【パリの灯台編】第7話
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KFGのビルを後にした迎えの車は、パリの街を静かに走り始めた。
後部座席に並んで座るカエデと理緒。
しばらく二人の間に言葉はなかった。
車窓から流れる石畳の通り、カフェのテラス、花屋の軒先。
パリの午後の光が、アンバー色に街を染めている。
その景色を眺めながら、理緒はずっと言葉を探していた。
「あの……カエデさん」
「はい」
「私……あの部屋に入って、その……」
見てしまったことを謝ろうとした。
しかし、どう謝ればいいのか分からなかった。
「ごめんなさい、は違う気がして……でも、何も言わないのも」
言葉が詰まった。
自分が見たもの……あれは、カエデが意図して見せたものではない。
何か知れるかと思ってはいたものの、迎えに行っただけで、まさかあんな光景が広がっているとは理緒も思っていなかった。
しかし、沈黙でやり過ごすにはあまりにも大きなものを見てしまった。
理緒が言葉を見つけられずにいると、カエデが先に口を開いた。
「理緒さん、来てくれて嬉しかったです。ありがとうございます」
理緒はその言葉を静かに受け取った。
カエデの声は穏やかだった。
責める色も困惑の色もなかった。
ただ、純粋な感謝がそこにあった。
「……見られちゃいましたね」
カエデは少しだけ苦笑した。
自分でそれを認めてしまえば、気まずさは不思議と和らいだ。
「Kさんは……FLORIAに、とてもご支援してくださっているんです」
カエデは静かにそれだけを言った。
それ以上は言えなかった。
言っていい範囲がどこまでなのか、自分たちも分からない。
しかし、流石に隠すことは無理がある。
あの部屋で何かがあったのは理緒には見えている。
全てを説明することはできないが、ゼロを装うこともカエデにはできなかった。
「……そうなんですね」
理緒は短く答えた。
その声には、探る色も驚く色も意図して消されていた。
(FLORIAに……か)
心の中では「FLORIAに」ではなく「カエデに」ではないかという疑問がまだ揺れていた。
しかし、それを今口にするのはあまりにも無遠慮だった。
カエデが何かを守ろうとしていることは分かる。
それを力づくで引き出そうとするほど、理緒は野暮ではなかった。
しばらくの沈黙の後、カエデが少し申し訳なさそうに言った。
「それであの……このことは、他の人には……」
「あ、はい」
理緒は即座に頷いた。
カエデが言い終わる前に。
「誰かに言うつもりは全くないですから」
その答えは本心だった。
理緒はFLORIAの足を引っ張りたいわけではない。
自分のグループが有利になるために他のグループの秘密を暴く。
そういう行動を理緒は心の底から軽蔑していた。
それにカエデとここで秘密の関係になったこと自体が収穫でもあった。
理緒は少しだけ笑った。
「素敵なナイトがいらっしゃるんですね、カエデさん」
アイドルらしい柔らかい言い回し。
しかしそこには理緒なりの、精一杯の配慮が込められていた。
『立ち入ったことは聞かない。でも、見たものは見た。そして、カエデさんが大切にされているのは分かった』
その全てを「素敵なナイト」というたった一言に包んでみせた。
「……ありがとう」
カエデは柔らかく礼を言いながら、心の中でその言葉を反芻した。
ナイト。騎士。
暗闇の中で迷子になった自分を、世界の端から照らし出してくれたあのビルの灯台。
そして、画面越しにあの低い声で「無事ならそれでいい」と言ってくれたあの人。
ナイト……か。
「……ふふ」
カエデは思わず口元を緩めた。
窓の外を流れるパリの景色に視線を向けながら、頬がまたかすかに熱を持った。
***
車は凱旋門付近の撮影現場に到着した。
「カエデさん!」
車が止まるよりも早く、茶色のボブヘアが飛んでくるように近づいてきた。
柚葉だった。
「良かったぁ! 本当に無事で! 心配しましたよ~!」
「柚葉さん……」
理緒の隣にいた柚葉は、カエデの顔を見てほっと肩の力を抜いた。
その後ろには、他のメンバーたちも遠巻きにこちらを見ている。
