【シラージュ編】第7話
カエデが調査室に入った。
ソユンと入れ替わるように、静かに椅子に座る。
部屋の空気を確認するように、一度だけ深呼吸した。
合同チームの研究員たちが、カエデ用に準備した香料サンプルを並べ始める。
Kは、ソユンの時と同じ椅子に、同じように腰を下ろした。
カエデはその隣を一瞬だけ見た。
(……もう……近いってば)
しかし、ソユンとは違った。
ソユンの「近い」は、身体が制御を失うほどの「近い」だった。
カエデの「近い」は、心構えをして準備していた。
しかしそれでも息が詰まるような「近い」だった。
「では、始めさせていただきます」
研究員の声に、カエデはスッと姿勢を正した。
***
調査は滑らかに進んでいった。
カエデは研究員の質問に的確に答えた。
この香りは好きか。これは苦手か。どちらが長く纏っていたいか。
その受け答えは明確で、ほとんど迷いがなかった。
「ウッディノートは好きですが、重すぎるのは苦手です。軽いのにずっとそこにいてくれるような、芯のある香りが……」
「なるほど、シプレ系に近いイメージでしょうか」
「はい。それに少しだけ、清涼感があると嬉しいです」
研究員たちは、カエデの的確な言語化能力の高さに感心していた。
カエデの横顔は、凛として美しかった。
Kは隣に座り、口を挟むことなくその様子を静かに眺めていた。
時折、研究員が提示するムエット(試香紙)の香りをKも確かめ、無言で頷いている。
調査の半ばで、カエデは少しだけ手元のサンプルから視線を上げた。
そして、隣のKを見た。
Kもカエデを見ていた。
「あの……Kさん」
カエデの声は静かだった。
「どうした」
「パリのこと……本当に嬉しかったんです……」
Kはカエデの顔を真っ直ぐに見ていた。
「あの時、KFGのビルが見えた時、その……運命だなって。勝手ですよね……でも本当に心からそう思ったんです」
Kは何も言わなかった。
カエデも目を逸らさなかった。
ビデオ通話越しに言ったお礼とは違う。
直接目を見て、言葉にして、心からの感謝を伝える。
それが、カエデが今日のためにずっと準備してきたことだった。
「本当に、ありがとうございました」
「気にするな」
Kの答えは短かった。
しかし、その声は驚くほど柔らかかった。
「お前が自分の足で辿り着いた。それだけのことだ。」
カエデは少しだけ唇を緩めた。
「……はい」
部屋に静かな沈黙が流れた。
研究員たちが音を立てないように手元の作業を続けている。
美咲が壁際に立っている。
アンナがタブレットを手に、じっと見ている。
周りに人がいる。
それでもカエデには、この沈黙が二人だけのもののように感じられた。
***
調査が終盤に差し掛かった頃。
カエデは少しだけ迷っていた。
言おうか、言うまいか。
自分には似合わないかもしれない、と思った。
いつも冷静で、最年長で、メンバーの前では「頼れるお姉さん」として振る舞ってきた。
他人に甘えるという行為が、自分には合わないのではないかと。
しかし。
ボロボロの顔で泣きながら走った自分をKは知っている。
崩れた化粧の自分を知っている。
もう、この人の前で格好をつけることに意味はなかった。
「あの、Kさん」
「ん?」
カエデは少しだけ目線を落とした。
そして、ほんの少しだけ声を柔らかくして、言った。
「その……ぎゅってしてください」
部屋の空気が一瞬止まった。
美咲が壁際で目を見開いた。
(カエデさん……!?)
