【シラージュ編】第4話
KFGによる香水大手2社の電撃買収。
その発表から、わずか数時間後。
K本人による緊急記者会見が、日本時間の夜に行われると告知された。
ニューヨーク現地時間としては、極めて異例の朝の時間帯だ。
世界経済を揺るがす規模の発表を、Kがアメリカ本土にいながら日本時間の夜に合わせて行う。
その意味をメディアは様々に憶測した。
「アジア市場への明確なメッセージ」と分析する者もいた。
「日本の主要メディアの夜のニュース枠を狙った戦略」と読み解く者もいた。
「彼自身の母国に対する敬意」と都合よく解釈する者もいた。
しかし、その「本当の理由」を知る者は、地球上にほんの数人しかいなかった。
***
「本日FLORIAの皆様のスケジュールは、19時以降空いております」
その日の朝、アンナがKに伝えた一言。
それが世界規模の会見の時間を決めた。
世界経済の歯車が、4人の少女たちのスケジュール表に合わせて回り始めた。
アンナはタブレットに目を落としながら、心の中で深く息をついた。
そして黙々と、各国メディアへの会見時間の通達を進めていった。
***
日本、夜。
FLORIAの4人は、事務所の一角にある休憩スペースに集まっていた。
「美咲さん! 本当にここで見ていいんですよね!」
ミジュがテレビの前に陣取りながら、念を押す。
「もう何度言わせるんですか」
美咲は苦笑いしながら答えた。
「いいですよ。ただし、騒ぎすぎないでくださいね。他のスタッフもまだ事務所にいますから」
「はーい!」
4人揃って良い返事だったが、その場の空気を見れば、《《それ》》が守られないことは明白だった。
***
テーブルの上には、4人が自腹で頼んだ出前の料理が所狭しと並べられている。
サラダボウル、グリルチキン、玄米のおにぎり、フルーツの盛り合わせ、温かいスープ。
Kと出会ってから、4人の食生活は気づけば変わっていた。
肌に悪いもの、身体に負担をかけるものを自然と避けるようになった。
理由は誰も口にしない。
しかし、全員が分かっていた。
それでも今夜は、好きなものを少しずつ選んで頼んだ。
なんとなく、お祝いみたいな気分だったから。
「いやー今日はめでたいパーティだね!」
サラがグリルチキンを取り分けながら笑った。
「Kさんの会見を準備万端でリアルタイムで見れるなんて、初めてじゃない?」
カエデもいつもより少しだけ砕けた声で答えた。
「ね、ね、もう始まる時間だよ!」
ソユンがソワソワと時計を確認する。
「あと10分!」
「録画ボタン押した?」
「押した! 3つの端末で押した!」
ミジュが胸を張る。
「3つって……」
カエデが呆れた顔をして、4人は顔を見合わせて笑った。
***
美咲はその様子を入り口から見届けると、静かに部屋を出た。
「気が済むまで騒いでてください」
そう言い残して扉を閉めた。
部屋の中に4人だけが残った。
世界中で、おそらくここより、Kの会見を心待ちにしている場所はなかっただろう。
どんなドラマよりも。
どんなスポーツの試合よりも。
どんなアーティストのライブよりも。
4人にとってこれから始まる時間は、人生で最も輝く時間になるはずだった。
***
時刻が定刻を迎えた。
テレビ画面がKFGニューヨーク本社の会見場に切り替わる。
会場は世界中から集まった記者で埋め尽くされていた。
各国の主要メディアのロゴが入ったマイクが、壇上を取り囲むように設置されている。
カメラのフラッシュが絶え間なく光っていた。
そして。
壇上の中央に、Kが現れた。
「きゃあーーーーーー!!!」
休憩スペースに爆発するような黄色い歓声が響いた。
「Kさん!!!」
「かっこいい!」
「死ぬ! 死ぬ! 心臓死ぬ!」
ミジュが胸を押さえてソファの上で大騒ぎしている。
ソユンは頬を両手で挟んで、顔を真っ赤にしていた。
サラは「やばいやばい」と繰り返している。
カエデでさえも、両手をテーブルの上で組んで画面を食い入るように見つめていた。
***
画面の中の壇上には、Kだけではなかった。
