【リ・フローラ編】第16話
それから数日後。
FLORIAの練習スペースに、サラの声が響いた。
「みんな! ちょっと来て!」
ソユンはストレッチの最中だった。カエデはノートに何かを書き込んでいた。ミジュは壁に寄りかかってスマートフォンを眺めていた。
3人が顔を上げると、サラが——制作スペースの入口に立っていた。
その顔には疲労の跡と、それを遥かに上回る充実感が滲んでいた。
「……できた」
サラは、静かに、しかしはっきりと言った。
「曲、完成した!」
1秒の沈黙。
そして——。
「「「本当に!?」」」
3人が、ほぼ同時に叫んだ。
「やったー!」
ミジュが真っ先にサラに飛びついた。
「サラ、すごい! おめでとう!」
ソユンが駆け寄って、サラの両手を握った。
「お疲れ様。……本当に、よく頑張ったわね」
カエデが、穏やかに、しかし心からの敬意を込めて微笑んだ。
サラは、3人に囲まれながら照れくさそうに笑った。
「みんなの意見があったからだよ。カエデさんのBメロのアドバイスも、ソユンのサビの間の指摘も、ミジュの最後のフレーズの提案も——全部入れた」
「聴きたい! 今すぐ聴きたい!」
ミジュが跳ねる。
「待って、まだ仮のメロディだけだけどね。音源はこれから事務所に頼まないと」
「それでもいい! サラが弾いてくれるやつで聴かせて!」
サラはキーボードの前に座ると、4人だけの練習スペースで——「Re:FLORA」を、初めて通しで演奏した。
3人は、その音を息を止めるようにして聴いた。
演奏が終わった後、しばらく誰も口を開かなかった。
ソユンはゆっくりと拍手をした。
カエデが続き、ミジュが続き——やがて4人全員が、互いに顔を見合わせて笑い合った。
***
「それで——」
サラが、少しだけ声のトーンを上げた。
「この曲、Kさんに届けたいんだけど」
3人の目が、きらりと光る。
「ただ送るだけじゃ、つまらないでしょ?」
サラは、にっと笑った。
「みんなで歌って、その音源を送ろうよ」
「「「——!」」」
「Kさんの歌詞に、私の曲に、みんなの声を乗せて——5人で作った曲として、完成した形で届けたい」
その提案に——部屋が爆発した。
「やる! 絶対やる!」
「最高の案じゃん!」
「すぐ練習しよう!」
「でもちゃんとした音源もつけたいよね! メロディーだけでも!」
4人は興奮のあまり、全員が同時に喋り出し、収拾がつかなくなった。
「美咲さん! 美咲さーん!」
ミジュが練習スペースから廊下に向かって叫ぶ。
何事かと駆けつけた美咲が練習スペースのドアを開けると——ハイテンションの4人が、わっと美咲を取り囲んだ。
「美咲さん! 曲ができました!」
「Kさんに歌って送りたいんです!」
「簡単でいいので音源つけてもらえませんか!」
「お願いします! お願いします! お願いします!」
4方向からの同時攻撃に、美咲はたじたじと後ずさった。
「わ、わかりました、わかりましたから……! 順番に話してください……!」
美咲は、なんとか4人を落ち着かせて用件を整理した。
曲が完成したこと。
4人の歌声を乗せた仮音源を作りたいこと。
簡単なメロディーの伴奏をつけてほしいこと。
そして、それをKに送りたいこと。
「はい、はい……分かりました。音源の件は、制作チームに相談しますね」
美咲は受け取った楽譜と歌詞のデータに、目を落とした。
そしてそこで初めて、Kの書いた内容を目にする。
タイトル欄に記された文字——。
『Re:FLORA』
「……リ・フローラ……」
美咲は、その文字をじっと見つめた。
このタイトルをつけたのは、K会長だ。
FLORIAの由来である「花の女神」に「Re:」を冠した——再生、生まれ変わりの意味を込めた名前。
メンバーたちが喜ぶのはよく分かる。
