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世界一の大富豪が私たちの味方です!  作者: Project_FLORIA
【パリの灯台編】

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【パリの灯台編】第3話

***


翌朝。


パリの空は、薄いグレーの雲に覆われていた。


ホテルの窓から見える街並みは、東京とは全く異なる色彩——クリーム色の壁、灰色の屋根、そこかしこに見える鉄製のバルコニー。


カエデは、目覚まし時計よりも少し早く目を覚ました。


今日は、いよいよ撮影だ。


凱旋門の近くで、昼ごろに各自集合。


そこから、パリの街を背景にした本格的な撮影が始まる。


カエデは、ベッドの中で一度伸びをしてから、てきぱきと朝の準備を始めた。

シャワーを浴び、髪を整え——。


と、そこまで進んだところで、スマートフォンが鳴った。


通訳担当の女性スタッフからだった。


***


「カエデさん……本当に申し訳ございません……」


受話器の向こうの声は、明らかに辛そうだった。


「体調が少し……昨夜から熱が出てしまって……」


長距離フライトの疲労が、彼女の身体を直撃したらしい。


声にも力がなく、時折咳が混じっている。


彼女はプロだった。


体調が悪くても仕事に穴を開けまいとする気概は、声の端々から伝わってくる。


「行きます、行けますから……もう少ししたら——」


「いいえ」


カエデは、穏やかに、しかしはっきりと遮った。


「休んでください。無理をして悪化したら、明日以降にも響きますから」


「でも、カエデさんお一人で——」


「大丈夫です。現場のスタッフもいますし、他のメンバーの方もいらっしゃるので」


カエデの声は、落ち着いていた。


本心を言えば、通訳なしでの海外撮影は不安がある。


カエデの英語力は、あくまでもアイドルとして周りのサポートがあって使うレベル、全く知らない人と話せるものではない。


フランス語は、挨拶と「メルシー」くらいだ。


しかし——体調を崩している人間に「来てください」とはとても言えなかった。


「本当にごめんなさい……起きて待機していますので、何かあればいつでもお電話ください。通訳が必要な時は、電話越しで対応します」


「ありがとうございます。もしかしたらそうさせていただくかもしれません。……とにかく、今は休んでくださいね」


通話を切ると、カエデはスマートフォンをテーブルに置いて、小さく息をついた。


(……一人か)


日本から唯一同行してくれていたスタッフが、ダウンした。


つまり今日、カエデは——完全に一人で、パリの撮影に臨むことになる。


(大丈夫。なんとかなる)


カエデは自分にそう言い聞かせて、化粧ポーチを開いた。


あとで全体スタッフのプロのメイクさんが仕上げてくれるが、まずは一人でそこそこの仕上がりにしておかなければいけない。


鏡に向かいながら、ファンデーションを丁寧に伸ばしていく。


アイラインを引く手が、いつもより少しだけ慎重だった。


***


ホテルの朝食は、一人で食べた。


広々としたホテルのダイニングの片隅で、クロワッサンとサラダ、そしてカフェオレ。


周囲には観光客らしきカップルや家族連れが、楽しそうに会話をしている。


フランス語の、柔らかな響き。


カエデは、その中で黙って食事をした。


寂しくないと言えば嘘になる。


しかし、これも経験だ。


グループを離れて一人で海外の仕事をこなす——それは、自分の力が試される瞬間でもある。


食事を終え、ロビーに降りると、今回の撮影に参加する他のアイドルが数名いた。


彼女たちは同じ事務所のメンバー同士で固まり、楽しそうに会話をしている。


カエデは——その輪に、入れなかった。


というよりも、入りにくかった。


FLORIAは、K-POPグループだ。


今回の「日本人女性アイドル」特集に参加しているメンバーは、基本的に日本のアイドルグループに所属する子たちばかり。


彼女たちの間には、日本の音楽番組で顔を合わせる機会や、同じイベントに出演する機会が多い分、自然な繋がりがある。


しかし、カエデが普段活動しているのはK-POPシーン。


日本のアイドルコミュニティとは、顔は利くものの、深い付き合いがあるわけではない。


それに、本来であればまだFLORIAは今回選ばれるようなグループではない。ここ最近のアルカディア、ロイヤル・ソレイユの影響によって滑り込んだだけだ。


今回のメンバーの中で、カエデが昨日話せたのは、飛行機で隣になった理緒だけだった。


その理緒の姿は、ロビーには見当たらなかった。


(……きっと、もう出発したのかな)


