【リ・フローラ編】第12話
夜。
事務所の寮のリビングに、玄関のドアが開く音が響いた。
「ただいまー!」
「あー疲れた!」
ソユンとミジュが、撮影の荷物を抱えてリビングに入ってきた。
二人は表参道のスタジオでファッション雑誌のモデル撮影に臨んでいた。
華やかな衣装を纏い、長時間のライティングの中で何十パターンものポージングをこなす。
体力的にはかなり消耗しているはずだが、二人の顔には充実感が滲んでいた。
「サラー?いるー?」
ソユンがリビングを見回しながら、少しだけ声のトーンを柔らかくした。
ソファの上で、サラがスマートフォンをいじりながら座っていた。
「……あ、おかえり」
サラは顔を上げて笑顔を見せた。
ソユンはその笑顔を見て、少しだけ胸を痛めた。
今日、サラは一人で事務所に残って練習だった。
他の3人が別々の仕事で出かけ、サラだけが練習室で一人。
ソユンはそれが少し気がかりだったのだ。
「サラ、今日どうだった?一人で練習、寂しくなかった?」
ソユンがソファの隣にストンと座りながらそっと話しかける。
「お菓子買ってきたよ!いちごのやつ!」
ミジュも紙袋からスイーツを取り出しながら、さりげなく気を遣っている。
二人とも、サラがおそらく寂しい思いをしたのだろうと思っていた。
4人がいつも一緒にいるグループの中で、一人だけ取り残される日は誰にとっても少しだけ切ないものだから。
しかし——。
当のサラは、もちろんそれどころではなかった。
数時間前のあの10分間の電話が、まだ身体の中に残っている。
Kの低い声。
「流石だな、サラ」という言葉。
「俺とお前の内緒にしてくれ」という、囁くような一言。
その全てが、サラの心臓をまだじんわりと温め続けていた。
(……大丈夫。大丈夫、顔に出てない。出てないよね)
サラは頬が火照っていないか、目つきが普段と違っていないか——内心気が気ではなかった。
しかし帰ってきたばかりの二人は撮影の疲労もあり、サラの微妙な変化に気づくような余裕はなかった。
「お菓子、ありがと!嬉しい!」
サラはできるだけ普段通りの声色で、ミジュの差し出すいちごのマカロンを受け取った。
「ねー、撮影どうだった?」
「めっちゃ楽しかったよ!」
ミジュが弾けるように話し始める。
「私とソユンちゃんで笑いすぎて何回も撮り直し——」
「ミジュが変な顔するからでしょ!」
「それソユンちゃんのせいだから!」
二人のいつものじゃれ合いを聞きながら、サラはほっと胸を撫で下ろした。
バレていない。
普段通りの空気だ。
***
30分ほどして、カエデも帰ってきた。
「ただいま。……遅くなっちゃった」
「おかえりー、カエデ!」
「コラボ撮影、どうだった?」
「うん、楽しかったけどちょっと緊張した。向こうのメンバーの方がキャリアが長いからね」
カエデは丁寧にコートをハンガーにかけながら、少しだけ疲れたように微笑んだ。
サラはソファの上から、帰ってきた3人の顔を改めて順番に眺めた。
ソユン。
穏やかで、心配性で、Kさんの名前が出るだけで頬を赤らめるリーダー。
ミジュ。
純粋で、無邪気で、ロイヤル・ソレイユの一件でKさんへの愛を隠さなくなった末っ子。
カエデ。
冷静で理性的で、でも——Kさんを見る目に何か特別な光が宿る最年長。
(みんな、きっと……Kさんのことが本気で好きなんだよね)
サラは改めてそう感じた。
ソユンとミジュについてはもはや確信に近い。