しかし——美咲の胸に、一抹の不安がよぎった。
(……この曲名は……)
なんというか——重すぎないだろうか。
グループ名の由来を直接引用し、「Re:」をつけるというのは、例えばデビュー10周年とか、重大な節目に発表される曲のタイトルとしてならしっくりくる。
しかし、今このタイミングで——まだキャリアの途上にいるFLORIAがこの名前の曲を出すことに、違和感はないだろうか。
もちろん、美咲自身は止めるつもりはない。
美咲としては4人が納得することが1番だと考えていたし、そもそもKが決めたタイトルを「変えてください」など、この4人に言えるわけもない。
(……とりあえず、上に報告しよう)
美咲は楽譜を抱えて、チーフマネージャーのもとへ向かった。
***
チーフマネージャーの席。
美咲は、曲の完成と音源制作の依頼について手短に報告した。
歌詞が届いた際にKの作詞であることはチーフにも共有済みだったので、話は早かった。
しかし——。
「音源をつけたいのと……タイトルなんですが」
美咲が楽譜を見せた瞬間、チーフの表情が僅かに曇った。
「Re:FLORA……」
チーフは、その文字をしばらく見つめていた。
「話を聞いたときは、ちょっとしたお遊びの一曲って考えてたんだけど」
チーフの声は慎重だった。
「このタイトルだと……お遊びでは済まないわね」
「やっぱり、そう思いますか」
「グループ名の由来を冠したタイトル。しかも『Re:』、生まれ変わるという意味。……これはファンが見たら、意味のある曲として受け取るわよ」
チーフは腕を組んだ。
「音源をつけるということは、制作チームに話を通さないといけない」
美咲のいる部署はメンバーのスケジュール管理やメンタルケアを担うサポート部署だ。
楽曲のリリース戦略やマーケティングに関する判断は、別の部署が管掌している。
「会議を取り付けるわ。すぐに」
チーフの声には、覚悟が滲んでいた。
***
数時間後。事務所の会議室。
長テーブルの片側に、制作チームであるアーティスト戦略部のメンバーが座っていた。
部長を筆頭に、楽曲プロデュースの担当者、マーケティング担当、そしてファンコミュニティの動向を分析するスタッフ。
反対側には、美咲とチーフマネージャー、そのさらに上長たちも同席している。
アーティスト戦略部の面々は、KFG会長との個人的な繋がりについて、詳しくは知らない。
もちろん、アルカディアやロイヤル・ソレイユのモデル起用がKFGからの指名であることは社内でも認知されている。
しかし、K個人がFLORIAに対してどれほどの感情を注いでいるか——その深さについては、現場のマネージャーや役員クラスといった、限られたメンバーの間で慎重にとどめられていた。
チーフが簡潔に経緯を説明した。
「KFG会長が個人的に作詞を手がけ、メンバーのサラが作曲した楽曲が完成しました。音源制作の支援と今後の取り扱いについてのご相談です」
「K会長が、作詞を?」
アーティスト戦略部の部長——40代の男性——が、眉をひそめた。
「はい」
「タイトルは……」
チーフが楽譜のコピーをテーブルの上に置いた。
「Re:FLORA」
部長の表情がさらに曇った。
会議室の空気が重くなる。
***
「そうですね……率直に申し上げます」
部長は、慎重に、しかしはっきりと口を開いた。
「これまでFLORIAの楽曲は、全てユン・ヨンウ先生が作詞を担当されてきました」
ユン・ヨンウ。
K-POP界でも指折りの人気作詞家。
彼が手がけた歌詞はFLORIAの世界観の根幹を成しており、ファンからの評価も高い。
FLORIAの楽曲がファンに愛される理由の一つとして、歌詞の良さが挙げられるほどだ。
「もちろん、メンバーが自ら歌詞を書いたならファンも好意的に受け止めるでしょう。アイドルの自作曲は、今の時代むしろ歓迎される傾向にあります。しかし——」