いつも3人の前でしっかりしているカエデが。
美咲は今日何度目になるか分からないが、必死に口元を押さえて驚きを押し込んだ。
Kはカエデの言葉を聞いて、少しの間カエデの顔を見た。
そして、静かに腕を広げた。
言葉はなかった。
どうぞ、とも、おいで、とも言わなかった。
ただ、腕を広げた。
カエデはその腕の中に、静かに収まった。
ソユンのように溢れる感情を抑えられなくなったわけではない。
ミジュのように衝動のままに飛びついたわけでもない。
ただ自分からそっと、Kの広い胸に顔を埋めた。
Kはカエデの背に手を回した。
強くも弱くもない、全てを包み込むような、ぎゅっとしたちょうどいい力加減だった。
カエデは目を閉じた。
Kの体温がじんわりと伝わってくる。
(……良かった)
「……ありがとうございます」
カエデがKの胸の中で、もう一度だけ言った。
先ほどとは違う「ありがとう」だった。
Kは何も答えなかった。
ただ少しだけ、腕の力を強め、髪をそっと撫でた。
美咲は部屋の隅で、静かに視線を床に落とした。
(……止められない。もう、止められないんだ……)
その確信だけが、胸の中に静かに積み上がっていた。
***
廊下のベンチ。
カエデが出てきた時、待っていた3人の目が一斉に向いた。
カエデの表情は普段とそれほど変わらなかった。
しかし目の奥に、いつもとは違う柔らかな光が宿っていた。
「どうだった?」
サラが聞いた。
「……良かった」
「なんですかそれ、怪しいー!」
ミジュが笑った。
カエデは否定しなかった。
「次、サラだよ」
「はーい!」
サラは立ち上がりながら、さりげなく髪を整えた。
誰もそれを指摘しなかった。
しかし、全員が見ていた。
***
サラが調査室に入った。
椅子に座ると、背筋を伸ばして研究員を見た。
「よろしくお願いします!」
その声は明るく、はっきりしていた。
いつものサラだった。
Kが隣に座っても、サラの表情は崩れなかった。
「好きな香りの系統はありますか?」
「フルーティとシトラスが好きです。でも子供っぽくなりすぎないやつが……」
「なるほど。グリーンノートを加えると、大人っぽさが出ますよ」
「これ、いいかもしれないです!」
サラの受け答えは明確で、テンポが良かった。
研究員たちもサラとの作業がやりやすかった。
カエデほどの細やかな言語化能力はないが、好き嫌いの直感的な反応が瞬時で、はっきりしている。
調査は順調に進んだ。
しかし、少し進んだ頃、今回はKのほうから声をかけた。
「サラ?」
「え、は、はい」
「今日は、特にかわいいな」
サラの手が止まった。
Kは断りも入れずに、サラのほっぺたあたりを、ふわりと撫でた。
「あっ、Kさん……? えっと、そんなことないですよ、ははは……」
Kに優しく触れられ、サラの頭はすぐに真っ白になった。
「いや」
Kの声ははっきりしていた。
「かわいい、間違いない」
Kはニコっと笑う。
「ちょっと……ずるいです」
サラは顔真っ赤にしてから、ふっと顔をKの方を見た。
朝から他の3人より早く事務所に行って、念入りにメイクをしたが、ずっと平静を装っていた。
しかし、簡単に見抜かれてしまえば、もう装う意味はなかった。
「もー……」
サラは自然に、甘えるように、Kの肩にそっと寄りかかった。
すると、Kはサラの肩に腕を回して、静かに抱き寄せた。
肩と腕の素肌にも迷うことなく触れた。
ソユンやカエデとはまた違う抱き方だった。
サラはKの広い肩に頭を預けた。
「見てすぐわかりました?」
「ああ」
「……怖いですね、鋭い人って」
「そうか?なら俺は世界一怖いことになるぞ?」
Kの声は笑っていた。
サラもくすりと笑った。
部屋の中で、その笑い声だけが小さく響いた。
美咲はやはり黙っていた。
(……4人とも、他のメンバーがいないとこうなるんだ)
ソユンもカエデもサラも、他の3人がいる前では歯止めが利く。
しかし、一人になるとタガが外れる。
いざ一対一になると誰も止める人間がいない。
(まあ……私はいるんだけど)
美咲はそう思いながらも、自分が止められるような空気ではないことも重々承知していた。
今後が、さらに心配になった。
***
そして、次はついにミジュの番となった。
ミジュが調査室に入った瞬間から、部屋の空気は少し変わった。
「よろしくお願いします!」
元気良く頭を下げて椅子に座る。
「Kさーん!待ちくたびれましたよ!」
隣のKに文句を、しかし最高の笑顔で話す。