二人のKに対する想いは、隠しようがないほど表面に出ている。
カエデについては——。
正直なところ、サラには確信がなかった。
カエデは自分の感情を表に出すタイプではない。
Kを語る時も常に一歩引いて、冷静な分析を交えて話す。
しかしあの日、事務所でKに会った時のカエデの頬の赤らめ方。
そしてKの写真が映るたびにほんの一瞬だけ、目を奪われるように見つめてしまうあの仕草。
(……たぶん、カエデも)
サラはそう思った。
たぶん。
おそらく。
その「おそらく」がいつか確信に変わる日が来るかもしれない。
しかし今は——自分自身の気持ちの整理で精一杯だった。
***
しばらくして落ち着いた4人。
ソユンがソファに深く座り込むと、自然な動作でスマートフォンを取り出した。
画面を見つめるその目。
真剣で、けれどどこか恋する少女のような柔らかい光が宿っている。
(……あれは、きっと)
サラには分かっていた。
ソユンがスマートフォンの画面で何をしているのか。
Kのことを調べているのだ。
新しいニュースがないか。
新しいインタビューがないか。
新しい写真がどこかに上がっていないか。
ソユンの毎日の秘密のルーティン。
それを見るたびにサラは昨日まで微笑ましいと思っていた。
可愛いなあ、と。
しかし——今日は少しだけ胸が痛んだ。
自分は今日、Kと電話で話したのだ。
ソユンが画面越しにKの情報を追いかけているその間に。
自分はKの声を直接聴いた。
その事実がサラの胸の中で、甘い罪悪感としてじわりと滲む。
「……」
サラは黙って、もう一つミジュたちが買ってきてくれたマカロンを口に入れた。
甘い。
しかし、Kとの電話の甘さには到底及ばなかった。
***
「あ、サラ、もう寝る?」
リビングでカエデが声をかけてきた。
時計を見るとまだ10時過ぎだった。
サラはいつもより少し早く、「うん、ちょっと疲れちゃった」と言って立ち上がった。
「お疲れ様。ゆっくり休んでね」
カエデが穏やかに微笑む。
「サラ、おやすみー」
ミジュが手を振る。
「おやすみ、サラ。今日一人で大変だったよね」
ソユンが少しだけ申し訳なさそうに言った。
「ううん、全然。おやすみ」
サラはにっこりと笑って自室のドアを閉めた。
残された3人はしばらくリビングでくつろいでいた。
「……サラ、疲れてたかな」
カエデがぽつりと言った。
「今日一人だったから……ちょっと寂しかったのかな……」
ソユンが心配そうに頷く。
「サラ……」
ミジュが少し沈んだ声で呟いた。
3人はサラの「いつもより少し早い就寝」をそういう風に受け取っていた。
今日一日一人で練習して、少し気持ち的に辛かったのだろう、と。
——それはサラにとっては全くの的外れだった。
しかし3人にとってはごく自然な推測だった。
サラが本当はKと電話で話し、胸を焦がすような10分間を過ごし、その興奮と「内緒」を抱えて部屋に逃げ込んだのだということを——。
3人は想像すらしていなかった。
***
それから数日後——ニューヨーク。
KFGホールディングス本社ビル「The Spire of KFG」。
マンハッタンの空に突き刺さるような鋭利なシルエットを持つ、漆黒の超高層ビル。
その最上階フロアはKFGの全ての意思決定が行われる帝国の中枢だった。
このフロアに入ることを許されているのはK自身とごく限られた人員のみ。
