【アルカディア編】第5話
「――それでは、撮影準備に入ります!FLORIAの皆様、セットへお願いします!」
Kが去った後の甘い余韻に浸る間もなく、スタッフの鋭い号令が控室に響いた。
その声は、彼女たちを「乙女」の時間から、プロフェッショナルな「仕事」の時間へと引き戻す合図だった。
「は、はい!」
ソユンは慌てて立ち上がり、両手でパンパンと自分の頬を叩いた。
熱く火照った顔を冷まし、気合を入れ直す。
さっきまでのガチガチに凝り固まった恐怖心は、もうない。
今彼女の胸の奥にあるのは、Kからもらった「宝物」という言葉と、「彼の期待に応えたい」という前向きな使命感だけだった。
「行こう、みんな!」
ソユンが振り返ると、カエデ、サラ、ミジュも、真剣な表情で頷いた。
その瞳には、先ほどまでの浮ついた興奮とは違う、一流のアイドルとしての光が宿っていた。
***
「本番、よーい……アクション!」
カチン、というクラッパーボードの音が鳴り響く。
その瞬間、スタジオの空気は一変した。
光と影が支配する「アルカディア」の世界。
巨大な送風機が人工の風を作り出し、ソユンの金色のウェーブヘアと、カエデの黒髪を美しくなびかせる。
最新鋭のライティングが、彼女たちの肌を陶器のように輝かせ、纏っている最高級のドレスの質感――シルクの艶、シフォンの透け感、生地の深み――をドラマティックに浮き上がらせる。
カメラのレンズ越しに見る彼女たちは、「可愛いアイドル」ではなかった。
世界を魅了する若き女神たち。
「すごくいいよ!」
「カエデ、その視線キープ!」
「ソユン、儚くて最高!宝石みたいだね!」
世界的な映像監督が、モニターを見ながら興奮した声を上げる。
ソユンはカメラを見つめながら、意識を研ぎ澄ませていた。
ポージング、視線の配り方、指先の角度。
その全てにブランドの品格を乗せる。
(見てくれてるかな…Kさん)
スタジオのどこかで、Kが見守ってくれている。
その事実だけで、どんなに難しい要求もクリアできる気がした。
彼女たちは、水を得た魚のように、いや翼を得た天使のように、スタジオという名の天空を舞い踊った。
***
「はい、カット!セッティング変更のため、15分休憩入ります!」
2時間の集中した撮影の後、監督の声と共にスタジオの緊張がふっと緩んだ。
照明が落ち、スタッフたちが慌ただしく動き始める。
「ふぅー……疲れたー!」
「足パンパンだよぉ…」
サラとミジュが、ヒールを脱ぎ捨てる勢いでセットから降りてくる。
極限の集中状態から解放され、彼女たちは年相応の少女の顔に戻っていた。
「みなさん、お疲れ様です!すごかったですよ!」
美咲がペットボトルの水を渡しながら労う。
ソユンも大きく息を吐き、張り詰めていた肩の力を抜いた。
すると、ミジュが何か思い出したように声を上げた。
「あ!そうだ!ソユンちゃん!」
「ん?どうしたの?」
「さっき、何も食べてなかったでしょ!顔色悪かったし」
ミジュはそう言うと、ソユンの腕を引いて、スタジオの隅にある休憩スペースへと連れて行った。
そこには、先ほど控室にあったものと同じ、あの豪華なケータリングのワゴンが移動されていた。
「ほら!今なら食べられる?これ一緒に食べよ!」
ミジュが指差したのは、宝石のように輝くフルーツタルトだ。
控室でソユンが緊張のあまり手を伸ばせなかったあのお菓子。
「ミジュ…」
「早く食べよ!糖分補給しないと、後半持たないよ!」
「そうよソユン。Kさんも、私たちが元気なところを見たいはず」
サラとカエデも集まり、優しく背中を押してくれる。
ソユンは、仲間たちに胸を熱くしながら、そのタルトを一つ手に取った。
(美味しそう…)
サクサクの生地に乗った、たっぷりのカスタードと、瑞々しいイチゴ。
小さな口を開けて、一口かじる。
その瞬間。
甘酸っぱい果汁と、濃厚なクリームの甘さが、疲れた体にじんわりと染み渡った。
「……んっ!」
「どう?美味しい?」
サラが覗き込む。
ソユンは、口元のクリームを指で拭いながら、今日一番のとびっきりの笑顔を弾けさせた。
