【アルカディア編】第3話
***
黒いガーメントバッグに包まれた「アルカディア」のドレスと共に、一通の手紙が届いた夜。
FLORIAの寮は、日付が変わる頃まで興奮の坩堝と化していた。
「アルカディアなんて…本当にまだ信じられない…」
「しかもCM撮影だって!どこで撮影するんだろ!もっと痩せとかないと!」
「ねえ、Kさんどんな服着てくると思う!?」
メンバーたちは、まるで修学旅行の女子高生のように、布団の上で跳ね回り、未来への期待を胸に語り合っていた。
しかし、その熱狂の輪の中心にいながら、リーダーであるソユンの心の中には、時間の経過と共にある一つの「巨大な影」が落ち始めていた。
(CM撮影…Kさんが…)
その事実は、最初は単なる喜びだった。
けれど、興奮が冷め、冷静さを取り戻すにつれて、鉛のように重いプレッシャーへと姿を変えていった。
前回のライブで初めて出会った時、自分は何もできなかった。
突然のKさんの訪問にプレッシャーを感じ、ミジュに助けられて、なんとか一言挨拶ができただけ。
リーダーとして、気の利いた言葉一つ言うことができなかった。
Kさんは気にせず褒めてくれたが、それは突然の訪問だったから許されただけだ。
次は正式な仕事。ビジネス。
ただ可愛いだけのアイドルじゃ期待に応えることはできない。
(しっかりしなきゃ…!私がリーダーなんだから…!)
責任感が、ソユンをある「暴走」へと駆り立てていった。
***
数日後。
レッスンの休憩中、FLORIAのメンバーたちが汗を拭きながら床に座り込んでいると、ソユンがおもむろに立ち上がった。
その手には、びっしりと書き込みがされた一枚の紙が握りしめられている。
「ねえみんな、ちょっと聞いてもらってもいいかな。今度Kさんにお会いしたときの、お礼の言葉を考えてみたんだ」
ソユンの表情は、新曲の振り付けを覚えるときよりも真剣だった。
サラはタオルを首にかけたまま「お、ついにできたんだ!」と、明るい声で身を乗り出す。
彼女たちは知っていた。
ここ数日、リーダーがブツブツと何かを呟きながら、悩み続けていたことを。
ソユンは、コホン、と一つ咳払いをする。
そして紙に視線を落とし、練習の成果を披露し始めた。
「このタビは、私ドモFLORIAを、キシャがホコル世界的プレステージ・ブランド『アルカディア』のグローバルアンバサダーとしてご指名タマワリ…」
透き通るような白い肌を持つソユンの口から紡ぎ出されたのは、あまりにも似つかない重々しい言葉の数々だった。
「メンバー一同、心よりアツクオンレイ申し上げます。このようなコウエイノキワミにヨクシ、身のヒキシマル思いでございます。 K様のご期待にソエルよう、フンコツサイシン、セイシンセイイ、務めさせていただくショゾンです。 本日は、K様にハイエツでき、キョウエツシゴクに存じます。」
その場にいた全員の動きが止まった。
それは、まるで株主総会での事業報告か、あるいは一国の首相が行う所信表明演説のようだった。
普段の可愛らしいソユンからは想像もつかない、厳粛で、格式張ったスピーチ。
しかし、ソユン本人は真剣そのものだった。
リーダーとして、グループを代表する、完璧な挨拶。
彼女は、これがその「正解」だと信じて疑わなかった。
メンバーたちの反応は、様々だった。
最年少のミジュは、そのギャップに必死に笑いを堪えていた。
(やばっ、ソユンちゃん、ロボットじゃん…!)