カエデは誰に声をかけるでもなく、ロビーの一角で一人、出発の準備を整えた。


仲間外れにされているわけではない。


誰かが悪いわけでもない。


ただ——自分が、ここでは「少し違う世界から来た人間」であるという事実が、静かにカエデの胸を刺していた。


***


通訳スタッフが不在であることを、今回のイベントを企画した制作会社の担当者に伝えると、担当者は快く対応してくれた。


「それでしたら、カエデさんは私たちのチームと一緒に移動しましょう。現場でもサポートしますから」


「ありがとうございます。助かります」


カエデは丁寧に頭を下げた。


こうしてカエデは——他のアイドルたちとは別の車に乗り、制作チームと共に移動することになった。


事務所ごと、あるいはグループごとにまとまって移動する中、カエデだけが制作スタッフの車に乗っている。


それ自体は合理的な判断だったが、カエデが他のアイドルたちとさらに距離ができてしまったことも、事実だった。


***


車は、パリの市街地を走り始めた。


窓の外には、石造りの重厚な建築が次々と流れていく。


カフェのテラスで新聞を読む老紳士。

犬を連れて散歩するマダム。

石畳の路地を自転車で駆け抜ける若者。


東京では見られない、異国の日常風景。


カエデは、その景色を眺めながら、少しだけ心が和むのを感じた。



制作スタッフの一人がカエデに声をかけた。


「カエデさん、すみません。途中で一箇所寄り道させてもらっていいですか? 機材の追加と、ケータリングの食材を買わないといけなくて」


「あ、はい。もちろん大丈夫です」


「買い物に1時間弱かかると思うんですけど……車内で待っていただいても構いませんし、もしよかったら、少し周りを見てきていただいても大丈夫ですよ」


カエデは——その言葉に、少しだけ心が動いた。


1時間弱。


パリの街を、少しだけ歩いてみる時間がある。


(……せっかくパリに来たんだから)


カエデは、車を降りることにした。


しかし、準備は怠らなかった。


車の停車場所を、スマートフォンの地図アプリにピンを立ててメモした。


制作スタッフの担当者と、念のため連絡先を交換し、電話ですぐに連絡が取れるようにした。


通訳のスタッフにも、何かあれば電話できる。


(よし。大丈夫)


カエデは万全の準備を整えて——パリの街に、一歩踏み出した。


***


10月のパリの空気は、ひんやりと澄んでいた。


石畳の通りを歩くカエデの足取りは、軽かった。


カフェから漂うコーヒーの香り。

パン屋の窓から覗く、黄金色のバゲット。

花屋の軒先に並ぶ、色とりどりのブーケ。


東京の喧騒とは全く異なる、穏やかで、どこか品のある時間の流れ。


カエデは、ふと立ち止まって深呼吸した。


パリの空気が、肺を満たす。


(……私、一人でパリにいる)


その事実が——不安ではなく誇らしさとして、カエデの胸を温めた。


数年前の自分なら、想像もできなかった。


韓国でデビューし、日本に活動の場を広げ、仲間と出会い、そして今——


一人でパリの街を歩いている。


(成長してるんだ、私)


仲間とともに流した汗が、自分をここまで連れてきてくれた。


その自信が、今、カエデの歩みを確かに支えていた。


(……でも)


同時に——3人のことが頭に浮かんだ。


ソユンは、今頃何をしているだろう。

朝ごはんちゃんと食べただろうか。


ミジュは、またソファでスマートフォンを見ているかもしれない。


サラは、新しいメロディを試しているかもしれない。


(……あの子たちがいなかったら、私、こんなに頑張れてないな)


普段、カエデはあの3人をまとめる役だ。


宥めたり、励ましたり、時には叱ったり。


姉のような立場で、常に3人の前を歩いている——つもりだった。


しかし、こうして一人になってみると——。


自分こそが、あの3人に支えられていたのだと、改めて実感する。


隣にいてくれるだけで心強い、ソユンの優しさ。

背中を押してくれる、サラの力強さ。

場を明るくしてくれる、ミジュの無邪気さ。


それらが——今、ここにはない。



(……帰ったら、ちゃんと伝えよう。ありがとう、って)


カエデは少しだけ感傷に浸りながら——ふと、通り沿いのショーウインドウに目を留めた。


(あ……そうだ。お土産)


