【リ・フローラ編】第8話
「じゃあ、俺はそろそろ行かないといけない」
Kが静かにそう言うと、4人が名残惜しそうに立ち上がった。
「お見送り、します!」
ソユンが、真っ先に声を上げる。
「車まで、一緒に行かせてください!」
「もちろんだ」
Kは、そう言って、ふっと笑う。
「行こうか」
4人は、Kを挟むような形で、部屋を出た。
アンナと美咲が、その後に続く。
廊下に出ると、部屋の外で待機していた事務所の幹部たちが、一斉に頭を下げた。
社長、会長、役員、本部長クラス——全員が、最敬礼の姿勢でKを見送ろうと控えていた。
しかし、Kは。
彼らの存在を、視界にすら入れなかった。
無視というよりも、ただ、興味の対象外として、素通りしていく。
歩みを止めることも、会釈を返すことも、視線を向けることすらなく、Kはまっすぐエントランスへ向かった。
幹部たちは、深く頭を下げたまま、その後ろ姿を見送った。
アンナだけが、通り過ぎ際に、社長たちに対して、軽く目で会釈を返した。
それだけだった。
しかし、それだけで、幹部たちは、今日の訪問が「KFG側として満足いくものであった」という事実を、明確に受け取った。
アンナの会釈は、王の満足を代弁する、唯一の公式サインだった。
***
エントランスの外。
車寄せに、先ほどの巨大なリムジンが、静かに待機していた。
Kが降り立った時と、寸分違わぬ場所に。
運転手がドアを開ける。
Kは、歩を緩めて、4人に向き直った。
「……それじゃあな」
「はい」
「次、会えるのを楽しみにしてる」
4人は、頷きながら、同時に少しだけ、目を潤ませた。
今日、確かに、会えた。
確かに、話せた。
しかし、それでも、この瞬間は、あまりにも早く終わってしまう。
「行ってらっしゃい、Kさん」
ソユンが、小さく、しかし心を込めて告げた。
「日本政府との会議、頑張ってください」
「ああ」
Kは、4人の顔を、最後に、もう一度ずつ見渡した。
そして、リムジンに乗り込んだ。
アンナも、その後に続く。
***
重いドアが閉まった瞬間——。
「「「「Kさーーーーん!!」」」」
外で、FLORIAの4人が、手を振り始めた。
ガラス越しに見える彼女たちの姿は、もはや先ほどまでの「少しだけ大人びたアイドル」ではなかった。
推しに別れを告げるファンのように、手を大きく大きく振り、ジャンプし、笑顔を向け、名残を惜しんでいた。
惜しみない愛の表現。
ガラス越しの、一切の計算のない、ただまっすぐな愛情の発露。
Kは、車内から、その光景を見ていた。
そして——ほんの少しだけ、口の端を、引き上げた。
満足げに、そして、愛おしげに。
***
リムジンの車内は、広かった。
中央に設けられたコの字型のソファには、Kの他に、アンナ、そしてアンナの指揮下にある秘書陣が数名、すでに着席していた。
全員が若く、有能な女性たち。
KFG本社の秘書室で厳選された、アンナ直下のエリートチームだった。
その全員が、手元にタブレットを抱え、次の会合——日本政府との国家戦略諮問会議——に関する最終資料を、画面上に広げていた。
秘書の一人が、資料を手に、Kに向かって口を開こうとした。
「会長、最終確認事項が——」
しかし、Kは。
座ると同時に、静かに、目を閉じた。
「……」
背もたれに深く身を預け、呼吸を整えるように、瞼を下ろす。
秘書たちが、一瞬、動きを止めた。
誰もが、次の会合まで残りわずかな時間で、最終確認を詰めるつもりで車に乗り込んでいた。
しかし、Kは、それを求めていない。
明らかに、求めていない。
秘書たちの視線が、一斉に、アンナへと集まった。
アンナは——。
ふっと、目を閉じて、小さく、首を横に振った。
その、たった一つの仕草で、全てを伝えた。
「(この人は、打ち合わせをする気がありません)」
秘書たちは、完璧に理解した。
タブレットを、静かに、膝の上に伏せた。
***
アンナは、静かに、自身の手元でタブレットを開いた。
秘書たちが準備した資料を、代わりに自分で確認しておく。
万が一、Kが道中で「あの件、どうなっていた?」と問いかけた場合に備えて。
しかし——。
アンナは、知っていた。
おそらく、今日も、Kがこの資料を必要とする瞬間は、訪れない。
準備などしなくても、この男は、国家戦略の論点に対して、その場で最適解を返す。
