【リ・フローラ編】第11話
「……会長」
ニューヨークの国際空港、VIP専用ターミナル。
着陸後に機体が完全に停止すると、アンナは静かに立ち上がり前方ラウンジへと歩を進めた。
機内は依然として無音だった。
飛行時間のほとんどを、Kは一人で過ごした。
あの扉の向こうで何をしていたのか——。
もちろんアンナには分かっていた。
扉越しに静かに声をかける。
「会長、到着いたしました」
しばらくの沈黙。
そして微かな衣擦れの音。
扉が静かに開いた。
現れたKは——起きていた。
ソファに深く座り込み、タブレットの画面に向かっている。
しかしアンナの姿を認めた瞬間、Kは慌てたように画面を消した。
そして静かに立ち上がった。
その表情を、アンナは一瞬凝視した。
少し焦ったような、少しだけ不安そうな顔。
何かに迷っている、あるいは納得のいかない答えを前に途方に暮れているような顔。
(……珍しいですね)
アンナは心の中でそっと呟いた。
会長のもとで秘書を務めてもう約2年。
世界経済の揺れ動き、巨大金融機関の破綻、国家規模の外交問題。
そのどれにおいても、Kは決してこんな顔をしなかった。
どんな局面でもKの表情には絶対的な自信と余裕、そして冷徹さが揺るぎなく保たれていた。
それがKという男の代名詞でもあった。
しかし今、目の前の彼は——。
ほんの微かに、しかし確かに「迷っている」。
それも世界経済ではなく、国家外交でもなく。
たった一編の詩のために。
(そんなお顔を……)
アンナは感情を押し殺しながら、一応の確認をした。
「会長……お体の具合、優れませんか?」
その問いに、Kは苦笑のような、軽く首を振るような仕草を見せた。
「……いや」
言葉に詰まる。
「歌詞がな……」
「……はい」
「中々……」
そこで言葉が途絶えた。
アンナは予想通りの答えに、心の中で小さくため息をついた。
世界を動かす頭脳が、たった一編の詩の前で苦戦している。
これ以上深く訊ねることはしないことにした。
「……ご無理なさいませんよう」
それだけを静かに告げて、アンナは身を引いた。
深入りしないのが吉だ。
Kはそれに対して曖昧に頷いただけだった。
***
数日後の東京。
FLORIAの4人は、相変わらずそわそわとした毎日を過ごしていた。
しかし以前のような、胸に穴が空いたような不安はもうない。
Kからのメッセージが無事に届いたという連絡は、美咲から4人に伝達されていた。
「歌詞、考えてくれてますから」
美咲がそれを伝えるだけで4人は笑顔になった。
次の再会が約束されている。
しかも、それは気まぐれな再会ではない。
王が直接、自分たちのために時間を割いて作品を作っている最中なのだ。
それ以上の安心材料はなかった。
テレビでは連日、Kと日本政府に関するニュースが流されていた。
国家戦略諮問の具体的な方針が次々と確定していく様子。
新しい金融規制の枠組み、対外投資戦略、次世代経済安全保障。
Kの打ち出したビジョンが、日本の経済政策として着実に形になっていった。
会議そのものの映像は公開されていない。
しかし、その成果として発表される政策方針の一つ一つが、専門家たちによって「異例」「歴史的」「革新的」と評され続けていた。
ニュース番組では繰り返し、Kの「伝説」を紹介する特集が組まれた。
若くしてKFGを継承、数百兆円規模の資産構築、世界経済への影響力。
視聴者はその特集を飽きることなく受け入れ、視聴率は連日高い数字を記録していた。
FLORIAの寮、そして事務所のスタジオでは、そうしたニュース番組が常時流されているのが日常となっていた。
Kと出会う以前の4人なら、経済ニュースなど誰一人として興味を示さなかった。
バラエティ、K-POP関連の音楽番組、ドラマ——それが彼女たちの定番だった。
しかし今は違う。
Kの名前がテレビに映る時間帯を事前にチェック。
リビングでも控室でもスタジオの隅でも、常にKに関する話題が少女たちの視線の先にあった。
美咲はもはやこの光景を見慣れていた。
ただ他のグループのマネージャーや別部署の社員が、たまにスタジオに顔を出した時は——。
「なんで経済ニュース?」
「誰がつけたの?」
と必ず驚かれた。
美咲はそのたびに「えっと、メンバーが見たいって言うので……」と苦しい説明を繰り返していた。
そして、4人の中で誰よりも熱心だったのがソユンだった。
彼女はKが映像や話題として登場する可能性のあるニュース番組を、全て予約設定にしていた。