具体的に言えば——アンナを筆頭とする数十名の若き女性秘書たちだけだった。
全員が20代から30代。
全員が容姿と知性を兼ね備えた、KFGの中でもトップクラスの人材。
彼女たちは世界の金融を動かす王のあらゆる業務を事前に捌く影の精鋭チームだった。
与えられる給与も彼女たちは同期の中で断トツで高かった。
そして——このフロアには男性が一人もいない。
Kは自身の執務室があるこの最上階フロアに、男性が足を踏み入れることを嫌がり禁じていた。
大の女性好きと思われても仕方がないが、異を唱えることができる者など当然いない。
***
その最上階フロア。
秘書たちが整然と並ぶデスクで、静かに、しかし猛烈な速度でタスクを処理し続けているある昼下がり。
突然——。
奥の執務室のドアが音もなく開いた。
最初に気づいたのは、アンナの隣のデスクに座る若い秘書の一人だった。
彼女は息を呑んだ。
「……っ」
通常、Kが執務室から出てくるときは、事前にアンナに内線で呼び出しがある。
だがKが自ら何の連絡もなく、秘書たちのいるフロアに出てくることは非常に稀だった。
フロアの秘書たち——特に普段Kと直接行動を共にしていないメンバー——は一斉に背筋を伸ばし手元の動きを止めた。
空気が張り詰める。
Kはその緊張を意に介することなく、ゆったりとした歩調でフロアの中央を横切っていく。
その足が向かう先は一つだけだった。
アンナのデスク。
***
アンナはKの気配を感じてタブレットから顔を上げた。
主君が自らここまで歩いてきている。
彼女の中にほんの少しの驚きと——それ以上の「また何か始まるのでは」という呆れが同時に湧いた。
しかしその感情はもちろん顔には出さない。
「どうなさいましたか、会長」
冷静ないつも通りの声。
当然ながら、アンナはこの状況に緊張など一切していない。
周囲の秘書たちは緊張したまま固まっている。
普段、Kの近くにいることが許されているのはアンナと彼女が指名する数名のみ。
他の秘書たちにとってKは同じフロアにいながらも、ほとんど「声の聞こえない存在」だった。
今、その存在が自分たちの目の前に来た。
しかもアンナのデスクにまっすぐに。
(ア、アンナさんに直接……?)
(何かあったのかしら……)
秘書たちの間に緊張に混じって小さなさざ波が広がった。
(もしかして……)
Kとアンナの間の距離感——他の誰にも許されていない領域——を間近に見ている秘書たちの間では、ある「噂」がひそかに、しかし根強く囁かれていた。
「アンナさんと会長は実は恋仲なのではないか」。
もちろんそれを本人たちに確認する無謀な人間は一人もいなかった。
今、Kが自らアンナのもとに歩いていく姿は、その噂をさらに補強するような、ある種甘い光景にも見えていた。
アンナはもちろんそうした視線を気にしてはいなかったが——
(……勝手にうろちょろしないでほしいのですが)
アンナは呆れたニュアンスをいつもより少し強めに声に乗せた。
「何か急ぎの件でしょうか」
Kはアンナの前に立つと周囲をちらりと一瞥した。
そして——。
「アンナ、ちょっと来い」
それだけ言って踵を返した。
自分の巨大な執務室の方へ。
アンナを連れていく形で。
***
フロアの秘書たちの間に小さな、しかし確かな波紋が広がった。
(わ……連れて行った……)
(アンナさん、呼ばれた……)
(ああいう時の会長って、普段と雰囲気違わない……?)
