一番難しいゾーンなのだ。
「このようなコウエイノキワミにヨクシ…身のヒキシマル思いでございます!K様のごキタイに――」
ソユンは、Kの名前とともに、本人の顔を見ながら次の言葉を紡ごうと視線を上げた。
そのときだった。
――見てしまった。
目の前に立つ、Kの瞳を。
「………」
黒曜石のように深く、全てを見透かすような瞳が、じっと自分を見つめていた。
そこには、驚きと、そしてそれ以上に隠しきれないほどの優しさが宿っているのが、すぐにわかった。
(あ……)
目が、合った。
たったそれだけのことで、ソユンの思考回路は宇宙に放り出された。
無重力空間を行く当てもなく彷徨う。
ソユンの頭の中が真っ白になった。
プツン、と何かが切れる音がした。
「………フ、フンコツ…サ……フンコツサ…」
口の中で、最後の単語が力なく転がる。
「フンコツサイシン」は最後まで走り切れず、続くはずだった「セイシンセイイ」も、「ハイエツ」も、「キョウエツシゴク」も。
数日間、寝る間も惜しんで暗記し続けたあの《《完璧な》》台本が、嘘のように頭から消え去ってしまった。
沈黙。
痛いほどの静寂が、部屋を支配する。
(どうして…)
冷や汗が、背中を伝う。
言葉が出てこない。続きが、いや挨拶の大半がもう思い出せない。
ソユンは世界に一人取り残されたかのように感じ、俯いてしまった。
大声で挨拶を始めた挙句、途中で黙り込んでいる。
失礼なことだろうか。それすら考えがまとまらない。
FLORIAは失望されたかもしれない。
恐怖で視界が滲む。
ソユンの瞳から、ついに涙がこぼれかけた、その時だった。
ふわり。
ビターな香水の香りと共に、温かい空気がソユンを包み込んだ。
「――っ!?」
驚いて顔を上げると、すぐ目の前にKがいた。
近い。
黒いニット越しに、彼の体温が伝わってくるほどの距離。
Kは、何も言わずに手を伸ばした。
その大きな手が、ソユンが胸元で握りしめていた、震える両手を――
そして、その中にある汗でしわくちゃになった紙ごと、そっと包み込んだ。
「大丈夫」
Kの温かく大きな手の感触に、ソユンの震えがピタリと止まる。
見上げると、Kは愛おしそうに目を細め、とろけるように優しく微笑んでいた。
「それ、見ながらでいいんだよ」
「え……」
「君が、一生懸命練習してくれた言葉」
Kは、ソユンの手の中にある紙に視線を落とし、また彼女の瞳を見つめた。
その声は、甘い。
あまりにも甘く、張り詰めていたソユンの心を溶かしていく。
「最後まで、聞かせて?」
その一言が、決定打だった。
怒られるわけでも、呆れられるわけでもなく、自分の「想い」を知りたいと言ってくれた。
ソユンの目頭が熱くなる。
Kに包まれたままの手の中で、くしゃくしゃになった紙をゆっくりと開いた。
涙で文字が滲んで見える。けれど、もう怖くはなかった。
「…フ、フンコツサイシン、セイシンセイイ、ツヨメさせていただくショゾンです。」
ソユンは頭が真っ白のまま、震える声で、続きを紡ぐ。
練習より下手になってしまっているだろうか。しかしそれでも構わない。
Kは、壊れやすい宝物を慈しむように、あるいは愛しい恋人の歌声を聞くように、優しい眼差しで頷きながら聞いてくれている。
「本日は、K様にハイエツでき……キョウエツシゴクに、ゾンジます」
ついに最後の一文字まで言い切った。
その瞬間。
パチ、パチ、パチ、パチ。
部屋にゆっくりとした拍手の音が響いた。
Kが、心からの敬意を込めて、拍手をしてくれていた。
当然、秘書や周りのスタッフもKに続いて手を動かす。
「ありがとう。最高の挨拶だった。難しい日本語をたくさん勉強してくれたんだね」
「は、はい……」
ソユンは、全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。
