【幕間②】Céleste(セレスト)
***
FLORIAの「ロイヤル・ソレイユ」アンバサダーが発表された翌日。
FLORIAが所属するK-POP芸能事務所の一室。
先輩グループである「Céleste」のレッスンルームは、行き場のない焦燥感で満ちていた。
「どういうことなの、これ!」
リーダーのミナがテーブルに叩きつけたスマートフォンの画面には、信じがたい見出しが踊っていた。
『FLORIA、世界最高峰の時計ブランド「ロイヤル・ソレイユ」のグローバル・アンバサダーに電撃就任』
「アルカディアの次はロイヤル・ソレイユ? ……なにそれ」
メインボーカルのユアも苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てる。
その声は嫉妬で震えていた。
無理もなかった。
CélesteはFLORIAよりもデビューが早く、CDの売上も、SNSのフォロワー数も、あらゆる指標で彼女たちを上回っている。
血の滲むような努力を重ね、ファンを大切にし、着実にトップへの階段を上ってきたという自負があった。
それなのに——なぜ。
アルカディア、ロイヤル・ソレイユ、こんな世界的なブランドの仕事は自分たちがアサインされたことはない。
最近事務所は、明らかにFLORIAばかりを優遇している。
「室長を呼んで! 今すぐ!」
ミナの怒声に、部屋の隅で縮こまっていた若手マネージャーが慌てて駆け出していった。
***
数分後。
Célesteの担当部署であるパク室長が、困り果てたような笑顔で部屋に入ってきた。
「どういうことか、納得ができる説明をしてください」
ミナは腕を組み、氷のような視線でパク室長を射抜いた。
「なぜ、実績も人気も私たちの方が上のはずなのに、FLORIAの子たちにばかりあんな大きな仕事を回すのですか? 事務所として、私たちをどう評価しているのかはっきり聞かせてください」
「落ち着いてください。あれは、その……事務所が取ってきた仕事というよりは、少し特殊なケースでして……」
パク室長は必死に言葉を濁し、その場を宥めようとする。
しかしその煮え切らない態度は、火に油を注ぐだけだった。
「ふん、特殊なケース?」
ユアは、馬鹿にするような相槌をする。
「あの子たち、最近妙に羽振りがいいわよね。まさかとは思うけど……」
ミナはそこで一度、言葉を切った。
そして、部屋にいる全員に聞こえるよう——これ以上ないほど下品で、侮蔑的な響きを込めて、その禁断の言葉を口にした。
「枕でもしてるんじゃないの?」
シン……と。
レッスンルームの空気が完全に凍りついた。
パク室長の顔から、サッと血の気が引いていく。
「……っ、君、なんてことを言うんだ!」
彼は震える声で叫んだ。
それは、怒りというよりも——恐怖から来る叫びだった。
まだ内部の人間でも知る者は少ない。
明らかにFLORIAをお気に入りとしているKの存在。
この言葉が、万が一Kの耳に入ったら——。
このグループの将来はない。
しかし、Célesteのメンバーたちはもはや止まらなかった。
「図星だから、そんなに慌ててるんですか?」
「まさかと思うけど事務所も容認してるんじゃないですよね」
彼女たちのあまりにも無謀な追及に、パク室長はついに観念した。
もう、隠し通すことはできない。
このままでは、彼女たちは自らの手で破滅への引き金を引いてしまう。
彼は深く長いため息をつくと——その残酷な真実を告げた。
「……枕営業などという、下品なものではない」
その声は、ひどく疲れていた。
「あの子たちの最近の大きな仕事は、すべてKFGの会長が個人的に持ってきているものなんだ」
「KFG……? あの有名な会社の……?」
ミナの顔に、初めて困惑の色が浮かぶ。
「そうだ」
パク室長は頷いた。
そして、最後のとどめの一撃を放つ。
「彼はFLORIAを気に入っている。ただそれだけだ。理由も何も分からない。私たち事務所としても何もできない……ただそれだけのことなんだよ」
「……え」
「なにそれ……」
ミナの、ユアの、そしてCélesteのメンバー全員の思考が完全に停止した。