もちろんアンナがKの執務室に呼ばれること自体は日常茶飯事だ。
毎日何度も呼び出されている。
しかし「Kが自らフロアまで出てきて直接連れていく」という形は稀だった。
そして若い秘書たちはその「稀」な瞬間にときめきに近い感情を覚えていた。
このフロアには男性はいない。
Kだけが唯一の男性。
しかも世界で最も権力を持ち、世界で最も整った顔を持つ30代の男。
その男が一人の女性を自分の部屋に「連れていく」姿——。
胸のときめきを覚えない方が不自然だった。
(……恋仲説、やっぱり正しいんじゃ……)
秘書の一人が隣の同僚と目を合わせて小さく頷き合った。
もちろん真実は——全く違う。
***
執務室の扉が閉まった。
防弾ガラスと大理石に囲まれた、世界で最も強固なプライベート空間。
アンナは立ったままKを見た。
呆れのニュアンスが先ほどよりもさらに強くなっていた。
「……それで、どうなさいましたか」
もはや「会長」という敬称すら省略しかけている。
FLORIAと出会って以来——正確にはFLORIAに絡む案件が増え続けて以来——アンナの中でKに対する遠慮が確実に薄くなっていた。
以前の彼女であれば、もう少し丁寧に会話のキャッチボールをしていた。
Kの言葉を一つ一つ受け止め、その意図を正確に汲み取り適切な提案を返す。
それが本来の関係値のはず。
しかし——FLORIAに関する話になった際の、Kのもどかしい言い回しはもはや耐えがたいレベルに達していた。
回りくどく照れ隠しを挟み、本題に辿り着くまでに何往復もの前置きを挟んでくる。
その忍耐のコストがアンナの中で確実に蓄積されていた。
「できたんだ」
Kが言った。
たった一言。
しかしその一言で、アンナは全てを理解した。
「例の歌詞、ですね」
「ああ」
「おめでとうございます」
少し——雑だった。
言い終えた瞬間、アンナは自分でも気づいた。
(……少し、素っ気なさすぎましたね)
以前であれば——。
「「ご完成に敬意を表します」
「大変なご尽力だったかと存じます」
——そうした丁寧な称賛の言葉を添えていたはずだ。
しかし今のアンナはFLORIAに関する案件が積み重なりすぎて、もはや一つ一つに完璧な礼節を保つ気力を使い切りつつあった。
(……まずいですね、この態度は。反省しましょう)
アンナは心の中でそう呟いたが、しかし——。
Kはそんなアンナの態度を全く気にしていなかった。
Kはもともとアンナに対して許容度が極めて高い。
FLORIAと出会う前から、アンナはKの最も近くに立つことを許された唯一の人間だった。
彼女が多少無礼な態度を取ったところでKが怒ることはまずない。
それは二人の間に築き上げられた揺るぎない信頼の証だった。
しかし今のKにとっては——。
アンナの態度が丁寧であろうが雑であろうが、そんなことは完全にどうでもよかった。
「これを、あいつらに送る」
Kはデスクの上にタブレットを置いた。
***
アンナは一瞬身構えた。
(……まさか、また直接会いに行くとはおっしゃいませんよね)
嫌な予感が胸をよぎる。
この男のことだ。
歌詞が完成した嬉しさのあまり「日本に行く」と言い出しかねない。
しかし——。
Kはアンナの懸念とは違う方向に話を進めた。
「データで送るだろ」
「はい」
「それを向こうで印刷して……4人に同時に見せてほしいんだ」
「同時に、ですか」
「ああ。一人ずつじゃなく、4人全員が揃った時に」
「かしこまりました。データをお預かりして先方のマネージャーに手配を——」
「それと——」
Kがそこで言葉を切った。
「…………」
ごにょごにょ、と。
口の中で何かを呟いている。
アンナの耳にははっきりと聞き取れなかった。
いや——聞き取れなかったというよりも、Kの声量が明らかに落ちていた。
「……申し訳ございません、会長。最後の部分が聞き取れませんでした」
アンナは僅かに首を傾けて聞き返した。
Kは——。
目線をそらした。
アンナからではない。
部屋のどこか壁の方に。
窓の方に。
とにかくアンナ以外の方向に。
「その……」
「はい」
「……様子を」
「様子?」
