【リ・フローラ編】第15話
ニューヨーク。
KFG本社、最上階秘書フロア。
アンナは自席で、明日のスケジュール調整をタブレット上で処理していた。
不意に——私用のスマートフォンが、振動した。
(……?)
KFGの上級役員であるアンナに、電話をかけてくる人間はそう多くない。
業務連絡は社内システムを通じて行われるし、外部からの連絡も秘書室のフィルターを経由する。
Kは執務室の呼び出しベルで遠慮なしに呼んでくるので、着信という形でKから連絡が来ることはほとんどない。
だからこそ——。
着信は珍しく、アンナは少しだけ肩を震わせた。
画面を見る。
表示された名前——「美咲(FLORIAマネージャー)」。
アンナの目が、僅かに見開かれた。
驚き。そして——嫌な予感。
(……何があったのか)
アンナの頭の中で、二つの可能性が瞬時に浮かんだ。
一つ——FLORIAのメンバーに、何か事故や問題が発生した。
もう一つ——FLORIAの誰かが、Kに何かを求めている。
アンナは後者であることを祈った。
後者でも時間は取られるだろう。
しかし前者だった場合——。
(……想像するだけでも恐ろしい)
もしFLORIAの身に何かが起きたと知ったら、Kが何をするか。
世界の金融市場を、一夜にして歪ませる可能性すらある。
(どうか、マシな方であってください——)
アンナは電話に出た。
「はい、アンナです」
『あ、あの、アンナさん、すみません! 本当にすみません、夜の遅い時間に申し訳ございません。突然のお電話で——』
美咲の声は、震えに震えていた。
そして、謝罪が連呼されていた。
「美咲さん、落ち着いてください」
アンナは穏やかに、しかしはっきりと声をかけた。
「深呼吸して。大丈夫ですから」
『は、はい、すみません、すみません……』
「何がありましたか?」
『あの……サラが、どうしても……作曲の件で、K会長にお電話したいと……』
アンナは——安堵した。
(……良かった。そちらでしたか)
もちろん、Kが何をしでかすか分からないという意味では「嫌な予感」に違いはない。
しかし——FLORIAの身に何かあったわけではない。
それだけで、アンナの心拍は正常に戻った。
『私の判断でお断りするわけにもいかず……ご迷惑であれば……』
「……少々お待ちください」
アンナは通話を保留にした。
***
そして——駆け足で、Kの執務室へと向かった。
普段のアンナであれば、音もなく優雅に歩く。
しかし今は少し急いでいた。
保留にしたまま待たせるのは美咲に対して心苦しいし、その向こうにはサラも待っている。
ノック。
扉を開ける。
Kはデスクで書類を確認していた。
アンナが通常よりも少し急いだ足取りで入ってきたことに、Kは気づいた。
「……どうした」
Kの方から声をかけてきた。
アンナが急ぐことは稀だ。それだけに、彼の注意を引いた。
「会長。今、サラ様からお電話したいとのことで——マネージャーの美咲さんと、電話が繋がっております」
Kの表情が——。
ぱぁっ、と明るくなった。
一瞬だけ。本当に、一瞬だけ。
しかし、アンナには——完璧に見えた。
そして次の瞬間には、Kの顔は「余裕のある大人」の表情に戻っていた。
「そうか」
平静を装った声。
「……いいだろう。仕方ないな」
——仕方ない
まるで、渋々引き受けるかのような言い方。
しかし——。
「すぐに繋いでくれ」
「すぐに」の部分だけが、明らかに早口だった。
アンナはもはや呆れることすら面倒になり——。
「かしこまりました」
とだけ返した。
***
美咲のスマートフォンに、アンナの声が戻った。
「美咲さん」
『は、はい!』
「大丈夫です。会長がお受けになるとのことです」
『ほ、本当ですか……』
美咲はほっと肩の力を抜いた。
そして、サラに向き直る。
「サラさん、大丈夫だって」
「——!!」
サラの顔が、太陽のように輝いた。
「ありがとうございます! 美咲さん、本当にありがとう……!」
サラは感激のあまり、美咲の手を両手で握りしめた。
「はい、じゃあ、今から繋ぐので……」
美咲がアンナと最終的な接続方法を確認していると——。
サラが不意に、美咲の袖を引っ張った。
「あの、美咲さん」
「はい?」
サラは少し恥じらそうに、しかし迷いのない目で言った。
「美咲さんは……あっち行っててください」
