【リ・フローラ編】第13話
美咲は、4枚の紙を手にしたまましばらく動かなかった。
プリンターの低い唸り音が止まった後のオフィスは静かだった。
(……どうすれば一番いい形で渡せるかな)
美咲は考え始めていた。
もちろん、いつ見せても4人は大喜びするだろう。
それは間違いない。
Kの名前が出た瞬間に、彼女たちのテンションは最低でも4倍にはなる。
しかし——。
今この瞬間に渡すのはベストではない。
4人は今まさに寮から到着したばかりだ。
荷物を下ろし、着替え、ストレッチを始め——まだ「仕事モード」に切り替わる前のバタバタした時間帯。
それに朝だ。
まだ眠い子もいるかもしれない。
特にミジュは寝起きが悪い。
朝一番に渡しても、あの「最高の反応」が引き出せるとは限らない。
(かといって、夜まで待たせるわけにもいかない……)
Kはこの歌詞を届けた時の4人の反応を映像で確認したがっている。
つまりアンナを経由して、遅くとも今日中にその映像を送らなければならないだろう。
遅くなりすぎればKが痺れを切らして「まだか」とアンナに問い合わせ、アンナから催促の連絡が来る——という未来が美咲には容易に想像できた。
(……お昼ご飯を食べた後かな)
午前中は4人とも練習がある。
集中してレッスンをこなし、身体を動かし汗を流す。
そしてお昼を食べて少し休んでいる頃——。
心も体も、ちょうどリラックスしている時間帯。
(そうだ。デザートも買ってあげよう)
美咲は自分の中に生まれた「こだわり」に少しだけ驚いた。
普通に紙を渡すだけでいいのに、なぜ自分はこんなに「演出」を考えているのだろう。
答えはすぐには出なかった。
しかし考えるのは後回しにして、まず動くことにした。
美咲はチーフマネージャーの席へ向かった。
「チーフ、少しお時間いいですか」
「ん?どうした?」
チーフはスケジュール表から顔を上げた。
「K会長の案件で、一つ相談が……」
「K会長」の言葉が出た瞬間、チーフの表情が変わった。
以前のあのライブ以降、事務所内ではこの名前はもはや一種の「呪文」のような効力を持っていた。
どんなに忙しい人間でも、この名前が出れば全てのタスクを差し置いて対応する。
「何かあった?」
「今日、メンバーにお昼ご飯を少し豪華に出前で取ってあげたいのですが……」
美咲は歌詞が届いたことと、その渡し方について手短に説明した。
チーフは数秒考えたあと——。
「いいよ。それくらいならお釣りが来るでしょ?」
あっさりと了承してくれた。
KFGとの関係を維持することの価値を考えれば、高級弁当の数千円など文字通り誤差だった。
「ありがとうございます。すぐに手配します」
美咲は小さく頭を下げてチーフの席を離れた。
***
美咲は4人の練習スペースへ向かい、すっと歩み寄った。
「みなさん、おはようございます」
「美咲さん、おはようございまーす!」
ソユンが元気に挨拶し、サラは伸びをしている。
ミジュは——案の定、少しだけ眠そうな顔をしていた。
美咲はいつもよりほんの少しだけ笑顔を多めに浮かべて言った。
「今日、お昼ご飯会社で出前とるね。みんなの分」
「えっ!本当ですか!?」
ソユンが目を丸くする。
「やった!」
サラが両手を上げる。
普段、FLORIAのメンバーの昼食はコンビニで各自好きなものを買ってくるか、寮から持ってきたおにぎりを齧るか——という、アイドルとしては質素な食事が大半だった。
事務所が出前を手配してくれるなど滅多にないことだった。
「なんで?なんかあるの?」
ミジュが眠気の残る目を擦りながら首を傾げた。
「いい子にしてれば、いいことあるかもね」
美咲は笑顔のままそれ以上は何も言わずにスルーした。
「えー!気になるー!」
「教えてくださいよー!」
ミジュが食い下がるが、美咲は軽く手を振って練習スペースを離れた。
彼女にはまだ準備することがあった。
出前の手配。
カメラの準備。
そして——絶対に他のスタッフが入ってこないよう、あの時間帯の練習スペース周辺を「封鎖」すること。
Kの歌詞を受け取るFLORIAの反応は、部外者に見せるべきものではない。