部長は言葉を区切った。
「歌詞の主な書き手が……その、K会長であるという点は非常に扱いが難しい」
「当然FLORIAとの繋がりの説明が困難ですし、ユン先生との関係性も考えると……」
部長はテーブルの上の楽譜をもう一度見下ろした。
「さらに、このタイトルです。Re:FLORA。グループ名の由来を冠した楽曲。これはファンが見れば、間違いなく『FLORIAの新章の幕開け』として受け取ります。そういう曲のタイトルを、ユン先生ではなく外部の人間がつけたということになれば」
部長は、ため息をついた。
「先生にどう説明すればいいのか……良い反応はいただけないでしょう。先生との信頼関係が崩れれば、今後の楽曲制作にも影響が出かねません」
隣に座るマーケティング担当も頷いていた。
「ファンコミュニティの反応も懸念されます。FLORIAのファンは楽曲の一貫性を重視する層が多い。突然、従来と異なる作詞者による曲が、しかもグループ名を冠したタイトルで出てきたら——困惑する声が上がる可能性は高いです」
チーフは黙って聞いていた。
美咲も隅の席で、じっと会議の流れを見守っていた。
(……やっぱり、こうなった)
美咲の中の嫌な予感が、的中していた。
しかし会議の場には両部署の役職者が並んでおり、美咲が口を挟める空気ではなかった。
議論は平行線に入りつつあった。
そして部長が——最終的に、ある提案を口にした。
「折衷案として、二つの提案をさせてください」
「一つ目。作詞のクレジットは、カエデ、ソユン、ミジュの3名の名義にしていただきたい。メンバーの自作曲、という形であれば、先生へもファンへも説明は比較的スムーズです」
つまり——Kの名前を消せ、ということだった。
「二つ目。タイトルの『Re:FLORA』は、グループ名との結びつきが強すぎます。この曲の立ち位置——いわばプライベートな制作としての一曲——にしては、あまりに深い意味を与えてしまう。再考していただけないでしょうか」
つまり——Kがつけたタイトルを変えろ、ということだった。
チーフはしばらく沈黙した後、静かに言った。
「……メンバー本人たちにも、話を聞かせてください」
***
FLORIAの4人は、会議が重い空気に包まれていることなど全く知らなかった。
練習スペースで、まだ気分の良いテンションのまま、互いに歌のフレーズを確認し合い、笑い合っていた。
「ここ、ソユンのパートなんだけど、もうちょっと伸ばした方がいい?」
「ミジュのラスト、甘い感じにしたいって言ってたよね。これぐらい?」
「うん! それそれ!」
「このBメロ、本当にかっこいいよ」
そこへ、美咲が迎えに来た。
「皆さん、ちょっと会議室に来てもらえますか」
「会議室ですか?」
ソユンが首を傾げた。
アーティストが会議室に呼ばれることは珍しい。
通常、メンバーへの伝達事項はマネージャーが練習スペースや控室に来て行う。
わざわざ会議室に赴くということは、それなりに正式な話ということだ。
しかし、4人は特に身構えることもなく——むしろ少し目新しそうに、きょろきょろしながら会議室に入っていった。
「わあ、ここ広いね」
「中こんなだったっけ?」
ミジュとサラが物珍しそうに見回している。
その無邪気な様子と、テーブルの向こう側に座るアーティスト戦略部の面々の重い表情の対比が——美咲の胸をじりじりと焦がした。
***
挨拶もそこそこに、部長が口を開いた。
「FLORIAの皆さん、お時間をいただきありがとうございます」
4人はにこにこしたまま席に着いた。
部長は重苦しく——しかしできるだけ遠回しに——話を進めようとした。
「先日完成された楽曲について、今後の取り扱いを皆さんと一緒に考えたく……」
前置きが長かった。