世界経済を何度も動かしてきた圧倒的な実績が、その実力の証明だった。
彼が回答に困っている姿を、アンナは、今まで一度も見たことがない。
それは、他の誰でもない、この男だけが持つ、圧倒的な「純度の高い知性」だった。
(……それにしても、今は)
アンナは、目を閉じたまま微動だにしないKの横顔を、一瞥した。
(……歌詞のこと、考えていらっしゃるのですね)
明らかだった。
あの静かな瞼の奥で、今、この男が練り上げているのは、日本政府との応答シミュレーションではない。
FLORIAのために書く、「歌詞」だ。
いや——正確には、歌詞そのものでさえ、本題ではないかもしれない。
その歌詞が完成した時、4人の少女たちから浴びせられる、心からの称賛のシャワー。
その歌詞を、彼女たちが自分の声で歌い上げる瞬間の、特別感。
そして、「この曲は、王の手で書かれた」という、他の誰にも渡さない、独占的な事実。
Kが、本当に求めているのは——。
歌詞そのものよりも、その先にある、FLORIAとの絆の証明だった。
(……本当に、救いようがありません、会長)
アンナは、音もなく、深いため息をついた。
そして、静かに、秘書たちに目配せした。
休んでいていいです、と。
秘書たちも、小さく頷き、それぞれ自分の端末で別の業務に移った。
***
リムジンは、静寂に包まれたまま、首都高速道路を滑るように進んでいく。
窓の外を流れる、東京の街並み。
霞が関の中央省庁地区へと、車は粛々と向かっていく。
その車内で、世界の王は、目を閉じたまま、日本の若い少女たちのために、一編の歌詞を紡ぎ始めていた。
国家の未来を論じに行く車列の中で。
***
一方、Kを見送ったFLORIAの事務所前。
「「「「Kさーん!また来てくださいねー!」」」」
リムジンの姿が完全に見えなくなっても、4人は、外で手を振り続けていた。
「ちょ、ちょっと!そろそろ中に入りましょう!」
美咲が、慌てて4人を諭す。
「人に見られたら大変ですよ!」
「だってー!」
「もう少しだけ!」
「キャーキャー」
4人が、興奮冷めやらぬまま、外で騒ぎ続ける。
美咲は、一人一人の肩を押して、ほとんど無理やり、事務所の中へと押し込んだ。
「中に入ってから騒いでください!!」
「はーい」
「そんなに怒らなくてもー」
4人は不満そうに口を尖らせながらも、渋々エントランスの中へと戻っていった。
***
FLORIAの休憩スペース。
扉を閉めた瞬間——。
「「「「きゃああああ!!」」」」
堰を切ったように、4人が再び爆発した。
「会えた!会えた!」
「撫でてもらった!」
「やっぱりKさんかっこよすぎ!」
「で、でも、ほんとにすごかったのは……」
カエデが、少し冷静さを取り戻した声で言った。
「これから、5人で曲を作る、ってこと……だよね?」
「「「……」」」
3人の声が、ぴたりと止まった。
そう。
そうだった。
今日もらったのは、物ではない。
「未来」だった。
「……書く。絶対書く」
ミジュが、ノートを取り出した。
「今すぐ、書く」
「私も、絶対いい歌詞になる言葉を考える」
ソユンも、ペンを握る。
「Kさんに恥ずかしくないものを、提出しましょう」
カエデも、ノートを開いた。
そして——。
「……みんな」
サラが、ぽつりと呟いた。
ソファに深く座り込んだまま、胸に手を当てている。
「……私、大丈夫かな」
「サラ?」
ソユンが、心配そうに振り返る。
サラは、少しだけ、照れ笑いを浮かべた。
「だって、Kさんが……Kさんが作った歌詞に、私が曲をつけるんだよ?」
「うん」
「怖い。怖いんだけど……」
サラは、胸の上に置いた手を、きゅっと握りしめた。
「……嬉しすぎて、ドキドキが止まらない」
彼女の頬は、少しだけ紅潮していた。
「Kさんが、私の曲を、聴いてくれる」
「Kさんが書いた言葉に、私が、メロディーをつける」
「……それって」
声が、少しだけ震えた。
「……すごいことだよね」
ソユンが、そっとサラの隣に座り、肩を抱いた。
「うん。すごいこと」
「絶対、最高の曲にしようね」
カエデが、優しく微笑む。
「サラ、頑張って!私たちも全力でバックアップする!」
ミジュも、力強く頷いた。
サラは、メンバーたちに囲まれながら、胸の高鳴りを、心地よく感じていた。