空き時間ができると、控室や寮のソファに座り込み、録画した番組を順番に再生する。
評論家、経済学者、元官僚がそれぞれの立場からKの功績を絶賛する。
『K会長のような存在は、世紀に一人出るかどうか』
『彼の発想は我々の常識の外にある』
『日本経済は彼の協力を得たことで新しい局面に入ったと言っていい』
ソユンはそうした言葉の一つ一つを夢見るような目で聞いていた。
彼女は経済を学びたいと思っているわけではない。
ニュースの内容の8割は理解できていなかった。
ただ、自分の大好きなKが世界中の第三者から、こんなにも褒め称えられている事実を、ただ誇らしく嬉しく感じていた。
画面の中のKが、まるで遠く離れていても自分たちと繋がっている——そう信じられる時間。
それがソユンにとっての最大の幸福だった。
カエデとサラはソファの隣で、そんなソユンを呆れたように眺めていた。
「ソユンさ、経済のこと全然分かってないのに、よく飽きずに見るよね」
「だって、Kさんが褒められてるのを見るの、楽しいんだもん」
「……それは否定しないけど」
カエデも小さく笑う。
「気持ちはわかるよ、わかるけどね」
ミジュはソユンの横から一緒に画面を覗き込み、Kの写真が映るたびに「わっ!かっこいい!」と呟いていた。
4人は、毎日1回は美咲に「Kさんから連絡は?」と確認していた。
しかし、その声には以前のような切実な不安はもう混じっていない。
王は自分たちのために時間を割いてくれている。
疑う理由など一つもなかった。
***
2週間後のある日。
その日、FLORIAの4人は珍しく全員がバラバラのスケジュールだった。
ソユンとミジュは、ファッション雑誌のモデル撮影のため表参道のスタジオへ。
カエデは、他事務所の日本人アイドルとのコラボレーション企画の撮影で都内の別ロケ地へ。
そして、サラは一人で事務所の練習スタジオにいた。
「今日は一人でダンスと歌、みっちりやっておいて」
チーフマネージャーからそう指示されていた。
午前中からミラー張りのスタジオで、サラは黙々と練習を続けていた。
FLORIAの4人は、基本的に人気に大きな差はない。
箱推しが大半で、個々の人気も比較的均等だった。
強いて言うなら男性ファンの間では、ソユンのビジュアル人気がほんの少しだけ高い。
しかし全体としては、どのメンバーにもそれぞれファンが付いており、需要もあった。
だから誰かが「一人残される日」というのは珍しい。
しかし、稀にスケジュールの組み合わせでこういう日もある。
「……うん、気にしない気にしない」
サラは鏡に向かって小さく呟いた。
引け目を感じているわけではない。
それでも少しだけ寂しい気持ちになるのも事実だった。
3時間ほど、一人で練習を続けた。
ダンスのステップを繰り返し確認し、歌の特定のフレーズの発声を丁寧に調整する。
汗が床に落ちた。
「……3人とも、帰ってくるの夜だっけ」
スタジオの時計を見上げる。まだ午後の早い時間だった。
「美咲さんも、ソユンたちについてるしな……」
ため息のような独り言。
ペットボトルの水を口に含む。
その時だった——。
バタン、と。
スタジオのドアが突然、ノックもなしに開け放たれた。
サラは驚いて振り返った。
入ってきたのは、見慣れない若い女性社員だった。
確か別のグループを担当しているマネージャーの一人。
話したことはほとんどないその女性が、血相を変えてスタジオへ飛び込んできた。
(……何、何があったの?)
サラの脳裏に瞬時に様々な可能性がよぎった。
他のメンバーに何かあったのか、それとも事務所に何か重大な問題が——。
不安が一瞬で胸を支配したが、女性社員は息を切らせたまま言った。
「あ、あの、サラさん、突然すみません!会社の代表番号の方に、KFGの会長様から、サラさんにお電話がありまして……!」
サラの呼吸が止まった。
(……え?)
Kさんから、電話。
それも自分宛に。
心臓がドッ、と音を立てて加速し始めた。
「で、電話……!?本当に?」
「は、はい……今保留でお待ちいただいています!すぐに取り次ぎたいので、こちらの内線に繋ぎますね!」
(嘘、嘘、嘘——!)
サラの頭は猛烈な速度で回転した。
何かあったのか。
悪い知らせではないだろう。
Kが会社に直接悪い知らせの電話をしてくることはない気がする。
そうだ、きっと歌詞のことだ。
でも、なぜ自分宛なのだろう。
作曲を担当するからだろうか。
(……他の3人はKさんと電話したことあるのかな?)