「カメラで撮らせろ」
***
アンナのこめかみの奥に鋭い痛みが走った。
(……はぁ)
聞こえていた。
完璧に聞こえていた。
しかし脳がそれを処理することを一瞬拒んだ。
「カメラで撮らせろ」。
つまり——。
歌詞を受け取った時のFLORIAの4人の反応を映像として記録しろ。
そしてそれを自分に送れ。
Kの口からその言葉が出た。
数ヶ月前のKからは——。
いや、FLORIAと出会う前のKからは「絶対に」出ない発想、発言、態度。
アンナはKの専属秘書になって2年が経つ。
その2年間でKは世界中の金融機関を買収し、数千億ドルのディールを成立させ、国家元首に対しても一切の妥協を見せず冷徹で非情な「資本主義の怪物」として帝国をさらに拡大させてきた。
そのKが——。
「好きな女の子たちのリアクション動画が欲しい」と言っている。
あまりのギャップに、アンナは一瞬本気でくらりと眩暈を覚えた。
***
しかし——。
アンナは聞き返さなかった。
もう一度言わせるのはあまりにも残酷だった。
今のKの視線をそらし、声を小さくし、ごにょごにょと言葉を濁したあの恥じらいの仕草。
あれを——もう一度この男にさせるのはあまりにも。
(……ひどい要求ですが)
アンナは心の中で深く息をつき——。
完璧な無表情のまま答えた。
「……かしこまりました」
「……」
「皆様の反応によっては今後の歌詞のご調整をされる可能性もございますので。映像で確認されるのは合理的なご判断かと存じます」
我ながら——ひどいフォローだと思った。
苦しい正当化。しかし他に何と言えばよかっただろう。
「会長は好きな女の子たちの喜ぶ顔が見たいのですね」と言うわけにもいかない。
Kは——。
「そうだ」
と、即答した。
その声のスピードだけが異常に速かった。
アンナが差し出した「合理的な理由」に一秒も考えずにしがみついた。
(……もう、救いようがありません)
アンナは心の中でもう何度目か分からない結論に辿り着いた。
しかし——。
ふと4人の少女たちの顔を思い浮かべた。
(FLORIAの皆様に……嫌われないといいですけど)
ソユンの純粋な笑顔。
ミジュのキラキラした目。
サラの太陽のような明るさ。
カエデの穏やかな微笑み。
(……まあ)
(あの4人なら、大丈夫でしょう)
むしろ「Kさんが私たちの反応を見たかったんだ!」と知ったら、おそらく喜んで映像に収まるだろう。
アンナは僅かに肩の力を抜いた。
***
「では、歌詞のデータをお預かりいたします」
アンナが手を差し出すと、Kはタブレットからデータを転送した。
「見るなよ」
Kが念を押した。
(……データを取り込む過程で見ないわけにはいかないのですが)
アンナはそう思いつつ——。
「わかっております」
と適当に返事をしておいた。
実際のところ歌詞のデータを印刷用のフォーマットに変換し、先方に送信する過程で内容を一切見ずに処理することは技術的に不可能だ。
しかしそれを今指摘しても面倒なことになる。
ここは黙っておいた。
***
アンナは歌詞データを受け取ると自席に戻ろうとした。
しかしその前に——。
少し立ち止まった。
執務室を出た先のフロアで若い秘書たちがきっと自分とKを見つめていることは分かっていた。
先ほど連れていかれたことで、《《何かしらの噂》》がさらに補強されているだろうことも。
(……まあ、どう思われても構いませんが)
アンナは秘書たちの視線を受け流しつつ自分のデスクに戻った。
そしてタブレットを開き、受け取ったデータのフォーマットを確認する。
***
アンナは少し悩んだ。
普段であればFLORIA関連の伝達は、自分から事務所の社長へ、あるいはKFGの担当部署を経由して行われる。
しかし今回の件は——歌詞という極めて個人的な内容だ。
社長経由では話が大きくなりすぎる。
余計な人間の目に触れさせたくない。
Kの意向を考えても可能な限り少ない人数で直接的に処理すべきだ。
「……」
アンナは少し考えてから——。
美咲に直接電話することにした。
先日のKの事務所訪問の際、アンナは美咲と連絡先を交換していた。