3人が好きそうなものを探そう。


その思いつきが、カエデの足取りをまた軽くした。


***


少し歩くと、可愛らしいお菓子の専門店が目に入った。


パステルカラーの外壁に、小さな木製の看板。


ショーウインドウには、宝石のようなマカロンやフィナンシェ、そして色とりどりのキャラメルが美しく並んでいる。


(これ、SNSで映えそう……ってそんな選び方良くないか)


カエデはそんなことを考えながら、店内に足を踏み入れた。


甘い、バターと砂糖の香りが、ふわりと包み込んでくる。


棚に並ぶお菓子たちの中から、小ぶりで可愛らしいパッケージのものを探す。


(ソユンは……甘いもの好きだから、このマカロンセットとか似合いそう。ピンクと薄紫の組み合わせ……ソユンの雰囲気にぴったり)


(ミジュには……この小さいチョコレートの詰め合わせかな。ミジュ、チョコ好きだし)


(サラは……ナッツのフロランタン? サラ、意外とこういう大人っぽいのが好きだった気がする)


カエデは、3人の顔を思い浮かべながらお菓子を選んだ。


かさばらないサイズ。持ち帰りやすい包装。


小さな紙袋に入れてもらえば、荷物にもならない。


(よし、これにしよ!)


レジに向かおうとしたが、パリでの初めてのお会計だ。


ユーロでの支払い。フランス語でのやり取り。


(……念のため、通訳さんに電話できるようにしておこう)


万が一、会計で何か聞かれた時のために。


カエデは、カバンの中に手を入れた。



スマートフォンを——取り出そうとした。



「……あれ?」



手が、スマートフォンに触れない。


カバンの中を、指先で探る。


財布はある。ハンカチもある。化粧ポーチもある。


しかし、スマートフォンが——ない。


「え……」


カエデは、お菓子を一度棚に戻した。


カバンの口を大きく開けて、中を覗き込む。


ない。


ポケットに手を入れる。


コートの右ポケット。左ポケット。内ポケット。


ない。


どこにもない。


***


カエデの心拍数が、一気に跳ね上がった。


(うそ)


もう一度、カバンの中を探る。


財布を取り出し、ハンカチを取り出し、中身を全部出す勢いで——。


ない。


(うそ、うそ、なんで——)


スマートフォンは、車を降りる時に確かに手に持っていた。


地図アプリにピンを立てた時、画面を確認した記憶がある。


それは、ほんの30分ほど前のことだ。


(さっきまで絶対あったのに——)


カエデはお菓子の店の外に飛び出した。


通りに立ち、もう一度、全身のあらゆる場所を探る。


コートの裾を捲り上げる。


カバンのサイドポケット。底の隅。


何度探しても——ない。


周囲の通行人が、少しだけ足を緩めてカエデを見ている。


東洋人の若い女性が、通りの真ん中で必死にカバンを漁っている姿。


カエデは、その視線を感じながらも——それどころではなかった。



『カエデさん、スリに気をつけてね! パリはスリが多いらしいよ!』


ミジュの声が——。


日本で聞いたあの明るい声が——突然、鮮明に頭の中で再生された。



(スリ——?)


カエデの顔から、血の気が引いた。



いつ。

どこで。


全く気づかなかった。


プロのスリは、気づかれないから「プロ」なのだ。


通りを歩いている時に、肩がぶつかった人がいただろうか。


店に入る時?考えごとをしていたからかよく覚えていない。


(わからない……落としたのか、盗られたのかも……)


真実は——もう、確認しようがなかった。


落としたのか、盗まれたのか。


どちらにしても、結果は同じだ。


スマートフォンがないことだけが事実だった。


***


それが意味することの重大さが、一拍遅れてカエデの脳を襲った。


スマートフォンがない。


つまり——。


車の場所を記録した地図アプリが見られない。

制作スタッフの連絡先が分からない。

通訳のスタッフに電話できない。

事務所にも連絡できない。

ソユンにも、サラにも、ミジュにも——。


誰にも、連絡が取れない。


財布はある。


が、パスポートは——ホテルの金庫だ。


手元にあるのは、財布と、お菓子を選びかけた手の感触だけ。


パリの知らない通りの真ん中に——。


カエデは、一人きりで立っていた。


「……っ」


喉が、きゅっと締まった。


急に涙が——こみ上げてきた。


(ダメダメ泣いちゃダメ……)