「ごめんなさい」
カエデは柚葉に向かって深く頭を下げた。
「皆さんを待たせてしまって……本当に、ごめんなさい」
「いいですって! 無事ならそれでいいんですから!」
柚葉は快活に笑い飛ばした。
しかしカエデは、それで済ませるつもりはなかった。
撮影現場に入ると、カエデは一人一人に丁寧に謝罪して回った。
スタッフへ、制作チームへ、そして他の出演者へ。
スケジュールを押してしまったこと、心配をかけてしまったこと、迷惑をかけたこと。
カエデの謝罪は言い訳を一切挟まない、真摯なものだった。
***
他の出演者たちの反応は、実のところ思ったよりも穏やかだった。
一部のメンバーは到着が遅れたことへの苛立ちを表情の端に滲ませていたが、それを大声でぶつけてくるような空気にはならなかった。
カエデはその理由にすぐに気づいていた。
理緒が一緒に迎えに行ってくれたこと。
そして柚葉が大声で最初に出迎えたこと。
空色パレットの人気メンバーであり、今回の出演者の中でもトップクラスの知名度と影響力を持つ二人。
それが「カエデの味方である」というサインを周囲に伝えた。
理緒や柚葉が一緒にいる相手をあからさまに責めるのはやりにくい。
その構図がカエデへの「当たり」を自然と和らげていた。
(……理緒さんたちのおかげだ)
カエデはそれを感じていた。
意図してくれたものかどうかは分からない。
しかし理緒が来てくれたことで、自分が助けられたのは確かだった。
どうやら理緒さんにも借りができてしまったとカエデは静かに思った。
***
理緒は、カエデが謝罪して回る姿を少し離れた場所から見ていた。
その横顔は凛としていた。
さっきまで泣き崩れていたとは思えない、堂々とした立ち居振る舞い。
「理緒ちゃん、どうかした?」
隣に来た柚葉が不思議そうに首を傾ける。
「……何でもない」
「絶対何かあったでしょ。さっきの迎えに行ったときの話、教えてよ。KFGのビルって何で……」
「教えない」
「えっ、なんで! 理緒ちゃんのケチ!」
「ケチじゃない。話せないだけ」
「そんな理由になってないじゃん!」
柚葉が唇を尖らせて、理緒の肩をぽかぽかと叩いた。
理緒は柚葉の拳を受け止めながら、目の前のカエデから視線を外さなかった。
頭の中ではまだ考えが続いている。
あの部屋で見たもの。
あのモニターに映ったK。
あの男がなぜFLORIAを、あるいはカエデを個人的に支援しているのか。
理緒にはまだ全ての答えは見えない。
しかし一つだけ確かなことがある。
FLORIAというグループは、自分が思っている以上にずっと深い場所にいるのかもしれない。
(……気をつけないと、ね)
理緒はその結論を静かに胸の奥にしまった。
***
撮影は遅れを取り戻すように進んでいった。
カエデは肩身の狭さを感じながらも、カメラの前に立った瞬間、それを払拭するように表情を切り替えた。
胸の中にKの言葉があった。
『撮影、楽しみにしてるぞ』
その一言がカエデの背筋を真っ直ぐに伸ばした。
凱旋門を背景に。
石畳の路地で。
カフェのテラスで。
パリの光の中で、カエデはFLORIAのカエデとして堂々と立ち続けた。
泣き腫らした目はもうどこにもなかった。
そこにいたのは、Kが選んだアルカディアとロイヤル・ソレイユの顔。
世界最高峰のブランドに相応しい品格と美しさを纏った一人の女性だった。
「カエデさん、今日一番いい顔してる!」
担当のカメラマンが、モニターを見ながら声を上げた。
カエデはその言葉に小さく微笑んだだけだった。
「今日一番」……そうかもしれない。
一番泣いて、一番恐くて、一番恥ずかしくて、一番感謝した日の終わりに。
人はなぜか一番強くなれる。そうカエデは思った。
全日程が終わり、太陽が傾いた頃。
カエデはパリの空を見上げた。
夕焼けが街全体をオレンジ色に塗り替えていた。
漆黒の巨塔がその光の中で静かに聳えているのが遠くに見えた。
(……Kさん、ちゃんと撮れたよ)
心の中で報告する。
そしてポケットの中の新しいスマートフォンをそっと握りしめた。
Kの番号が入っている。
その事実がカエデの胸を静かに温め続けていた。
***
一方、ニューヨーク、マンハッタン。