——自分が初めて?
サラの胸がまた別の種類の鼓動で高鳴った。
(とにかく、待たせちゃダメだ——!)
練習室の壁に設置された内線電話に慌てて駆け寄る。
スタジオのドアに立つ女性社員が「繋ぎますね」と言って受話器を準備した。
内線が切り替わる音。受話器を耳に当てる。
サラはごくりと唾を飲み込んだ。
「は、はい、サラです……!」
声が完全にうわずっていた。
そして、静かな低い声が受話器の向こうから聞こえた。
『サラ。……俺だ』
全身に痺れのような甘い感覚が走った。
「K、Kさん……!」
『今、大丈夫か』
「はい!はい!大丈夫です、全然大丈夫です……!」
自分でもわかるほど、声がうわずっている。
『ふ……今、一人か?』
「は、はい、一人です……練習してて……」
『そうか、ちょうどよかった』
Kの声は穏やかだった。
あの日事務所で聞いた声と同じ。
いや、電話越しだからだろうか、より低く親密に聞こえる。
耳のすぐ近くでKが話しかけてくれているような距離感。
『元気にしてたか』
「はい、元気です……えっと……」
サラの頭は真っ白になりつつあった。
何を話すべきか分からないが、Kはゆっくりと言葉を続けてくれた。
『……歌詞のことだ』
「あ、はい……!」
『作り終えてから、みんなにまとめて伝えようと思っていたんだが……どうしても迷う箇所があってな』
「迷う……箇所……」
『お前に相談したいんだ』
サラの心臓がまた大きく跳ねた。
「わ、私にですか……!?」
『作曲してくれるだろ?』
「……はい!」
『だから、否が応でもお前が一番この歌詞を受け止めることになる……。
相談相手として、お前に話すのが一番自然だと思ってな』
Kの声は穏やかで理にかなっていた。
作曲者に先に詩を見せて相談する、ごく自然な創作プロセス。
でもサラにはその「ごく自然」が、あまりにも特別に感じられた。
「ありがとうございます……!私頑張ります!」
『ああ。——今から一部を伝える。サビの候補になっている箇所だ』
「はい、お願いします!」
サラは壁際の譜面台にメモ帳を広げると、震える手でペンを握った。
Kはゆっくりとその詩の断片を伝え始めた。
シンプルで、しかし深く美しい言葉の連なり。
たった数行の中に3人それぞれの「言葉」も確かに織り込まれてた。
カエデの「秘密」、ソユンの「永遠」、ミジュの「魔法」。
そしてその中に、Kの静かな想いが重ねられている。
サラは聞きながら鳥肌が立った。
「……Kさん、すごい、すごいです!」
「本当にすごい……こんな詩、書けちゃうんですか」
「みんなの言葉が、ちゃんと一つになってます!」
『そうか』
Kは少しだけ嬉しそうに小さく笑った。
『……ただ、一つ迷っている箇所がある』
「はい」
『このサビの後半を英語で締めるか、日本語で締めるか。——お前はどっちがいいと思う?』
サラは少し考えた。
「……」
彼女は小さく、しかし思い切って言葉にした。
「私、日本語のほうがいいと思います」
『ほう』
「英語のほうがかっこいいのはかっこいいんですけど……この歌詞、すごく近くて心に染み込む感じなので。
日本語で終わった方が、聴いてくれる人の心にぎゅっと入る気がします」
『……そうか』
Kは一拍沈黙した。
『確かに、お前の言う通りだな』
「あ、いえ、あの、あくまで私の感覚なので——」
『いや、そうしよう、サラ』
その一言でサラの心臓がまた大きく跳ねた。
『ありがとう』
「……あ、いえ、そんな……!」
『サラに相談して良かった』
Kの声は柔らかかった。
『これで、もうすぐ完成させられる。完成したら、またみんなに連絡しよう』
「はい!楽しみにしてます!」
『悪いが——』
そこでKは少しだけ声のトーンを落とした。
『この電話のことは、俺とお前だけの……内緒にしてくれ』
サラの頬が、電話越しに一気に紅潮した。
「はい……!な、内緒にします……!」
『助かる』
Kはそれだけ言うと、少しだけ笑みを含んだ声で言った。
『じゃあ、またな』
「はい、お電話、ありがとうございました……!」
通話が切れた。
受話器を置いたサラは、しばらくその場から動けなかった。
たった10分ほどの電話だったが、サラにとってはあまりにも長く、そして短く感じる10分だった。
全身がまだ震えている。
耳元にはKの低い声の余韻が残っている。
壁に手をついてゆっくりと息を吐いた。