FLORIAの楽曲戦略の全体像。ユン先生との関係性。ファンコミュニティの特性。ブランドとしての一貫性——。
4人は、最初のうちは大人しく聞いていた。
しかし話が進むにつれて——何かを《《準備》》してるのだと、4人も直感的に察し始めた。
そして——部長が核心に踏み込んだ。
「つきましては、二点ほどご提案をさせていただきたいのですが」
4人の目が、部長に集中する。
「一つ目として——作詞のクレジットは、ソユンさん、カエデさん、ミジュさんの3名のお名前で発表させていただけないでしょうか」
一瞬の沈黙。
「二つ目として——現在のタイトル『Re:FLORA』は深い意味を持たせすぎるため、再考いただけないかと」
***
空気が、凍った。
それは比喩ではなかった。
文字通り、会議室の温度が数度下がったかのような錯覚を、その場にいた全員が感じた。
4人の表情が——1秒前までの柔らかな笑顔から、真逆の色に塗り替わった。
それは——怒り。
静かな怒りではなかった。
炎のように、瞬時に燃え上がった剥き出しの感情だった。
美咲は——4人の顔を、直視できなかった。
(……こうなると、分かってた)
分かっていたのに、止められなかった。
自分の立場では、止められなかった。その事実が美咲の胸を鋭く刺していた。
「は?」
最初に声を上げたのは、ミジュだった。
「意味わかんないです」
末っ子の彼女は、怒りを隠すことを知らなかった。
いや、知っていたとしても——隠す気がなかった。
「Kさんが書いてくれた歌詞なんですよ? それを、なんで私たちの名前に変えるんですか?」
「落ち着いてください、ミジュさん。これはあくまで——」
「ありえないです!」
サラも、椅子から身を乗り出した。
「Kさんが作詞したのは事実です。それを隠すなんて、Kさんに対して失礼です! タイトルだって、Kさんがつけてくれた大切な名前なのに!」
サラの声は震えていた。
怒りと——あの電話で、あのピアノで、深く深く繋がった相手への想いを踏みにじられる痛みとが混じり合っていた。
部長は二人の剣幕に気圧されながらも、なんとか冷静さを保とうとした。
「お気持ちは分かります。しかし、ユン先生にも説明が必要で——」
「嫌です!」
ミジュが真っ直ぐに部長を見据えた。
その目には、19歳とは思えない鋭さがあった。
***
カエデは——少しだけ遅れて、口を開いた。
「そんなこと、絶対にできません」
彼女の声はミジュやサラとは違い、静かだった。
しかしその静かさの中に、誰よりも深い怒りが宿っていた。
「この曲が私たちにどんな意味があるか……皆さんには分からないかもしれませんが……」
カエデはテーブルの向こうのアーティスト戦略部の面々を見渡した。
そして——視線を、美咲とチーフマネージャーへ移した。
その目は——。
(こんなこと、私たちが飲むはずないですよね)
(なんで、あなたたちが止めてないんですか)
と、はっきりと、言っていた。
声には出さなかった。しかし美咲には、完璧に伝わった。
美咲は俯いた。何も言えなかった。
カエデはメンバーの中で、常に3人のメンタル状態を気にかけていた。
最年長として、冷静に全体を見渡し、3人が傷つかないようさりげなく盾になることが彼女の役割だった。
だからこそ——今、カエデが最も許しがたいと感じているのは、提案そのものだけではなかった。
この提案を聞かされることで、ソユンが、ミジュが、サラが《《こんな顔》》をさせられていること。
Kとの絆を否定されるような言葉を浴びせられていること。
それがカエデにとっては最も耐えがたいことだった。
***
ミジュとサラが、なおも激しく反論を続ける中——。
リーダーのソユンが、ようやく静かに口を開いた。
「あの」
その声は小さかった。