その顔は——。
思春期の女の子が、好きな人との電話を親に聞かれたくない時の、あの顔だった。
美咲は一瞬、呆れたような、微笑ましいような、複雑な感情が混じった顔をして——。
「……はいはい」
と、練習スペースを出ていった。
ドアが閉まる。
サラは一人になった。
***
深呼吸。
もう一回。もう一回。
心臓がうるさいくらいに鳴っている。
手のひらがじんわりと汗ばんでいる。
サラはスマートフォンを耳に当てた。
呼び出し音が数回。
そして——繋がった。
『サラか』
Kの声。
あの、低い、静かな声。
全身に、あの時と同じ甘い痺れが走った。
「はい、サラです……!」
『声が聞けて嬉しいぞ』
——ずるい。
その一言で、サラの心臓はもう限界だった。
「わ、私も、お声が聞けて嬉しいです……!」
声が上ずっている。自分でも分かる。
でも、止められなかった。
「あの、歌詞、本当に、本当に素敵でした……! みんな感動して……」
『そうか。喜んでもらえたなら良かった』
「それで、あの、作曲も順調に進んでて……! メロディも大体できてきたんです」
『ほう。早いな』
「Kさんの歌詞が良すぎて……メロディが勝手に浮かんでくるんです」
『ふっ……。どんな感じになったか気になるな』
「あの、それで……一箇所、悩んでるところがあって。Kさんにアドバイスいただきたくて……」
『ああ、いいぞ。聞かせてくれ』
サラは悩んでいるという「部分」のメロディを、小さく口ずさんだ。
電話越しに、Kが静かに聴いている。
その沈黙が——サラにはたまらなく心地よかった。
Kが、自分の声に耳を傾けてくれている。
世界の頂点にいる男が、自分一人の歌声を聴いてくれている。
「……こういう感じなんですけど、ここの流れが、もう少し何か……」
『なるほどな。ちょっと待ってくれ』
「え?」
『少し準備がいる。切らずに待っていろ』
「あ、は、はい!」
通話は保留にはならなかった。
しかし、Kの声が遠くなり、何か動いている気配がした。
***
Kはスマートフォンを片手に、執務室の壁面に設置されたパネルに手を当てた。
生体認証が作動し、壁の一部が静かにスライドした。
通常のエレベーターではない。
Kの生体認証でしか起動しない、専用の直通エレベーター。
最上階から、ビル内のあらゆる階層へ一気に移動できるKだけのルートだ。
Kはそのエレベーターに乗り込みながら、内線で管理部の役員に指示を出した。
「講演ホールを開けろ。今すぐだ。俺が向かう」
管理部の役員は電話を受けた瞬間、文字通り椅子から弾かれるように立ち上がった。
「は、ただいま!」
彼は目の前の作業中だった予算書を放り出し、ホールへ向かって全力で走り出した。
KFG本社ビルの中層階にある講演ホール。
国際的な講演会や記者会見、時には社員向けの演奏会などが開催される、格式高い空間だ。
役員がホールに飛び込むと、翌日の講演準備のために設営スタッフが数名作業をしていた。
「全員出ろ! 今すぐだ!」
役員は理由も説明せず、怒鳴るように指示した。
スタッフたちは事情は分からないが、管理部役員の血相を変えた表情から緊急性を瞬時に察した。
持っていた機材を素早く脇に寄せ、ものの数分でホールは完全に空になった。
そして——。
Kが一人で入ってきた。
役員はホールの入口で、Kの姿を出迎えた。
「会長……おひとりで、どうなさいましたか」
Kには常にアンナか、少なくとも秘書が数名同行しているのが通常だ。
しかし今、Kは完全に一人だった。
片手にスマートフォンを握りしめて。
「ご苦労。下がってくれ」
Kはそれだけ言って、軽く手を挙げた。
役員は深く一礼すると、すぐにホールを退出した。
そしてホールの外に出ると、息を整えながらスマートフォンを取り出した。
アンナ宛にメッセージを打つ。
『アンナ様。会長がお一人で講演ホールへお越しです。ご存知でしたら恐縮ですが、念のためご報告いたします』
***
最上階、秘書フロア。
アンナはその報告メッセージを見て、眉を僅かに上げた。
執務室のドアを見る。
先ほどまで、確かに会長はこの中にいた。
しかし——いつの間にか、専用エレベーターで降りていったらしい。
自分を通さずに。
(……サラ様との電話で、何かあったのか)
講演ホールに一人で行く理由。