初めての、種類の、ドキドキ。
これが、何なのか。
サラには、まだ、正確には分からなかった。
ただ——これからしばらく、この鼓動と向き合うことになる、
という予感だけが、確かにあった。
***
一方、部屋の外。
ラウンジから少し離れた廊下。
美咲は一人で歩きながら、どっと押し寄せてきた疲労に、肩を落としていた。
今日は、本当に、長い一日だった。
朝の過剰なメイク準備から、Kの来訪、ミジュの抱擁、世界各国のポスター写真、作詞・作曲の約束、そして王の「撫で」——。
どれ一つとってみても、アイドル業界の常識では、あり得ないスケールの出来事だった。
そんな美咲の歩みを、事務所のスタッフが呼び止めた。
「美咲さん、チーフが呼んでます。役員室の方で」
「……はい」
予感は、あった。
美咲は、覚悟を決めて、役員室へと向かった。
***
役員室。
広い机の周りには、先ほどまでエントランスでKを出迎えていた幹部たち——会長、社長、副社長、本部長クラスの面々——が、全員、揃っていた。
そして、チーフマネージャーが、沈痛な面持ちで、手を組んでいた。
「……お疲れ様、美咲」
チーフの声は、労いというよりも、「これから始まる尋問への前置き」に近かった。
全員の視線が、美咲一人に集中する。
社長が、静かに口を開いた。
「美咲くん」
「はい」
「今日、あの部屋で……何があったか。話してもらえるかな」
その言葉の後ろに、言外の意味が、ずっしりと乗っていた。
何があったか——。
幹部たちの顔色を見れば、彼らが、どんな「最悪のパターン」を想像しているかは、言うまでもなかった。
エントランスでのミジュの抱擁。
その後、密室となった部屋での、さらなる接触。
もしも、もしも、そこで——。
(……ああ、もう)
美咲は、頭の中で、盛大に顔を抱えた。
(キスとか、それ以上の行為とか、想像してるでしょ、この人たち!)
もちろん、そんなことは、なかった。
Kは、あくまで紳士的に、しかし特別な距離感で、FLORIAの4人と接しただけだ。
「もし、言いにくい内容であれば」
チーフが、静かに言葉を挟む。
「私だけに、話してくれても構わないから」
その一言で、美咲は、チーフの想像も、他の幹部たちと同じ方向に向いていることを察した。
(……違いますよ、違いますから)
軽く引きながらも、美咲は、頭の中を整理した。
何を、話すべきか。
何を、話すべきではないか。
***
歌詞の件。
これは、隠せない。
もし、万が一、Kが書いた歌詞が世に出なかったとしても、その歌詞を彼女たち4人が、練習室で、自宅で、レコーディングスタジオで、歌わないはずがない。
むしろ、他のどんな曲よりも、一番歌うだろう。
遅かれ早かれ、事務所側にバレる。
今、美咲が黙っていることで、後から「なぜ報告しなかった」と叱責される方が厄介だ。
ポスターの件。
これも、話しておくべきだ。
Kという存在が、どれほどFLORIAを優遇しているかを、事務所側に理解してもらう材料になる。
そして——。
「撫でた」件。
これは、黙っておこう。
絶対に。
余計な情報だ。
事務所の幹部たちが、余計な想像を膨らませるだけだ。
あの「撫で」は、部屋の中だけの、閉じられた光景として、美咲の胸の中にしまっておけばいい。
ミジュの抱擁についても、既にエントランスで幹部たちが目撃しているが、それ以上の進展は「無かった」という事実を、はっきり伝えれば済む。
***
美咲は、深く息を吸ってから、落ち着いた声で、口を開いた。
「……ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「何があったんだ」
社長が、低い声で促す。
「……結論から申し上げますと、懸念されているような、ことは、一切ございませんでした」
幹部たちの間に、明らかな緊張の緩みが走った。
「会長は、終始、紳士的でいらっしゃいました」
美咲は、一呼吸置いて、続けた。
「お話の主な内容は……二点です」
美咲は、ゆっくりと、事実を並べた。
「一点目は——KFGグループの世界各拠点に、FLORIAのロイヤル・ソレイユのポスターを、お貼りになったとのことで、その写真を、メンバーに見せてくださいました」
「……ポスター、を、世界の拠点に?」
本部長の一人が、怪訝そうに聞き返した。
