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世界一の大富豪が私たちの味方です!  作者: Project_FLORIA
【パリの灯台編】

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43/60

【パリの灯台編】第5話

***


パリ、KFGパリ支社。

ニューヨーク本社の最上階から下された指示は、光の速さで現場に届いた。


「日本語を話せる女性社員を、至急集めろ」


その指令を受けた総務部の担当者は、社内のデータベースを叩き、全社員の言語スキル欄を検索した。


KFGパリ支社には、約1,200名の社員がいる。

その中から「日本語——ビジネスレベル以上」「女性」の二つの条件で絞り込むと、数名の候補がヒットした。


最も早く連絡がついたのは、アジア地域貿易部門に所属する、30歳の日本人女性だった。

名前は、『中内亜美』。

東京大学を卒業後、パリの大学院で金融工学を学び、そのままKFGのパリ支社に入社した。

入社5年目。それなりに優秀な社員だったが、当然これまで会長に関わる案件に直接携わったことなど一度もない。


その彼女のデスクに、突然上司から電話が入った。


「中内さん、今すぐ1階のエントランスへ向かってください。会長案件です。詳細は現場で」


「え……会長案件?」


「急いでください」


電話は、一方的に切られた。


亜美は震える手で自分の業務データを保存し、椅子を蹴るようにして立ち上がった。


「会長案件」——KFGにおいて、その四文字は全てを優先する合言葉だ。


エレベーターに飛び乗り1階に降りると、総務部の責任者が待っていた。


急ぎ足で歩きながら、断片的な情報が注ぎ込まれる。



FLORIAというK-POPグループのメンバーが、エントランスにいること。


確証はまだないが、おそらく本物であること。


会長の——重要な存在であること。


日本語で対応してほしいこと。


会長専用の執務室に案内すること。


男性スタッフは近づけないこと。



「え、ちょ、ちょっと待ってください、情報が多すぎて……」


「とにかく、行ってください。お願いします」


亜美は困惑しながらも——エントランスの一角に座り込んでいる、若い東洋人の女性の姿を見つけた。


涙の跡が残る顔。赤く腫れた目。震える肩。


(……この人が)


亜美は深呼吸を一つして、ゆっくりと歩み寄った。


そして、できるだけ柔らかい声で話しかけた。


「あの……カエデさん、ですか?」


カエデが——顔を上げた。


日本語だった。


この異国の地で——やっと日本語が聞こえた。


「……はい」


カエデの声は、掠れていた。


「私、KFGパリ支社の中内と申します。上のお部屋にご案内しますので、一緒に来ていただけますか?」


カエデは——ゆっくりと頷いた。


***


亜美に付き添われて、カエデはエレベーターに乗った。


専用キーで操作されたエレベーターは、一般社員が立ち入れないフロアへと静かに上昇していく。


移動する間——カエデの胸は、申し訳なさで張り裂けそうだった。


(……助かった、のかもしれない)


日本語が通じる人と会えた。


案内されていることから信じてもらえた可能性が高い。


状況は、さっきまでとは比べ物にならないほど好転している。


しかし。


しかし——。


(私は今、KFGに迷惑をかけている)


