【パリの灯台編】第6話
***
ビデオ通話が繋がってから、どれくらいの時間が経っただろう。
カエデの涙は、少しずつ、少しずつ、収まり始めていた。
ハーブティーは半分ほどに減り、マドレーヌは二つ、フィナンシェは一つ食べた。
Kはその全てを、画面の向こうからじっと見ていた。
そして、Kがまた口を開いた。
「カエデ」
「はい」
「化粧」
「え?」
「崩れてるだろう。直せ」
カエデは、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「俺の前で」
「……えっと」
Kの声は、至って真面目だった。
「社内に化粧品一式は揃ってるはずだ。用意させる」
「い、いや、Kさん、それは……」
「何だ」
「恥ずかしいです、人前で化粧するの……」
「人前じゃない。俺の前だ」
カエデは、言い返す言葉を見つけられなかった。
Kがミュートにして何か指示を出した数分後、亜美がドアをノックして入ってきた。
手には高級化粧品のブランドロゴが入ったポーチ。
中には、ファンデーション、パウダー、アイシャドウ、リップといった一通りのアイテムが、新品の状態で揃えられていた。
社内には来客用に常備されている高品質なアメニティがある。
それを流用したのだろうが、その手際の良さは、Kの命令がこの帝国でいかに素早く実行されるかを、改めて物語っていた。
亜美は、ポーチをデスクに置くと、小さく会釈をしてまた音もなく退出した。
***
カエデは——ポーチを開き、中身を確認した。
どれも上質なアイテムだった。
普段使っているブランドとは違うが、肌に乗せても問題なさそうなものばかり。
「……本当に、ここでやるんですか」
「ああ」
「でも……」
「さっき泣きじゃくった顔を見せたんだ。今更だろう」
「……」
それは否定できなかった。
泣き崩れた姿。鼻水を啜った姿。赤く腫れた目。崩れた化粧。
そのすべてを、もうKに見られている。
今更、化粧をするところを見られたくらいで、何も変わりはしない。
「……わかりました」
カエデは、諦めたように——いや、どこか心地よく諦めて鏡に向かった。
***
ファンデーションを丁寧に伸ばしていく。
涙の跡を、一筋ずつ塗り消していく。
目元の腫れは、コンシーラーで隠す。
パウダーで、全体を整える。
Kは、その一連の作業を、画面越しにずっと見ていた。
口を挟むことはなかった。
ただ静かに見ていた。
カエデは最初、恥ずかしさがあった。
化粧というのは、女性にとってプライベートな行為だ。
素顔から「作り上げていく」過程を、こんなに至近距離で見せるなど、普通なら考えられない。
しかし、不思議なことに。
手を動かしているうちに、恥ずかしさは少しずつ薄れていった。
ただ深刻そうに慰められ続けるよりも、Kの「要求」に応えているという状況の方が、気が紛れたのだ。
何かをしている。何かに集中している。
そしてそれは、Kが見たいと言ったことだ。
その構造が、カエデの心を、恐怖と自責の沼からゆっくりと引き上げてくれていた。
Kがそれを自覚してやっているのかどうかは——カエデには分からなかった。
しかし結果として、カエデの表情に、少しずつ笑顔が戻り始めていた。
「……Kさん、アイラインって、どっちの形が好きですか」
不意に、カエデ自身も予想していなかった言葉が口をついて出た。
「……ん?」
「猫目かタレ目です」
「お前はいつも猫目だろ」
「えっ、あっ……はい、そうです」
「ふん……いつものでいい」
カエデは——その答えに、ふっ、と笑った。
小さな笑い。
しかし、今日初めての自然な笑いだった。
***
アイラインを引き、アイシャドウを重ね、最後にリップを塗り終えた時——。
カエデは、鏡の中の自分を見た。
泣き腫らした痕は、ほぼ消えていた。
完璧ではないが、十分に「FLORIAのカエデ」として、人前に出られる顔になっていた。
「……できました」
カエデが、画面に向き直った。
Kは、その顔を見て、僅かに口元を緩めた。
「綺麗だ」
たった一言。
しかし、その声のトーンには嘘がなかった。
カエデの頬は、化粧の下で、じんわりと熱くなった。
***
そして——化粧を終え、ハーブティーをもう一口飲んだ時。
カエデは、ふいにある事実に気づいた。
自分が今、何をしていたのかを。
Kの目の前で化粧をした。
「どっちが好き?」と聞いた。
「綺麗だ」と言われた。
それは——。
(これってもう……)
カエデの脳内で、数十秒前までの穏やかな空気が、全く別の色に塗り替わった。
(彼氏彼女みたいじゃん!)
