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世界一の大富豪が私たちの味方です!  作者: Project_FLORIA
【パリの灯台編】

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【パリの灯台編】第4話

***


KFG欧州支部パリ支社。


KFGの中では欧州支部を統括するロンドン本社より、1ランク低い支社の拠点。


しかしそれでありながら、周りのオスマン様式の建物を遥か上空から見下ろす、アヴェニュー・フリードランドの一角に聳え立つ漆黒の巨塔。


その足元に——カエデは、立っていた。


見上げると、首が痛くなるほどの高さ。


パリの空に向かって突き刺さるような鋭利なシルエットは、周囲の石造りの歴史的建築とは完全に異質でありながら、それ自体が一つの支配的な美学を主張していた。


カエデの顔は——ボロボロだった。


涙の跡が幾筋も頬にこびりつき、目は赤く腫れている。


今日の朝、丁寧にやったはずの化粧は、涙と汗で崩れ落ちていた。


足は震え、呼吸はまだ浅い。


コートの裾には、走った時についた汚れが残っている。


パリの一等地に立つ、世界最大の金融帝国のビルの前で——一人の若い東洋人の女性が、泣き崩れそうな顔で佇んでいる。


その光景は、あまりにも不釣り合いだった。


しかし、カエデの目は、ビルの正面に据えられた漆黒のエントランスを真っ直ぐに見据えていた。


***


エントランスは、重厚だった。


ガラスと黒い石材で構成された巨大な自動ドア。


その両脇には、スーツ姿の警備員が微動だにせず立っている。


中に進むには、セキュリティゲートが設置されていた。


カードキーか、生体認証か——いずれにしても、部外者が気軽に入れる場所ではない。


しかし、ゲートの手前には受付カウンターがあった。


黒い大理石のカウンターの背後に、若い女性が一人、端末に向かって座っている。



そして——。


カエデの目が、カウンターの少し奥に吸い寄せられた。


エントランスの壁面に、大きなポスターが掲げられていた。


FLORIAのロイヤル・ソレイユのポスター。


自分たちのポスター。


ソユンの、サラの、ミジュの——そして自分の4人の姿。


洗練されたライティングの中で、凛とした表情で佇む、FLORIAの4人。


あの日、Kがノートパソコンの画面で見せてくれた、まさにあのポスターが——ここにあった。



(……あった)


(本当にあった)



カエデの目から、また涙が溢れた。


しかし、もう恐怖の涙ではなかった。


***


カエデは震える足で、受付カウンターに歩み寄った。


受付の女性が、顔を上げた。


カエデと同い年くらいの、若いフランス人女性だった。


整った顔立ちに、きちんとまとめた髪。

KFGの社員として、隙のない身なりをしている。


しかし、その目の前に現れたのは、涙でぐしゃぐしゃの顔をした、東洋人の若い女性だった。


受付の女性は、一瞬驚いたもののすぐにプロフェッショナルな表情を取り戻した。


「Bonjour, comment puis-je vous aider?」

(こんにちは、何かお手伝いしましょうか?)


