【シラージュ編】第2話
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執務室のソファに並んで座る、5人の若い秘書たち。
Kの「欲しいものは何か」という質問に、最初はざわめいていた空気が、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
一人が、恐る恐る口を開いた。
「えっと……お菓子、とか……ですかね」
「服や、バッグです……」
「化粧品も……欲しいです」
次々と、控えめな答えが続く。
Kはそれらを、静かに聞いていた。
無表情ではない。
しかし、特別な反応もない。
その静けさが、かえって秘書たちの緊張を煽っていた。
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そして最後に口を開いたのは、5人の中で一番端に座っていた一人の秘書だった。
入社2年目。
秘書室の中でもひときわ目を引く存在だった。
整った目鼻立ちに、柔らかく波打つ髪。
学生時代は同年代でずば抜けた学歴を誇り、そのままKFGの入社試験を突破、さらに秘書室試験という入社よりも遥かに難関とされる選抜を経て、この場にいる。
しかし今の彼女はそのキャリアの輝かしさと裏腹に、明らかに顔が紅潮していた。
Kが自分たちに、直接話しかけている。
近い距離で、目を向けている。
世界最大の金融帝国を率いるこの男が。
緊張とそれを上回る興奮が、彼女の全身を熱く染めていた。
「あの……香水、です」
小さいがはっきりとした声だった。
「香水が……欲しいなと思って、います」
***
Kの目が、ほんの僅かに動いた。
眉がピクリと上がる。
その変化は微細だった。
しかし常にKを観察しているアンナには、明確に見えた。
「……香水か」
Kが低く呟いた。
「お前、香水が好きなのか」
「は、はい……好きです」
秘書は真っ直ぐに答えた。
声が少し震えている。
「今日もしているか?」
「……はい、しております」
Kはその答えを聞いて、ふん、と短く鼻で相槌を打った。
そして。
「こっちへ来てみろ」
静かな、しかし有無を言わせない声だった。
その一言の意味を部屋にいた全員が、瞬時に理解した。
自分のところへ来い。
匂いを嗅がせてみろ。
ということだ。
秘書は言われるがまま立ち上がった。
Kの元へと歩み出そうとした、その瞬間。
「会長」
アンナの声が静かに、しかし明確に部屋に響いた。
Kがアンナを見る。
アンナは完璧な無表情のまま告げた。
「それはまっすぐなセクハラですよ」
***
部屋の空気が一瞬だけ止まった。
5人の秘書たちが、各自の表情を整えるのに全力を尽くした。
もちろん、Kが若い秘書にちょっかいを出したところで、その秘書が訴えるような事態にはならない。
KFGの秘書室は入社基準をはるかに超える、厳格な採用プロセスを持っている。
複数回に渡る面接と、心理・倫理・秘密保持に関する徹底した審査。
そこを突破した人材たちは、この会社のルールとKという存在の「特殊性」を骨の髄まで理解した上でこの場にいる。
訴えるなどという発想はそもそも存在しない。
しかし。
アンナが止めたのは、そういう理由からではなかった。
(……会長は意識していないでしょうが)
アンナの脳裏にFLORIAの4人の顔が浮かんだ。
あの4人がもし、こんな場面を知ったら。
香水が気になり若い秘書の匂いを嗅ぐなどという手段を使っていることを知ったら。
失望するかもしれない。
いや、確実に傷つく。
アンナは主君のために、止めてあげたのだ。
Kはアンナの言葉を受けて数秒間、何かを考えるような顔をした。
そして。
「まあいい」
あっさりと引いた。
「戻れ。参考にする」
5人の秘書たちは深々と頭を下げると、足早に執務室を後にした。
扉が閉まった。
静寂が戻る。
***
「アンナ」
「はい」
「香水を作る」
アンナはその言葉を聞いた瞬間、全てを理解した。
(……これならまだ良い方でしょうか)
「世界一高いものはいくらだ」
「少々お待ちください」
アンナは手元のタブレットを操作した。
