【幕間①】月城咲那
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FLORIAがアルカディアの専属モデルに就任したことが発表される少し前。
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『月城 咲那』、28歳。
日本の芸能界において、そのキャリアは完璧だった。
10代で国民的アイドルグループの絶対的エースとして君臨し、卒業後は女優へと転身。
その圧倒的な美貌と、努力に裏打ちされた確かな演技力で、瞬く間にトップ女優の座へと駆け上がった。
彼女が微笑めば視聴率は跳ね上がり、彼女が纏う服は翌日には全国の店頭から姿を消す。
彼女は自らの力で、全てを手に入れてきた。
そう信じていた。
そんな彼女にも、たった一つだけ、まだ手に入れていない——幼い頃からの夢があった。
それは、超高級プレステージ・ブランド、「アルカディア」のミューズになること。
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彼女とアルカディアの出会いは、まだ何者でもない地方の普通の少女だった頃に遡る。
偶然手に取ったファッション誌の見開きページ。
そこに写っていたのは、当時からの絶対的ミューズであった世界的スーパーモデル、クラウディア・シュナイダーが纏う、一枚の純白のドレス。
光を編み込んだかのような、神々しいまでの輝き。
人間業とは思えない、完璧なシルエット。
少女だった咲那は、その一枚の写真に魂を奪われた。
いつか私も、このドレスが似合う女性になりたい。
その日から、アルカディアは彼女にとって単なるブランドではなく、人生の道標となった。
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トップアイドルになってからも、その想いは変わらなかった。
いや——むしろより強く、現実的な目標へと変わっていった。
彼女は多忙なスケジュールの合間を縫っては、稼いだお金をたった一着のアルカディアの服のために注ぎ込んだ。
数十万円のブラウス、数百万円のコート。
それは彼女にとって、夢への投資だった。
そしてその服を纏った姿を、何度も何度も自身のSNSに投稿した。
ブランドへの媚びではない。ただ純粋な、溢れんばかりの愛を世界に発信し続けたのだ。
「#アルカディア愛」
彼女が始めたそのハッシュタグは、いつしか多くのファンに認知されるようになった。
「咲那ちゃんほどアルカディアが似合う日本人はいない」
「いつか咲那ちゃんが日本の、いやグローバルのミューズになる日が来るはず」
そんなファンの声援が、彼女の努力を後押ししてくれた。
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彼女のひたむきな愛は、やがてブランド側の耳にも届く。
最初はパーティーへの招待。
次に雑誌企画でのタイアップ。
彼女は一歩ずつ、着実に夢へと続く階段を上っていった。
そしてついに半年前。
彼女はアルカディア日本支社のブランド戦略本部長である、『長谷川』との会食にまでこぎつけたのだ。
「月城さんのブランドへの深い愛情は、我々もかねてより存じておりました」
初老の紳士である長谷川は、穏やかな笑みでそう言ってくれた。
「もちろん、最終的な決定はアルカディアのフランス本社、そしてグループ全体のアメリカ上層部の承認次第となります。確約はできません。しかし……」
彼はそこで一度言葉を切ると、咲那の目を真っ直ぐに見つめた。
「現在のミューズである、クラウディア・シュナイダーさんとの契約が2年後に満了します。そのタイミングで次期アジア地域の専属アンバサダー候補として、貴女の名前を私が責任を持って本社に提案させていただきます。そしていずれはクラウディア・シュナイダーさんに代わってグローバル全体での専属モデルまで見据えております」
心臓が、高鳴った。
涙が溢れそうになるのを、必死で堪えた。
20年近く焦がれ続けた夢が、今、この手に掴みかかっている。
その日から、咲那は今まで以上に自分を磨き続けた。
女優としてのキャリアも、一人の女性としての美しさも。
全ては2年後——アルカディアの女神になる、その日のために。
彼女の未来は光り輝いていた。
何の疑いもなく。
***
その日は、何の前触れもなく訪れた。
ドラマの撮影を終え、楽屋でスマートフォンをチェックしていた彼女のマネージャーが、突然奇妙な声を上げたのだ。
「……え? 嘘……」
「どうしたの?」
「いや……咲那ちゃん、これ……」
マネージャーが差し出したスマートフォンの画面。
そこに表示されていたのは、ファッションニュースサイトの速報記事だった。
その見出しを見た瞬間、咲那の思考は完全に停止した。
『衝撃速報:「アルカディア」、クラウディア・シュナイダーとの契約を電撃打ち切り。新ミューズに無名のK-POPアイドル「FLORIA」を無期限で全世界モデルに起用』
「……………は?」
理解ができなかった。
クラウディアとの契約は、まだ2年残っているはずだ。
それに、FLORIA?