あの時、美咲は手が震えながらスマートフォンの画面を差し出してきた。
世界最大の金融グループの第一秘書と、日本のアイドル事務所の現場マネージャー。
普通であれば一生交わることのない二つの世界の住人が連絡先を交換する。
あの瞬間の美咲の緊張した顔をアンナは覚えている。
以来一度も連絡は取っていなかった。
「……いきなり電話をするのも失礼かもしれませんが」
アンナは壁の時計を見た。
ニューヨーク時間で午後5時過ぎ。
ということは——日本は午前7時頃。
朝の時間帯だ。
FLORIAのメンバーが事務所に来る前、美咲が先に出勤している頃だろう。
(……出てくれるでしょうか)
アンナは一瞬だけ躊躇してから電話をかけた。
しかし早めに歌詞を届けなければならない。
一秒でも長く先延ばしにするのは得策ではなかった。
***
日本、東京。
朝7時過ぎ。
FLORIAの所属事務所。
美咲はメンバーたちが寮から事務所へ来る30分ほど前にいつものように出社していた。
コーヒーを一杯。
メールの確認。
今日のスケジュールの最終チェック。
まだ人の少ないオフィスで少しだけゆっくりとした朝の時間を過ごしていた。
「美咲さん、おはようございます」
不意に声をかけられた。
顔を上げると別のチームに所属する同年代の男性社員が立っていた。
背が高く穏やかな顔立ちをした、感じの良い青年だった。
「あ、おはようございます!」
美咲は少し驚きつつも自然な笑顔を返した。
「今日も早いですね」
「まあ、うちのメンバーが早い子多いんで……」
「大変ですよねー。朝から」
「そちらも最近忙しそうじゃないですか」
他愛のない会話。
同年代の異性との柔らかな空気。
美咲はこういう瞬間が嫌いではなかった。
KだのFLORIAだの日本政府だの——規格外の世界に振り回される毎日の中で、こうした普通の瞬間はほっとする。
少しだけ——いい空気が流れかけていた。
その時——。
***
ブブブッ——。
美咲のスマートフォンがけたたましく震えた。
しかも——普通の着信音ではなかった。
緊急を知らせる設定にしていた特別な着信音。
(……え?)
美咲は自分で設定したはずのその音に一瞬驚いた。
この着信音を設定している相手は——世界に一人しかいない。
慌てて画面を見る。
表示された名前——。
「K会長秘書 - アンナさん」
美咲の顔からさっと血の気が引いた。
「えっ?え?うそ、あの、ごめんなさいっ——!」
目の前の男性と、目も合わせることもなく美咲は弾かれたように立ち上がった。
コーヒーカップを危うく倒しかけながら椅子を蹴って、足早に部屋の外へ飛び出した。
残された男性社員はぽかんと口を開けたまま美咲の後ろ姿を見送っていた。
彼にとっては——せっかくの朝の会話を唐突に切られた哀れな一幕だった。
***
廊下に出た美咲は震える手で通話ボタンを押した。
「も、もしもし……!遅くなって申し訳ありません……!」
受話器の向こうから落ち着いた涼やかな声が聞こえた。
『おはようございます、美咲さん。朝早くにお電話してしまい申し訳ございません。KFGのアンナです』
「あ、い、いえ……!全然大丈夫です……!」
声が完全に震えていた。
美咲は壁に手をついて呼吸を整えようとした。
しかし心臓の鼓動は一向に収まらない。
アンナの声は相変わらず完璧に落ち着いていた。
『美咲さん、どうか落ち着いてください。緊急の案件というわけではございません』
「は、はい……すみません……」
『ふふ、大丈夫ですよ。深呼吸してください』
その声に——不思議と少しだけ肩の力が抜けた。
アンナの声には冷たさの奥にどこか優しい響きがあった。
美咲は何度か深呼吸をしてから「お待たせしました」と改めて告げた。
***
『早速で恐縮ですがお伝えしたいことがございます』
「はい」
『K会長の作られた歌詞が、完成いたしました』
「——!」
美咲は息を呑んだ。
(……できた)
FLORIAの4人がKと5人で曲を作るというあの約束。
Kが「歌詞を書く」と言ったのがあの事務所訪問の日。
それから約2週間。
本当に——完成した。