絶望の淵にいた時には回らなかった脳が、少しずつその機能を取り戻す。


そしてその回復した理性が——逆にカエデを苦しめた。


Kさんは、世界経済の頂点に立つ人。


KFGは、世界最大の企業グループだ。


その組織が——今、自分一人のために緊急で対応している。


この瞬間、いったいどれだけの人が通常業務を止めて、自分の対応に追われているのだろう。


どれだけのコストが発生しているのだろう。


事務所に請求が来るのだろうか。


いや——Kさんは、そんなことはしない。


私たちにお金の請求をするような人ではない。



でも——。


恥ずかしい。


迷惑をかけてしまった。


Kさんの名前を使って、助けを求めた。


一人で海外の仕事なんて出来なくて——結局、Kさんの力にすがった。


ぐるぐると、同じ思考が頭の中を回り続けた。


涙が——また止まらなくなった。


亜美は、隣で泣き続けるカエデに何と声をかければいいのか分からず——。


ただそっと、ハンカチを差し出した。


「……ありがとうございます」


カエデは小さな声で受け取って、目元を押さえた。


自分が本当に情けなくて、恥ずかしくて。


しかし——涙は拭いても拭いても、溢れてきた。


***


エレベーターが、最上階で止まった。


扉が開くと——広い廊下の先に、重厚な扉があった。


亜美が扉を開ける。


カエデは、その部屋に一歩踏み入れた。


「……ここは?」


カエデの声はまだ掠れていた。


しかし——部屋を見渡したその目に、僅かに好奇心の光が宿った。


広い。

非常に、広い。

そして——美しかった。


Kがいつもいるであろうニューヨーク本社も、カエデは見たことはない。


しかし、この部屋も「普通のオフィス」でないことは一目で分かった。


床は一面の大理石。壁は防弾ガラスとダークウッドの組み合わせ。


巨大な窓からは、パリの街並みが眼下に広がっている。


遠くには——エッフェル塔のシルエットもうっすらと見えた。


部屋の中央には堂々たるデスクが据えられ、革張りの椅子が一脚。


壁面のモニターは消灯されているが、その配置だけでここがこの拠点の意思決定の場であることが伝わってくる。


「えっと……私も詳しくは分からないのですが」


亜美が、少しだけ緊張しながら答えた。


「ここはK会長専用の執務室、とのことです。会長がパリにお越しになった時だけ使われるお部屋だと聞きました。ここでお待ちください……とのことです」


「……Kさんの、部屋……」


カエデは、呟いた。


Kが使う椅子。

Kが座るデスク。

Kが見る、窓からの景色。


その全てが——今、自分の目の前にある。


さっきまでの負の感情が——完全に消えたわけではなかった。


申し訳なさも、恥ずかしさも、情けなさも、まだカエデの胸の中心にある。


しかし——この部屋に足を踏み入れた瞬間、それらの感情の上に別の何かが薄く覆いかぶさった。


好奇心。

そして——Kの気配への安堵。


本人はいない。


しかし、この部屋には——Kの存在が空気として残っている気がした。


カエデは、少しだけ——ほんの少しだけ——心が和らぐのを感じた。


***


亜美が一度部屋の外に呼び出された。


カエデは一人、執務室のソファに腰を下ろして待った。


数分後——亜美が戻ってきた。


手にはノートパソコンが抱えられている。


しかし——彼女の顔色は、先ほどよりもさらに青ざめていた。


「あ、あの、カエデさん」


「はい」


亜美の声が——明らかに震えていた。


「K会長と……ビデオ通話が繋がるとのことです」


カエデの呼吸が、止まった。


「……え?」


「K会長と、直接ビデオ通話を——」


亜美の声は、緊張で上ずっていた。


KFG会長。

KFGの——全ての頂点に立つ存在。帝国の絶対的な王。


亜美にとってKは、「同じ会社に所属しているが、一生顔を合わせることはないであろう存在」だった。


大企業の一役員などという生易しい距離感ではない。


自分はパリ支社の平社員。

年収は同世代の軽く10倍はある。まわりもエリート集団だ。


それでもここは、欧州支部を統括するロンドン本社からの方針に、最終的には逆らえない上下関係にある。


しかし――アメリカ本部からの指示には、彼らは反論する機会すら許されない。


そして――ニューヨーク本社は、K会長の意向が全て無条件で最優先される。


それが、世界的地位とともにこの10年間で作られたグループ内の鉄の掟だった。


そのKの名が、今こんなに近い場所で「ビデオ通話」という生々しい形で発されている。


青ざめた亜美の手が、ノートパソコンを持つ手が、小刻みに震えていた。


その震えが——カエデにも伝わった。


KFGの社員が、これほどまでに緊張する。


Kという存在が——この帝国でどれほどの重みを持っているかが、亜美の一挙一動から痛いほどに伝わってきた。



しかし——今のカエデには、亜美のそんな震えに付き合っている余裕はなかった。



(Kさんと——繋がる?)

(なんで、もうKさんに知られてるの?)

(今アメリカは何時? 夜中じゃないの?)

(それに——今の私、こんな顔……)