「はい。ニューヨーク本社、ロンドン、パリ、香港、ソウルなど——世界中のKFGの主要ビルのエントランスに、掲示されているとのことでした」
「……」
幹部たちが、顔を見合わせた。
「二点目は」
美咲は、声を少しだけ抑えた。
「FLORIAの楽曲について、会長が……とても深くお聴きになっていらっしゃったようで」
「お話の中で、今度、K会長ご自身が、FLORIAの新曲の歌詞を書かれる、というお話が、持ち上がりまして」
部屋の空気が、ぴくりと動いた。
「……K会長が、作詞を?」
「はい。さらに、作曲は、メンバーのサラが担当することになりました」
「サラが……作曲を?」
「はい。4人は、全員で、歌詞に載せる言葉を考える予定です。——5人で、一つの曲を作る、というお話でした」
美咲は、そこで言葉を切った。
「……以上です。その他には、特に、何も」
***
静寂が、役員室を支配した。
しかし、その静寂の質は、一様ではなかった。
会長と社長。
この二人の反応は、明らかな「喜び」だった。
「……素晴らしい」
会長が、ゆっくりと、しかし確信を込めて呟いた。
「K会長が、そこまで、我が社のグループに……」
社長も、深く頷いている。
この二人は、Kという存在が、現代のビジネスの世界で、
どれほど強力かつ凶悪な「力」を持つかをしっかりと理解していた。
K会長が、個人的に、ここまで気にかけてくれている。
それは、このグループの未来に対する、最強の保険証であり、同時に、事務所の絶対的な安全でもあった。
世界の経済界において、「Kの庇護下にある」という事実は、それ自体が、どんな巨額の契約書よりも、重い意味を持つ。
***
一方で。
本部長や、現場に近い役員たち——。
彼らの反応は、幾分、違っていた。
「……しかし」
一人の本部長が、眉をひそめて、慎重に口を開いた。
「これは……その、若いアイドルが、世界的な実業家と、個人的に楽曲を共同制作する……という構図になりますよね?」
「そうなりますね」
「もし、ファンの方々に、この事実が知られた場合……」
「……」
部屋に、再び、別種の緊張が戻った。
「イケメンで、若くて、世界的な資産家と、一緒に曲を作る——」
本部長は、頭を抱えた。
「ファンが、どう受け取るか……炎上では、済まないレベルのインシデントになりかねません」
他の本部長も、頷いている。
「メンバー全員、まだ若いです。変な噂が立てば、キャリアに影響しかねない」
「そもそも、メディアの情報管理が、どこまでできるのか」
彼らは、現場に近い立場から、「アイドルのブランド価値」と「ファンの心理」を、誰よりも理解していた。
***
しかし、それらの懸念を察して、社長が姿勢を正した。
「我々は、この『5人で作る曲』を、全力でバックアップする体制を整える必要がある」
「ああ」
会長も、頷いた。
そして、他のメンバーもこの2人の意思決定に逆らうことはなかった。
「サラの作曲環境、万全に整えさせよう。日本で最高の制作スタッフも、手配する」
「メンバー4人のメンタル面も、丁寧にケアしていきましょう」
「各メディア対応の想定問答も、早急に準備だ」
会議の方向性が、一気に、「全面支援体制の構築」へと、舵を切った。
***
役員室の会議が終わり、美咲は、深い息をついて、廊下へと出た。
(……終わった……)
頭が、くらくらする。
しかし、終わった。
今日の、あの異常な一日の、最後の報告業務が。
美咲は、廊下の窓から、外を見た。
夕暮れが、東京の街を、橙色に染めている。
ちょうど今頃、Kは、霞が関で、日本政府の要人たちと、国家戦略を議論している最中だろう。
(……あの人が、今この瞬間にも、歌詞を考えてるかも、しれないんだよな……)
そう思うと、美咲は、思わず小さく笑ってしまった。
世界の王の、意外な一面。
そして、その王に、完全に心を奪われてしまった、自分の担当する4人の少女たち。
これから始まる「Kの作詞計画」は——。
もはや、一つの事務所の案件を、遥かに超えていた。
世界の王の個人的な創作活動として。
日本の若きアイドルグループの、運命を変える楽曲として。
そして——Kと、FLORIAの、二度と引き返せない関係の、深化の象徴として。
K作詞計画は、静かに、しかし確実に、動き始めた。