フランス語だった。


カエデには——分からなかった。


しかし、「何か聞いてくれている」ということは、表情から読み取れた。


カエデは、拙い英語で必死に伝え始めた。


「I... I'm sorry... My name is Kaede... I'm... I'm from FLORIA...」


声が、震えていた。


英語の文法も、発音もめちゃくちゃだった。


しかし、構っていられない。


カエデは、壁に掲げられたポスターを指差した。


「That poster... That's me. I'm there. I'm one of them.」


受付の女性は、カエデが指差すポスターと目の前の女性を交互に見た。


ポスターの中のFLORIAのメンバーは、完璧なメイクと照明の中で、神々しいまでの美しさを放っている。


一方、目の前の女性は泣き崩れた顔で化粧も崩れ、コートには汚れがついている。


正直——同一人物かどうか、判断できなかった。


しかし、カエデは構わず続けた。


「And... I need to... K... I want to talk to K...」


Kの名前が——カエデの口から出た。



我ながら心底情けないと思いながら口にしていた。


結局、Kさんの名前に頼っている。


Kさんの力に、すがっている。


一人で飛べると思っていたのに、結局、Kさんなしでは何もできない自分。


その事実が、カエデの胸を鋭く刺した。


しかし——同時に。


Kの名前を口にした瞬間、不思議な安心感が全身を包んだ。


ここは、Kさんの城なのだ。


この壁も、この床も、この空気も、全部Kさんのもの。


ここにいるだけで、守られている気がした。


その二つの感情が——情けなさと安堵が——同時に押し寄せて、カエデの涙はさらに止まらなくなった。


「I'm sorry... I'm so sorry... please... please help me...」


もう、英語にすらなっていなかった。


ただ、泣きながら助けを求めていた。


***


受付の女性は、目の前の少女の必死さに胸を打たれた。


ポスターの本人かどうかは——正直、確信が持てない。


しかし、この泣き方は演技ではない。


何かただならぬことが起きている。


彼女はまずカエデの肩にそっと手を添え、近くの椅子を指し示した。


「Please, sit down. It's okay. Please wait here.」


なんとか英語で——座って、待っていてください、と伝えた。


カエデは導かれるまま、エントランスの一角に置かれた来客用のソファに崩れるように座り込んだ。


受付の女性は、カエデが座ったのを確認すると即座に内線を手に取った。


***


KFGパリ支社、総務部。


受付からの報告を受けた総務部の責任者——40代のフランス人男性——は、数秒間沈黙した。


「……FLORIAのメンバーを名乗る女性が、エントランスに来ている?」


「はい。かなり取り乱しているようです。K会長に繋いでほしいと……」


「K会長に?」


責任者の背筋が、瞬時に伸びた。


組織の心臓であるアメリカ本部ニューヨーク本社から離れた地域であっても、KFGの社員であれば、会長が関わる案件がどういう意味を持つかは骨の髄まで叩き込まれている。


(会長が関わっている可能性がある……)


本人確認はできていない。


彼女が本物のFLORIAのメンバーかどうか、この段階では分からない。


責任者は、数秒で判断を下した。


自分の手に負える案件ではない。


すぐに、上の役員へ報告した。


パリ支社の役員——KFGヨーロッパ地域の幹部の一人——は報告を聞くと、迷うことはなく即座に動いた。


「来客用の会議室に案内しろ。すぐにだ」


そして、ニューヨーク本社のインシデント対応本部への直通回線を、自ら開いた。


彼は半信半疑だった。


その女性が、本物のFLORIAのメンバーなのかどうか。


しかし——。


KFGのエリートたちは、リスク計算のプロだ。


もし偽物だった場合。


丁重に対応した上で、セキュリティを呼んで退出してもらえばいい。


KFG内部に入れたことを上層部から叱責されるかもしれない。


それは謝罪で済む。


始末書を書き、キャリアに傷はつくかもしれないが、致命的ではない。


しかし。

もし、本物だった場合。


会長を求めてきた、か弱い女性を、雑な対応で追い出したことが会長に伝わったら——。


どうなるか。

想像するまでもなかった。


KFGグループ内での居場所そのものが消える。

世界最大の金融グループから追放される——それは、金融業界、いや資本主義社会における死刑宣告に等しい。


答えは明白だった。


「全力で対応しろ。確認は後だ」


役員の判断は、迅速だった。


***


ニューヨーク、マンハッタン。

午前5時。


KFG本社ビル最上階に隣接する、アンナの個人執務室。


世界がまだ眠っている時間帯——しかし、アンナはすでに起きていた。


デスクの上にはノートパソコンとタブレットが合わせて3台。


今日のKのスケジュール、進行中の案件のステータス、各国拠点からの報告事項——。


それらを一つ一つ整理し、分析していた。


アンナの睡眠時間は、平均して3〜4時間だった。


多くの秘書を指揮する立場にありながら、Kへの報告事項は可能な限り自分の手で調べ、自分の頭で考察してから伝える。


他人の分析をそのまま伝えるだけなら、自分でなくてもいい。

それが、アンナの哲学だった。


プライベートの時間など、Kの専属秘書になってから一日たりとも取っていない。


その徹底ぶりこそが、Kや上級役員たちに認められ、この帝国で王の隣に立つことを許された理由だった。


その、研ぎ澄まされた朝の静寂を——。

一本の電話が、破った。


インシデント対応本部からの直通回線。


「アンナ様、緊急のご報告です」


アンナは、受話器を耳に当てた。


「パリ支社のエントランスに、FLORIAのカエデ様を名乗る女性が来訪しています。かなり取り乱した状態で、会長に繋いでほしいと訴えられたとのことです」


アンナの手が、一瞬止まった。


「……カエデ、様?」


「はい。本人確認は、まだです」


「状況の詳細は」


「泣いている状態で、英語で必死に説明しようとしていた、と。ポスターを指差して、自分はFLORIAのメンバーだと……」


アンナの頭脳が瞬時に回転を始めた。


***


(カエデさんが——パリにいる)