泣き腫らした目。崩れた化粧。乱れた髪。


こんな姿をKに見せるのか。


いつも冷静で、理性的で、「頼れる姉」として振る舞ってきたはずの自分が——。


こんなにもボロボロの姿を——。


しかし——ノートパソコンがデスクの上に置かれた。


画面が開かれ、ビデオ通話の接続画面が表示されている。


亜美が、「お、お繋ぎします」と告げた。


カエデは——もう頷くしかなかった。


***


接続音が数秒間、響いた。


そして——画面が切り替わった。


映し出されたのは——。


どこかの広い部屋。


薄明かりの中に、巨大なモニターと重厚なデスクが見える。


そして——その手前に。


Kがいた。


黒のカットソーに身を包んだ、ラフな姿。


しかし——その整った顔と射抜くような瞳は、どんな服を着ていても変わらない。


画面越しでも——圧倒的な存在感が伝わってくる。


「カエデ! 聞こえるか!」


Kの声が——スピーカーから飛び出した。


その声は——普段のKの静かで冷徹な声ではなかった。


明らかに——心配の色が滲んでいた。


カエデは——。

その声を聞いた瞬間。

自分でも本当に、どうしようもないほどに——。


泣いてしまった。


「Kさん……」


声が震える。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


涙が、堰を切ったように溢れ出した。


「私、とんでもないことをしてしまって……勝手に……皆さんにご迷惑を……」


言葉にならなかった。


「でも……Kさんのビルがあったから……見つけて……それで……」


何をどう説明すればいいのか分からない。


ただ、謝りたかった。


ただ、Kの声が聞きたかった。


その二つの衝動がぐちゃぐちゃに混ざり合って、言葉として出てこなかった。


「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」


壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返した。


***


亜美は——カエデとKのそのやり取りを見て。


自分がここにいてはいけないと察した。


目の前で起きていること——会長が、涙を流すアイドルの少女に心配そうな声をかけている——。


それは、自分が目にしていい光景ではない。


亜美は音を立てないように、ゆっくりと部屋を出た。


扉が静かに閉まった。


部屋には、カエデと画面の向こうのKだけが残された。


***


「カエデ」


Kの声が、穏やかに、しかし確かな力を持って響いた。


「無事か? 怪我はないか?」


「……はい」


「誰かに、何かされたわけじゃないんだな?」


「はい……スマホをなくしちゃって、道に迷って……パニックになってしまって……」


カエデの声は、まだ震えていた。


「情けなくて……恥ずかしくて……」


「……」


Kは一拍、沈黙した。


画面の向こうで、彼がゆっくりと息を吐くのが見えた。


そして——。

カメラの外にいたアンナもまた、小さくほっと胸を撫で下ろしていた。


怪我はない。

暴力を受けたわけではない。


スマートフォンの紛失と迷子——トラブルではあるが、最悪の事態ではない。


アンナは手元のタブレットで、即座に秘書にメッセージを送った。


『美咲さんへご連絡ください。カエデ様は無事です。現在K会長とお話しされています。ご安心ください』


そして——もう一つ。


『事務所とKFGパリ支社を通じ、撮影の制作チームにカエデ様の合流手段を確認してください。迎えの手配を』


さらに——アンナは念のため、別の秘書にも指示を出した。


『事務所の社長の連絡先を、東京支社の営業部を経由して確認してください』


『内容は一点。今回の件で、カエデ様に対して注意や叱責を行うことがないよう強くお伝えください。これはK会長の意向に基づく要請とお伝えいただいて構いません』


アンナの対応は、いつもKが指示する前に全てが完了する。


Kが心配すべきことは何もない。


***


「カエデ」


Kが再び名前を呼んだ。


今度は、先ほどよりもずっと柔らかい声だった。


「お前が無事ならそれでいい」


「……Kさん」


「迷惑はかかってない。気にするな」


「でも……KFGの皆さんが、私のために……」


「俺の会社が、俺の大切な人を助けるのは、当然のことだ」


カエデの呼吸が——一瞬、止まった。


(大切な人……)


Kさんが、自分をそう呼んだ。


もちろん——それはFLORIA全員に対する言葉かもしれない。

カエデ個人に向けた、特別な意味はないのかもしれない。


しかし、今この瞬間、この言葉は泣き崩れたカエデの心を、確かに温かく包み込んだ。


「それに——」


Kは、少しだけ声のトーンを上げた。


「そこは俺の家だ」


「……え?」


「お前が今いるのは、俺専用の部屋だ。まあ俺の家と同じってこと……だから気楽に休め」


Kの声には、押しつけがましさはなかった。


ただ、「そこは安全な場所だ」ということを静かに、確かに伝えていた。


「お前が——そこを探して、辿り着いてくれたなら」


Kは、ほんの少しだけ笑った。


「あそこにビルを建てた意味があった」


カエデは涙を拭いながら、何度も頭を下げた。


***


Kは一瞬だけ、画面の端でマイクをミュートにした。


「アンナ」


「はい」


「カエデに、ハーブティーと甘いお菓子を出してやれ」


「かしこまりました」


アンナは即座にパリ支社へ指示を出した。


数分後——扉がノックされ、亜美が銀のトレイを持って入ってきた。


温かいカモミールのハーブティーと、小さなマドレーヌとフィナンシェの盛り合わせ。


来客用で常備されている、上質な焼き菓子だった。


亜美はデスクの端にトレイを置くと小さく会釈をして、再び音もなく退出した。


「お、届いたか?」


カエデは、目の前に置かれたトレイを見て——少しだけ驚いた。


「え……はい、今お茶とお菓子を……」


「それを——今から俺の前で食べろ」


「……え?」


カエデは、画面の中のKを見た。


「早く食べろ。俺はそれを見たいから」


「……なんで、ですか?」


カエデの口元が——僅かに、ほんの僅かに綻んだ。


さっきまで泣き崩れていた顔に——初めて、「え?」という困惑混じりの微笑みが浮かんだ。


Kはその反応を見て、満足そうに頷いた。


***


(……どさくさに紛れて、少し変態なお願いですね……)


