【リ・フローラ編】第9話
***
午後3時、東京、霞が関。
中央合同庁舎の一室で、『下田 悟』は、今日この瞬間のために積み上げた自分の人生の全重量を、机の上に並べていた。
分厚い資料。手書きのメモ。過去の国際金融政策の比較表。各国ソブリン・ウェルス・ファンドの運用実績。KFGグループが関与した買収案件の詳細リスト——。
その机の主は、金融庁・総合政策局に所属する、34歳の若きエリート。
国家公務員総合職、通称キャリア組。
その中でも特に評価の高い「期待の星」として、局内で静かに名が通っていた。
東京大学経済学部を卒業後、金融庁へ直接入庁。
在職中にハーバード・ケネディスクールへ留学し、帰国後は国際金融関連の複数の政策立案に関与。
学生時代は競泳で全国大会にも出場、端正な顔立ち。
一言で言えば——我ながら、相当な勝ち組だ、と下田は自負していた。
しかし。
それでも、彼はせいぜい、小さな経済専門誌の「若手官僚特集」で、顔写真付きのコラムとして取り上げられるのが関の山だった。
「若き天才」というネタ記事は、世の中に溢れている。
そしてそのたびに、取り上げられる代表格は——いつも同じ男だった。
K。
世界最大の金融グループ、KFG会長。
奇しくも、下田と、同い年だった。
(……ついに今日)
下田は、資料の端をぴんと揃えながら、唇を強く結んだ。
Kが来訪し行われるセッションは、複数設定されていた。
その中の、一つ。
「国の対外投資における新規枠組みに関する諮問」——。
そのセッションの、財務省と合同の若手実務者の代表として、下田は選ばれていた。
数十の上司、数百の同期、数千の後輩——その全てを飛び越えて、34歳の彼に回ってきた、一世一代の大役。
(対等に……話す)
(絶対に負けない)
下田の胸の中には、そういう覚悟があった。
***
Kの来日が正式に発表されて以降、この金融庁内も、一種の熱病に浮かされていた。
特に、下田が最も苛立ちを覚えていたのは、庁内の若い女性職員たちの反応だった。
「Kさん、ついに日本に来るんだって!」
「モニター越しでいいから見たい……」
「ネット記事の写真、毎回かっこよすぎ」
「遠目でも、視界に入っただけでラッキーだよね」
普段、庁内の若い女性職員たちから、そこそこの人気を得ていた下田にとって——。
その光景は、面白くなかった。
自分という存在が、同じフロアの中で、Kの影にさえ及ばない。
いや、比較の対象にすら、なっていない。
20代のかわいい後輩職員が、Kの写真を見ながらキャッキャと騒いでいる姿を目にするたびに、下田の胸の奥には、じわりと嫉妬が湧いた。
(……見てろ)
下田は、心の中で呟いた。
(俺は、同い年で、同じテーブルにつく。同格だ)
その想いが、下田のこの数週間の原動力だった。
プライベートを、ほぼ全て投げ打った。
寝る時間を削り、週末を返上し、Kに関する論文、インタビュー、過去の発言、投資戦略の癖、反応パターンまで——徹底的に頭に叩き込んだ。
庁内の会議室では、シミュレーションを数え切れないほど繰り返した。
同期が「下田、ちょっと取り憑かれすぎじゃないか?」と半ば呆れた顔で見るほどに。
今日は、彼の人生が、変わる日だった。
***
午後3時30分。
庁内のざわつきが、一気に強くなった。
「来たらしいぞ」
「今、玄関に車が着いた」
「モニター、モニター、映る?」
フロアの大型モニターに、メインホールの様子が中継された。
若い職員たちが、仕事の手を止めて、モニターの前に集まる。
下田も、自分の席から、そのモニターへ視線を送った。
映像には、豪奢な絨毯が敷かれたメインホールのエントランスが映し出されていた。
そこに、静かに——車が到着する。
黒光りする、巨大なリムジン。
運転手がドアを開け、先に降り立ったのは、若く、凛とした秘書。
そして、その後ろから——。
Kが、姿を現した。
***
下田の呼吸が、その瞬間、止まった。
映像の中に映る、Kの姿。
写真で、動画で、散々見てきたはずのKの姿——。
しかし、実際にこうして「会場に来ている瞬間の映像」を目にすると、まるで質量が違った。