彼女は口元を手で覆い、肩をプルプルと震わせている。
日韓ハーフで両言語を操るミジュは、それがかしこまった挨拶の言葉であることは理解できる。
ソユンなりの全力の敬意表現だと理解してはいたが、それゆえにシュールな光景だった。
一方、サラは目を丸くして素直に感心していた。
「すごい…!なんかカッコいいね!日本のドラマに出てくる秘書みたい!」
彼女もソユン同様に日本語の簡単な日常会話はこなせるが、ビジネス敬語は未知の領域だ。
だからこそ、純粋なリスペクトを感じていた。
そんな中、最年長の日本人メンバーであるカエデが優しく声をかける。
「…ソユン」
その静かな声に、ソユンははっと顔を上げる。
「ど、どうかな、カエデちゃん?日本語、変じゃなかった?」
カエデは少し困ったように眉を下げ、言葉を選びながら口を開いた。
「変じゃないわ。変じゃないけど……あのね、うーん…すごく気持ちは伝わるんだけど…」
彼女は、的確に核心を突いた。
「ちょっと、固すぎないかな…?それに、少し、長いかも…」
「えっ…」
その指摘に、ソユンの顔がカッと赤くなる。
「そ、そんなことないよ!あんなすごいドレスをもらっちゃったんだよ?感謝の気持ちを伝えるんだから、これくらいちゃんと言わないと!」
「でも、Kさん、もっと私たちの素直な言葉が聞きたいんじゃないかな。こんなに長くて難しい言葉だと、びっくりしちゃうかも…」
カエデはどうにかソユンを傷つけずに方向性を変えさせようと、優しく諭す。
しかしソユンは頑なだった。
「だ、大丈夫! 全部覚えられるから!もう半分くらい覚えちゃったし、今から変えて失敗したら怖いもん……。リーダーとして、これくらい言えないと示しがつかないでしょ!」
彼女の中で、これはもはや決定事項になっていた。
リーダーとしてのプライドを賭けた負けられない戦いでもあるのだ。
「それにこれ…美咲さんに頼み込んで書いてもらったの。『一番失礼のない、完璧な言葉を教えてください!』って」
「あー…美咲さんが…」
カエデは天井を仰いだ。
美咲が、ソユンの押しに負けて、とんでもない「最上級マニュアル」を書いてしまった光景が目に浮かんだ。
「とにかく、私はこれでいくの!」
ソユンは再び紙に目を落とし、ブツブツと練習を再開した。
その背中には、誰も触れられないような悲壮な決意が漂っていた。
***
それからさらに数日が経ち、CM撮影の日が近づいていたある日。
次の仕事へ向かう移動中の車内では、呪文のような声が聞こえてくる。
「フンコツサイシン…セイシンセイイ…フンコツサイシン…セイシンセイイ…」
ソユンは移動中も片時も台本の紙を離さず、受験生のように暗記を続けていた。
「ソユンちゃん、まだやってるの?」
隣の座席から、ソユンの練習風景にも見飽きてきたミジュが声をかける。
「まだっていうか、これからが本番なの!もうすぐ撮影なんだから」
ソユンは血走った目で答える。
その金色のウェーブヘアが、しょんぼりした子犬の耳のように、くたっと元気なく垂れ下がっているように見えた。
そんなソユンを見てか、サラは励ますように盛り上げる。
「これを聞いたら、Kさんもきっと『おっ、こいつやるな!』って思ってくれるよ!」
「でしょ?サラなら分かってくれると思った」
ソユンは嬉しそうに頷くが、その笑顔はどこか引きつっている。
運転席では、ハンドルを握るマネージャーの美咲と、助手席のカエデが小声で会話をしていた。
「美咲さん…あの台本書いたって…」
「う…ごめんなさい…普通の挨拶を勧めたんですけど、ソユンさん『簡単な言葉じゃ私たちの気持ちが伝わりません』って言って聞かなくて…」
美咲は申し訳なさそうに肩をすくめる。
カエデはバックミラー越しに、必死に紙に食らいつくリーダーの姿を見つめた。
(気持ちは分かるけど…そんなにガチガチになってたら、Kさん、逆に引いちゃうんじゃ…うまくフォローできたら良いんだけど…)
ソユンの真面目さが、今回は完全に裏目に出ている気がしてならない。
しかし、カエデもこれ以上ソユンを止められなかった。
FLORIAがKに認めてもらうため、FLORIAのために「理想のリーダー像」と必死に戦っているのだから。
そしてカエデ自身も、これまでの経験とは一線を画すKを相手に、うまくフォローする自信は持てていなかった。
***
そして、ついにその時がやってきた。CM撮影当日。
都心から少し離れた湾岸エリアにある巨大スタジオに到着したFLORIAの一行は、車を降りた瞬間、その場の空気に圧倒された。
「うわ……」
サラが、思わず声を漏らす。
そこは、ただの撮影スタジオではなかった。