「悪かったよミジュ」
Kも明るいミジュに引っ張られてか、少しテンション高めの声色で謝った。
研究員たちがミジュ用のサンプルを広げ始めた。
「ミジュ様はどんな香りがお好みですか?」
「甘いのが好きです! でもくどくないやつ! バニラとかフルーツとか……あと、あったかい感じの香り?」
「アンバー系が合いそうですね」
「わかんないけど、そうかもです!」
ミジュの反応は早く素直で、研究員たちにとっても最も分かりやすく、思わず笑顔になってしまう。
調査はてきぱきと進んでいく。
しかし、ミジュは作業の合間にちらちらとKを見ていた。
何かを企んでいるような、考えている目だった。
やがて、ミジュは意を決したように口を開いた。
「あの!」
「どうされましたか?」
研究員が顔を上げる。
「調査の参考として、Kさんの匂いも確認したいです!」
隣のKに、ではなくあくまで目の前の研究員に伝えた。
部屋の空気が止まった。
研究員たちが互いの顔を見合わせた。
美咲が天井を仰いだ。
アンナは無表情のままだったが、少しだけ口角が上がった。
ミジュは至って真剣な顔をしていた。
「だって、これはKさんの前でつける香水なんですよね? だったら、Kさんの匂いと合うかどうかが大事ですよね!」
論理は、確かに筋が通っていた。
しかしそれがどこまで本気なのかは、無邪気なミジュを見ても分からなかった。
「……それは」
研究員の一人が言葉を選ぼうとしたとき。
Kがクスリと笑う。
「ミジュ、来い」
ミジュはKのほうを振り向く。
「こっちへ」
ミジュは一瞬だけ固まり、それから勢いよく立ち上がった。
ミジュは最も大胆に、Kの膝の上に跨るように座った。
流石に部屋の中の人間たちは固まってしまったが、Kはミジュを抱きしめた。
ソユンの時とも、カエデの時とも、サラの時とも違った。
力強く、はっきりと。
ミジュが驚いた顔をしたのは最初の1秒だけだった。
次の瞬間には、少し背を丸め、Kの胸に顔を埋めて、思い切りぐりぐりと顔を擦り付けていた。
「Kさんの匂い!!」
「匂いがするか?」
「めっちゃ良い匂いがします!!」
「わかった、わかった」
「これと合う香水にしてください!!」
Kはミジュの頭を大きな手で撫でたあと、ぐっと押さえて動きを封じた。
しかし、腕は離さなかった。
ミジュはKの胸の中で、それでもむずむずと身じろぎしながら幸せそうに目を細めた。
研究員たちは震えた手で、それぞれのメモに何かを書き込んでいた。
何を書いたのかは分からない。
アンナはKとミジュの姿を静かに見ていた。
やがて短くため息をついて、美咲の方に視線を向けた。
「美咲さん」
「……は、はい」
「今後は、皆さまが個別にお会いする機会も、少し設けた方が良いかもしれませんね」
アンナの声は平坦だった。
しかしその目は、「このままでは収集がつかなくなります」と雄弁に語っていた。
美咲は深く、静かに頷いた。
「……そう、ですね」
KとFLORIAが会う機会が増えれば、今日のようなことがまた起きる。
しかし毎回今日のように個別に触れ合う機会を作ることは難しい。
常に4人が集まったままでは、それぞれの接触に対して、いつか嫉妬や感情の暴走が発生しかねない。
アンナが言うのだから、それが最善なのだろう。
美咲はそのことを考えながら、ミジュがKの胸に顔をぐりぐりと押し付ける行為がまだ続いていることに気がついた。
「ミジュさん、そろそろ調査に——」
「あとちょっとだけ!」
「……ミジュさん」
「最後まで待ったんですから!!」
美咲はもう何も言わなかった。
Kも腕をまだ、離していなかった。
***
全員の調査が終わり、施設の廊下に4人が揃った。
それぞれが少しずつ、顔の色が違った。
ソユンはまだ夢の中にいるような目をしていた。
カエデはいつもより少しだけ、目元が柔らかかった。
サラは何かをこらえるように、口元を引き締めていた。
ミジュは全員の中で一番、満足そうだった。
美咲はその4人の顔を順番に見た。
特段お互いを気にしたり、牽制し合うようなことはなかった。
他のメンバーがいない一対一の時間が、それぞれのタガを外したが、4人で揃えば、またFLORIAに戻る。
誰かが突出することも、誰かが取り残されることもない。
それは良かった、と思う。
ただ。
(……4人とも、Kさんのことどんどん好きになってる)
その事実だけが、じわじわと美咲の心に積み上がっていた。
今後が、果てしなく心配だった。