枕営業。そんな自分たちの理解できる範囲の矮小な話ではなかった。
自分たちが血の滲むような努力で積み上げてきた売上も、人気も、プライドも。
世界の王のほんの「気まぐれ」一つで、いとも簡単に覆されてしまう。
そのあまりにも理不尽で、あまりにも絶対的な、この世界の本当のルールを彼女たちは初めて知ったのだ。
レッスンルームは静まり返った。
***
数日後。
FLORIAが連日、良くも悪くもニュースサイトで取り上げられているのを目にする度、特にリーダーであるミナの心は、嫉妬という名の冷たい炎で静かに焼かれ続けていた。
鏡に映る自分たちの姿は、FLORIAのそれと比べて何ら遜色ない。
いや、キャリアも実力も、自分たちの方が今は上だ。
FLORIAの子たちも、アルカディアの一件があるまでは可愛い後輩だった。
自分たちを敬い、一生懸命練習していた。
確かに実力も付けてきていた。
しかし自分たちにはまだまだ追い付けないだろうという自負もあった。
それなのに——急に常識外の力で自分たちのすぐ後ろまで、いや話題性ではもはや追い抜かれるかもしれないところまでワープしてきた。
それが許せなかった。
***
その日、苛立ちが収まらないままレッスンルームを出たミナは、廊下の向こうから歩いてくるFLORIAの4人と鉢合わせた。
「あっミナ先輩。お疲れ様です!」
ソユンが太陽のような笑顔で深々と頭を下げる。
他のメンバーも、それに続いて「お疲れ様です!」と、生き生きとした挨拶を投げかけてきた。
その一点の曇りもない純粋な輝きが——ミナのささくれた心を逆撫でした。
(……能天気な子たち)
自分たちがどれほどの理不尽の上に胡坐をかいているのかも知らずに。
ミナは何も答えなかった。
ただ、FLORIAのメンバーたちの横を、まるで彼女たちが存在しないかのように氷のような無表情ですり抜けていった。
「え……?」
FLORIAのメンバーたちの足が、ぴたりと止まる。
今までどんな時でも優しく、時には妹のように可愛がってくれていた先輩からの、あまりにも冷たい完全な無視。
彼女たちは何が起きたのか理解できず、ただ呆然と、ミナが去っていった廊下の先を見つめることしかできなかった。
***
事務所のFLORIAのレッスンルーム。
先ほどのミナの態度を引きずり、重い空気が流れていた。
「……あれってやっぱり、私たちのこと、良く思ってはいないってことだよね」
沈黙を破ったのはソユンだった。
その声はリーダーとして、そして後輩として、先輩を怒らせてしまったことへの純粋な罪悪感でかすかに震えていた。
「アルカディアに、ロイヤル・ソレイユ……Célesteの先輩たちからしたら面白くないのも……わかる」
カエデが静かに呟く。
「でも、私たちが悪いわけじゃないよ」
サラが、悔しそうに声を上げた。
「Kさんが私たちを選んでくれたんだから!」
「そうです!」
ミジュも強く頷いた。
それを聞いたカエデは、静かに、しかし凛とした声で言った。
「そうね……下を向くのは、やめましょう」
全員の視線が彼女に集まる。
「私たちがこんなふうに落ち込んでいたら、それこそKさんに失礼だよね」
カエデの瞳には、迷いのない強い光が宿っていた。
「私たちは選ばれた。そのことに誇りを持つ。そして、その期待に最高のパフォーマンスで応える。それが私たちのやるべきことでしょう?」
その言葉により、メンバーたちの顔から、不安の色がすっと消えていく。
そうだ。その通りだ。
自分たちは選ばれた、特別な存在なのだ。嫉妬されるのは当然のこと。
それを乗り越えてさらに輝くことこそが——最高の恩返しになる。
「……そうだね!カエデちゃんの言う通り」
ソユンは目元を拭うと、リーダーとしての強い表情を取り戻した。
「よし! もっと頑張ろう! 誰にも文句を言わせないくらい、完璧なステージを見せよう!」
FLORIAの心は再び一つになった。
外部からの嫉妬という名の逆風は——むしろ、彼女たちのKへの忠誠心と、プロとしての結束をより一層強固なものへと変えたのだった。
***
しかし数日後——事件は起きた。