終わった。よかった。伝わった。失敗じゃなかった。
安堵の息をつこうとしたソユンに、Kがもう一歩、近づいた。
そして、彼女の手元を指差した。
「それ」
「え…?」
「その紙。…もらっても、いいかな?」
ソユンは、自分の手元を見た。
そこにあるのは、手汗で湿り、強く握りしめすぎてボロボロになった、ノートの1ページを破っただけの紙切れだ。
赤ペンで書き込みもしてあるし、端は少し破れている。
無論、渡すつもりで書いたはずもない。
「こ、こんな…汚いです!汗で濡れちゃってますし、ただのメモですし、ゴミです…!」
慌てて背中に隠したソユンを見て、Kは、ふっ、と喉を鳴らして笑った。
その笑顔は、今まで見たどんな表情よりも無防備で、少年のようだった。
「それがいいんだ」
Kはソユンを包み込むように背中に回した手を優しく解き、その紙を指先で摘み上げた。
「君が、俺のため…いや、アルカディアのために、こんなに頑張ってくれた証拠だ」
Kはその紙を、まるで最高級の宝石を扱うかのように丁寧に折りたたむと、黒いニットの胸元から手を入れ、内ポケットへと大切にしまい込んだ。
「宝物にするよ、ソユン」
ドクンッ。
ソユンの心臓が、今まで聞いたこともないような大きな音を立てた。
名前を呼ばれた。
宝物。
世界の富の全てを手に入れたような人が。
私の汗まみれの汚い紙切れを。
宝物だと言った。
「っ……」
顔が熱い。耳まで熱い。何の言葉も出なかった。
ただ目の前のKを、潤んだ瞳で見上げることしかできない。
Kは満足そうに頷くと、後ろで固まっていた他のメンバーたちにも視線を向けた。
「カエデ、サラ、ミジュ、みんなも今日はありがとう。楽しみにしてる」
そう言って一人ずつと目線を合わせたことを確認すると、秘書のアンナとともに控室を出て行ってしまった。
パタン、とドアが閉まる。
後に残されたのは、甘く痺れるような余韻と、4人の少女たち。
数秒の静寂の後。
「っわぁあああ!!!」
最初に叫んだのは、ミジュだった。
彼女は近くにあったクッションを顔に押し当て、ジタバタと悶絶し始めた。
「なにあれ!?なにあれ!?かっこよすぎでしょ!?ホント無理!!」
「ソユン!生きてる!?息してる?」
サラが、石像のように固まっているソユンに駆け寄り、肩を揺さぶる。
カエデも、顔を真っ赤にして、手で口元を覆っていた。
「なにあれ…反則……」
「最後、私たちのこと名前で呼んで!距離感近すぎ!」
興奮冷めやらぬミジュを中心に、控室は黄色い悲鳴で包まれる。
さっきまでの重苦しい緊張感など遠い過去のように、Kという劇薬が、彼女たちの不安を一瞬で熱狂へと変えてしまった。
しかしその熱狂の中心で、ソユンだけは、まだ一歩も動けずにいた。
自分の右手を、左手でそっと握りしめる。
そこにはまだ彼の手の大きく温かい感触が、確かに残っていた。
(宝物……)
彼の内ポケットにしまわれていった、自分の努力の結晶。
その光景を思い出すだけで、胸の奥がキュッと締め付けられる。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
心臓の音がうるさい。
さっきまでの緊張の鼓動とは、明らかに違う。
もっと熱く、もっと甘く、もっと切ないリズム。
「……Kさん」
誰にも聞こえないぐらい小さく、名前を呼んでみる。
それだけで、体温が一度上がった気がした。
リーダーとしての責任感、プレッシャー、不安。
それら全てを、彼はたった数分で、優しく溶かしてしまった。
「……ずるい」
ソユンは、熱く火照った頬を両手で包み込み、へなへなとその場に座り込んだ。
そこにいたのは、ただ一人の恋に落ちた乙女だった。