万が一、他のグループのメンバーやスタッフが通りかかってあの4人が大騒ぎしているのを目撃してしまったら
収拾がつかなくなる。
美咲は周到に一つ一つの段取りを整え始めた。
その作業を進めながら、美咲はまた自分自身の行動に引っかかった。
(……私、なんでこんなにこだわってるんだろう)
普段の業務であれば紙を渡して「はい、これ読んで」で済む話だ。
出前を手配して、カメラを準備して、他のスタッフの動線を封鎖して——。
そこまでやる必要は厳密にはない。
アンナからの指示は「印刷して同時に見せて、カメラで撮れ」だけだった。
それ以上の「演出」は美咲が自分で考えたことだ。
(……なんでだろう)
しかし出前の注文先を選びながら——ふと浮かんだ。
(……嬉しいのかな、私)
Kやアンナという世界最大企業KFGの第一線の人々——。
本来であれば自分のようなアイドル事務所の現場マネージャーが一生関わることのない、世界の頂点に位置する人々。
その人たちから「頼られている」という事実。
もちろんそれはFLORIAのマネージャーだからという理由に過ぎない。
自分個人の能力が評価されているわけではない。
それは分かっている。
しかし——アンナが事務所のチーフでも社長でもなく自分に直接電話をしてきてくれたという事実。
Kの最も個人的な願いを、自分に託してくれたという事実。
それが——正直嬉しかったのだ。
(……単純だな、私)
美咲は自嘲気味に小さく笑った。
しかしその笑みは自分自身を笑ったものであると同時に——少しだけ誇らしさを含んだものでもあった。
***
午前中の練習が終わった。
4人が汗を拭いて練習スペースのソファに倒れ込む。
「あー、疲れたー」
「お昼まだかな?」
「出前、何が来るんだろう」
「美咲さん、何も教えてくれなかったよね」
程なくして美咲が手配した出前が届いた。
練習スペースのテーブルの上に並べられたのは、都内で人気の料亭が手がける彩り豊かな特製弁当だった。
丁寧に盛り付けられた焼き魚、季節の天ぷら、出汁の効いた煮物、そして艶やかに輝く白米。
さらに——デザートとしてフルーツの盛り合わせと小さなプリンが一人分ずつ用意されていた。
「えっ、すごい!」
「こんな豪華なの、初めてじゃない!?」
「美咲さん、本当にどうしたんですか!」
4人が目を輝かせる。
「今日は特別。たくさん食べてね」
美咲はにこにこと笑いながら彼女たちの食事を見守った。
4人は夢中で弁当を頬張り、「おいしい」「幸せ」を連発しながら明日のインタビュー撮影の段取りや来週のスケジュールについて和やかに話していた。
デザートのプリンを食べ終えフルーツをつまみながら、4人がリラックスした表情になった頃——。
(……今だ)
美咲は心の中で静かに合図を出し、一度歌詞を取りに戻った。
***
練習スペースのドアが静かに開いた。
先ほど出ていった美咲がまた入ってきた。
そして、その後ろにもう一人——後輩の女性社員がカメラを手に控えている。
美咲の面持ちはいつもと少しだけ違っていた。
緊張している。
しかし——それは重大な案件を伝える時のあの硬い緊張ではなかった。
むしろ——。
「み、みんな、ちょっといい?」
声が微かに上ずっている。
頬が少しだけ紅潮している。
まるで——好きな人に告白する前の女の子のような、そんな種類の緊張だった。
4人はその美咲の様子を見て——。
一瞬ぽかんとした。
「……美咲さん、どうしたんですか?」
カエデが少しだけ引きながら慎重に尋ねた。
「顔、赤いですよ」
ミジュが率直に指摘する。
「なんか告白でもするんですか?」
サラが冗談めかして言った。
「ち、違う……えっと……」
美咲は言葉を探しながら——ふと後輩がカメラを持っていることに4人が気づいたのを察した。
「あ、カメラ……」
ソユンが後輩の方を見た。
「何の撮影ですか?ショート動画?」
ミジュが反射的に髪を整え始める。
アイドルの本能だ。カメラがあればとりあえず身だしなみを確認する。
4人はてっきりSNS用のショート動画か、ファン向けのコンテンツの撮影だろうと軽く見構えていた。
美咲は深く息を吸った。
そして——。