倉庫を丸ごと改装したかのような巨大な空間。
天井には、見たこともないような最新鋭の照明機材が銀河の星々のように吊り下げられている。床を這う無数のケーブル、滑るように動く巨大なクレーンカメラ。
「これが…アルカディアのCM撮影…」
カエデは息を呑む。
アリーナライブの裏側を見たはずの彼女たちでも、この光景には足がすくんだ。 広い会場に散らばるライブスタッフとは、密度がまるで違うのだ。
ざっと見渡しただけでも300人。 映画界や広告界のトッププロたちが、この閉鎖空間にひしめき合い、張り詰めた空気を放っている。
たった数十秒の映像のために注ぎ込まれる、膨大な人、機材、その予算。
その異様な光景は、Kという男が持つ資金と権力の大きさを、物理的な質量として彼女たちの肌に突き刺してきた。
いつもは騒がしいサラやミジュも、そのスケールに圧倒され、いつもの軽口が出てこない。
***
現実感のないままスタッフに案内され、広々としたスイートホテルのような専用控室に通されると、そこにはまた別の驚きが待っていた。
部屋の中央に置かれたテーブルには、とても4人分とは思えない、まるで高級ビュッフェのようなケータリングが並んでいたのだ。
色とりどりのフィンガーフード、有名パティスリーのスイーツ、最高級のフルーツタルト。
部屋の隅には専属のバリスタまで待機しており、コーヒーの芳醇な香りが漂っている。
「見て見て!このマカロン、金が乗ってる!」
「すごーい!これ一個いくらするの?」
サラとミジュは大好きな甘いものを目の前にして、現実に戻りテンションが一気に上がった。
カエデも「わぁ、すごい…」と目を輝かせ、フルーツタルトに手を伸ばした。
さっきまでの緊張が、この豪華なお菓子たちによって少しだけ和らいだ。
しかし。
ただ一人、リーダーのソユンだけは、その華やかな輪に入ることができなかった。
彼女は足早に部屋の隅にあるソファにちょこんと座り込むと、膝の上にあの紙を置いて、まだブツブツと呟き続けている。
顔色は悪く、唇は乾燥し、心なしか震えているようにも見える。
(間違っちゃダメ…噛んじゃダメ…)
目の当たりにした大舞台。
その圧倒的なスケールを見せつけられ、ソユンのプレッシャーは極限まで達していた。
こんな凄い場所を用意してくれた人に、半端な態度は許されない。
私が失敗したら、FLORIA全ての評価に関わる。
「やっぱりアイドルじゃダメだ」と呆れられてしまうかもしれない。
美味しそうなスイーツの香りも、今の彼女には届かない。
喉がカラカラに乾いているのに、水さえ通る気がしない。
「ソユン…大丈夫?少しなんか食べたら?タルト、すごく美味しいよ」
カエデが心配して優しく声をかけるが、ソユンは引きつった笑顔で首を横に振るのが精一杯だった。
「う、うん…後でいただくね。今は、ちょっと…」
その声は、掠れてほとんど出ていなかった。
カエデは心を痛め眉を寄せ、サラとミジュも近づいてくる。
「ソユンちゃん、顔色が真っ白だよ…」
「たくさん練習したんだから大丈夫…!私たちもついて――」
サラが自信なさげな声で励ました、その時だった。
控室の入り口が、にわかに騒がしくなった。
廊下を行き交うスタッフたちの足音が止まり、空気が一瞬にして凍りつく。
そして、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「K会長、ご到着です!!」
その一言は、控室の中に雷のように響き渡った。
マカロンを手に持っていたミジュは慌てて口の中に放り込み、サラは鏡の前へダッシュしてポニーテールを整える。
カエデも姿勢を正し、ジャケットの襟を直した。
そして、ソユンは弾かれたようにソファから立ち上がった。
(来た…!)
心臓が、ドクン、ドクン、とうるさいほどに脈を打つ。
その鼓動が、耳の奥で響いている。頭の中が真っ白になりかけるのを、必死で繋ぎ止める。
(大丈夫。練習した。暗記した。完璧なはず。)
「この度は、私どもFLORIAを…」
口の中で、最初の一言を確認する。
大丈夫。言える。
コン、コン。
控えめな、しかし絶対的な響きを持つノックの音が、部屋の静寂を破った。
マネージャーの美咲が、震える手でドアノブに手をかけ、ゆっくりと開く。
数週間前と同じ。
いや、あの時以上に眩しく、圧倒的なオーラを纏った「彼」が立っていた。
世界経済の支配者。
Kが静かに部屋の中へと足を踏み入れる。
ソユンは、震える足を押さえつけ、一歩前へと踏み出した。
その手には、手汗でしわくちゃになった台本の紙が、命綱のように握りしめられていた。