両脇には買収された香水会社の会長たち、KFGが元々傘下に置いている香水会社の会長、そして通訳担当者1名が、それぞれ控えめに座っている。
Parfums Lumièreの会長。
Velaの会長。
そしてMaison de Premièreの会長。
3人とも業界で長年トップに君臨してきた、押しも押されもせぬ大物だ。
しかし、その3人がKの両側に並んで座っている光景は、どこか異様だった。
3人ともKよりも遥かに年上だ。
少なく見積もっても、Kの倍以上の年齢。
業界の歴史そのものを背負ってきたような、白髪交じりの紳士たち。
その3人を従えるように、堂々と中央に座るK。
年齢では孫世代と言ってもおかしくない、若き日本人の男。
しかし、画面に映る存在感は明らかにKが圧倒していた。
老紳士たちはどこか緊張した面持ちで、視線をKに送っている。
会場の空気もまた、その「中央の男」だけに自然と引き寄せられていた。
世界経済の覇者。
その言葉がこれほど似合う光景は、他にない。
「……なんで、こんなにかっこいいの……」
ソユンが絞り出すように呟いた。
その声はもはや言葉の体をなしていなかった。
身体が火照って仕方がなかった。
頬は赤く、目は潤み、呼吸が浅くなっている。
蕩け切った顔は、メンバーに見せられるようなものではないかもしれない。
「……私やっぱり、……部屋で一人で見ようかな……?」
ぼそっと誰に聞かせるでもなく呟いた。
しかし、3人はすでにそれぞれ画面に釘付けになっていた。
ミジュはスマートフォンを構え騒ぎ、サラは前のめりになり、カエデは目を細めてKを見つめている。
ソユンの小さな呟きは、誰にも拾われることなく、休憩スペースの空気に静かに溶けた。
***
会見は静かな迫力の中で進んでいった。
Kの声は画面を通しても圧倒的だった。
何を言っているのか、詳しくは分からない。
石油の時も、今回の香水会社の話も、4人にとっては別世界の言葉だ。
しかし、今回は香水、それに彼女たちにとっても高嶺のブランドとして多少親しみあるものだったので、楽しく聞いていた。
「Kさんって香水についても詳しかったんだ、質問に全部自分で答えてるもん」
サラが素直に呟いた。
「昔からなのかな?それとも今回勉強したのかな」
ミジュが感嘆する。
「どっちにしてもすごい……私たちはまだまだKさんの本当の凄さが分かってないのよ」
カエデは深くため息をつく。
底知れぬ力。魅力であり、時に恐怖ですらある。
それがKという人間だった。
4人はKの言葉を浴びながら、ただ画面の前に座り続けた。
会場の記者たちと同じように、Kという存在に圧倒されながら。
***
質疑応答が一通り終わったところで。
Kが姿勢を正した。
「質問は終わりか?」
「なら、もう一つ今日この場で発表したいことがある」
その一言で、会場の空気が変わった。
記者たちが一斉にペンを構え直す。
カメラのフラッシュがまた激しく瞬き始めた。
Kの背後の大型スクリーンが切り替わる。
新しいプレゼンテーション資料が映し出された。
「えっKさんがプレゼン?」
カエデが驚いた声を出す。
***
Kのプレゼンテーション。
今から5年ほど前、KFGがまだ世界の頂点に上り詰める途上にあった時代、Kは自ら自社のプレゼンテーションを行うことを好んだ。
圧倒的な説得力と、無謀と言われる寸前の攻撃的な挑戦の数々。
多くの人間を魅了し、今なお動画サイトにはそのころの映像が人気だ。
しかしKFGが世界の頂点に立ち安定してからというもの、ここ1〜2年はそのKが自ら登壇する機会はなかった。
そのKが今夜、久しぶりに自らスクリーンの前に立つ。
会場のざわめきは、その意味を理解した人間たちの、興奮と緊張を表していた。
「Kさん、一瞬で雰囲気変わった……」
ソユンが思わず呟いた。
「なんか……すごい」
「すごいしか言えない」
ミジュがスマートフォンのシャッターを連打しながら答えた。
「録画してるのに……」
「いいからいいから! リアタイで手元に残したいんだもん!」
ミジュの言葉を聞き、ソユンも慌てて自分のスマートフォンを構え始めた。
カエデとサラはそれを横目に見て、苦笑いを交わした。