美咲自身は正直なところ、歌詞の完成を「楽しみにしていた」わけではなかった。
彼女にとってはあくまで管理すべき案件の一つだった。
しかし——。
あの4人の顔が浮かんだ。
あの4人がこの知らせを聞いた時の、想像を絶するほどの満面の笑み。
キラキラした目。
弾けるような歓声。
そしてKを讃える止まらない言葉の洪水。
それが容易に想像できた。
少しだけ——美咲の胸に温かいものが広がった。
「……分かりました。ありがとうございます」
『つきましては歌詞のデータをお送りいたしますので、そちらで印刷の上、メンバーの皆様全員がお揃いの際に同時にお見せいただけますでしょうか』
「はい。4人全員に同時に、ですね」
『ええ。それと——』
アンナの声が一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——途切れた。
そして受話器の向こうで深く息を吐く音が聞こえた。
美咲はそれを聞いて少しだけ身構えた。
アンナがためらう。
それは美咲が知っている限り初めてのことだった。
『……もう一点お願いがございます』
「はい」
『皆様が歌詞をお読みになった時の……その場のご様子を、カメラで撮影していただけないでしょうか』
「……え?」
聞き返してしまった。
思わず反射で声に出してしまった。
アンナは——。
『……当然の反応です』
静かにそう返した。
そしてアンナは可能な限りKが、《《気持ち悪く》》ならないよう——丁寧に言葉を選びながら説明した。
『会長は皆様の反応を見た上で歌詞の最終調整が必要か否かを判断したいとのことです。直接お伺いすることが叶わない以上、映像で確認させていただきたいというご意向です』
(……ああ、なるほど)
美咲は内心その説明が「建前」であることをうすうす感じていた。
歌詞の最終調整のため。
それは表向きの理由だろう。
本当は——。
好きな女の子たちの喜ぶ顔が見たいだけ。
(……ですよね)
美咲は少し引っかかりつつも——断る選択肢はなかった。
「……承知いたしました。撮影してお送りします」
『ありがとうございます。……重ね重ねご面倒をおかけいたします』
アンナの声は最後にもう一度——小さく申し訳なさそうに聞こえた。
美咲にはその謝罪の奥に——アンナ自身もこの要請に少し心苦しさを感じていることが伝わった。
(……アンナさんも大変なんだ)
美咲は電話を切った後、しばらく廊下で立ち尽くしていた。
***
数分後。
アンナからのメールで歌詞のデータが届いた。
美咲は事務所のプリンターの前に立ちデータを開いた。
(……私は見ちゃダメって、アンナさん言ってたっけ?)
特に言われてはいないはずだ。
そもそも印刷するためには内容を確認しなければならない。
美咲は画面を見た。
シンプルなフォーマット。
その中に——。
Kの書いた詩。
美咲は——。
「……」
一瞬目を止めた。
しかしすぐに印刷ボタンを押した。
「……4人に見せるものだから」
自分が先に感想を持ってはいけない気がした。
あの4人の最初の反応を汚したくない。
そう思った。
温かいインクの匂いと共に、プリンターから4枚の紙が吐き出された。
美咲はその4枚を丁寧に揃えた。
***
印刷を終えたのとほぼ同時だった。
事務所のエントランスの方から聞き慣れた——賑やかな声が聞こえてきた。
「おはようございまーす!」
「今日も頑張ろー!」
FLORIAの4人が寮から事務所へやってきた。
美咲は4枚の紙を胸元に抱えた。
そして——。
近くにいた後輩の女性社員にそっと声をかけた。
「……ごめん、一つお願いがあるんだけど」
「はい、何ですか?」
「カメラを、用意してもらえる?」
「え?何の撮影ですか?」
美咲は少しだけ苦笑いしながら——。
「……まあ、ちょっとね」
後輩は首を傾げたが、美咲の真剣な表情を見てすぐに準備に走った。
美咲は4枚の紙をもう一度見下ろした。
(……さあ、あの4人に届けなきゃ)
Kの想いが込められた一編の詩。
それが今、美咲の手の中にある。
数分後この紙を見た4人がどんな顔をするか——。
美咲にはもう、完璧に想像がついていた。