心臓が、一気に跳ね上がった。
泣いている姿を見せて。
慰められて。
お菓子を出されて。
化粧を目の前でして。
「綺麗だ」と言われて——。
それは、どう考えてもカップルのやりとりだった。
(待って、やばいやばい……)
カエデは、化粧で隠したはずの頬が、もう一度真っ赤に火照っていくのを感じた。
ファンデーションの下で、確実に血が上っている。
画面の向こうで、Kが何か言っている。
しかし、カエデの耳には、もう声が入ってこなかった。
(えっ、今の距離感、冷静に考えて)
(Kさんと、私、急に近くなってない……?)
(いや、Kさん的には前から近かったかもしれないけど……いやそうじゃなくて……今日で一気に……)
カエデは、自分がKに対して抱いている感情の正体に、急速に近づいていた。
最初は「かっこいい」「惹かれる」「すごい」だった。
Kの整った横顔。たまに見せる不器用な優しさ。知的な一面。
それらは全て、「好感」の延長線上にあった。
しかし——今はもう、「好感」ではなかった。
(……本気で好き、なのかな)
(私、Kさんのこと……)
カエデの胸の中で——ソユンが、ミジュが、サラが、それぞれの瞬間に感じた、あの感情が——ゆっくりと形を成し始めていた。
***
甘い時間は——しかし、永遠には続かなかった。
アンナの端末に、パリ支社からの報告が届いた。
『撮影チームからの迎えの車が、KFGパリ支社に到着しました』
アンナは内容を確認すると、Kとカエデの会話に、静かに割って入った。
「会長、カエデ様」
「ん?」
「お迎えが到着いたしました」
カエデは、その言葉に、ほっとした気持ちと名残惜しい気持ちが、同時に押し寄せてきた。
Kは、少しだけ間を置いてから。
「……良かったな、カエデ」
優しい笑顔だった。
先ほどまでの、少し意地悪な色を含んだ表情ではなく——純粋に、カエデの無事を喜ぶ、穏やかな笑み。
「はい……」
カエデの目が、また少しだけ潤んだ。
しかし、泣かなかった。
これ以上、Kの前で涙を見せるのは——もう十分だと思ったから。
***
扉がノックされ、亜美が入ってきた。
「カエデさん、お迎えの方がお見えです。それと——」
亜美は、手に小さな箱を持っていた。
白い箱。
KFGのロゴが、控えめに刻まれている。
「カエデさん。こちら新しいスマートフォンです」
「え?」
カエデは、箱を受け取った。
中には——最新型のスマートフォンが一台収められていた。
もちろん、カエデのデータは入っていない。
写真も連絡先もアプリも何もない、まっさらな端末。
しかし、電話をかけることはできる。
カエデは——画面の向こうのKを見た。
「Kさん……ありがとうございます」
お金のことは気にしてはいけない。
カエデは、それを分かっていた。
Kにとって、スマートフォン一台の費用など、存在しないに等しい。
しかし、「気遣い」そのものが、嬉しかった。
自分が困らないように。
自分が、また連絡を取れるように。
その配慮が、言葉以上にカエデの胸を温めた。
Kは嬉しそうだった。
カエデが「ありがとう」と言ってくれること。
それはKにとって、何よりの報酬だ。
「それと」
Kが言った。
「番号が入ってる」
「……え?」
カエデは、スマートフォンの画面を確認した。
連絡先が二つ登録されていた。
一つは、美咲の事務所の番号。
そして、もう一つは——。
名前のない番号。
「それは俺の番号だ」
カエデの呼吸が——止まった。
「何かあったらかけてこい」
「Kさんの……番号……」
「ああ。…………俺もフランス語は……少しは話せるからな。困ったことがあれば、対応できる」
Kは、そう言って——ちらりと、カメラの外に視線を向けた。
その視線の先には——もちろん、アンナがいた。
***
Kは、語学が堪能だ。
日本語、英語、韓国語、中国語、ドイツ語——少なくとも5つの言語を、ビジネスレベルで操る。
他にはある程度のレベルで話せる言語を持っている。
しかし——フランス語は、その中に含まれていなかったはずだ。
アンナは、Kの視線を受け止めた。
その目が、何を言っているのか、完璧に理解した。
(万が一の時は、私が対応するんですね)
アンナは、フランス語を含む7つの言語を話せる。
アンナもまた、桁外れに有能なのだ。
Kが「俺もフランス語は話せる」と言った、その「俺」には——アンナが含まれているのだ。
アンナは、表情を変えずに、僅かに目を伏せた。
了承のサイン。
Kは、満足そうに口角を上げた。
「Kさん、すごい……フランス語もできるんですか……」
カエデの目がキラキラと輝いた。
先ほどまでの涙が嘘のように、Kを見上げるその瞳は、純粋な尊敬に満ちていた。
Kは——ご満悦だった。
その顔が、アンナには手に取るように分かった。
(対応することは構いませんが、嘘がバレないでくださいよ……)
アンナは、心の中で深く、しかし音のないため息をついた。
***
亜美が一度出た後、再びノックして入ってくる。