「うん!すごく、おいしい!」
その笑顔を見て、メンバーたちも「よかったね!」と笑い合う。
「私も食べよっと!」
「あ、サラそれ私が狙ってたチョコ!」
「早い者勝ちだから!」
キャッキャッという笑い声が、スタジオの片隅で花開く。
世界のトップブランドのドレスを着たまま、口いっぱいにスイーツを頬張る4人の少女たち。
華やかな「アルカディア」の世界に迷い込んだ、無邪気な妖精たちのようだった。
***
Kは、その光景をスタジオの上層階にあるマジックミラー貼りのVIPルームから、静かに見下ろしていた。
「……」
ガラスの向こうで幸せそうにタルトを頬張るソユンの姿を、じっと見つめていた。
先ほどの、今にも泣き出しそうだった顔とは別人の満開の笑顔。
小さな口を大きく開けて、リスのように頬を膨らませ、仲間たちと笑い合っている。
その姿を見て、Kの口元が、自然と緩んだ。
「……ふっ」
その声色は、呆れているのではなく、愛おしさが滲み出ていた。
隣に控えていた秘書のアンナは、主君の表情を見て驚いた。
(会長がこんな顔を……)
世界の経済界で恐れられる男が、アイドルの休憩時間をこれほど熱心に見守っている。
それは、アンナの知る「冷徹な資本主義の怪物」の姿ではなかった。
しかし、そろそろタイムリミットが近づいていた。
これから彼は、世界経済を左右する重要なサミットに出席するため、すぐに空港へ向かわなければならない。分刻みのスケジュールの合間を縫って、彼女たちに会いに来ていたのだ。
「会長、そろそろお時間となります」
「ああ」
「ご挨拶は、よろしいのですか?」
アンナが問うと、名残惜しそうにもう一度だけソユンたちを一瞥した。
「いい。せっかく楽しそうにしているんだ。水を差したくない、ただ…」
「ただ?」
Kはアンナの方へわずかに身体を寄せると、周りのスタッフに聞こえないよう、短く指示を出した。
「…かしこまりました。担当のマネージャーに伝えておきます」
「じゃあ、行くぞ」
Kは、上質なロングコートを羽織り、風のようにVIPルームを後にした。
その足取りは、来た時よりも少しだけ軽やかに見えた。
***
撮影は、予定よりも早く無事に終了した。
スタジオ中から大きな拍手が巻き起こり、花束が贈呈される。
「ありがとうございました!」「お疲れ様でした!」「楽しかったです!」
4人は充実感に満ちた顔で頭を下げた。
ふとVIPルームの方を見上げる。しかし、そこにはもう誰の姿もないようだった。
「あれ?Kさんは?」
「もう帰っちゃったのかな…」
少しだけ寂しそうな顔をするサラとソユンに、美咲が歩み寄ってきた。
「K会長は国際会議のため、空港へ向かわれるとのことで、先にお帰りになりました」
「あ……そうなんですね」
やはり忙しい人なのだ。
少し話ができただけで勘違いしてはいけない。
彼のような人が自分たちのために時間を割いてくれたこと自体が奇跡だったのだ。
ソユンが自分にそう言い聞かせようとした時、美咲が笑顔で言葉を続けた。
「ただ、伝言をお預かりしました」
「えっ?」
美咲は、手元のメモを見ながら伝えた。
「『撮影中の真剣なみんなも、休憩中に笑い合っているみんなも、とても素敵だった』……とのことです」
「ええっ……!?」
4人は顔を見合わせ、同時に頬を赤らめた。
見られていた。撮影中のキメ顔だけでなく、お菓子を頬張って、笑い合っていたあの無防備な姿も、全部見られていたのだ。
「うそーっ!?見られてたの!?」
ミジュが慌てて口元を手で覆う。
「やだ、私変な顔して食べてなかったかな!?」
サラも恥ずかしそうに頭を抱えた。
「ふふ、みんな完全に油断してたね」
カエデも照れくさそうに笑っている。
ソユンは、そんなメンバーたちの様子を見て、胸が温かくなった。
恥ずかしい。けれど、それ以上に嬉しい。
彼は完璧に作られた「アイドル」としての姿だけでなく、等身大の「私たち」のことまで、ちゃんと見ていてくれたのだ。
Kが残していった甘い余韻は、撮影が終わった後も、彼女たちの胸の中でキラキラと輝き続けていた。