冷たいほどに整った顔立ち。寸分の隙もない最高級のスーツ。
周囲の空間そのものを歪ませるような圧倒的な存在感。
そして——。
メインホールには、既に、出迎えの列が整っていた。
先頭に立つのは、経済産業大臣。
その隣に、財務大臣。
さらにその後ろには、内閣官房副長官、金融担当大臣、そして何人かの与党重鎮。
国家の意思決定の、中枢の中枢を担う老人たち。
普段、国会の答弁で、官僚たちを上から睨みつけ、一言で人事を動かすことのできる、絶対的な実力者たち。
その、全員が。
腰を、曲げていた。
頭を下げて、両手を前に組み、Kを出迎えていた。
「……」
下田は、モニターから、目を離せなかった。
Kは、そのまままっすぐ歩いてきた。
頭を、下げなかった。
会釈すら、しなかった。
軽く頷く程度の仕草で、大臣たちの挨拶を受け流し、そのままホール奥へと進んでいく。
国家の重鎮たちは、Kがその脇を通り過ぎるまで、腰を曲げたまま、動かなかった。
***
フロアの全員が、静まり返っていた。
先ほどまで、「モニターで見るだけでもラッキー」と騒いでいた若い女性職員たちも——。
言葉を、失っていた。
これは、自分たちが知っていたKではなかった。
ネット記事の中の、整った顔だけの「憧れの対象」ではなかった。
国家の意思決定者たちを、頭を下げさせる男。
表向きに紹介される、巨大企業のトップというだけではない、明らかに裏の力を感じさせる光景だった。
下田は、静かに、自分の机の端を握りしめた。
その手が、微細に、震えていた。
胸の奥で、今まで誇っていた言葉が、ガラガラと崩れていく音がした。
(対等に、話す——?)
数週間、繰り返してきた自分のシミュレーション。
資料の分厚さ。準備した論点。想定した切り返し。
その全てが、今、たった一瞬の映像の前で、空虚な音を立てていた。
自分は、何を思い上がっていたのだろう。
同じ年齢。同じ日本人。だから、何だ。
下田が生きている世界と、Kが生きている世界は——。
次元が、違った。
***
セッションが、始まる。
モニターには、Kが着席する様子が映し出された。
向かいには、金融庁の幹部と、財務省の高官。
最初のセッションは、国内の金融関連規制の枠組み再構築についてだった。
金融庁側から、事前に時間をかけて準備された「規制再編の方針案」が提出される。
それは、庁内で数ヶ月をかけて練り上げ、何度も会議を重ね、国際整合性まで加味した、かなり力の入った案だった。
Kは、その資料を受け取ると、ほとんど目を落とさずにページをパラパラとめくった。
そして、静かに、言い始めた。
「……この案の、第2章から第4章は、根本的に組み替える必要があるな……」
「えっ——」
幹部の一人が、思わず声を漏らした。
「この規制設計は、2010年代のバーゼル枠組みを前提にしているが……現在の分散型金融、ステーブルコイン経済圏、そして新興国中央銀行の動向を組み込んだ場合——第3章で提示されている自己資本比率の計算方法は、5年以内に実質的に無意味になる」
その言葉に、金融庁の幹部たちが、息を呑んだ。
「代替案として、以下の3本柱で再構築すべきだ」
Kが、淡々と、語り始めた。
一つ一つの論点に、圧倒的な理論と実務の両輪が乗っていた。
過去のIMF論文、BIS報告書、過去10年の各国中央銀行の内部文書の傾向、主要なウォール街のアルゴリズムトレードの変遷——。
そのどれもが、Kの口から、事実として、滑らかに引き出されてくる。
しかし。
下田が、何よりも衝撃を受けたのは——。
Kの手元に、何も、なかった、ということだった。
資料も、PCも、タブレットも。
ペン一本すら、握っていない。
周囲に控える、若く有能そうな女性秘書たちは、手元のタブレットで何かを記録しているが、その誰かが手元のメモをKに差し出す、という場面は、一度も、一度もなかった。
Kは、何も、確認しなかった。
代弁させることも、しなかった。
全てが、一人の男の頭の中から、引き出されていた。
***
会議は、ほぼKの独壇場で進んだ。
金融庁が数ヶ月かけて練り上げた案は——8割方、Kの意見で、書き換えられた。
それも、「反対」という形ではない。
