【リ・フローラ編】第7話
「——それから、二枚目のミニアルバムに入っている『Moonlit Step』。あれは、歌詞を英語と韓国語で交互に配置しているが、実は特定の箇所で、英語の単語の発音と、韓国語の単語の意味が、連動するように作られている」
Kの解説は、止まらなかった。
「例えば、サビの最後の一節。英語で『Light in your eyes』と歌う直前に、韓国語で『그대 안에』と入る。この『안에』の発音が、次の英語の『in』と音の形で重なるようになっていて、言語の境界線が曖昧になる瞬間が生まれている」
「……ぅ」
「さらに、二番のBメロでは、日本語に近い響きを意識した造語が挿入されていて、これが日本市場への布石にもなっている。歌詞に駄洒落的な仕掛けが隠されているのは、言語を跨ぐ優秀なグローバルチームが関わった証拠だな」
「えっ、そんな仕掛けが……」
「今まで気づいてなかった……」
FLORIAの4人は、先ほどまでの盛り上がりとは別種の衝撃に、頭がクラクラしていた。
Kが英語、韓国語、日本語の全てを完璧に操れることは、知っている。
しかし、それぞれの言語の音の響き、意味の重なり、文化的な背景まで踏まえた上で、一つ一つの歌詞を解読していく姿は——。
彼女たち自身がその曲を歌っている張本人なのに、制作者でもないKの方が、その構造を深く理解していた。
「……Kさん、頭の中どうなってるんですか……」
ミジュが、ほとんど放心したように呟く。
「す、すごい……」
カエデも、膝の上で手を組んだまま、Kの横顔から目を離せずにいた。
知的な顔。
楽曲について語るときの、少し熱を帯びた眼差し。
普段の冷徹な「資本主義の王」の顔とは、また違う一面。
(……この顔……)
カエデは、心の中で、そっと息を呑んだ。
(反則だ……)
カエデは、FLORIAの4人の中でも、特に「Kの顔」が好きだった。
アルカディアのスタジオで初めて間近でKを見た瞬間から、彼の整った顔の造形に、ひそかに心を奪われていた。
もちろん、他のメンバーには絶対に言っていない。
リーダーのソユンがKへ明らかな純愛の感情を持っていることを見ている身としては、自分は少し俗な見方をしているのではないか、という気後れもあった。
しかし、今この瞬間、Kの知的に輝く横顔は、カエデの「顔推し」の心を、容赦なく撃ち抜いていた。
「——だから、二番の歌詞の『時計の針を止めて』という一節は、直前の英語パートの『Seconds』と意味的に対になっていて……」
Kが、さらに言葉を紡ごうとした、その時だった。
「Kさん!」
サラが、突然、大声で割り込んだ。
全員の視線が、サラに集中する。
サラは、身を乗り出すようにして、Kの目を真っ直ぐに見つめた。
そして、まるでずっと胸の中で温めていた言葉を、勢いよく吐き出すように——。
「Kさんが、歌詞書いてください!」
***
部屋が、一瞬、静まり返った。
Kは、サラの発した言葉を、頭の中で反芻するように、僅かに目を細めた。
そして、静かに聞き返す。
「……俺が?」
「はい!」
「君たちの曲を、か?」
「はい!絶対そうしてください!」
その瞬間——。
静寂が、爆発した。
「「「いいですね!!」」」
今日、この部屋に入ってから、一番の盛り上がりだった。
「それ最高です!Kさん、絶対書いてください!」
「Kさんの書く歌詞、絶対かっこいいやつじゃないですか!」
「お願いします!お願いします!」
「どんな曲になるんだろう、今すぐ聴きたい!」
4人が、ソファから身を乗り出して、Kに迫っていく。
Kは——。
珍しく、少しだけ戸惑った表情を見せた。
想定していなかった提案だったのだろう。
世界の経済を動かす男が、アイドルグループの楽曲の「作詞」を、提案される。
ほんの一瞬、どう答えるべきか、言葉を探すように視線を泳がせた。
その表情を——。
カエデが、逃さなかった。
(……あ)
心の中で、声にならない声が漏れる。
(……可愛すぎ)
普段の、何もかもを見透かしているような冷徹な表情から、ほんの一瞬だけこぼれ落ちた、素の戸惑い。
数十秒の中で、カエデの「顔推し」の心臓は、今日何度目かの臨界点を突破した。
もちろん、口には一切出さない。
カエデは、淑やかな笑みを保ったまま、心の中で悶えていた。
***
Kは、4人の勢いに押されて、少し肩を竦めた。
「……そうだな」
視線を、少し宙に泳がせる。
「やったことはないが……確かに、楽しそうだ」
その一言で——。
4人が、また歓声を上げた。
「やったー!」
「ありがとうございます!」