カエデは、唇を噛みしめた。


自分は、FLORIAの最年長だ。


3人を支える、頼れる姉だ。


こんなところで泣くわけにはいかない。


しかし——。


恐怖は、理性よりも速かった。


知らない国。知らない言葉。知らない街。


連絡手段が、全て断たれた。


自分を証明するパスポートもない。


車がどこに停まっているか分からない。


撮影の集合場所がどこだったかは——凱旋門の近く、という曖昧な情報しかない。


そしてこの街には、自分のことを知っている人間が一人もいない。


完全な、孤立。


カエデは——パニックの沼に、すでに足を踏み入れていた。


***


(とにかく、戻らないと)


カエデは来た道を振り返った。


しかし——。


見覚えのない光景が、目の前に広がっていた。


石造りの建物。鉄製のバルコニー。カフェのテラス。


どれも、さっき歩いてきた道にあったような気がする。


しかし、同時に——全く知らない場所にも見える。


当然だった。


初めて来た街の、初めて歩いた道を、30分かけてふらふらと散策したのだ。


地図もなく、目印も覚えていない。


ここまで来るときは何度か地図アプリを見たが、帰る車はピンを刺していた。


だからどの角を曲がったかも、どの通りを渡ったかも、覚えるつもりはなく記憶は曖昧だった。


パリの歴史的な街並みは——美しい。


しかしその美しさが、今のカエデには呪いのように感じられた。


どこを見ても、同じクリーム色の壁。同じグレーの屋根。同じ石畳。


全てが同じに見えて——どこが入口で、どこが出口か分からない。


通りの名前を示す標識は——フランス語だった。


読めない。


英語ですらない。


(サラがいたら……)


ふと——その考えが浮かんだ。


サラは、英語が堪能だ。


もしサラがいたら、すぐに通行人に英語で道を聞いてくれただろう。


もしソユンがいたら、パニックになる前に「大丈夫だよ」と手を握ってくれただろうか。


もしミジュがいたら——笑い飛ばしてくれたかもしれない。「カエデさん迷子とかウケるー!」と。


しかし——誰も、いない。


カエデは一人だった。


目に——涙が溜まってきた。


***


(なんでスリに気をつけなかったの……)


カエデは歩きながら自分を責めた。


(なんで車を降りたの……)


(なんで調子に乗って、一人で歩き回ったの……)


さっきまで、「一人でパリにいる自分」を誇らしく思っていた。


成長したと感じていた。



(……バカみたい)


カエデは、その自分を恥じた。


一人で飛べてなんかいなかった。


あの3人がいなければ——自分はこんなにも脆い。


(こんな姿、絶対に……ソユンやミジュには見せられない……)


カエデの頭の中で、3人の顔が浮かぶ。


いつも頼れる姉のように振る舞ってきた自分。


冷静で、理性的で、どんな時も動じない——そういうイメージで、3人に安心感を与えてきたつもりだった。


その自分が——。


知らない国で迷子になって、泣いている。


信じられなかった。


恥ずかしかった。


情けなくて、惨めで——とにかく、カエデの感情はどんどん沼に沈んでいった。


***


歩いた。


ひたすら、歩いた。


方角も分からない。時間も分からない。時計すら——スマートフォンの中だった。


(もう、待ち合わせの時間を過ぎているかもしれない)


制作スタッフは混乱しているだろう。


車に戻ってこない私を探しているかもしれない。


電話をかけても私は出られない。


他のアイドルたちは——もう撮影現場に着いているかもしれない。


理緒さんは、自分がいないことに気づいただろうか。


(……失望されるかもしれない)


昨日、いい印象を与えられたと思ったのに。


「感じのいい人だ」と理緒に思ってもらえたかもしれないのに。


それが、全て台無しになる。


『FLORIAのカエデは撮影に遅刻した』

『連絡も取れなかった』

『一人で迷子になっていた』


そんな話が広まったら——。


FLORIAの名前に泥を塗ることになる。


(……そんなの、絶対にダメ)


頭では分かっている。


しかし、足が——どこに向かえばいいのか分からない。


ぐるぐると同じ場所を回っているのかもしれない。


それすらも確認する術がない。


15分か、20分か——カエデの体感では永遠にも感じられる時間が過ぎた。


カエデの呼吸は浅く、速くなっていた。


過呼吸の兆候だと、頭のどこかでは分かっていた。


しかし、止められない。


恐怖が——身体を支配していた。


涙は——すでに何度も頬を伝ってしまっていた。


カエデは嬉しさで泣いたことがある。


悔しさで泣いたこともある。


しかし——恐怖で泣いたのは、これが初めてだった。


大人になってから、こんなにも無力感に打ちのめされたのは初めてだった。


足が、震えていた。


歩くたびに、膝が少しだけ笑う。


すれ違う通行人が、涙を流しながら歩くカエデを振り返って見ていた。


しかし——誰も声をかけてこなかった。


パリの人々が冷たいわけではない。


ただ、異国の街で泣いている東洋人の若い女性に、どう声をかければいいのか——彼らにも分からなかったのだろう。



(誰か……)


