【幕間②】アンナ・如月
***
アンナ・如月。
KFG会長K付き第一秘書。KFG最年少上級役員。
7ヶ国語をネイティブレベルで操る語学力。
睡眠時間3〜4時間。プライベートゼロ。
世界の王の隣に立つことを許された、唯一の人間。
***
アンナは、アメリカで生まれた。
父は日系アメリカ人の外交官、母はフランス系カナダ人の言語学者。
家庭内では英語、フランス語、日本語が日常的に飛び交い、アンナは物心がつく前から、言語の境界線というものを知らずに育った。
幼少期から、異常だった。
5歳で大人向けの新聞を読み、8歳で大学レベルの数学を独学し、10歳の時点で「この子にはもう教えることがない」と家庭教師が匙を投げた。
しかしアンナ自身は、周りが遅いだけだと思っていた。
その認識は、大学に入っても変わらなかった。
***
ハーバード大学。
アンナは、経済学と言語学のダブルメジャーで入学した。
通常4年かかるカリキュラムを——3年で、終えた。
飛び級だった。
成績は、全科目で最高評価。教授陣の間では「10年に一人の頭脳」と囁かれていた。
しかし、アンナにとって学部の3年間は退屈だった。
講義の内容は、教科書を一度読めば理解できた。
ディスカッションでは、教授よりも先に結論に辿り着いてしまい、議論が成立しなかった。
周囲の学生たちも優秀だったが、アンナの思考の速度には、誰もついてこられなかった。
(私より頭の良い人間はいないのだろうか)
その問いが、学部時代のアンナの唯一の悩みだった。
贅沢な悩みだった。
しかし、天才にとっての「退屈」は——凡人にとっての「苦痛」と同義だ。
自分の全力を出せる相手がいない。
全力を出す場所がない。
その空虚さが——アンナの胸の底に、静かに沈殿していた。
***
学部卒業後、アンナはハーバード大学院のジョイント・ディグリー・プログラムに進んだ。
JD(法務博士)とMBA(経営学修士)の同時取得。
ハーバード・ロースクールとハーバード・ビジネススクールの、最難関の合同課程だ。
通常、それぞれを単独で取得するだけでも、アメリカのエリート層の頂点に位置する学位だ。
それを同時に取る。
このプログラムを修了する人間は、アメリカ全体でも、毎年ほんの一握りしかいない。
法律の最高学位と、経営の最高学位。
この二つを同時に持つということは、世界のどんな契約書も読み解け、どんなM&Aの戦略も設計でき、どんな国の法制度の隙間も見抜ける、ということを意味する。
アンナは4年間のプログラムを、4年で終えた。
さすがに飛び級はしなかった。
しかし、それは「難しかったから」ではなく、「この4年間で、できる限り多くの知識武装をするため」だった。
JDの課程では、法廷弁論のシミュレーションで、教授陣を相手に無敗の記録を打ち立てた。
MBAの課程では、ケーススタディの分析で、教授が用意した「模範解答」よりも優れた解答を提出し、模範解答そのものが書き換えられたことが、二度あった。
大学院を修了した時——アンナは25歳だった。
法務博士。経営学修士。7ヶ国語話者。ハーバード史上最も優秀な学生の一人。
世界中のあらゆる法律事務所、投資銀行、コンサルティングファームがアンナを欲しがった。
しかし——アンナが選んだのは、それらのどれでもなかった。
***
大学院の2年目だった。
ある夜、アンナは、金融工学の最新論文を読み漁っていた。
いつもの習慣だった。
世界中の学術誌、業界紙、研究機関のレポート。
アンナは、自分の知識を常に最前線に置いておくために、膨大な量の文献を毎日読み続けていた。
その中に一本の論文があった。
タイトルは覚えていない。
しかし、中身は忘れられなかった。
それは、現在の世界の市場ルールを根本から解体し、再構築するような理論だった。
既存の経済学の常識を、土台から覆す。
中央銀行の役割。通貨の本質。国債の構造。為替の力学。
それら全てを、一つの統一理論の中に組み込み、新しい秩序として提示していた。
悪魔的だった。
美しく、恐ろしく、そして——完璧だった。
アンナは、その論文を読みながら自分の手が震えていることに気づいた。
(……これを書いた人は、何者だ)
著者名を確認した。
高名な教授ではなかった。
著名な実務家でもなかった。
KFGグループの会長。
すでに世界的大企業へとKFGを急成長させ、世界の市場を文字通り「荒らしまくっている」若き暴君。
経済メディアが「資本主義の怪物」と呼び、各国の中央銀行が警戒し、ウォール街の古参たちが名前を聞くだけで顔をしかめる存在。