「ここは、こうする方が合理的だ」という、ただ一つの最適解の提示として。
そして、その度に、庁の幹部たちは、ただ黙って、メモを取るしかなかった。
反論の余地が、ない。
Kの提示する論点の一つ一つが、あまりにも、精緻で、包括的で、そして——先を見据えていた。
普段なら、国家予算に関わる議論で、重箱の隅をつつくように、些細な論点まで詰め寄ってくる上層部の老人たちが。
今日は、ただ、うなずくだけだった。
「K会長のご指摘を参考にさせていただきます」
「ぜひ、その方針で」
「追加のご指摘がございましたら、後ほど文書でいただけますと」
——誰一人、異を唱えなかった。
異を唱える、という発想自体が、この場には存在しなかった。
500兆円の資産を、一代、いやわずか十数年で生み出した男。
世界の金融の流れを、その指先で書き換えてきた男。
そんな男の提示する方針に、反論することは、ただの時間の無駄だった。
下田は、モニターの前で、動けなかった。
自分が、これから入るセッションの準備資料が、机の上にある。
しかし、その資料を、目の前の現実の隣に置いた時——。
紙の束は、あまりにも、あまりにも頼りなかった。
***
そして、下田の担当するセッションの時間が来た。
彼は、震える足で、会議室へと向かった。
Kと、対面する。
想像していたよりも、近い距離だった。
Kは、軽く会釈を返した。
しかしその会釈には、対等な相手への敬意は、なかった。
ただ、「次の議題に移りましょう」という、事務的な合図のような、それだった。
下田は、小さく挨拶の言葉を述べた。
自分の声が、どこか遠くから聞こえた。
準備してきた原稿を、棒読みのように、読み上げ始めた。
声が、少し、震えた。
Kは、下田の目を見て、そして興味がなさそうに資料に目を落とした。
ただ、それだけだった。
下田の資料説明は、ひどく長く感じられた。
実際には、15分程度の予定だったはずなのに、1時間以上に感じられた。
やがて、説明が終わった。
Kが、口を開いた。
下田は、その瞬間の、Kの言葉を——。
後から、ほとんど、思い出せなかった。
***
数日後。
下田は、いつもの出勤時刻に、金融庁のフロアへ足を踏み入れた。
椅子に深く座り、PCの電源を入れる。
肩身が、狭かった。
自分のセッションで、何を話したのか。
何を問われ、何を答えたのか。
ほとんど、記憶がなかった。
覚えているのは、小声で挨拶したこと。
準備した資料を、棒読みのように読み上げたこと。
そして——Kの、静かな視線。
ただ、それだけだった。
しかし、どうやら、Kの意見によって、対外投資の方針は、おおむね確定したらしい。
普段なら、予算の細目一つまで、しつこく詰めてくる上層部の老人たちは——。
Kの意見を、完全に、無条件で、鵜呑みにしていた。
それが、この世界のルールだった。
***
周りの同僚たちは、下田について、特に噂することもなかった。
揶揄することも、憐れむことも、同情することすら、なかった。
ただ、普段通りの業務を、粛々と続けていた。
それが下田には一番応えた。
最初から誰一人として、下田が《《あの》》Kと、対等に議論できるなどとは、思っていなかったのだ。
ただ、世界の王が日本に来た時に、こちら側の席にたまたま座ることになった若い官僚の一人。
それが、下田の役回りだった。
誰であっても、結果は同じだった。
彼の代わりに誰が座っていたとしても、Kの意見で全てが決まっていた。
だから責めることも褒めることもない。
それが、この数日間で、下田が心の底から思い知らされた、厳然たる事実だった。
下田は、PCの画面を見つめながら——。
ただ静かに息を吐いた。
(……対等……か)
もうそんなこと、考える気にもなれなかった。
窓の外では、東京のごく普通の空が広がっていた。
この瞬間にも、あの男のプライベートジェットは次の国へと飛び立っているのかもしれない。
下田は、キーボードに手を置いて、自分の業務に戻った。
彼のこれまでの日常の中へ。
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