ドアの外で待っていた女性社員が「あの、大丈夫ですか?」と声をかけてきたが、サラはぼんやりと「あ、はい……ありがとうございました……」と返すだけだった。
女性社員が退室した後、スタジオに一人残された。
ミラーに映る自分の姿。
頬が真っ赤だった。
心臓がまだドキドキしている。
とてつもなく甘いものを身体の中に流し込まれたような、そんな感覚。
(……やば)
(やば、これ、やばい)
サラは膝を床についた。
もう練習は無理だった。
残り数時間は何も手につきそうにない。
今日、3人が夜に帰ってくるスケジュールで本当に良かったと思った。
もし今3人が帰ってきたら、絶対に顔に出てしまう。
Kと電話した。Kに相談された。Kと「内緒」を共有した。
その事実を、自分の中でだけ噛み締める時間が必要だった。
サラはスタジオの床に座り込んだまま、ぼんやりと天井を見上げた。
胸の奥からじわじわと温かいものが溢れてくる。
これまで感じたことのない種類の幸福感。
Kが自分を頼ってくれた。
Kが自分の意見を「流石だな」と評価してくれた。
Kと、他の誰も知らない二人だけの特別なつながりができた。
それはあまりに甘く、サラは胸の奥でちくりと痛みを感じた。
(……これ、まずい)
ソユンがどれほどKのことを好きか。
ミジュがどれほどKのことを好きか。
カエデも…‥‥きっと冷静な顔の下でKに惹かれている。
サラは全部知っている。
4人で毎日一緒に暮らし、練習して、仕事をして。
お互いの心は家族のように分かり合っていた。
サラは手のひらでゆっくりと自分の頬を撫でた。
まだ熱い。Kの低い声を思い出す。
『流石だな、サラ』
『サラに相談して良かった』
たった一言なのに、この胸の中をこんなにもかき乱していく。
「……ああ、もう」
小さく声に出してみる。
「どうしよう」
胸の中に二つの感情が渦巻いていた。
一つは生まれて初めて感じる種類の幸福感。
もう一つは他の3人に対する、あまりにも隠しきれない優越感。
その言葉を自分の中で認めて、サラは少しだけ目を伏せた。
嫌味を含んだものではない。
「あの子たちより私の方が特別」と言いたいわけでは決してない。
ただ、今この瞬間だけは。
自分がKの「内緒の相談相手」であるという事実を。
他の3人よりも少しだけKに近い場所にいるという事実を、否定できなかった。
そしてそれが、隠せないほどに嬉しかった。
(……私、こんな風に思うなんて)
サラはこれまで、4人で築き上げてきた絆を誰よりも大切に思っていた。
4人で一つという感覚は、グループの中で最も強く彼女が持っていたものだった。
なのに今、彼女の心の中ではその絆にほんの小さな、しかし確かな「ひび」が入っていた。
Kという存在が持ち込んでしまった新しい感情。
それはあまりにも甘く、そしてあまりにも——毒だった。
サラはゆっくりと立ち上がった。
鏡にもう一度自分を映す。頬はまだ赤い。
でも目元にはもう、諦めのような小さな覚悟が宿っていた。
(……ソユンもミジュも、Kさんのこと本気で好きなの、知ってる)
(カエデさんも、たぶんそう)
(みんなKさんのことが好きで、ちょっとずつ特別な関係を夢見てる)
(そして私も、もう——そのうちの一人だ)
サラは深く息をついた。
(……静かに応援してあげることは、もうできないな)
自分の心を認めるしかなかった。
Kへの気持ちが、もう手遅れなほどに自分の中で育ってしまっている。
友情を捨てるつもりはないが、Kを巡って、もしいつかこの4人が同じ気持ちを抱き続けたとしたら。
誰一人、静かに身を引ける子はいない気がした。
サラを含めて、誰一人。
スタジオの窓から夕方の光がゆっくりと差し込んできていた。
ミラーに映るサラは一人佇んでいた。
まだKの声の余韻が耳に残り、胸の鼓動がおさまらない。
彼女は深く、深く息を吐いた。
そしてもう一度だけ自分の頬を手のひらで撫でると、小さく微笑んだ。
(……Kさん)
心の中でささやく。
誰にも言わない。
ソユンにも、カエデにも、ミジュにも。
この10分間は自分だけの宝物。
今日のこの甘い小さな毒は、これからサラの中で確実に育っていく。
それがどれほどの変化を4人の関係にもたらすのか。
まだ誰も、サラ自身でさえ知らない。
ただ窓の外の夕暮れだけが、静かにその始まりを見守っていた。




