【シラージュ編】第9話
トリュフの《《ヴィシソワーズ》》が運ばれてきた時、4人は小さな歓声を上げた。
白い器の中に、淡いクリーム色のスープ。
その表面に、黒トリュフの薄いスライスが花びらのように散りばめられている。
「綺麗……」
ソユンが思わず呟いた。
「これ食べていいんですか……? もったいない……」
「ふ……食べるために作ったんだ、食べろ」
Kの一言で、4人は恐る恐るスプーンを口に運んだ。
「……おいしい」
サラが目を丸くした。
「なにこれ……冷たくて味がすごく濃い……」
「トリュフの香りが口の中で広がるだろ」
「はい……すごいです……」
4人がヴィシソワーズに夢中になっている間に、Kは次の料理をスタッフに伝えていた。
「次は魚にしよう。甘鯛の鱗焼きを。皮目はパリッと仕上げて、ソースはブールブランで」
スタッフが頷いて下がっていく。
「それと」
Kが付け加えた。
「付け合わせに甲殻類は使うな。ミジュは……エビが苦手だったな」
4人は手に持ったスプーンを止めていた。
「え……」
ミジュが目をぱちくりさせた。
「Kさん、なんで私の苦手なもの知ってるんですか!」
「全員分知ってるぞ」
「えっ、いつの間に……」
カエデも驚いた顔をしていた。
Kは少しだけ照れたような、しかしどこか得意そうな顔で言った。
「こっそり聞いておいたんだ」
その一言に、4人は顔を見合わせた。
世界中の会社を動かし、世界の香水を独占した男が。
自分たちの苦手な食べ物まで、恐らくマネージャーにだろう、こっそり聞いていた。
その事実が、何億円の買収劇よりも、4人の胸を深く打った。
「Kさん……」
ソユンの頬が、また赤くなっていた。
***
その後も、料理は次々と運ばれてきた。
甘鯛の鱗焼き。
和牛のフィレ肉のロースト。
季節の野菜を使った繊細なサラダ。
そして、それぞれの料理に合わせたノンアルコールのペアリングドリンク。
Kは一品が届くたびに、4人に料理の説明をした。
この魚はどこで獲れたものか。この肉のどこが特別なのか。このソースはどういう技法で作られているのか。
4人は、正直半分も理解できていなかったし、頭に入って来なかった。
しかし、Kが楽しそうに語る姿を見ているだけで、どの料理も何倍も美味しく感じた。
Kも一緒に食べた。
それが4人にとって何よりも嬉しかった。
これまで話すことはあっても、それ以上のことは起こらなかった。
しかし今夜は同じテーブルで、同じ料理を一緒に食べている。
「Kさん、この肉、今まで食べた中で一番おいしいです!」
ミジュが頬を押さえながら言った。
「そうか」
「本当においしいんですよ、噛んだ瞬間にじゅわって溶けて……」
「なら、また来よう。いや同じところでは芸がないか?」
Kはクスっと笑って4人を見る。
その笑顔と、「また」という言葉に、4人の心がふわりと浮いた。
また、がある。
この時間の先に、また、がある。
それだけで幸せだった。
***
一通りのコースが終わった頃。
4人は満たされた表情で椅子に身を預けていた。
何品出てきたのか覚えてはいない。
ただ一つ一つがこれまでの人生で食べたことのないような味だったことだけは確かだった。
実際には、この夜のメニューの総額は100万円を優に超えていた。
しかし4人には「よくわからないけど、すごく高いんだろうな」という感覚しかなかった。
***
デザートが運ばれてきた。
白い皿の上に小さなパンケーキがふわりと乗っていた。
焼き色は淡い金色。
その横に、信じられないほど軽そうなクリームが雲のように添えられている。
「わ……!」
ミジュが目を輝かせた。
「かわいい……ふわふわ……」
「食べてみろ」
4人がフォークを入れる。
パンケーキは驚くほど柔らかく、フォークが沈んだ。
一口、口に運ぶ。
「……っ」
ソユンが両手で頬を押さえた。
「おいしい……何これ……」
「何このクリーム!何でできてるんですか!?」