アンナも、その男の名前をもちろん知っていた。
しかし、論文を読むまでは「若くて優秀な経営者」の一人としか、認識していなかった。
論文を読んだ後は違った。
(……化け物)
アンナの人生で、初めてだった。
自分の頭脳をフル稼働させても——さらに先に、この男は立っている。
そして、それすら凡人には理解できないだろう。
(この人を正しく評価できる人がどれだけいるか……)
恐怖ではなかった。
嫉妬でもなかった。
歓喜だった。
天才ゆえの歓喜。
自分より上がいた。
自分が全力を出しても追いつけない存在が、この世に存在していた。
退屈が——終わる。
その欲望がアンナの進路を決定し、そのときが来るまであらゆる知識を身に着けた。
***
大学院修了後、アンナはKFGに入社した。
世界中の一流企業からのオファーを全て断り、KFGの門を叩いた。
KFGは当時すでに世界屈指の就職難易度だったが、アンナにとって合格は簡単なものだった。
配属先は、グローバルM&A統括部。
KFGが世界中で仕掛ける買収・合併案件の、最前線を担う部署だった。
花形中の花形。
しかし、ハーバードのJD/MBAホルダーであるアンナにとっても、学問と実務は、違う。
論文で読んだ理論と、実際の交渉テーブルで起きることは、全く別の世界だった。
アンナは、入社初日から全力で走った。
朝5時に出社し、深夜1時に退社する。
睡眠は3時間。
それでも足りなかった。
学ぶべきことは、山のようにあった。
KFGの内部構造。各国の法制度の実務的な運用。交渉の駆け引き。政治との接点。裏社会との距離感。
それら全てを、アンナはスポンジのように吸収していった。
1年目が終わる頃には、KFGでの百戦錬磨の上司が「こいつには、もう教えることがない」と言い始めた。
幼少期の家庭教師と、同じ言葉だった。
2年目には多くの案件を担当し、その全てを成功させ、同期の誰よりも早く役職が付いた。
部長クラス、役員クラスにも名前が知られ始める。
3年目の冬——アンナの人生を決定づける出来事が起きた。
***
スイス、ダボス。
世界経済フォーラムの年次総会。
世界の政治・経済・金融のトップが一堂に会する、年に一度の最高峰の国際会議。
KFGは毎年、この会議に大規模な代表団を送り込んでいた。
K本人も出席する。
アンナは、その年の代表団の末端として同行していた。
入社3年目の28歳。
本来なら到底会議室には入れない。
しかしあまりの優秀さゆえ、その直属の上司が経験させたいという意向から、書類持ち、資料の整理、議事録の補助として同席させた。
アンナにとっては、初めてKと同じ場に立つ機会となった。
そして、その日、KFGが水面下で進めていた、欧州の巨大財閥の敵対的買収の、最終交渉が行われた。
アンナは会議室の隅で、書類を抱えて立っていた。
***
交渉は、最初KFGの圧倒的な優勢で進んでいた。
Kが提示した条件は、相手に拒否する余地をほとんど残していなかった。
しかし、調印の直前、事態が動いた。
窮地に立たされた欧州財閥側が、最後の切り札を切ったのだ。
フランス法、スイス法、EU法を複雑に絡めた「毒薬条項」。
買収を成立させた瞬間に、法的なトラップが作動し、KFGが巨額の損害を被るように設計された、極めて精緻な法的罠だった。
しかも相手は、意図的に言語を切り替えてきた。
英語ではなく、早口のフランス語とドイツ語を交えて、極めて専門的な法務・財務の用語で畳み掛けてきた。
KFGの弁護士団は混乱した。
英語ならば対応できる。
しかし、フランス法の条文をフランス語で引用され、ドイツ語で財務の反論を畳み掛けられると、通訳を挟む時間的ロスが致命的になる。
専属通訳も法務と財務の専門用語が多言語で飛び交う状況に、処理能力の限界を超えていた。
「会長、一度持ち帰りましょう」
KFGの首席弁護士が、青ざめた顔で、Kに進言した。
「このままサインするのは危険です。罠の全容を解析するのに、最低でも数日は——」
持ち帰る。
それは——KFGが交渉テーブルで後退することを意味していた。
相手の財閥側の弁護士たちが——勝利を確信した笑みを、浮かべ始めていた。
しかしKが口を開こうとした、その瞬間だった。
***
部屋の隅から、一人の女が動いた。
長い黒髪。鋭い目。書類を抱えた、末端のアナリスト。
アンナが——Kの隣に進み出た。
会議室の全員が一瞬、この無名の若い女に視線を向けた。
しかし、誰も止めなかった。
止める間もなく、アンナは動き始めていた。
まず相手の首席弁護士に向かって、フランス語で話し始めた。
