【シラージュ編】第3話
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執務室を出たアンナは廊下を歩きながら、すでに指を動かしていた。
タブレットの画面に、次々と指示が打ち込まれていく。
宛先は、KFGグループの経営企画本部——「経企」の最高責任者だ。
経企は、KFGが行うあらゆる大型投資や買収案件の実務を統括する、帝国の頭脳とも言える組織だ。
M&Aの立案から実行まで、法務・財務・人事・対外交渉の全てを横断的に動かせる、KFGの中でも屈指のエリートが集まる部署。
アンナのメッセージは簡潔だった。
『会長命令。香水業界における世界一位および二位企業の買収を最優先タスクとして即時開始。タスクフォースを編成し、全権限を付与する。詳細は追って』
送信から3分後。
経企の責任者から返信が来た。
『承知しました。直ちに動きます』
それだけだった。
余計な質問はない。
理由を問う言葉もない。
KFGの最前線で戦っている人間は皆、この組織のルールを骨の髄まで理解している。
会長命令に、「なぜ」は存在しない。
「どう実行するか」だけが問われる。
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タスクフォースが結成されたのは、アンナが指示を出してから1時間も経たないうちのことだった。
経企の精鋭に加え、法務部・財務部・IR部・対外渉外チームから即席で選抜されたメンバーが、KFG本社の上層に近い会議室に次々と集結していく。
全員が、世界の金融・法律・経営の最前線で戦ってきた選ばれた人材だった。
MBAホルダー。元投資銀行のトップアナリスト。各国の規制法に精通した国際弁護士。企業統合の現場を数十件手がけてきたプロフェッショナル。
そのチームが、一つの目標に向かって一斉に動き出した。
ターゲットは、Parfums LumièreとVela。
世界の香水市場における、頂点に君臨する二社だ。
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通常、世界大手企業の買収交渉には数年単位の時間がかかる。
株主との調整、規制当局の審査、競合他社の動向分析、デューデリジェンス。
一つ一つが、膨大な時間と労力を要するプロセスだ。
しかし、KFGには時間を金で買うという選択肢があった。
いや、正確には——金の力で、全ての障壁を同時に押しつぶすという選択肢があった。
Parfums Lumièreへの最初の接触は、タスクフォース結成から48時間以内に行われた。
KFGが提示した買収価格は、市場評価額の2倍。
それは取締役会が「断る理由を失う」数字だった。
さらに、既存経営陣の続投を保証し、ブランドの独立性を維持する条項を付けた。
金を積むだけではない。
相手が恐れていること——「買収後にブランドが消滅する」という懸念を先手で潰した。
Velaへのアプローチは、また別の手法だった。
英語圏を基盤とするこのブランドは、長年、特定の投資ファンドとの関係が複雑に絡み合っていた。
KFGの法務チームは、そのファンドの持分を水面下で先に買い集めた。
気がつけば、Velaの株式構造の中にKFGの影が静かに、しかし着実に入り込んでいた。
交渉のテーブルに着いた時には、すでに勝負はついていた。
各国の規制当局への対応も並行して進んだ。
EUの競争法、米国のFTC審査、日本の独占禁止法。
それぞれの国に常駐するKFGの法務チームが、各当局との根回しと書類準備を同時進行で進めていく。
通常なら1年以上かかる規制当局の審査が、KFGの場合は数ヶ月に圧縮される。
理由は単純だ。
各国の規制当局とKFGは、長年にわたって深い関係を持っている。
Kが日本政府の諮問委員を引き受けたのも、そうした関係性の一つに過ぎない。
そして何より、KFGの審査資料は当局が求める以上の情報を、求める以上の精度で、求める以上の速さで提出される。
反論する隙がどこにもない。
タスクフォースのメンバーは、連日深夜まで、あるいは夜を徹して作業を続けた。
しかし、誰も文句を言わなかった。
これがKFGという組織の戦い方だ。
限界を超えることが当然とされる場所。
そして、その先に見えるのが——世界の地図が書き換わる瞬間だ。
それを目の当たりにできることが、この組織にいる者たちの最大の報酬だった。
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そして数ヶ月後。
世界の香水業界に激震が走った。
『KFG、Parfums LumièreおよびVelaの全株式取得を完了。香水業界に電撃参入』
プレスリリースは、KFGの公式チャンネルを通じて全世界に同時配信された。
香水業界のトップ3が、全て同一グループの傘下に入る。
その事実が持つ意味を、業界関係者は即座に理解した。
原料の調達から製造、流通、小売まで——世界の香水産業のサプライチェーンを、KFGが掌握したことと同義だった。
業界紙は競うように速報を出し、株式市場では香水関連銘柄が乱高下した。
投資家たちの間ではKFGの次の一手を巡る憶測が飛び交い、専門家のコメントが各メディアを埋め尽くした。
そして、その発表と同時にもう一つの情報が世界に届いた。
『本日、K会長が緊急記者会見を行う』
石油会社の買収発表からまだ半年も経っていない。
その間に、世界的な香水メジャー2社を傘下に収め、自ら会見に臨む。
世界の市場は期待と懸念が入り混じったまま、相場が上下に揺れた。