それ自体はアンナにとって初耳だった。


FLORIAの個々のスケジュールまでは、アンナは把握していない。


しかし——。


(偽物の可能性……)


アンナは、冷静に検討した。


会長とFLORIAの個人的な関係は——世間にはまだ知られていない。


アルカディアとロイヤル・ソレイユのモデル起用は公表されているが、会長個人がFLORIAに特別な感情を持っていることは、ごく限られた人間しか知らない。


仮に、成りすましの人間がいたとして。


パリのKFG支社に乗り込んで、「会長に繋いでくれ」という要請をするだろうか。


金銭目的の詐欺であれば、わざわざ会長と話す必要などない。


そもそも、FLORIAのメンバーの名を騙ってKに接触しようとする——その発想自体が、KとFLORIAの関係性を知っていなければ生まれない。


(……十中八九、本物ですね)


アンナは、ほぼ確信した。


しかし、確信だけでは動けない。


事実確認は並行して行う。


アンナは、即座に指示を出し始めた。


***


「まず、カエデ様を保護してください」


アンナの声は、どこまでも冷静で正確だった。


「来客用の会議室ではなく——パリ支社の最上階の執務室を開けてください。会長が訪問時にのみ使用されるあの部屋です」


電話の向こうで、息を呑む音が聞こえた。


会長専用の執務室。


それは、K本人が来訪する時にしか開錠されない、パリ支社の最も格式高い空間だ。


「そこへ、カエデ様をお連れしてください。最大限の敬意を持って」


「か、かしこまりました」


「それから——」


アンナは、続けた。


「日本語を話せる社員を、すぐに集めてください。可能な限り若い女性を」


「若い女性……ですか」


「はい。カエデ様は今、非常に取り乱していらっしゃるはずです。言葉が通じない不安の中で、男性スタッフに囲まれるのは精神的な負担が大きい。日本語で話せる同世代の女性が側にいることが、最も安心できるはずです」


アンナの指示は、カエデの心理状態を完璧に想像した上での最適解——に聞こえたはずだ。


実際にはすでに脳裏でKのことを考えていた。


(会長を求めてやって来た、泣いてるカエデ様を、現地の日本語が話せる男が慰めている。そんな状況を会長が知ったら、私とて叱咤では済まされないかもしれない。)


「そして——男性スタッフはカエデ様に近づけないでください。案内と保護は、全て女性スタッフで行ってください。これは命令です」


「しょ、承知いたしました」


「最後に——カエデ様が落ち着かれましたら、その執務室からニューヨーク本社へのビデオ通話を繋げるよう、準備を整えてください。回線は最高セキュリティで」


「ビデオ通話ですね」


アンナは一拍間を置いてから——。


静かに、しかし絶対的な響きを持って付け加えた。


「今パリ支社内にある全ての業務より、この対応を優先してください。これにより発生する損害は、全てニューヨーク本社で埋めます。」


電話を切ると——アンナはすぐに早朝の時間帯に勤務している若い秘書を呼んだ。


「日本のFLORIAのマネージャー、美咲様に電話してください。カエデ様が現在パリに滞在しているかどうか、事実確認を取ってください。至急です」


「か、かしこまりました」


秘書が駆け出していく。


アンナは——深く、一度だけ息をついた。


そして、Kの元へ向かった。


***


KFG本社ビル最上階。

Kの執務室。


この部屋に隣接して、Kの寝室がある。

最上階の一角を占める、完全にプライベートな空間。


Kは世界中にペントハウスや巨大な別荘を持っている。

当然ニューヨーク内、それもニューヨーク本社近くにも家はある。


しかし多くの場合、ここで仮眠を取っていた。


通常、アンナがKを起こすのは午前7時——Kからの指示だ。


しかし大抵の場合、アンナが7時に執務室に来た時にはKはすでに起きていて、デスクに向かっている。


今は——午前5時。

いつもより2時間も早い。


起きているだろうか。

しかし迷っている余裕はなかった。


FLORIAのメンバーが、泣きながらKFGのビルに助けを求めてきている。


それをKに報告しない選択肢は存在しない。


アンナは、執務室の扉を開けた。


***


Kは——起きていた。


デスクの前に座り、巨大な複数のモニターに向かっていた。

画面には、複数のデータウィンドウが開かれている。


アンナは、その画面に一瞬だけ目を走らせた。


(……)