流暢な、パリのアクセントのフランス語。
「先ほどご提示された条項の第7条第3項ですが、フランス民法典のL.1224条との整合性に、重大な矛盾がございます」
相手の弁護士が目を見開いた。
末端のアナリストが、フランス法の条文番号を、諳んじている。
アンナは相手の法的矛盾を、一つずつフランス語で、論理的に容赦なく解体していった。
次に、ドイツ語に切り替えた。
相手の財務責任者に向かって。
「先ほどの財務モデルのバリュエーションですが、DCF法の割引率の設定に恣意的な操作が含まれています。具体的には——」
ドイツ語で、財務の嘘を暴いた。
数字の矛盾を一つずつ指摘していく。
相手の財務責任者の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
そして——アンナは、英語に戻った。
Kの方を向いて。
「会長。相手の毒薬条項を逆手に取れます。この条項の構造を反転させれば、買収額をさらに20%叩き落とすカウンター条項を設計できます」
アンナは、テーブルの上のボールペンを一本手に取った。
そして、契約書の余白にカウンター条項を書き始めた。
法的な文言と財務的な計算式を、同時に。
KFGの弁護士団が数日がかりで読み解くレベルの法的・財務的解決策を、その場で、ボールペン1本で書き殴っていった。
会議室は、静まり返っていた。
KFGの弁護士団も。相手の弁護士団も。通訳も。全員がアンナの手元を、凝視していた。
書き終えたアンナは、その契約書をKに差し出した。
***
Kはアンナの顔を見た。
Kは驚いてはいなかった。
ただ——面白そうに、口角を上げた。
「悪くない」
日本語だった。
アンナは、自分が日本語を話せることを知っているのか、いや知るはずはないと瞬時に思った。
Kはアンナが書いたカウンター条項に、一度だけ目を通した。
数秒。
それだけで、Kはアンナの提案の全てを理解した。
そして、そのまま容赦なく、相手を叩き潰した。
アンナが書き直した条件で、ディールは成立した。
買収額は、当初の提示額より20%低い金額で確定した。
欧州の巨大財閥は、最後の切り札を切ったにもかかわらず、逆に傷口を広げる結果となってしまった。
***
会議室を出る時。
Kは足を止め振り返った。
アンナの方を見た。
アンナの横に立っていた上級役員の方にも、視線を向けた。
上級役員は、直立不動でKの言葉を待っていた。
「アンナといったか」
「はい」
「お前は明日から俺の秘書だ」
KFGの一団に緊張感が走る。
「秘書室のリーダー。そして本社の上級役員に、明日任命する」
入社3年目。
28歳。
末端のアナリストから——KFG本社上級役員へ。
王のたった一言で。
他の一般役員が声を絞り出した。
「か、会長……彼女はまだ入社3年目でして——」
「聞こえなかったか」
Kの声が、低く静かに響いた。
それ以上の言葉は必要なかった。
***
その日から——アンナは、Kの隣に立った。
圧倒的な最年少の上級役員。
会長付き第一秘書。
秘書室のリーダー。
その人事は、KFG社内に衝撃を与えた。
入社3年目の若手が、いきなり上級役員に任命される。
しかも秘書室のリーダーとして、Kの最も近くに配置される。
嫉妬もあった。疑問もあった。反発もあった。
しかし、誰もKの決定に異を唱えることはできない。
そして、アンナが実際に秘書として動き始めると、全ての疑問は消えた。
***
その後、2年間Kはずっとアンナを連れ回して世界を蹂躙した。
アンナが望めばKFGの副会長にも、グループ内の巨大企業のCEOにもなれる。
あるいは、独立して自分の帝国を築くことも不可能ではない。
しかし、アンナは今も秘書であることを選んでいる。
純粋な知的好奇心。観測者としての渇望。
自分の頭脳を100%フル稼働させても、まだ先を行く存在。
その存在の隣で、その思考のプロセスを、最も近い距離で観察し続けること。
それがアンナにとっての、最高の「仕事」だった。
しかし——FLORIAが現れてから、アンナの「観測」は、新しい次元に入った。
アンナが「秘書の範疇」と認識している仕事からは、明らかに逸脱している。
しかし、Kの頭脳が世界を動かし続けるためには、Kの精神が安定していなければならない。
つまり——FLORIAの件は、世界経済の安定運用の一部なのだ。
そう、自分に言い聞かせていた。
それが本当にそうなのか、それとも、アンナ自身がKと4人の関係性に情が移り始めているのか。
その答えは、アンナ自身にもまだ分からなかった。