(……あそこには確か……グランドピアノが)
ステージの中央に据えられた、フルコンサートグランドピアノ。
世界最高峰のメーカーがKFGのために特注した一台。
(……会長は弾けるのでしょうか)
アンナはKの経歴の中に「ピアノ」という情報を持っていなかった。
音楽に関する特技や趣味については、Kのプロフィールのどこにも記載がないし、過去二人の間で会話されたことはなかった。
しかし——。
(……あの方なら、弾けてもおかしくはありません)
アンナはそれ以上考えるのをやめた。
考えたところで確認する術がない。
それに——会長がFLORIA絡みで何かをしている時は、邪魔をしない方が良い。
アンナは管理部の役員に短く返信した。
『承知しています。ご報告ありがとうございます。』
本当は、承知していなかったがどちらでも良かった。
***
講演ホール。
がらんとした、広大な空間。
数百人を収容できる客席はすべて空。
ステージ上の照明だけが薄明かりを落としている。
その中央に——漆黒のグランドピアノが静かに鎮座していた。
Kはゆっくりとステージに上がった。
ピアノの前に座る。蓋を開ける。
象牙色の鍵盤が、薄明かりの中で静かに光った。
Kはスマートフォンを取り上げた。
「……待たせたな、サラ」
***
日本。
サラは待っている間、ずっと心臓が高鳴っていた。
退屈ではなかった。全く、退屈ではなかった。
むしろ——あまりにも幸せな時間だった。
Kが何かを準備している。自分のために。
今この瞬間、太平洋の向こう側、アメリカにいる世界一の男が、自分を想って何かを動かしている。
待たされているだけで、こんなに幸せにしてくれる人なんて。
(……こんな人、他にいない)
(絶対にもう会えない)
サラの目から、不意に薄い涙が滲んだ。
嬉しくて。ただ、嬉しくて。
そこへ——Kの声が戻ってきた。
『待たせたな、サラ』
「い、いえ……! 全然、大丈夫です……!」
『ビデオにしてやろう。特別にな』
「え?」
画面が切り替わった。
ビデオ通話。
サラのスマートフォンの画面に、Kの顔が映し出された。
(——っ!)
相変わらず、容赦のないほどに整った顔だった。
しかし今日のKの表情は、いつもの冷徹さの中に、どこか楽しそうな、少年のような光が混じっていた。
サラは自分の顔がカメラに映っていることに気づいて、慌てて髪を整えた。
(やだ、練習着のままだし、メイクも薄いし——)
しかしKはそんなサラの姿を気にする様子もなく、カメラを自分の顔から別の方向に向けた。
画面に映し出されたのは——。
巨大な、漆黒のグランドピアノ。
広大なホールの中央に据えられた、荘厳な楽器。
「見えるか?」
「は、はい……すごい、ピアノ……」
「今から、さっきお前が言ったメロディーと……悩んでいるという箇所を俺なりに弾いてみよう」
サラの思考が、一瞬、停止した。
(……え?)
(Kさんが、ピアノを弾く?)
(今から、私だけのために、ビデオ通話で?)
その瞬間——サラは、何かとてつもなく悪いことをしている気分になった。
やめてください、とは言えない。言うわけがない。
しかし——これを聞いてしまったら。見てしまったら。
もう本当に、戻れなくなる。
好きで、好きで、たまらなくなってしまう。
恋に落ちるということが——こういうことなのだと、今まさに実感してしまっている。
「どうした? 聞こえてるか?」
Kが心配そうに声をかけてきた。
カメラ越しに、少し首を傾げるKの顔が映っている。
サラは必死に声を絞り出した。
「あ……! はい! Kさん……ありがとうございます!」
それで、精一杯だった。
***
Kの指が鍵盤に触れた。
最初の一音が——ホールの空間を静かに満たした。
深く、温かく、そして透明な音。
サラは息を呑んだ。
メロディが紡がれていく。
Kが弾いているのは、サラが電話で口ずさんだメロディ——「Re:FLORA」のサビの旋律だった。
一度聴いただけのメロディを、正確に、そして美しく再現している。
しかし、ただ再現しているだけではなかった。
Kの指が生み出す音には、サラが口ずさんだ時にはなかった「深み」があった。
和音の選び方。テンポの微妙な揺らぎ。フレーズの間の呼吸。
それらがサラの原曲に新しい色を加えていた。
(……上手い)