表示されていたのは——アンナがまさに今朝、自室で整理していた案件と同じデータだった。


KFGが現在進行中の大型買収案件。

対象企業の財務分析、市場の反応予測、買収後の統合シナリオ——。


アンナが秘書として事前に整理・考察していたその同じ案件を。


Kもまた——自分の頭で独自に分析していた。


(……FLORIAの皆様にうつつを抜かしていても)


(やはりこの人は——)


お気に入りのアイドルを見つけ、傘下のブランドを着せて、CMを流し、歌詞を書き、ポスターの写真を見せて浮かれ——。

そうした「人間臭い」日々を送りながらも。


頭脳は帝国の経営から離れていない。

世界の金融を動かす王としての切れ味は、鈍っていない。


しかし——今は感心している場合ではなかった。


「会長」


「ん?」


Kはモニターから目を離し、振り返った。


アンナが珍しくやや急いた様子で立っていることに、すぐに気づいた。


「どうした」


Kの声には、僅かな警戒が混じっていた。


アンナがこの時間にこの表情で来ることの意味を——Kも理解していた。


「申し訳ございません、朝早くに。至急ご報告がございます」


「ああ」


アンナは簡潔に、しかし正確に状況を説明した。


「先ほど、パリ支社のエントランスに——カエデ様がお越しになりました」


Kの目が——一瞬で、変わった。


恐らくは市場や政治情勢に関する緊急報告と思っていたのだろう。


「かなり取り乱されたご様子で、K会長に繋いでほしいと。これはあくまで推測ですが——パリの街中で迷われたのではないかと思われます」


Kの身体が、椅子から僅かに浮いた。


「カエデがパリに?」


「はい。現在、事実確認を並行して行っておりますが——」


「無事なのか」


Kの声が鋭くなった。


それは、世界経済を論じる時の冷徹な声でも、FLORIAの楽曲を語る時の穏やかな声でもなかった。

純粋な心配の声だった。


「身体的なお怪我はないようです。ただ、精神的に相当消耗されているかと」


「……」


Kは数秒間沈黙した。


その表情は、アンナがこれまでの2年間で見た中で、最も「心配そうな顔」だった。


世界の金融市場が暴落した日も、敵対企業との交渉が決裂しかけた時も、各国政府から圧力を受けた時も——。

Kは一度として、こんな顔はしなかった。


今、この男の顔に浮かんでいるのは、純粋な偽りのない心配だった。


「電話はできるか」


Kが言った。


「はい。すでにビデオ通話を繋ぐよう指示済みです。パリ支社の会長専用執務室から、セキュアラインで接続する準備を進めております」


「そうか」


Kは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「対応ありがとう、アンナ」


アンナは、目を僅かに見開いた。


Kがアンナに「ありがとう」と言うことは稀だった。


莫大な給与はもちろん、世界の王が右腕として自分を置いてること自体が言葉のないお礼のようなものではあったが、いずれにせよ、こんなにも率直な感謝の言葉は滅多に聞かない。


「……当然のことです」


アンナは、静かに一礼した。


***


その時、執務室に若い秘書が駆け込んできた。


「アンナさん! 美咲様と確認が取れました。カエデ様はファッション誌の撮影で、パリに滞在中とのことです。」


「やはりご本人でしたか」


アンナは頷いた。


「どうやら現地スタッフからも連絡があったようで、制作チームの車から降りた後、連絡が取れなくなったと現場が混乱しているとのことです」


「分かりました。カエデ様はKFGパリ支社で保護されていることを伝えてください。ご安心いただくように」


「はい!」


秘書が再び駆け出していく。


アンナはKに向き直った。


「会長。間もなくビデオ通話の準備が整うかと思います」


Kはすでに、モニターの前から動き、ビデオ通話用の端末の前に座っていた。


その目は——画面に映し出されるであろう一人の少女の顔を、じっと待っていた。

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