誰だ、それは。聞いたこともない。K-POPアイドル?
なぜ?
彼女は慌てて記事を読み進める。
そこにはFLORIAという、デビューしてまだそれほど長くない4人組の少女たちの宣材写真が載っていた。
彼女たちがこれまで「アルカディア」について一度でも言及したことがあるか、関わりがあったのか、震える手で検索してみる。
一件も、ヒットしない。
***
咲那の全身を、経験したことのない熱くどす黒い感情が駆け巡った。
怒り。
屈辱。
そして、裏切られたという絶望。
はらわたが煮えくり返るようだった。
自分がどれだけの時間と金と情熱を注ぎ込んできたのか。
それをこのぽっと出の、ブランドへの愛のかけらもない女たちが、いとも簡単に奪い去っていくというのか。
「……長谷川さんに電話して」
咲那の声は、自分でも驚くほど低く冷たかった。
マネージャーが慌てて電話をかける。
スピーカーフォンから、数回のコールの後、長谷川の疲弊しきった声が聞こえた。
「……もしもし」
「長谷川さん! 私です、月城です! どういうことですか、あのニュースは! FLORIAとは一体誰なんですか!?」
咲那は感情のままに捲し立てた。
電話の向こうで、長谷川が深く深く溜息をつくのが分かった。
「……月城さん、申し訳ない」
その声は、心底疲れ果てていた。
「私にも昨夜、グループのアメリカ本社から連絡が来たばかりなんだ。これは我々日本支社のレベルでは、どうすることもできない。決定事項とのことだ」
「決定事項!? 誰が決めたんですか!?」
「……アルカディアではない。グループ本体の上層部としか。そして、おそらくはその、遥か上の……」
その歯切れの悪い、何かを恐れるような物言いに、咲那はさらに苛立った。
「納得できません! 私との約束はどうなるんですか!」
「……約束など、してはいない」
長谷川の声が、僅かに冷たくなった。
「私はただ、提案すると言っただけだ。君もこの業界にいるなら分かるだろう。絶対など……ないんだよ」
その、あまりにも無慈悲な正論。
咲那は唇を強く噛み締めた。
血の味がした。
電話の向こうで、長谷川が声を絞り出すように言った。
「今回の件は、我々が知るビジネスの常識の外にある。君が今まで積み上げてきた努力やブランドへの愛情は紛れもなく本物。私だってそれは百も承知だ。しかし、それらとは一切関係ないところで全てが決まってしまった。申し訳ない……この件でもう私に連絡してこないでくれ。君のためだ」
ブツッ。
通話は、一方的に切られた。
***
咲那はスマートフォンの画面を見つめたまま、呆然と立ち尽くす。
努力も、愛情も、関係ない。
一方的に全てが決まってしまった。
その言葉だけが、彼女の頭の中で何度も何度も木霊していた。
一体、誰が。
どんな力が。
自分の20年越しの夢を、たった一夜で塵芥のように踏みにじったというのか。
その真の答えを彼女が知るのは、しばらく先の未来だ。
そしてその答えは、彼女の想像を——いや、この世界の全ての人間が持つ常識というものを、遥かに超越したものであった。
***
数日後。
月城咲那の心は未だに怒りと絶望の嵐が吹き荒れる荒野のようだった。
眠れない夜が続き、食事も喉を通らない。
鏡に映る自分の顔は青白く、生気を失っていた。
納得できるはずがなかった。
自分の、20年近くに及ぶ純粋な愛と血の滲むような努力。
それが、何者かの気まぐれ一つで踏みにじられる。
そんな理不尽が、この世にあっていいはずがない。
***
彼女はいてもたってもいられず、FLORIAの直近のスケジュールをコネを使って調べ上げた。
そして今日、彼女たちが自分と同じテレビ局の音楽番組に出演することを突き止めたのだ。