サラはプロのアーティストだ。
ピアノが弾ける人間とは何百人と会ってきた。
プロのピアニスト、スタジオミュージシャン、音大の教授——。
その中でも——Kの演奏は、相当に上手かった。
テクニック的な完成度だけではない。
音に魂がこもっている。
一音一音に、Kという人間の知性と感性が静かに、しかし確かに宿っている。
(……一緒にライブをやる担当者って言われても、疑わないレベルだ)
サラは聴き惚れていた。
スマートフォンの画面にはKの横顔と、鍵盤の上を滑る大きな手が映っている。
その映像が——あまりにも美しかった。
***
そして、メロディがサラが「悩んでいる」と伝えた箇所に差し掛かった。
Kの指がその箇所を弾き始めた瞬間——。
サラの全身に鳥肌が立った。
(……まさか)
サラは悩んでなどいなかった。
あのメロディは一度、完成させていた。
Kと電話したいから「悩んでいる箇所がある」ということにしただけだった。
本当は、自分の中で答えは出ていた。
しかし——Kが今弾いているメロディは。
サラが「答え」として持っていたメロディと、全く同じだった。
同じ音の動き。同じ和音の解決。同じフレーズの締め方。
サラが自分の感性で辿り着いた結論を——。
Kが、たった一度メロディを聴いただけで、同じ結論に辿り着いた。
(……同じだ)
サラの手が震えた。
(Kさんの感性と、私の感性が——同じ)
(私のセンスと、Kさんのセンスが——同じ)
その事実が、サラの胸の中で爆発するように広がった。
歌詞の相談をされた時とは比べ物にならない衝撃だった。
言葉ではなく、「音」で——二人の感性がシンクロした。
同じメロディを、心の中で鳴らしている。
(……もう)
サラの目から、今度こそ涙がこぼれた。
静かに、一筋。
(もう、戻れない)
分かっていた。分かっていたけど——今、確信に変わった。
***
Kが最後の一音を弾き終えた。
余韻が、広大なホールに長く、長く響いた。
カメラが再びKの顔に戻る。
「……どうだ、サラ」
穏やかな声。少しだけ、得意げな。
しかし同時に——サラの反応を真剣に待っている声。
サラは涙を拭いて——。
「……Kさん」
「ん?」
「同じ、でした」
「……同じ?」
「私が作ったメロディと……Kさんが今弾いてくれたメロディが同じでした」
Kは一瞬、驚いたような顔をした。
「そうか……お前が悩んでいた箇所の答えが同じだったのか」
「はい」
「ふっ……気が合うな、俺たち」
その一言が——。
サラの心を、完全に射抜いた。
(……ああ)
(Kさんのことが、一番好きなのは——私だ)
絶対的な確信として——サラの中でその想いが結晶した。
ソユンでもない。ミジュでもない。カエデでもない。
私だ。世界で一番この人のことが好きなのは、私だ。
「音」で繋がったのは、自分だけだ。
言葉ではなく。視線でもなく。
同じメロディを、同じ感性で奏でることができる。
それは——他の誰にも真似できない。
サラだけの、Kとの唯一の絆だった。
***
「……ありがとうございました、Kさん」
サラは涙声を悟られないように、精一杯の笑顔で言った。
「もう、迷いはなくなりました」
「それなら良かった」
Kは優しく微笑んだ。
「完成を楽しみにしてる」
「はい! 最高の曲にします。絶対に」
「ああ。……じゃあ、またな、サラ」
「はい。……えっと、おやすみなさいKさん」
そう挨拶すると、少し笑ったような感じがした後、通話が切れた。
***
スマートフォンの画面が暗くなった。
サラはしばらく、その暗い画面を見つめたまま動かなかった。
練習スペースの窓から、朝の日差しが静かに差し込んでいる。
サラはスマートフォンをそっと胸に押し当てた。
このスマートフォンの中に、さっきまでKの声と、Kの顔と、Kのピアノがあった。
もう消えてしまった。
しかしそのすべてが、サラの中に永遠に刻まれた。
「……内緒だよ」
誰もいない部屋で、サラは小さく呟いた。
ソユンにも。ミジュにも。カエデにも。
この10分間のことは——絶対に言わない。
Kが弾いてくれたピアノのことも。
同じメロディだったという奇跡も。
そして——この胸の中で燃える、他の誰にも負けない想いのことも。
全部、全部——。
サラだけのもの。
窓の外では、東京の空がどこまでも青く広がっていた。