しかし、その二人も画面から目を離せなかった。
***
「お前たちは香水の売り方について知ってるか?」
Kはスクリーンを背に、ゆっくりと話し始めた。
「香水市場は二つに大きく分かれる」
スライドが切り替わる。
「一方は、特殊な香り、個性を強く打ち出した、ニッチフレグランス。価格は高くコアなファンを持つが、市場規模は限定的だな。良くも悪くも……誰かの思い出に残るかもしれない」
「もう一方は、量産型の香水。手に取りやすいが、香りそのものへのこだわりは薄い。多くの人が買う香水はこちらだろう。だが残念ながら、数分後にはその香りは忘れてしまう」
「しかし……我々はどちらでもない、新しい領域を作る」
Kの声に僅かに力が籠った。
「良い香りというのは、香水単体では実現しないんだ」
スライドがまた切り替わった。
「人が元来持つ香りや熱と合わさることで、完成する」
スライドがまた切り替わった。
「香水は毛嫌いされるものでもなければ、特別な日のためのものでもない」
「もっと多くの人々の生活の中に。化粧品や装飾品と同じ地位に引き上げ、日常の一部にする」
Kの声が会場全体に響き渡った。
「身に纏うことそのものが自分自身を語る言葉になる。そういうものに我々が……いや、俺が香水を昇華させる」
会場が静まり返っていた。
3社の会長たちですら、Kの言葉に引き込まれていた。
Kが自らの名で旗を振ること、それが市場にとってどのような意味を持つのか、経済界に身を置くものほど理解できた。
FLORIAの4人も目が離せなかった。
Kが世界に向けて話しているというただその事実だけが、4人を画面に縫いつけていた。
***
「そのために」
Kは続けた。
「我々は3社合同の新しいブランドを立ち上げる」
会場の記者たちが一斉に身を乗り出した。
「|Parfums Lumière、Vela、そして|Maison de Première。この3社……香水業界トップ3の知見と技術と歴史を全て融合させ、新たな世界的メジャーブランドを創出する」
スライドが切り替わる。
そこには一つの単語が、大きく美しく表示されていた。
『Sillage』
「ブランド名は——『Sillage』」
Kの声がその単語を丁寧に発音した。
「フランス語で『香りの余韻』、そして『すれ違いざまの気配』を意味する」
スクリーンの「Sillage」の文字の周りに、ゆっくりと波紋のような淡い光が広がっていく演出が施されていた。
「人がすれ違った後にふと残り続ける、その人の気配。それこそが香水の本質だ。我々はその本質を世界に届ける」
会場が僅かなどよめきに包まれた。
「シラージュ……」
ソユンがその音を口の中で繰り返した。
「なんか……綺麗な名前」
ミジュが言った。
「Kさんが決めた名前なのかな」
その問いの答えは4人には分からない。
ただ、Kが口にした言葉だから美しく聞こえた。
それだけで十分だった。
***
「そして」
Kがさらに続けた。
「このシラージュにはブランドの顔となる、専属のグローバルモデルもすでに決めている」
会場がまた静まり返った。
世界的買収後に設立されたメジャーブランドの専属モデル。
そのニュースはファッション業界全体を確実に揺るがすことになる。
記者たちが固唾を呑んで、Kの次の言葉を待った。
***
休憩スペースの4人は、その瞬間、息を止めた。
しかし、声は出なかった。
出す時間がなかった。
頭の中で何かが音もなく崩れ落ちた。
モデルの話は、《《来ていない》》。
アルカディアの時は事前に連絡が来た。
あの日、美咲の口から信じられないような話が告げられた。
ロイヤル・ソレイユの時も、事前に話があった。
ミジュの事件でサプライズ発表になったが、それはあくまで内々の話で、ビジネスとしてはしっかりと事前に連絡があった。
でも……今回は何も来ていない。
美咲から何も聞いていない。
アンナから何も届いていない。
Kから何もなかった。
それが意味することは、一つしかない。
今回の専属モデルは、自分たちではない。
その結論がコンマ数秒で4人の脳内を貫いた。