事務所のエントランスで、ミジュは偶然Célesteのリーダーであるミナと二人きりになった。
気まずい空気が流れる中、ミジュは後輩として挨拶をする。
「お疲れ様です……ミナ先輩」
ミナは一瞬だけミジュに視線を向けると、ふん、と鼻で笑った。
「……ミジュ、スタッフに聞いたわよ。この前SNSでやらかして大変だったみたいね。あんな単純なミスして、ブランドのイメージ、大丈夫だったの?」
その声には、隠しきれない嘲笑の色が滲んでいた。
ロイヤル・ソレイユの時計をうっかり投稿してしまった「あの夜」のことを揶揄しているのだ。
「……」
ミジュはぐっと唇を噛み締め、笑顔を保った。
ここで反論しても、何も良いことはない。
しかし——ミナの追撃は止まらなかった。
彼女はミジュの耳元に顔を寄せると、囁くように、しかし毒々しい響きを込めて、その禁断の言葉を口にした。
「KFGの会長さんに《《特別なご支援》》してもらってるんでしょ?会長さんってそんな短いスカート履かせるのが趣味なの?」
その、一言。
ミジュの世界から、音が消えた。
Kへの冒涜。
自分たちの純粋な想いを——下劣な意味で汚された。
ミジュは、ロイヤル・ソレイユの件を思い出した。
あの夜のKの存在がミジュの中でどれほど大きいか——。
それを、この人は汚い言葉で踏みにじった。
次の瞬間、ミジュの中で何かが、ぷつん、と切れた。
今まで抑えに抑えてきた聖なる怒りが、爆発した。
「——っ!」
ミジュは声にならない叫びと共に、目の前のミナの身体をありったけの力で突き飛ばした。
「きゃっ!」
ミナはバランスを崩し、派手な音を立てて床に尻餅をつく。
「いった……何すんのよ!」
「謝ってください!」
ミジュの大きな瞳からは、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出していた。
しかしその顔は——悲しみではなく、燃え盛る炎のような激しい怒りに染まっていた。
「今すぐ、Kさんと私たちに謝ってください!」
「はあ?」
ミナも負けじとミジュに掴みかかろうとする。
事務所内の人気グループ同士の——あってはならない接触。
「やめなさい!」
異変に気づいた社員たちが慌てて駆け寄り、二人を無理やり引き剥がした。
エントランスは騒然となった。
ミジュとミナはそれぞれ別の部屋へと連れて行かれ、事態は最悪の形でそれぞれのグループの耳に入ることになる。
***
FLORIAの楽屋。
「……それで、ミナ先輩にそう言われて……」
ミジュはしゃくりあげながら、3人の姉たちに事の顛末を話した。
その話を聞き終えた楽屋は、しん、と静まり返った。
怒りがあまりにも深すぎて——言葉が出てこなかったのだ。
「Kさんのことをそんなふうに言う人間を——私は許せない」
最初に口を開いたのはカエデだった。
その声は静かだったが——その奥には、ミナへの冷たい怒りが燃えていた。
「そうだよ! ミジュは何も悪くない!」
サラもミジュの肩を強く抱きしめた。
「ミジュ……」
ソユンは何も言わなかった。
言葉が見つからなかったのではない。
言葉よりも先に——ミジュをそっと抱き寄せていた。
Kへの誹謗。
自分たちの想いへの侮辱。
それが——4人の中で静かに、しかし確かに、「絶対に許さない」という感情を結晶させていた。
Kを悪く言う人間は——誰であろうと許されるべきではない。
その揺るぎない確信が。
4人をまた一層、深く、深く繋ぎ合わせていた。
***
Célesteの楽屋。
「だから言ったじゃない!」
ミナは泣きながら、自分のメンバーたちに当たり散らしていた。
「あの子たち、普通じゃないのよ! 頭がおかしいの!」
しかし他のメンバーたちは、やりすぎという想いもあってか、かける言葉も見つからず、ただ俯いている。
「ちょっと言っただけであんなにキレるなんて……! 」
ミナのヒステリックな声が虚しく響いた。
***
——この一件は、事務所内で極めて静かに処理された。
表立って誰かが叱責されることも、謝罪文が発表されることもなかった。
ただ、事務所の役員の中で、万が一の際のトカゲのしっぽ切りの方針だけは静かに合意された。