「カエデさん、お迎えの方がこちらにいらっしゃいました」
亜美が扉を大きく開けると——。
二人の女性が部屋に入ってきた。
一人は、撮影の制作チームの女性スタッフ。
そして、もう一人——。
空色パレットの理緒だった。
***
理緒は、部屋に足を踏み入れた瞬間、全身の感覚が鋭く研ぎ澄まされるのを感じた。
ここは——普通の部屋ではない。
エレベーターで最上階まで上がり、セキュリティを何重にも通過し、案内された先にあった、この空間。
大理石の床。防弾ガラスの窓。パリの街を見下ろす眺望。
そして——部屋の中央に据えられた、明らかに「一人の人間」のためだけに設計されたデスクと、革張りの椅子。
その椅子に、カエデが座っていた。
理緒の目が、一瞬で全てを捉えた。
カエデの前のデスクに置かれた、ハーブティーのカップ。食べかけのお菓子。化粧品のポーチ。
そして——。
デスクの上の大型モニターに映し出された、一人の男の姿。
理緒の心臓が——凍りついた。
(……あれは)
写真で何度も見たことがある顔。
ニュースで、経済誌で、ネットの記事で。
世界で最も有名な日本人。
世界最大の金融グループ、KFGの会長。
その男が——モニターの中から、こちらを見ていた。
理緒の頭の中で、全てのピースが一瞬で組み上がった。
アルカディア。
ロイヤル・ソレイユ。
あの桁外れのCM放映量。
「私たちのことを買ってくださった方がいて」——カエデの、あの言葉。
そして今、KFGの最上階で、K本人とビデオ通話をしているカエデ。
(……この人だ)
「方」の正体。
FLORIAに、アルカディアとロイヤル・ソレイユを与えた人物。
世界最大の金融帝国の王が——個人的に、FLORIAを支援していた。
いや、「支援」という言葉では足りない。
この部屋の空気、カエデの表情、Kの目。
それらが示しているのは、ビジネスの関係ではなかった。
もっと——深い、個人的な——。
***
しかし、理緒もまたプロだった。
どんなに感情が揺さぶられても、表情に出さない訓練を、第一線のアイドルとして何年も積んできた。
震える足を踏みしめ、理緒は「今この場に相応しい顔」を瞬時に作った。
「カ、カエデさん!無事で良かったです!」
理緒の声は少しだけ上ずっていたが、周囲が気づくほどではなかった。
心配していた後輩が、先輩の無事を喜んでいる。
そういった自然な声に聞こえたはずだ。
カエデは、理緒の顔を見て、複雑な表情を浮かべた。
見られてしまった、という気持ちが確かにあった。
この部屋にいること。Kとビデオ通話していること。
しかし同時に、理緒が自分を迎えに来てくれたという事実に、純粋な嬉しさも感じていた。
もしそれが何らかの意図を含んでいたとしても関係ない。
彼女が気にかけてくれたことは事実なのだ。
「……理緒さん。わざわざ来てくれたんですか」
「はい。心配で……私も一緒に来ました」
「ありがとう、嬉しいです」
カエデの声は、まだ少し掠れていたが、穏やかだった。
***
そして、理緒の視線が、モニターの中のKと交わった。
Kは——理緒を見ていた。
静かな、深い、全てを見透かすような目。
理緒は、その瞳に射抜かれた瞬間、身体が固くなった。
一気に——緊張が、全身を襲った。
口が、渇いた。
心臓が、ドクンと跳ねた。
理緒は、これまでの人生で、多くの「偉い人」に会ってきた。
テレビ局の社長。大手スポンサーの会長。芸能界の大御所。国民的スター。政治家。
しかし、Kの前では、そのどれもが霞んだ。
当然でもある。Kは彼らを使い、操る側の人間なのだ。
画面越しにもかかわらず——。
この男が放つオーラは、理緒がこれまで会ったことのある全ての権力者が束になっても敵わないような覇気があった。
空間が歪む。空気が重くなる。
画面の向こうから、それが伝わってくる。
理緒は——。
「そ……空色……パレットの、り、理緒と……申します……」
言葉がまともに出てこなかった。
バラエティ番組では的確なコメントを放ち、ステージ上では凛と立ち、後輩には落ち着いた助言をする理緒が。
たった一人の男の前で、声を震わせていた。
Kは理緒を見る。
しかし、その目は理緒に対して、特別な関心を示すものではなかった。
「そうか。友達か?」
短い返事。
「カエデをよろしくな」
そして、視線はすぐにカエデへと戻った。
その一言で、理緒は全てを理解した。
この男にとって、自分は「カエデの知り合い」以上の意味を持っていない。
悔しいとか、寂しいとかではなかった。
ただ、この男のスケールが大きすぎて、自分という存在が、その視界の中ではほんの小さな点に過ぎないことを、痛感した。
「は、はい」
理緒は、それだけを答えるのが、やっとだった。
そして——ちらりと、カエデの方を見た。
カエデの頬は——赤らんでいた。
先ほどの涙の跡とは全く違う、化粧の下から滲み出す、自然な紅潮。
それを見て、理緒の中に一つの直感が走った。
(えっ待って、付き合ってる?)