サラが興奮して声を上げた。
「口に入れた瞬間消えた! 」
「これはバニラと……」
Kが説明しかけたが、4人はもう夢中で食べていた。
「おいしいおいしい!」
ミジュが幸せそうに繰り返している。
カエデでさえ、「すごい……本当においしい」と珍しく素直に感嘆していた。
Kはその光景を静かに見ていた。
4人が自分が選んだ料理を美味しそうに食べている。
その姿を見るためだけに、このホテルを動かし、このメニューを組み、この夜を作った。
それで十分だった。
***
デザートを食べ終えて、穏やかな空気が流れていた時。
Kが何気ない声で聞いた。
「お前たち、いつも練習はどこでやってるんだ」
「練習ですか?」
カエデが少し意外そうな顔をした。
Kがそこに興味を持つとは思わなかった。
「事務所のレッスンルームが多いです。あとは寮の近くのスタジオを借りたりとか」
「広さは足りてるのか」
「んー……やっぱり曲によっては少し狭い時がありますよ」
サラが答えた。
「振りが大きい曲だと、端の方がぶつかりそうになったりして」
「歌の練習する部屋も少ないよね」
ソユンが付け加えた。
「ボーカルブースが4つしかなくて、他のグループと被ると順番待ちになっちゃって」
「でもまあ、もう慣れてますよ!」
ミジュが明るく言った。
「そうか」
Kは短く答えた。
その声は穏やかだった。
穏やかだったが、目は違った。
4人は気づかなかった。
しかしKの目の底には、何かを計算するあの鋭い光が一瞬だけ宿っていた。
狭い。足りない。順番待ち。
その言葉の一つ一つを、Kは静かに記憶に刻んでいた。
***
その後もいくつかの雑談を終え、夜が深まっていた。
東京の夜景はさっきよりも少しだけ灯りが減っている。
街が静かに眠りに向かっている。
しかし、この最上階のダイニングだけはまだ温かい空気に包まれていた。
やがてKが静かに言った。
「そろそろ送ろう」
「えー……」
ミジュが真っ先に声を上げた。
「まだここにいたいです」
「明日もあるだろ?」
「でも……」
「ミジュさん」
美咲が別室から戻ってきて、穏やかに声をかけた。
「もう遅い時間ですから」
「やだ……Kさんと離れたくないです……」
ミジュは椅子から動こうとしなかった。
本気で悲しみ、駄々をこねている。
ソユンも立ち上がりはしたものの、名残惜しそうにKの方を見ていた。
サラもカエデも同じ気持ちだった。
今夜の時間が余りにも心地よすぎて、終わるのが怖かった。
美咲はミジュをなだめようとした。
「ミジュさん、明日は朝から……」
「やだやだやだ」
「ミジュさん……」
「やだー……」
美咲が困り果てた時、Kが立ち上がった。
そしてミジュの前まで歩いていくと、その頭に大きな手を置いた。
ゆっくりと撫でた。
飼い猫をなだめるように。数回。
ミジュの駄々がぴたりと止まった。
Kはそのままソユンの方に移った。
ソユンの頭を同じように、ゆっくりと撫でた。
ソユンは目を閉じた。
次に、サラ。
サラは撫でられながら小さく笑った。
最後に、カエデ。
カエデは一瞬だけ目を伏せて受け入れた。
4人が全員大人しくなった。
Kの手の温かさが、それぞれの頭に残っていた。
「香水ができたら、またすぐに届けに来る」
Kの声は静かだった。
「だから、今日は帰ろう」
4人は黙って頷いた。
***
漆黒のリムジンが4人を寮まで送り届けた。
Kはホテルに残った。
翌朝には研究チームと共にアメリカへ発つ予定だった。
リムジンの後部座席で、4人はしばらく誰も喋らなかった。
それぞれが今夜の記憶を大切に胸の中で反芻していた。
やがて、ミジュが小さく呟いた。
「……Kさんの手、大きかったな」
誰も何も返さなかった。
しかし、全員が同じことを思っていた。
***
そこから数週間が過ぎた。
合同研究チームは、何度か日本に再度訪問し、FLORIAのメンバーと追加調査を行いながら、シラージュの香水開発に昼夜を問わず取り組んでいた。