KFG本社ビル「The Spire of KFG」最上階、会長執務室。
ビデオ通話が終わってからしばらく経っていた。
Kはデスクの前で腕を組んで、天井を見上げていた。
モニターには先ほどまでの数字と分析資料が広がっている。
しかし、Kの目はそれを見ていなかった。
しばらくの沈黙の後、Kは短く言った。
「アンナ」
「はい」
アンナがタブレットから顔を上げる。
「FLORIAの……毎日のスケジュールを共有してもらえ」
アンナの指が一瞬止まった。
「……スケジュール、でございますか」
「ああ。日々の動きが分かるようなやつだ」
「……かしこまりました」
アンナはその要求を、内心では「ぎりぎり理解できなくもない」と判断した。
今日のような連絡が取れなくなるよう事態、それを再発防止するためというのであれば、スケジュールの共有に一応の合理性はある。
もちろん本来であれば、部外者がメンバーの日々のスケジュールを把握するのはあまりにも越権行為に当たる。
事務所内でもメンバーの細かいスケジュールを知っているのは、ごく限られたマネージャーたちだけだろう。
しかし、会長のことだ。
それを指摘したところで別の何かを探すだけだろう。
最小限の妥協として受け入れる判断をした。
しかし。
「それと」
Kが続けた。
「GPSを持たせる」
「……」
アンナの表情が、今度は明確に固まった。
「GPS……でございますか」
「ああ。あいつらに一つずつ。それで緊急時は俺に直接連絡できるようにしておく」
「……」
アンナは珍しく言葉に詰まった。
スケジュールの共有は「ぎりぎり」だった。
しかし、GPSは……。
アンナの頭脳が瞬時に複数の問題を列挙した。
まず現実的な問題として、FLORIAのメンバーが会長からGPSを渡された場合どう受け取るか。
カエデ、ソユン、サラ、ミジュ。
(全員、会長のことを相当好いている)
彼女たちであれば、もしかしたら喜ぶかもしれない。
「Kさんからもらったもの」として大切にするかもしれない。
しかし問題は、あくまで「かもしれない」であることだ。
もし一人でも「さすがにGPSは引く」と感じたら。
あるいは事務所の社長やマネージャーが「これはプライバシーの侵害だ」と判断したら。
その場合に起こることを、アンナは想像した。
FLORIAのメンバーから「受け取れない」と断られる。
その時の会長の顔がアンナの脳裏に浮かんだ。
ショック。
あるいは恥ずかしさ。
あるいは「嫌われた」という過剰な落胆。
いずれにしても会長のメンタルは相当に揺さぶられる。
そしてメンタルが揺さぶられた時に何が起きるか。
アンナは過去にそれを目の当たりにしたことがある。
ある国との外交交渉が思わぬ形でKの機嫌を損ねた時、その翌日、当該国の通貨がKの投資指示によるKFGの動向に引きずられて大きく動いた。
この男の機嫌は、世界経済に文字通り連動する。
(……GPSの受け取り拒否一つで、荒らしかねない)
アンナは数秒間、内心でその未来図を検討した。
しかし。
「自分が止めても何も解決しない」
止めても何か理由をつけて指示してくるか、あるいは直接自分で動いて、さらに非合理なことを始めかねない。
それならば適切な形に整えた上で美咲に相談し、事務所側の判断を仰ぐ方がまだコントロールできる。
「どうした」
Kがアンナの沈黙を見て声をかけてきた。
「……はい」
アンナは一つだけ深く息をついた。
「相談してみます」
その声には珍しく疲労の色が滲んでいた。
***
アンナが執務室を出ると、廊下の静寂が重く感じられた。
全てが片付いたと思ったら、今度は「GPS」だ。
アンナはスマートフォンを取り出した。
連絡先の一覧をスクロールして、「美咲(FLORIAマネージャー)」という名前の上で指を止めた。
着信が来るたびに緊張で飛び上がるだろうなと思いながら、アンナは通話ボタンを静かに押した。
美咲が電話に出る前の数秒間、アンナはどう切り出すべきかを頭の中で整理していた。
(……美咲さん。今回も少し無理なお願いをしなければなりません)
発信音が、二度、三度、鳴った。
アンナはただ静かに、その音を聞いていた。