カメラの外でアンナは心の中で呟いた。


心配しているのは本当だ。


カエデの安全を気遣っているのも、嘘ではないだろう。


しかし、「俺の前で食べてくれ。それが見たい」は、明らかに心配とは別の欲求が混じっている。


それは、「安心させたい」という優しさと「その姿を独占したい」という欲のグレーな境界線だった。


(……まあ、結果的にカエデ様の気が紛れるなら、良しとしますか)


アンナは、それ以上は考えないことにした。


***


カエデは促されるまま、ハーブティーのカップを手に取った。


温かい。

カモミールの穏やかな香りが、鼻腔を満たす。


一口飲むと——冷え切っていた身体の芯に、じんわりと温度が戻っていくのを感じた。


「……美味しい」


「そうか」


Kの声が、穏やかに返ってくる。


マドレーヌを一つ、手に取る。


小さく齧ると、バターの風味とレモンの香りが、口の中に広がった。


「……美味しいです」


「よかったなカエデ」


Kは画面の向こうで、カエデがお菓子を食べる姿をじっと見ていた。


涙の跡が残る頬。赤く腫れた目。


しかし、その口元には——少しずつ色が戻ってきている。


Kはその回復の過程を、一秒も見逃すまいとするように画面を見つめていた。


「……Kさん」


「?」


「こんなところを見せちゃって、すみません」


「何がだ」


「私、いつも……しっかりしてるつもりだったのに」


「……」


「こんなに情けないところ……」


カエデの声が、また少し震えた。


Kは静かに言った。


「カエデ」


「はい」


「泣いたっていい。俺の前では、特にな」


「……」


「俺はしっかりしてるカエデも泣いてるカエデも、同じくらい好きだ」


カエデの手が——マドレーヌを持ったまま、止まった。


「俺がお前を見る目が変わったと思うか?」


Kの声は穏やかだった。


しかしその穏やかさの中に、揺るぎない確信が宿っていた。


「変わらない。泣いても、迷っても、転んでも……な」


涙がまた一筋、カエデの頬を伝った。


しかし、今度の涙は、恐怖でも情けなさでもなかった。


温かい涙だった。


カエデは、ハーブティーのカップを両手で包みながら、小さく、小さく頷いた。


「……ありがとうございます、Kさん」


***


「それと——」


Kは少しだけ、声のトーンを変えた。


「今すぐお前を抱きしめてやれないのが、心苦しい」


「——っ」


カエデの顔が——一瞬で真っ赤に染まった。


泣き腫らした赤さとは全く違う、純粋な紅潮。


「な、Kさん、いきなり何を——」


「事実を言っただけだ」


Kの声は平然としていた。


しかしその目は、画面越しでも分かるほどに真剣だった。


カエデは何も言い返せなかった。

マドレーヌを持つ手が、微かに震えている。


しかし、それは、恐怖の震えではなかった。


***


アンナは、そろそろ頃合いだと判断した。


(……これ以上続けると、カエデ様が別の意味で倒れそうですね)


Kの「慰め」がいつの間にか「口説き」にシフトしつつある。


どうやら会長も画面越しだといつもより饒舌に話せるらしい。


アンナは手元の端末で、パリ支社からの報告を確認した。


撮影の制作チームとの連絡がつき、迎えの車がKFGパリ支社に向かっているとのことだった。


到着まで、あと20分ほど。


(……もう少しだけ、お話しさせてあげましょうか)