「……実は、Kさんから歌詞が届きました」
1秒。
たった1秒の沈黙の後——。
4人の中で全ての思考回路が同時に弾けた。
カメラのことが頭から消えた。
ショート動画のことが消えた。
髪の乱れも食べかけのフルーツも明日の撮影のことも——。
全てが消えた。
残ったのはただ一つ。
「Kさんから」「歌詞が」「届いた」。
その三つの単語だけが4人の全世界を支配した。
「「「「——!!!!」」」」
4人はほぼ同時にソファから跳ね上がった。
猟犬。
獲物を見つけた猟犬のように一直線に美咲へと駆け寄った。
「嘘!」「ええ!?」
「本当ですか!?」「Kさんから!?」
「歌詞が!?」
「Kさんは、Kさんは来てないんですよね!?」
4人が美咲を取り囲む。
四方から質問が矢のように飛んでくる。
美咲はその勢いにたじたじと後ずさった。
「ちょ、ちょっと落ち着いて……!」
「落ち着けるわけないでしょ!」
サラが目を丸くして叫ぶ。
「Kさんの歌詞が来たんですよ!?」
ミジュが美咲の腕を掴んで揺さぶる。
「見せてください、今すぐ!」
ソユンはもう涙が滲み始めている。
カエデだけが辛うじて冷静さを保っていたが——その目は確かに輝いていた。
その嵐のような4人の反応を——。
後輩の女性社員はカメラ越しに目の当たりにしていた。
彼女は事前に美咲からこう言われていた。
「何があっても驚かないで。何が起きてもカメラを回し続けて」
了解したつもりだった。
しかし——。
目の前で起きていることは彼女の想像を遥かに超えていた。
FLORIAのメンバーたちは、彼女が普段テレビやSNSで見るFLORIAとは全く違う顔をしていた。
管理されたアイドルの表情ではない。
計算された可愛さではない。
これは——本気の、生の、剥き出しの感情だった。
カメラを持つ手が小刻みに震え始めた。
(だ、大丈夫、大丈夫……回し続けてって言われたから……)
彼女は必死にファインダーを覗き続けた。
「はい、はい、落ち着いて……!」
美咲は懸命に場を収めようとした。
「歌詞はここにあります。4人分印刷してあるから」
美咲が胸元に抱えていた4枚の紙を見せた。
その紙を見た瞬間——4人の動きがぴたりと止まった。
さっきまでの嵐が嘘のように空気が変わった。
4人の目が美咲の手元の紙に吸い込まれるように集中する。
Kの歌詞。
Kが自分たちのために書いた一編の詩。
きっと、一人きりの静寂の中で何度も何度も書いては壊し紡ぎ直した言葉たち。
それが今目の前にある。
「……みんなで一緒に見てほしいと伝えられています」
美咲が一枚ずつ丁寧に4人に手渡した。
カエデ。ソユン。サラ。ミジュ。
4人はそれぞれ震える手でその紙を受け取った。
「……」
カエデが紙を受け取ったまま一度深呼吸をした。
そして——。
「……せーので見ようか」
静かに、しかし凛とした声で提案した。
全員が頷いた。
4人は輪になって座り、手元に紙を構えた。
美咲は少しだけ離れた場所から4人を見守っていた。
4人とも——ドキドキして、楽しみにして、好きな人が作った歌詞を見ることに胸を高鳴らせている。
美咲の目には4人とも同じ気持ちに見えた。
しかし——。
実際には4人の胸の内はそれぞれ異なっていた。
カエデ。
彼女は純粋な「知的好奇心」に心を満たされていた。
Kのことが好きだ。それは否定しない。
あの整った顔に、たまに見せる不器用な優しさに心を動かされている。
しかし今この瞬間——カエデの中で最も強い感情は「興味」だった。
Kが歌詞を書いた。
あの世界の金融を支配する頭脳がアイドルソングの歌詞という全く異なる領域に足を踏み入れた。
(……どんなものが出てくるんだろう)
Kの底知れぬ力。
カエデが最も惹かれているのは実はその「力」そのものだった。
「歌詞」という数値では測れない感情の世界においてどんな表現を見せるのか。
それがカエデにとっての最大の関心だった。
ソユン。
彼女にとってこの瞬間は——「答え合わせ」だった。
待ちわびていた。
4人の中で誰よりも自分がこの歌詞を待っていたという自覚がソユンにはあった。