しかし、考えてみれば当然のことだった。
KFGの傘下には世界中に無数のブランドがある。
アルカディアとロイヤル・ソレイユも、確かに世界的ブランドではあるが、それもKFG全体から見たら極一部だ。
それぞれがそれぞれに相応しい、世界的に著名なモデルを持っている。
自分たちがアルカディアとロイヤル・ソレイユの専属モデルをいただいているだけで、既に常識では考えられない話なのだ。
K-POPグループが世界最高峰のファッションブランドと、世界最高峰の時計ブランドの顔になる。
実際、最初にその話を聞いた時、4人は信じられなかった。
事務所の誰もが信じられなかった。
それほどに非常識な、奇跡のような話だったのだ。
それなのに。
いつの間にか自分たちは当たり前のように、次もあると思っていた。
Kさんが新しい何かを動かすたびに、その先に自分たちがいると無意識に信じていた。
Kさんにライブに来てもらい、
アルカディアのドレスを着せてもらい、
ロイヤル・ソレイユの時計をつけてもらい、
世間に秘密で作詞をしてもらい、
こっそり番号をもらい、
GPSを持って毎日を過ごしていること。
そういう記憶が積み重なるうちに、4人の中でKさんという存在がどんどん大きく近くなっていった。
しかしそれは自分たちの側の、一方的な感覚でしかなかったのかもしれない。
Kさんは世界一の大富豪だ。
その気になれば世界中の誰でも選べる。
どんなトップモデルも、どんな大スターも一言で指名できる。
そんな人間がなぜ自分たちを選び続けると思っていたのか。
なぜ次も自分たちだと信じていたのか。
自惚れていた。
間違いなく自惚れていた。
アルカディアのモデルにしてもらい、ロイヤル・ソレイユの話が来るまでの間、まだ確かに正しく認識できていた。
「Kさんが気遣ってくれるのは最後だ」と。
「これ以上の特別扱いは、望んではいけない」と。
あの頃の自分たちはまだ正しく怖がっていた。
でも今はもうそこに戻れない。
会いすぎた、声を聞きすぎた、救われすぎた。
だから、こんなに痛い。
4人はその数秒間で、走馬灯のようにKとの記憶が流れていくのを感じていた。
初めて会った夜のあの横顔。
アルカディアのドレスを纏って、撮影現場に立った日の高揚感。
Kと一緒に作った、Re:FLORAの旋律。
パリのビルに駆け込み、画面の向こうのKに泣きながら謝ったあの日。
全部、全部大切な記憶だった。
しかしそれらは全て、世界を牛耳る王の無数の「仕事」の、ほんの隙間に気まぐれのように生まれたものに過ぎない。
Kさんの本業は帝国の経営だ。
金融業界を操り、世界の石油を動かし、世界の香りを買い集め、次の瞬間には別の何かを動かしている人間だ。
自分たちはその広大な帝国の小さな一角に、偶然置いてもらっただけだ。
それでも――ソユンの目から涙が溢れた。
理屈では分かっていても感情は止まらなかった。
頬を伝った。
カエデは唇を強く噛んでいた。
ミジュはスマートフォンを持つ手が止まっていた。
サラは前のめりになっていた身体が、いつの間にかソファに沈んでいた。
数秒間の静寂だった。
その数秒間が4人にとっては、ずっとずっと長い時間に感じられた。
***
「——FLORIA」
Kの声が会場に響いた。
時が止まった。
***
スクリーンが切り替わった。
そこには、アルカディアの4人のキャンペーンビジュアル。
そして、ロイヤル・ソレイユの4人のキャンペーンビジュアル。
「FLORIAは、すでにアルカディアおよびロイヤル・ソレイユの専属モデルを務めている。彼女たちはKFGにおける、最も信頼すべきパートナーだ」
初めて世界に向けてKの口から、FLORIAの名が告げられた瞬間だった。
***
Kの顔は。
ほんの僅かに和らいでいた。
世界中の記者の前では誰にも気づかれない、微細な変化だった。
しかし、その表情には読める者が読めば、確かに何かが滲んでいた。
数秒前まで誰かを絶望の淵まで突き落としておいて。
その後で全てを抱きかかえるような。
そういう温かさと意地悪さが、半分ずつ混ざり合った。
Kだけが持つその顔だった。