会って、直接問いただす。
一体どんな汚い手を使ったのか。
どんな権力者に媚びを売ったのか。
その一心だけで、彼女はほとんど無意識のうちにテレビ局の廊下を彷徨っていた。
そして運命は、あまりにも容易に引き合わせた。
収録を終え、自分たちの楽屋へと戻るFLORIAの4人。
その華やかで無垢な少女たちの集団を、咲那は廊下の曲がり角で見つけた。
彼女は衝動のままに、その4人の前に立ちはだかった。
***
「……あなたたちが、FLORIA?」
その声は、彼女自身が思っていたよりも低く、冷たく震えていた。
FLORIAのメンバーたちは突然目の前に現れた、日本の元トップアイドルで現大人気女優——月城咲那の鬼気迫る姿に、一瞬言葉を失った。
自分たちと比べて、何ランクも上にいる月城咲那。
しかし、テレビで見るあの微笑みはそこにはなかった。
ただ憎悪と侮蔑と、そして深い深い哀しみが、その美しい顔に浮かんでいた。
「……は、はい……」
リーダーであるソユンが、かろうじてそう答える。
その声は僅かに震えていた。
「単刀直入に聞くわ」
咲那はソユンを真っ直ぐに、射抜くように見つめた。
「あなたたち、『アルカディア』の件で、何をしたの?」
そのあまりにも直接的な問い。
メンバーたちは顔を見合わせた。
誰もが、その質問の本当の意味を理解できなかった。
何をした、と言われても。
自分たちはただ、Kさんというすごい人に出会って、突然プレゼントとして与えられただけだった。
「あの、それはどういう……」
サラが戸惑いながら聞き返そうとする。
しかし、咲那はそれを許さなかった。
「とぼけないで! 私がどれだけあのブランドを愛していたか、あなたたちだって知ってるでしょう!? 私の長年の夢だったのよ! それを、あなたたちみたいなぽっと出の、アルカディアへの愛のない子たちが……!」
感情が堰を切ったように溢れ出す。
そのトップスターがなりふり構わず剥き出しにする、嫉妬と怒り。
FLORIAのメンバーたちは、完全にその気迫に呑まれてしまった。
怖い。
ただ純粋に、怖かった。
この業界の頂点に立つ人間を、自分たちは怒らせてしまったのだ。
***
この時の彼女たちはまだ知らない。
自分たちの背後にいるKという男が、目の前のトップスターなど指先一つでこの世界から消し去ることができるほどの、絶対的な力を持っていることなど。
彼女たちの価値観はまだ、この芸能界というちっぽけな世界の常識の中にあったのだ。
「ご……ごめんなさい……!」
最初にその言葉を口にしたのは、リーダーとしての責任感に駆られたソユンだった。
何に謝っているのか、自分でも分からなかった。
ただこの恐ろしい状況から、一刻も早く逃げ出したかった。
その反射的な謝罪が引き金になった。
ミジュも、カエデも、サラも——次々と「すみません」「申し訳ありません」と、小さな声で頭を下げ始めた。
そのあまりにもか弱く、おどおどとした姿。
咲那は拍子抜けした。
もっとふてぶてしい、計算高い女たちだと思っていた。
しかし目の前にいるのは、ただ強者に怯える無力な少女たちだった。
その姿に、咲那の怒りは行き場を失う。
こんな怯えた少女たちをこれ以上詰問しても、何も出てはこない。
彼女はふっと自嘲するような力ない笑みを浮かべると——FLORIAの横を何も言わずに通り過ぎていった。
***
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす4人の少女たちだけだった。
彼女たちは逃げるように自分たちの楽屋へと駆け込んだ。
バタン、とドアが閉まり、外の世界から完全に遮断されたその瞬間。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……怖かった……」