アンナは時計を見ながら、タイミングを計った。


***


一方——パリ、凱旋門付近。


撮影現場の集合場所では、他のアイドルたちとスタッフが集まり始めていた。


しかし空気は、華やかな撮影現場とは程遠い、ざわついたものだった。


「FLORIAのカエデさんがまだ来ていない」


「連絡も取れない」


その情報だけが、スタッフからアイドルたちに簡潔に共有されていた。


理緒と柚葉は他のメンバーから少し離れた場所で、並んで立っていた。


「カエデさん……大丈夫かな」


柚葉が珍しく、心配そうな声を出した。


いつも元気で明るい彼女が不安そうな表情をしているのは、それだけ状況が普通でないことを物語っていた。


「パリで迷子になったとしたら……言葉も通じないし、怖いよね」


「……うん」


理緒も黙って頷いた。


一部のアイドルたちの中には、「撮影が遅れるのは困る」「早く来てほしい」という少しだけ苛立ちを含んだ声もあった。


もちろん、それも当然の感情だ。


全員が忙しいスケジュールを調整して、パリまで来ている。


一人のメンバーの遅刻で全体のスケジュールが押されるのは、プロとして歓迎できない。


しかし——理緒も柚葉も、そうした声には同調しなかった。


二人はただ単純に、カエデのことが心配だった。


昨日飛行機で隣に座って話をした、あの穏やかで礼儀正しい女性。


その人が今、どこかで困っているかもしれない。


その想像だけで——理緒の胸は締め付けられていた。


***


と、その時。


スタッフの一人が電話を終えて、少し騒がしくなった。


「カエデさん、見つかったそうです」


全員が一斉に振り向いた。


「KFGのパリ支社にいるそうです。日本の事務所から連絡がありました」


安堵の声が、ちらほらと上がった。


「良かった……」


柚葉が、ほっと胸を撫で下ろす。


しかし——理緒は、その報告の中の一つの単語に引っかかっていた。


「……KFG?」


小さく、呟いた。


KFG。

確か——世界最大の金融グループ。

日本人の有名な会長が率いる、世界経済の心臓部。


(……なんでカエデさんが、KFGに?)


理緒の頭の中で、歯車が回り始めた。


スタッフ同士が話しているのが、耳に入ってきた。


「なんでKFG支社に?」

「さあ……アルカディア繋がりで、何か関係があるんじゃないですか?」

「そういやアルカディアってKFG傘下か」

「でも迷子になって、なんでわざわざKFGに駆け込むんだ? 普通、警察とか大使館じゃないか?」

「確かにな」


理緒は、その会話を一言も漏らさず聞いていた。


そしてスマートフォンを取り出した。


指が素早く検索欄に打ち込む。


「アルカディア グループ」。

検索結果。

アルカディア。KFG傘下のプレステージ・ブランド。


「ロイヤル・ソレイユ グループ」。

検索結果。

ロイヤル・ソレイユ。KFG傘下の最高峰時計ブランド。


(……やっぱり)


どちらも——KFG。

アルカディアも。ロイヤル・ソレイユも。

そして今、迷子になったカエデが駆け込んだのも——KFG。


飛行機の中で、カエデに聞いた言葉が蘇る。


『私たちのことを買ってくださった《《方》》がいて、運よく機会をいただけた』。


「方」。

事務所でもなく、ブランドでもなく——「方」。

個人を、示唆する言い方。


(KFGの中にいる誰かが——FLORIAを個人的に買っている?)


そしてその「誰か」のいるKFGに——カエデは迷った末に、助けを求めに行った。

警察でもなく。大使館でもなく。


それは「取引先の会社に助けを求めた」という以上の、もっと深い信頼関係がなければあり得ない行動だ。


理緒の中で、点と点が、線で結ばれ始めていた。


まだ全体像は見えない。


しかし——何かがある。

FLORIAとKFGの間には公表されていない、深い繋がりがある。


その確信が、理緒の中で静かに形を成し始めていた。


***


理緒はスマートフォンをポケットにしまうと、スタッフの一人に歩み寄った。


「あの、すみません」


「はい?」


「カエデさんのこと……KFGに迎えに行くんですよね?」


「ええ、今車を手配しているところです」


「私も、カエデさんのお迎えに一緒に行かせていただけませんか?」


スタッフが、少し驚いた顔をした。


「カエデさんは友達なんです。心配で……一人で来るよりも、知ってる顔がいた方が安心すると思うんです」


理緒は——「友達」という言葉を少しだけ大げさに使った。


昨日飛行機で隣に座っただけの関係を、「友達」と呼ぶにはまだ早い。


少し心は痛んだが、しかし、今はそう言うしかなかった。


カエデに近づくために。

KFGのビルの中を、自分の目で見るために。


柚葉が理緒の横で、「え、理緒ちゃん行くの?」と少し驚いた顔をしていた。


しかし、理緒の目がいつになく真剣であることに気づくと、それ以上は何も言わなかった。


スタッフは少し考えた後、頷いた。


「……分かりました。知っている方がいた方が、カエデさんも安心されるでしょうし。一緒にどうぞ」


「ありがとうございます!」


理緒は、深く頭を下げた。


その瞳の奥では——《《探偵》》の直感が、静かに、しかし確かに光っていた。

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