しかし不思議な力があった。ミジュもサラも、一瞬言葉を止めた。
ソユンは、穏やかな表情で——しかしその目の奥に揺るぎないものを宿して——部長を見た。
「あの、もし……難しかったら」
ソユンの声はどこまでも柔らかかった。
「作詞家の先生とは、今後お仕事をしなければ良いんじゃないでしょうか」
会議室が——シン、と静まり返った。
誰も声を発しなかった。
部長の顔が僅かに引きつった。
マーケティング担当が、ペンを持つ手を止めた。
チーフマネージャーが、息を呑んだ。
美咲は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ソユンの声は穏やかだった。怒鳴っているわけではない。
攻撃的な言い方でもない。ただ純粋に問題の解決策を提案しているだけだった。
しかし。その提案の中に含まれていたのは——純粋な狂気だった。
FLORIAの全楽曲の歌詞を手がけてきた、K-POP界の人気作詞家。
ファンとの間に築き上げてきた楽曲の世界観、長年のパートナーシップ、信頼関係。
それら全てを「難しかったら、やめればいい」と、リーダーのソユンがあっさりと言い放った。
ソユンの中では——すでに決定事項なのだ。
Kの歌詞とKのタイトルを守ることが最優先。それ以外の全ては二の次。
作詞家の先生も、ファンの反応も、これまでの楽曲の歴史も。
全てがKの前では、優先順位の遥か下に位置している。
それが、ソユンの偽りのない本心だった。
***
FLORIAの3人は——ソユンのあまりにも直接的な発言に、一瞬だけ目を見開いた。
普段のソユンはリーダーとして、常にバランスを取ろうとする子だ。
相手の立場にも配慮し、穏便な着地点を探ろうとする。
しかしそのソユンが、一切の配慮なく「先生を切ればいい」と言った。
「う、うん……そうだね。そうそう」
ミジュが随分とトーンダウンして同調した。
「ソユンの言う通りだよ」
サラも頷く。
3人とも、ソユンの発言の強さに気圧されていた。
しかし同時に——その結論自体には全員が同意していた。
カエデは、軽く咳払いをした。
そしてテーブルの上に手を置き、静かに、しかし毅然と告げた。
「……とにかく、私たちは変えるつもりはありません」
部長以下、アーティスト戦略部の面々を真っ直ぐに見据えて。
「あとは、お任せします」
カエデは立ち上がると、3人に軽く目配せした。
行こう、と。
これ以上この場にいたら——ミジュもサラも、さらに言葉がエスカレートする。
ソユンは、穏やかな顔のままもう爆弾を落としてしまった。
この3人のメンタルをこれ以上揺さぶることは、カエデにとって許容できなかった。
4人は、会議室を出ていった。
***
練習スペースに戻ると、水を差されたことへの不満が一気に噴き出した。
「信じらんない! なんなのあの人たち!」
ミジュがクッションを叩く。
「Kさんがどんな想いで書いてくれたか、全然分かってない!」
サラも唇を噛みしめている。
「先生の機嫌を取るために、Kさんの名前を消すなんて……」
「ほんとだよ! Kさんに怒られればいいのに!」
「ミジュ、そういうことは言わないの」
カエデが穏やかに、しかし確実に場を収め始めた。
「とにかく、ああ言っておいたから大丈夫よ。私たちの意向は伝わったから」
「でも……」
ソユンが、少し不安そうに眉を寄せた。
さっきあれだけ強いことを言ったソユンが、今は少しだけ自分の発言を振り返っているようだった。
「ソユン」
カエデがソユンの肩に手を置いた。
「あなたが言ったことは、正しかったわよ」
ソユンはカエデの顔を見て——こくん、と頷いた。
「……Kさんの曲だもん。絶対に、守りたい」
「うん。みんな、同じ気持ちよ」
4人は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