ミジュが震える声で呟く。
ミジュはいつも明るく無邪気で、それでいて頭の回転も速い——無暗に他人に恐怖を抱くような性格ではなかった。
しかし今は、その小さな唇が微かに震えていた。
「月城さん……すごい剣幕だったね……」
サラも青ざめた顔で呟いた。
ソユンは何も言わなかった。
謝ったのは正しかったのか、どうか。
リーダーとしてあの場で何か別のことができたのか。
考えても答えが出なかった。
楽屋は重い、重い沈黙に包まれた。
自分たちが何かとんでもないことに巻き込まれてしまった。
その漠然とした不安。
しかし——。
その不安と恐怖の泥水の中から。
全く別の新しい感情が、静かに、しかし抗いがたい力を持って芽生え始めていた。
***
最初にその感情の正体に気づいたのは——カエデだった。
彼女は黙っていた。
壁に背を預けて目を閉じ、先ほどの出来事を静かに整理していた。
やがて——その目がゆっくりと開かれた。
「……でも、考えてみて」
カエデの声は、まだ少しだけ低かった。
しかしその言葉には、いつもの冷静な思考の輪郭が戻り始めていた。
「月城さんが、あれだけ喉から手が出るほど欲しかったものを……」
彼女はそこで一度言葉を切った。
そして、信じられないという響きと共に続けた。
「Kさんは私たちに、たった一度会っただけで……ポンと、プレゼントしてくれた」
その、一言。
それが魔法の言葉だった。
メンバーたちの顔が、はっと上がる。
そうだ。
そうじゃないか。
あの月城咲那が何年もかけて手に入れられなかった夢のドレス。
それを、自分たちはいとも簡単に手に入れてしまったのだ。
努力も、愛情も関係ない。
ただ、Kさんに選ばれた。
ただ、それだけで。
「……すごい……」
サラが呆然と呟いた。
その声には、恐怖と同時に畏敬の念が含まれていた。
自分たちが思っていた以上に、Kという男は規格外の、とんでもない存在なのだ。
「そうだね……」
ミジュが小さく頷いた。
あの剣幕の咲那に怯えていた顔が——いつの間にか、別の光を宿し始めている。
そしてその畏敬の念の、さらに奥深くから。
じわり、と。
甘美な——そして少しだけ背徳的な——感情が染み出してくる。
(あの月城咲那に、私たちは勝ったんだ……)
誰もそんな言葉は口にはしない。
しかし、4人の間にその陶酔を誘うような感情が、確かに共有されていた。
顔を見合わせる。
その瞳の奥に、同じ仄暗い優越感の光が宿っているのが分かった。
恐怖はまだある。
しかしそれ以上に——自分たちが特別な存在に選ばれたのだという、絶対的な揺るぎない事実。
そのあまりにも甘美な事実は、彼女たちのこれまでの価値観を塗り替えていくのに、十分すぎるほどの力を持っていた。
***
楽屋の重い沈黙は破られない。
しかし、その沈黙の中で。
4人の少女たちは静かに、そして確かに生まれ変わりつつあった。
世界の王に——選ばれし者として。
その最初の瞬間だった。
***
——この出来事を、FLORIAの4人は誰にも語ることはなかった。
マネージャーにも、月城咲那の名前をKの前で口にすることもない。
ただ、あの楽屋で芽生えた感情——自分たちが「選ばれた側」にいるという揺るぎない自覚だけが、その後もずっと胸の奥に静かに燃え続けていた。
Kの名前が出るたびに。新しい「贈り物」が届くたびに。
あの日、廊下で見た月城咲那の絶望に滲んだ横顔を——4人は無意識のうちに思い出すかもしれない。
そしてその記憶が、さらに深く、Kという名の沼へと引きずり込んでいくのだと。
この時、当の本人たちはまだ知らなかった。