「現在ギネス世界記録に認定されているものですと、約1億4千万円ほどになります。ただしボトルにダイヤモンドや純金が大量に使用されており、価格の大半はそのケース代に相当します」
「ダイヤモンドのケース」
Kはその情報を一瞬で処理した。
「下らんな」
断言だった。
宝石を詰め込んで値段を吊り上げる、その発想をKは一秒で切り捨てた。
「おっしゃる通りかと」
Kは少しの間、考えた。
「アンナ。うちに香水の会社はあったか」
アンナはKFGの傘下企業リストを、頭の中で即座に検索した。
「ございます。フランスの老舗フレグランスメゾン、Maison de Première。世界大手の香水ブランドです」
「世界で何番目だ」
アンナは一拍だけ間を置いた。
「……ほぼ同ランクで競っている企業が複数ありますが、一応世界三番手という位置づけになります」
「一番と二番は?」
「……現時点では、KFGグループには含まれておりません」
「そうか」
Kは頷いた。
至って自然な動作だった。
「じゃあ買収だ」
「……はい?」
「一位と二位を、今すぐ買え。予算は気にしなくていい。早急に頼む」
アンナの思考が一瞬停止した。
(……はぁ)
(石油会社の買収が完了したその日に……次は世界大手の香水会社を2社同時にですか……)
(しかも「早急に」)
「……かしこまりました」
アンナは感情を完璧に殺して答えた。
「それと」
Kは続けた。
その声のトーンがわずかに変わった。
抑えようとしているのに、滲み出てくる何か。
「三社合同で特別ブランドを作らせろ。新しい香水ブランドだ」
「……特別ブランド、でございますか」
「ああ。そのブランドであいつらへのプレゼントを作らせる」
《《あいつら》》。
「もちろん専属モデルに」
アンナは一言も発しなかった。
しかし、Kは構わず続けた。
「あいつらが知ってるような、香水ブランドを2社も買収して、3社合同の新ブランドを発表、専属モデルにして、世界に一つの香水を……」
その先は声に出なかった。
しかしKの顔が雄弁に語っていた。
4人がその事実を知った瞬間の、あの反応。
目を見開いて、声を上げて、「Kさん!?」と叫ぶあの顔。
それを脳内で鮮明に再生しているのだろう。
Kの表情は、石油会社の買収が完了した瞬間よりも。
世界規模の記者会見を終えた瞬間よりも。
はるかに満足げだった。
***
アンナはその顔を見て。
呆れたという感情を胸の奥にしまった。
しまいきれたかどうかは、分からない。
「……どうした」
Kがふとアンナを見た。
「何でもございません」
「なら早く」
「かしこまりました」
「いくら使ってもいい。ただ……《《早く》》な」
最後の「早く」に、Kの本音が全て込められていた。
FLORIAに、早く喜んでほしい。
早くあの顔が見たい。
早く届けたい。
アンナは静かに一礼すると、執務室を後にした。
***
廊下に出た瞬間。
アンナは手元のタブレットを開いた。
現在進行中のタスクリストが、画面に広がっている。
石油会社「アトランティス・エナジー」買収後の経営統合計画策定。
傘下入り後の人事方針の確定。
各国規制当局への対応フォローアップ。
株主への説明資料の準備。
どれもがS級の優先度を持つ緊急案件だった。
これらは全て本来、今この瞬間から最大速度で処理されなければならないタスクだ。
しかし。
そのリストの最上部に。
今、一つ新しいタスクが堂々と鎮座することになった。
「世界大手香水会社2社の買収交渉を開始——至急」
アンナはそのタスクを静かに一番上に移動させた。
会長案件が常に優先される。
それがKFGのルールだ。
アンナは音もなく深く息をついた。
世界のエネルギーインフラを手中に収めた翌日から、世界の香りを買い集める。
その次は、何が来るのか。
アンナにはもう、想像する気力すら、なかった。
タブレットの画面に向かいながら、アンナは関係する部署のトップへ矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。
今日も帝国の歯車が、王の気まぐれのために静かに、そして全力で回り始めた。