カエデの心が叫んでいた。


(誰か、助けて……)


声には出せなかった。


出したところで——フランス語も、英語すらも、今の自分にはまともに話せる気がしなかった。



******



どれほど歩いただろう。


カエデの意識は半分、朦朧としていた。


涙で滲む視界。


過呼吸で浅い呼吸。


震える足。


それでも——歩くしかなかった。


立ち止まったら、本当に動けなくなる気がした。


やがて——細い路地を抜けて、少しだけ視界が開けた。


大通りらしきエリアに出た。


道幅が広がり、建物のスケールが一段階上がった。


石造りの壁はより白く、より高く、より威厳に満ちている。


ここがどこなのかは——カエデには分からなかった。


知る由もなかったが、カエデが迷い込んでいたのは——アヴェニュー・フリードランド。


超一流企業のオフィスやプライベートバンクが連なる、パリでも屈指の格式を誇るビジネスエリアだった。


カエデは涙を拭いながら、大通りを見渡した。


高級車が静かに走り抜けていく。


スーツ姿のビジネスマンが、革靴の音を響かせて歩いている。


その風景は——カエデにとって、ただの「知らない外国の光景」でしかなかった。




しかし——。


その視界の端に——何かが、映った。


通りの先。


他のどの建物よりも高く——明らかに異質な存在感を放つ、巨大な建造物。


漆黒の外壁。


天を突くような鋭利なシルエット。


周囲の石造りのパリの街並みを見下ろすように冷徹で——圧倒的なビル。


カエデの足が——止まった。


涙で滲んだ視界が——そのビルに焦点を結んだ。


心臓が、ドクンと大きく跳ねた。


(……あれは)


見たことがある。


あの漆黒。あのシルエット。あの存在感。


KFGニューヨーク本社——「The Spire of KFG」。


あの日、事務所のVIP来客室で、Kがノートパソコンの画面に映して見せてくれた、世界各国のKFGビルの写真。


ニューヨーク。ロンドン。香港。フランクフルト。ソウル……


そして——パリ。


どの国のビルも同じように作られた、圧倒的な存在感を持つ漆黒の建築だった。


世界を掌握するKFGの美学がそのままビルの形になったような、唯一無二のデザイン。


カエデは——あの写真をはっきりと覚えていた。


Kが誇らしげに見せてくれた、あの写真を。


そして、そのビルのエントランスに掲げられていた、FLORIAのロイヤル・ソレイユのポスターを。



(Kさん——!)



その名前が——考えるよりも先にカエデの心の中で爆発した。


Kさんのビルだ。

KFGのビルだ。

パリにもあるんだ。


Kさんが、ここにも——いる。


本人はいない。


でも、Kさんの「城」がここにある。


そして——。


あのビルのエントランスには、きっと——自分たちのポスターが飾られているはずだ。


KFGなら——日本語を話せる人がいるはずだ。


Kさんは英語も話せるが、普段日本語で話している。


であればKFGの社員には日本語に対応できる人材が少しはいるはずだ。



それに——何より——。


(Kさんに伝われば——助けてくれる)


(絶対に)


(絶対に助けてくれる)


その確信が——カエデの全身を貫いた。


もう理性で考えている余裕はなかった。


カエデは走り出した。


ボロボロだった。


涙の跡が頬にこびりつき、目は赤く腫れ、息は乱れ、足は震えていた。


それでも走った。


あの漆黒のビルに向かって。


Kの城に向かって。


涙がポロポロとこぼれた。


しかし——さっきまでの涙とは違った。


恐怖の涙ではなかった。


安堵の涙でもなかった。


あの場所に行けば——大丈夫だ。

Kさんが、あそこにいる。

本人はいなくても、Kさんの世界が、あそこにある。


その確信が、カエデの涙を恐怖から希望へと塗り替えていた。


***


漆黒のビルが、走るたびに大きくなっていく。


近づくほどにその圧倒的な存在感が、カエデを包み込んでいく。


パリの歴史的な街並みの中で、KFGのビルは異質だった。


しかしその異質さが、今のカエデにとっては暗闇の中の灯台となった。


迷子の子猫が飼い主の匂いを辿って家に帰るように。


カエデはKの城を目指して走り続けた。

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