毎日Kのニュースをチェックし、Kの写真をスクリーンショットし、Kの言葉を反芻し——。
その全ての時間の中でソユンはすでに「想像」を重ねていた。
Kが素晴らしい歌詞を作ること。
その歌詞にサラが最高の曲をつけること。
その曲が世界中で大ヒットすること。
そして自分が世界で一番その曲を愛する人間になること。
それら全てがソユンの中ではすでに「妄想し尽くした未来の事実」だった。
今日はただその妄想が現実になる日なのだ。
(……ようやく)
ソユンはわくわくしていた。
サラ。
彼女だけは——少しだけ不安を抱えていた。
この歌詞に自分が曲をつけなければならない。
あの電話でKに相談を受け、自分の意見を伝え、励まされた。
自信もついた。
アーティストとしての楽しみもある。
しかし——。
Kは、もはやこのグループにとってあまりにも大きな存在になっていた。
Kの歌詞に自分一人が曲をつける。
それはつまり——Kの言葉を自分の音楽で包むということだ。
もし自分の曲がKの歌詞の力に見合わなかったら。
もし他の3人の期待を裏切ってしまったら。
(……でも)
サラは唇をきゅっと結んだ。
覚悟を決めなければいけない。
あの電話でKが信頼してくれた。
「やろう」とあの笑顔で言ってくれた。
その信頼に応える。
それが今の自分にできる唯一のことだった。
サラは強い気持ちで紙に目を落とした。
ミジュ。
彼女の胸の中には——歌詞への興味よりも、もっと大きなものが満ちていた。
ラブレター。
ミジュにとってこの紙は——好きな人からのラブレターだった。
Kが自分たちのために書いてくれたもの。
Kが時間を使って、心を込めて作ってくれたもの。
歌詞としてどうか、構成がどうか——そういうことは正直ミジュにとっては二の次だった。
大好きな人が自分のために何かをくれた。
その事実だけでミジュの心はもう十分に満たされていた。
ただドキドキする。
乙女のようにただただドキドキしていた。
「……せーの」
カエデの声。
4人が同時に紙に目を落とした。
最初に目に飛び込んできたのは——タイトルだった。
『Re:FLORA』
リ・フローラ。
「……!」
4人の身体に同時に鳥肌が走った。
FLORA——。
ローマ神話に登場する花の女神。
そして——自分たちのグループ名「FLORIA」の由来。
「Re:」——もう一度。あるいは新しく。
Re:FLORA。
花の女神が再び生まれ変わる。
たった数文字のタイトルにKの意図が凝縮されていた。
この数ヶ月間、Kによって大きな翼を授けられた自分たち。
アルカディア、ロイヤル・ソレイユ……
それらは全てこれまでの延長線上の自分たちに後から付け加えられたものだった。
しかしこの曲は——違う。
Kの言葉を自分たちの声で歌う。
それはKと共に真の意味で新しい自分たちとして歩き始めるということだ。
タイトルだけでそう悟った。
同時に——背筋を甘い悪寒が走り抜けた。
「これからが本番だ」。
Kに耳元でそう囁かれたかのような——。
恐ろしくて、しかしたまらなく甘い背徳感。
4人は続けて歌詞の本文に目を落とした。
沈黙が流れた。
長い沈黙。
一行一行丁寧に読み進めていく。
歌詞は——ぱっと見、美しい応援歌だった。
シンセポップ系のアンセム。
暗闇を抜けて光の射す場所へ向かう物語。
ファンとの絆を歌った希望に満ちたストーリーライン。
アイドルソングの歌詞として——非の打ち所がない完璧な構成だった。
何万人もの観客の前で歌えば、誰もが「過去の自分を乗り越える勇気の歌」として受け取るだろう。
歌番組で、フェスで、ライブで——。
無数のファンの心に響く王道の一曲。
Kの知性が大衆の心を掴むツボを完璧に理解した上で緻密に設計された構造。
そして——。
歌詞の中に3つの言葉が、静かに、しかし確かに織り込まれていた。
「秘密」。
「永遠」。
「魔法」。
カエデが、ソユンが、ミジュが、それぞれの胸から選び抜いてKに送った言葉。
それらが歌詞の流れの中に自然に美しく溶け込んでいた。
ファンが聴けばただの美しい歌詞の一部として何の違和感もなく流れていくだろう。
しかし——。
当事者である彼女たちには痛いほどに分かった。