しかしその目の奥には——Kとの絆を守るためなら何でもするという静かな決意が、以前よりもさらに強く灯っていた。
***
会議室。
4人が去った後、重い沈黙がテーブルの上を覆っていた。
部長は深いため息をついた。
「……予想はしていたが、ここまでとは」
「メンバーの意向は明確ですね」
チーフが静かに言った。
「ええ」
「であれば——一先ず曲の音源は制作しましょう。その上で、K会長ご本人からの回答を以て、最終判断としませんか」
部長はしばらく考えた後、頷いた。
「……そうしましょう。メンバーにこれ以上言っても逆効果です。メンバーの意向に従う方針で進めますが、クレジットの件だけは、会長側の意向を確認してからにしましょう」
***
美咲が練習スペースに戻り、結果を報告した。
「……音源は作ってもらえることになりました。タイトルも、みなさんの意向通りで進めるそうです」
4人の表情が、一瞬で和らいだ。
「本当ですか!?」
「やったー!」
「当たり前じゃん!」
ミジュが、にかっと笑った。
「最初からそう言えばいいのに!」
美咲は小さく苦笑した。この場で謝ることが正しいのか分からず、謝ることはできなかった。
この子たちにとっては、最初から結論は決まっていたのだ。
Kに関わることで、答えがNOになることなどあり得ない——。
それが4人の中の絶対的なルールだった。
***
さらに数日後。
事務所の制作チームによって、サラが作曲したメロディーに、シンプルだが美しいシンセサイザーの伴奏がつけられた。
4人は、すでに何日も前から歌い込んでいた「Re:FLORA」の歌詞をその音源に乗せてレコーディングした。
仮のサンプルではあるが、4人の声がKの歌詞の上に重なった瞬間、制作チームのエンジニアですら思わず手を止めた。
「……これ、仮とは思えないクオリティですね」
4人の声と、Kの言葉と、サラのメロディーが——完璧に噛み合っていた。
サンプルが完成すると、4人は即座に美咲のもとへ駆け込んだ。
「早く送って!」
「Kさんに聴いてもらいたい!」
「今すぐ! 今すぐ送って!」
美咲は4人をなんとか落ち着かせつつ、アンナへのメールを作成した。
音源データを添付し、丁寧に、しかし考えうる最も失礼のない文面で、一つの確認事項を添えた。
『こちらの楽曲を正式に発表する場合、作詞のクレジットにK会長のお名前を記載させていただくことは可能でしょうか。メンバー一同、K会長のお名前を載せたいと強く希望しておりますが、ご判断をお伺いできれば幸いです』
美咲は何度も文面を読み返し——送信ボタンを押した。
***
ニューヨーク、マンハッタン。
Kは、要塞のような巨大リムジンの中にいた。
アンナは少し離れた席で、自分のタブレットに届いたメールを確認していた。
美咲からの、音源データ付きのメール。
(……来ましたか)
アンナはメールの内容を確認した。
曲の完成報告。そして、作詞クレジットの確認。
「会長」
「ん?」
「FLORIAの皆様から、例の曲が出来上がったとのことです」
Kの身体が——ビクッ、と反応した。
モニターを見ていた視線が、一瞬でアンナの方へ向いた。
「……そうか」
静かな声。しかし瞳の奥で何かが灯ったのを、アンナは見逃さなかった。
Kは数秒、考えるように間を置いた。
「今、流してくれ」
「……今、ですか」
「ああ」
即答だった。
アンナはタブレットの音量を調整し、車内のスピーカーに接続した。
***
「Re:FLORA」が、リムジンの車内に流れ始めた。
シンセサイザーの柔らかな前奏。
そして——4人の声が重なった。
Kの歌詞が、サラのメロディーの上で、命を与えられて歌い出す。
アンナは——初めてこの曲を聴いた。
(……こんな歌詞を、会長が)