いや、確証はない。
しかし、Kがカエデを見る目。
カエデがKの前で見せる、あの表情。
この部屋の親密すぎる空気。
それらが指し示すものは——少なくとも「ビジネス関係」ではなかった。
***
Kは、最後にカエデに向き直った。
その表情は、先ほどまでの意地悪さも、茶目っ気も全て消え。
穏やかで温かく、そして、少しだけ名残惜しそうな顔だった。
「カエデ」
「はい」
「撮影、楽しみにしてる」
——頑張れ、でも、気をつけて、でもなかった。
「楽しみにしてる」。
Kが見たいのは——カエデの最高の姿なのだ。
泣き崩れた姿も、化粧をする姿も、お菓子を食べる姿も、全部見た上で。
Kが最後に伝えたのは、期待だった。
カエデは、その言葉を胸の真ん中で受け止めた。
「Kさん……」
カエデは、深く深く、息を吸った。
そして、微笑んだ。
涙を堪えた、けれど、温かく凛とした——FLORIAのカエデとしての、最高の笑顔。
「本当に……ありがとうございました」
その一言に——全ての感謝を、込めた。
助けてくれたこと。
泣いている自分を受け止めてくれたこと。
化粧を見守ってくれたこと。
電話番号をくれたこと。
そして——このビルが、この場所にあったこと。
全部。
「……ああ」
Kは——短く、しかし確かに、頷いた。
カエデは、画面に映るKの顔を、もう一度だけじっと見つめた。
網膜に焼きつけるように。
この顔を——この声を——この時間を——忘れない。
一生、忘れない。
そして、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
カエデは、デスクの横を通り過ぎ、扉に向かって歩き出した。
しかし——扉の手前で、一度だけ振り返った。
モニターの中のKは、まだこちらを見ていた。
カエデは、最後にもう一度、微笑んだ。
小さく、しかし確かに。
Kも、画面の向こうで、微笑み返した。
それが見えた瞬間——カエデは、前を向いて部屋を出た。
重厚な扉が、静かに閉まった。
***
廊下を歩きながら——理緒は、隣を歩くカエデの横顔を盗み見た。
カエデの表情は、晴れやかだった。
少しだけ残る目元の赤みさえ——今の彼女には、一種の輝きとして纏われていた。
頭の中では、先ほど目にした光景が、繰り返し再生されていた。
最上階の執務室。K会長のビデオ通話。カエデの赤らんだ頬。
(……これは大きい情報ね)
理緒は、直感的に理解していた。
自分が目にしたことは、おそらく、業界のほとんどが知らない「秘密」だ。
それを、偶然にも自分は見てしまった。
むやみやたらに暴露する気など、もちろんない。
無論、FLORIAを陥れるような浅はかな考えも持っていない。
そもそも、世間では理緒の方が圧倒的に有名であり、そんなことをする意味もない。
しかし——知っておくことが大事なのだ。
エレベーターが1階に着いた。
漆黒のエントランスを抜け、パリの午後の光が、二人の顔を照らした。
迎えの車が、待っている。
カエデは——少しだけ立ち止まって、もう一度、KFGのビルを見上げた。
パリの空に聳え立つ、漆黒の巨塔。
暗闇の中で、自分を導いてくれた、灯台。
「……行きましょうか」
理緒が、静かに声をかけた。
カエデは、振り返って微笑んだ。
「はい!」
二人は、車に乗り込んだ。
パリの街が、車窓の向こうで、黄金色の午後の光に染まっていた。