その言葉の端々に——圧倒的なKの「愛」が緻密な暗号のように織り込まれているのだ。
表面上はファンへの感謝の歌。
しかしその裏側には——Kから自分たちへの静かな、しかし揺るぎない想いが幾重にも重ねられている。
そしてそれを歌う自分たちの姿もまた——ファンの前では「応援歌」を歌うアイドルでありながら、心の奥底ではただ一人の王への愛を叫び続ける存在となるのだ。
4人は——言葉にせずとも理解した。
「これはファンに向けた曲じゃない」
「Kさんから私たちへの、そして私たちからKさんへの——誓いだ」
その認識が4人の中で同時に結実した瞬間——。
背筋に甘い悪寒が走った。
何万人という大衆の前で満面の笑みでこの曲を歌う自分たちの姿を想像する。
何も知らない観客が手を振り、歓声を上げ、涙を流すその最前線で——。
密かに。
ただ一人の王への愛を叫び続けるのだ。
その想像だけで4人の身体は震えた。
長い長い沈黙が部屋を満たしていた。
後輩の女性社員はカメラを構えたまま、4人の横顔をファインダー越しに見つめていた。
4人の表情。
Kへの想い。決意。愛情。
それらが混じり合った複雑で、しかし美しい顔。
もちろん——全員が満面の笑みだった。
Kが一番見たかった顔。
アンナが当然予想できた顔。
それが今カメラの前にあった。
最初に口を開いたのはカエデだった。
「……ふう」
小さく息を吐いた。
そして紙から顔を上げると——。
穏やかに、しかし少し呆れたように笑った。
「……本当に……なんでもできるんだね、Kさん」
その一言に全てが込められていた。
カエデが最も知りたかったこと——Kの底知れない力が歌詞の世界でも通用するのか——。
答えは圧倒的な「YES」だった。
経済の天才は言葉の天才でもあった。
その事実がカエデの知的好奇心を完璧に満たし、同時に——彼女の中のKへの想いをもう一段階深いところへ引きずり込んだ。
ソユンは——また涙目だった。
紙を両手でぎゅっと抱きしめるように持っていた。
唇が小さく震えている。
「……っ」
言葉が出てこない。
彼女が想像していた通りの——いや、想像を超える歌詞がそこにあった。
妄想が現実になった。
「Kさんが素晴らしい歌詞を書く」というソユンの中の「未来の事実」が今、手の中で確かな重さを持っていた。
涙が一粒紙の上に落ちかけて——ソユンは慌てて顔を上げた。
歌詞を汚してはいけない。
この紙は宝物だから。
サラは——鳥肌が収まらなかった。
いつの間にか、先ほどまでの「不安」はなくなっていた。
歌詞を読んだ瞬間、サラの頭の中ではもうメロディが鳴り始めていた。
この言葉にどんな音を乗せるか。
このサビをどんな展開で盛り上げるか。
あの電話でKと話した「日本語で締める」という選択——。
それがこの歌詞の中で完璧に活きている。
(……Kさん、私の意見、ちゃんと取り入れてくれてる)
その事実がサラの胸の奥で静かに温かく灯った。
不安は——覚悟に変わっていた。
この歌詞に最高の曲をつける。
その使命感がサラの全身を熱く満たしていた。
そして——ミジュ。
彼女は——。
ふっと顔を上げると。
紙を胸に抱いたまま真っすぐにカメラのレンズを見た。
後輩の女性社員がびくりと肩を震わせた。
ミジュはカメラに向かって——。
最高の、最高の笑顔を見せた。
それはテレビの前で見せるアイドルの笑顔ではなかった。
ファンの前で作る計算された笑顔でもなかった。
一人の少女が好きな人に向けて——心の底から全てを捧げるように見せる、本気の笑顔だった。
「Kさーーん!!」
ミジュはカメラに向かってはっきりと言った。
「本当に最高でした!」
その言葉の後に。
ミジュは一拍の間を置いて——。
「大好きっ!」
満面の笑みでそう告白した。
後輩の女性社員は——。
不覚にもドキドキしてしまった。
レンズ越しに見るミジュの笑顔があまりにも、あまりにも——美しかった。
アイドルとしてのミジュではなく、恋する少女としてのミジュ。
その全力の愛の表現が、カメラを持つ自分にまで届いてしまった。
(……え、ちょっと待って、私、今、ミジュさんにドキドキしてる……?)