アンナの胸に微かな衝撃が走った。
表面上は、ファンとの絆を歌った応援歌。
しかし——Kがこれを書いたことを知っているアンナには、その言葉の端々に、主君の不器用な愛情が、痛いほどに垣間見えた。
「秘密」「永遠」「魔法」——メンバーたちが選んだ言葉も、見事に歌詞の中で輝いている。
***
Kは——目を閉じて聴いていた。
ニヤけた顔を、我慢しようとしている。
しかし口元が——僅かに緩んでいた。
他の秘書たちは、突然車内に流れ始めたK-POPの楽曲に困惑しつつも、何も言わずに静かにしていた。
曲が終わると、Kは目を開けた。
その表情は穏やかだった。
充足という言葉が最も近いかもしれない。
***
「それと」
アンナが続けた。
「作詞のクレジットについて、確認がございます。会長のお名前を載せるかどうか、先方から問い合わせがあります」
Kは、窓の外のマンハッタンの街並みに一瞬だけ視線を向けた。
「いや……やめておこう」
「載せない、と」
「ああ。まだ今は……な」
含みのある言い方だった。
アンナは——心の中で呟いた。
(FLORIAの皆様がいないところでいちいち格好つけないでください)
しかし、Kがそう判断した理由は、当然日本側の事情を察してのことだろう。
Kの名前を楽曲のクレジットに載せれば、それだけで世界中のメディアが反応する。
それは、今のFLORIAにとってまずプラスにはならない。
アンナはそこまで考えた上で、念押しの確認をした。
「では、カエデ様、ソユン様、ミジュ様のお名前でよろしいのですね」
「ああ」
Kは短く頷いた。
アンナは、その確認を即座にメールとして美咲に返信した。
***
日本。
アンナからの返信が届くと——まず、事務所側が安堵の息をついた。
K会長の名前がクレジットに載らないのであれば、ユン・ヨンウ先生への説明は「メンバーが自ら手がけた楽曲」として処理できる。
タイトルの「Re:FLORA」については変えられなかったが、メンバー自身の制作曲という位置づけであればまだ自然に受け止められる。
チーフが美咲に告げた。
「K会長のお名前は出さない。メンバーの自作曲として発表する。この方針でメンバーに伝えてちょうだい」
美咲は頷いて、練習スペースへと向かった。
***
「皆さん」
美咲が4人に結果を伝えた。
「K会長から回答がありました。作詞のクレジットは、会長のお名前は載せず——ソユンさん、カエデさん、ミジュさんの名義にしてほしい、とのことです」
4人は一瞬、残念そうな顔をした。
しかし——。
「Kさんが、そう言うなら」
ソユンが静かに頷いた。
「Kさんの判断には、理由があるんだと思う」
「うん。Kさんが決めたことだもんね」
ミジュもすぐに納得した。
サラも頷いた。
4人の間に穏やかな空気が戻った。
Kの名前は載らない。しかし——この曲がKとの絆の証であることは、4人だけが知っている。
いつかのライブで何万人の前でこの曲を歌う時、観客の誰も知らない「秘密」を胸に秘めて、ただ一人の王への愛を叫び続けるのだ。
それは——むしろ名前を載せるよりも、甘く、深い悦びだった。
***
一件落着。
事務所は「Re:FLORA」をFLORIAの新曲として正式にリリースする準備に入った。
4人は、数週間にわたって猛練習を重ねた。
ダンスの振り付けも衣装も、全てがこの一曲のために動き始めていた。
そして——いよいよ、その曲が世界に発表される日が近づいていた。
4人は、練習の合間に、時折顔を見合わせた。
言葉はいらなかった。目の奥に宿る光が全てを語っていた。
Kと、5人で作った曲。
それが世界に届く。
何も知らない大衆の前で、密かに——王への愛を叫ぶ。
その日が、もうすぐ来る。
4人の胸は期待と興奮と、そして——ほんの少しの背徳感で、静かに震えていた。