4人の様々なパターンの体質データ。
好みの香りの微調整。
肌との相性テスト。
そして、Kが最後に追加した「4つの香りが混ざり合った時に調和すること」という不可能に近い条件。
通常であれば1年以上かかるプロジェクトだった。
しかし、KFGが投入した人員と資金は通常の規模ではなかった。
3社の調香チームから世界最高峰のノーズ(調香師)たちが選ばれ、専任として配置された。
香料のサンプルは世界中から取り寄せられ、試作は数百回を超えた。
研究員たちは休日も深夜も関係なく、ラボに籠もり続けた。
そして数週間後。
ついに、4つの香水が完成した。
***
ニューヨーク、KFG本社ビル最上階。
Kの執務室に、完成した4つの香水のサンプルが届けられたのは早朝のことだった。
Kは4つの小瓶をじっと見つめた。
手に取り、一つずつ蓋を開けた。
ソユンの香り。カエデの香り。サラの香り。ミジュの香り。
そして4つを同時に開けた。
混ざり合った香りが、ゆっくりと執務室の空気に広がっていく。
Kはしばらく目を閉じていた。
やがて目を開けると、アンナを呼んだ。
「アンナ」
「はい」
「日本に行く。今すぐだ」
「……会長」
アンナの声に僅かな躊躇いが混じった。
「明日はホワイトハウスでの大統領との会談が予定されております」
「キャンセルしろ」
Kの声は淀みなかった。
「……会長、あちらは合衆国大統領です」
「香水ができたら、すぐに届ける約束だったろ」
アンナはKの目を見た。
その目はもう日本にいた。
ここにいるのは身体だけで、頭はもう4人のことしか見ていない。
「……かしこまりました」
アンナはタブレットに手を伸ばした。
ホワイトハウスへのキャンセル連絡。
KFG広報部への事前通達。
日本行きの専用機の手配。
指が淡々と動いていく。
(……米大統領との会談を、香水の配達のためにキャンセルする)
その一文がタスクリストに記載される瞬間、アンナはもう驚きすら感じなかった。
この世界は、4人の少女たちのために後回しにされた。
***
その日の午後。
日本のニュースサイトに速報が流れた。
『K氏、ホワイトハウスでの米大統領との会談を急遽取り下げ。理由は未発表。KFG株に影響か』
市場が僅かに揺れた。
経済評論家たちが様々な憶測を述べ始めた。
「KFGに何かあったのではないか」
「K氏の健康問題か」
「米国との関係悪化の兆候か」
SNSでは不安と好奇が入り混じった投稿が飛び交った。
世界中がK会長の行動の「意味」を読み解こうとしていた。
しかしその「意味」は、世界中の誰にも想像がつかないものだった。
***
同じ頃。
美咲のスマートフォンが鳴った。
アンナからだった。
『例の香水が完成いたしましたので、会長が直接お届けに向かわれるとのことです。急なご連絡で大変申し訳ありませんが、FLORIAの皆様のご予定を調整いただけますでしょうか』
美咲はそのメッセージを二度、読み返した。
日付を確認する。
FLORIAの明日のスケジュールを頭の中で呼び出す。
明日は、日本の大型音楽特番の収録が朝から予定されていた。
当然4人とも出演する大事な仕事だ。
しかし……。
聞くまでもない、と思った。
4人に「K会長が来るけど、明日は音楽特番があるから会えませんね」と伝えることが可能だろうか。
想像しただけで、美咲は胃が縮むのを感じた。
美咲はスマートフォンをポケットにしまうと、静かに練習室へ向かった。
廊下を歩きながらどう切り出すかを考えていた。
しかし考えるまでもないことは分かっていた。
4人の答えは決まっている。
美咲の仕事は、その答えを聞いた上で、特番の制作サイドにどう言い訳するかを考えることだ。
練習室の扉の前で、美咲は一度だけ深呼吸をした。
そして扉を開けた。
中からは4人の歌声が聞こえていた。
明日の特番のための練習の最中だった。