女性社員は慌ててファインダーに集中し直した。
ミジュは——頭が回る子だ。
このカメラが何のために回っているのか。
誰に見せるための映像なのか。
瞬時に理解していた。
(……Kさんに、見せるんだ)
だから彼女はカメラに向かって告白した。
他の3人はミジュのその行動を見てハッと我に返った。
「あ——そういえば、カメラ!」
サラが後輩の手元を見た。
「えっえっ、これ、もしかして——Kさんに見せるんですか!?」
ソユンが涙目のまま美咲を振り返る。
「見せるの!?Kさんに!?」
「待って、髪整えてない!ちょっと、もう一回撮り直して!」
「ふふ、Kさーん!見てますかー!」
「私も撮り直したい……」
一瞬にして部屋は収拾のつかない騒ぎになった。
4人がカメラの前で口々にKへのメッセージを叫び、ポーズを取り、互いに押し合い——。
後輩の女性社員はもう何が何だか分からないまま、ただ懸命にカメラを回し続けていた。
「はい!」
美咲の声が鋭く響いた。
「休憩時間は終わりです!」
ぴしゃりと。
「これ以上撮ってもどんどんおかしなことになるだけだから!」
美咲は後輩に目配せしてカメラを止めさせた。
「午後の練習始めますよ!準備して!」
「えー!」
「もうちょっとだけ……!」
「ダメです。立って。はい、立って」
4人は不満そうに口を尖らせながらも渋々と立ち上がった。
しかし——。
その手は誰一人として歌詞の紙を手放していなかった。
「……それ、練習の邪魔になるから一旦置いてね」
「やです」
「ミジュ」
「……はい」
ミジュが泣く泣く紙をテーブルに置いた。
他の3人も名残惜しそうに続いた。
しかし——練習が始まっても4人の目は何度も何度もテーブルの上の紙に向かっていた。
踊りながら、歌いながら、視界の片隅にあの紙が映っている。
Kの言葉があそこにある。
その事実だけで——4人の踊りはいつもより少しだけ力強かった。
直接会わなくても。
声を交わさなくても。
KとFLORIAの間には——言葉だけで紡がれた深い深い絆が、また一つ静かに、しかし確実に生まれていた。
練習の合間にソユンがこっそりテーブルの紙を見つめる。
カエデが歌詞の一節を声に出さずに唇だけで辿る。
ミジュがストレッチしながら紙の方を見て微笑む。
サラがノートにメロディの断片を走り書きする。
4人はそれぞれの形でKの歌詞を自分の中に取り込み始めていた。
練習が終わった後。
美咲はカメラのデータを確認した。
後輩が撮影した映像は手ブレが少しあったものの、十分に「あの瞬間」を捉えていた。
4人が歌詞を読んだ時の沈黙。
カエデの静かな笑み。
ソユンの涙。
サラの真剣な目。
ミジュのカメラへの告白。
そしてその後の——収拾のつかない、しかし幸せに満ち溢れた大騒ぎ。
全てが記録されていた。
美咲はそのデータを自分のPCに取り込んだ。
そしてアンナへのメールを開いた。
件名を入力する指が少しだけ震えた。
(……これを、Kさんが見るんだ)
世界の頂点に立つ男が。
マンハッタンの摩天楼の最上階で。
撮影した映像をきっと一人きりで何度も繰り返し見るのだろう。
その想像が——美咲の胸に不思議な感慨をもたらした。
(私は今、世界一の大富豪に貢ぎ物を届けようとしているんだ……)
大げさな表現だと思った。
しかし大げさではなかった。
Kが最も欲しがっているもの——4人の少女たちの偽りのない愛情の表現。
それを美咲の手を経由して太平洋を超えてKのもとへ届ける。
それはある種の——宝物の運搬だった。
美咲は送信ボタンの上に指を置いた。
一つ深呼吸。
(……Kさん。この子たち、本当に幸せそうでしたよ)
心の中でそう呟いてから。
送信ボタンを押した。
データは海底ケーブルを通り、太平洋を横断し、アメリカ東海岸へ。
ニューヨーク、マンハッタン。
世界の頂点で待つ王のもとへ——。
彼の最愛の貢ぎ物が、光の速さで届けられた。