経済の話題を扱う全てのメディアが、一つの名前を繰り返し叫んでいた。
K——。
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一方、日本。
その日、FLORIAの4人は朝から別々の現場に散らばっていた。
スケジュールの噛み合わせが悪く、珍しく全員がバラバラになった日だった。
最初にそのニュースを見つけたのはサラだった。
移動中の車内でスマートフォンを眺めていたサラは、ニュースアプリのトップに躍り出た速報を見て目を丸くした。
「え——!」
思わず声が出た。
隣に座っていたチーフマネージャーが驚いて振り返る。
「どうしたの、サラ?」
サラはチーフの言葉が聞こえていないかのように、画面を凝視していた。
数秒後、彼女は弾かれたようにFLORIAのグループLINEを開いた。
そして記事のリンクを貼り付け、一言だけ添えた。
『これ見て!!!』
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ソユンのスマートフォンが、事務所の休憩スペースで震えた。
収録の合間に一人で休んでいたソユンは、通知を見た瞬間反射的にLINEを開いた。
サラが貼ったリンクをタップする。
画面に速報が広がった。
ソユンは文字を追った。
KFG——香水会社——買収——会見——K。
「……っ」
声が出なかった。
代わりに両手でスマートフォンを握りしめた。
力が入りすぎて、指先が白くなった。
休憩スペースに一人きり。
誰かに声をかけたくても、かける相手がいない。
ソユンはただ画面を見つめたまま、その場で固まった。
心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
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「これどういうことですか!?」
移動中の車内で、サラがチーフマネージャーに画面を向けた。
「Kさんが香水の会社を買ったって! しかも2社も!」
チーフはサラが差し出したスマートフォンを見た。
ニュースの内容を流し読みする。
「……これは私も、初めて見たわ」
「なんで買ったんですか!?」
「それは私には……」
「Kさんがまた何かしてくれようとしてるんじゃないですか!?」
サラの声が車内に響く。
運転手がバックミラー越しにちらりとこちらを見た。
「サラ、声が……」
「でもチーフ! これ絶対そうですって!」
「落ち着いて。まだ何も分からないんだから」
「でも!」
「サラ」
チーフの静かな、しかし有無を言わせない声。
サラは唇を噛んで、スマートフォンをぐっと握りしめた。
落ち着けない。
全く、落ち着けなかった。
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「ミジュ、そろそろ打ち合わせの時間ですよ」
美咲が声をかけた。
返事がない。
「ミジュ?」
美咲がミジュの方を見ると、彼女は収録前の控室でスマートフォンに顔を近づけて何かを読んでいた。
その耳が真っ赤だった。
「ミジュどうしたの?」
「え——あ、えと、はい!」
ミジュが顔を上げた。
目がキラキラしている。
いや、キラキラどころではない。今にも弾け飛びそうな、あの目だ。
「打ち合わせ、始まりますよ」
「わかってます! わかってますけど——見ました!? 美咲さん!」
ミジュが満面の笑みで、手を思いっきり伸ばし、スマートフォンを美咲に向けて突き出した。
「Kさんが!!!」
「声! 声が大きいです!」
美咲が慌てて周囲を見渡す。
控室の外では、収録スタッフが行き来している。
「と、とにかく、今は打ち合わせの時間です」
「でも!」
「でも、じゃなくて!」
美咲はミジュの肩を両手で掴んで、打ち合わせの席に物理的に連れて行った。
ミジュは席に着きながらもスマートフォンを手放さなかった。
テーブルの下でこっそり何度も画面を確認している。
美咲は、ミジュが落ち着くまで今日の打ち合わせが終わらないだろうと直感した。
深く静かに息をついた。
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カエデは一人だった。
雑誌の個人取材のため、都内のスタジオに来ていた。
衣装合わせの合間に与えられた短い休憩時間。
楽屋のソファに腰を下ろしてスマートフォンを確認すると、グループLINEにサラからの通知が入っていた。
リンクを開く。
速報の見出しが画面に広がった。
カエデは静かに読んだ。
一行、また一行。
彼女は声を上げなかった。
騒がなかった。
ただ画面を食い入るように見つめた。
楽屋にスタッフは誰もいない。カエデ一人きりだ。
だから誰も見ていなかった。
カエデのいつも冷静な瞳が、ゆっくりと潤んでいくことを。
「……また」
誰にも聞こえない声で呟いた。
「また、Kさんが……」
スマートフォンを持つ手がかすかに震えていた。
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4人は、それぞれ違う場所で。
それぞれ違う形で。
しかし、同じ気持ちで。
世界の王の新しい動きを受け取った。
この買収が自分たちに何をもたらすのか。
まだ誰も知らない。
しかし、知らなくても分かることがある。
Kが、また何かをしようとしている――きっと、自分たちのために。
それだけで4人には十分だった。
彼女たちに、新たな翼が授けられようとしていた。