「絶対、絶対書いてくださいね、約束ですよ!」
アンナは、部屋の後ろで、ゆっくりと、目を閉じた。
(……こうなりましたか)
そして、次の瞬間には、彼女の頭脳は冷徹に未来を計算し始めていた。
Kが、一度「やる」と言ったことを、中途半端にやることはない。
世界最高の水準を目指して、際限なく時間をかける。
歌詞という、これまでKがほとんど触れてこなかった領域の創作ともなれば——。
(……おそらく、かなりの時間を費やされるでしょうね)
問題は、その時間が、どこから捻出されるかだ。
ビジネスの時間を削ることはしないだろう。
しかし、本来であれば「思考を休ませる時間」や「会議中の僅かな集中の余剰」が、全てこの作詞に充てられる可能性が高い。
(……いや、むしろ)
アンナの頭に、不吉な予想が走った。
(今日の夜の、日本政府との会議中にも——考え始めそうですね)
世界中の閣僚級の関係者が固唾を呑んで見守る国家戦略諮問の場。
その場で、Kの頭の中の一部分が「FLORIAの歌詞」に向かって思考を巡らせている可能性。
アンナは、そのあり得そうな未来図に、そっと額を指で押さえた。
***
美咲もまた、部屋の隅で、一人、苦悩していた。
(……ちょっと、これは、さすがに)
マネージャーとして、今の状況は、客観的にかなり危ういものだった。
世界的な大物が、個人的に、事務所所属のアイドルグループの楽曲制作に関わる。
それは、通常の商業的な座組みとは全く異なる、極めて「個人的」な繋がりだ。
本来なら、事務所側から「正式な形でご依頼を……」という話を入れるべきフェーズだ。
しかし——。
(……今、私が何か言える状況じゃ、ない)
美咲は、ただ、口を閉じたままでいた。
この部屋の意思決定者は、Kと、そして4人のメンバーだ。
アンナですら「監視」と称して美咲を残しただけで、美咲に発言権はない。
諦めながら、美咲は、事の成り行きをただ見守った。
***
「作詞は、やるとしよう」
Kが、改めて言い直す。
「……ただ、曲を作ったことはないな」
作詞はなんとかなるとしても、楽曲のほうはどうするか。
その一言に、ソユンが、慌てて口を開いた。
「えっと、じゃあ……どなたか作曲家の先生に——」
しかし、ソユンが言い終える前に。
「私……」
サラが、再び手を挙げた。
頬が、少し紅潮している。
「……私が、やります」
全員の視線が、サラに集まった。
Kが、軽く眉を上げる。
「サラ?」
「曲を、作れるのか?」
その問いに、サラは、一瞬だけ、視線を下げた。
「そんなに……たくさん経験があるわけじゃないんですけど……」
少しだけ、声が小さくなる。
「趣味で、ちょこちょこ作ってて……ダメ、ですか?」
普段の元気なサラからは想像できないほどの、控えめな表情。
Kは、その顔を、じっと見つめた。
そして——。
ふっと、小さく、笑った。
優しく、柔らかな笑顔。
「いや」
「え……」
「やろう」
即決だった。
サラの心臓が、大きく跳ねた。
今までに感じたことのない類の、鋭い痛みだった。
サラは、16歳の頃からアイドルとして芸能界にいた。
恋愛が全くなかったわけではない。
同年代の男の子と、少しだけ胸をときめかせたこともあった。
しかし、今この瞬間に感じたものは、それらとは全く別種の、重くて、深い衝撃だった。
(……え、これ、なに……)
胸の奥が、締め付けられる。
Kの、あの一瞬の笑顔。
信頼してくれた、という事実。
自分の告白ともいえる「やります」という一言を、Kが軽く笑って受け止めてくれた、という事実。
それらが、サラの中で、全く新しい種類の感情を呼び起こしていた。
(……ああ、これ、やばい……)
サラは、心臓のあたりを、そっと服の上から押さえた。
***
「じゃあ——」
Kは、そのまま視線を他の3人にも向けた。
「カエデ、ソユン、ミジュ」
「「「はい!」」」
「君たちにも、作詞に関わってもらおう」
3人の目が、ぱあっと輝いた。
「好きな言葉とか、今の気持ちとか、俺に教えてくれ。それを、俺が作詞に使おう」
「私たちも参加していいんですか!?」
「ああ」
Kは、4人を順番に見渡した。
「5人で、一つの曲を作るんだ」
——5人で。
その一言が、メンバーの胸の中で、鐘のように響いた。
作詞はKが、作曲はサラが、というところで、少しだけ疎外感を感じ始めていた3人の心が——。
Kのその一言で、完璧に満たされた。
「「「きゃああ!」」」
また、今日一番の歓声だった。
「やります!絶対やります!」
「私、いっぱい言葉書いてきます!」
「何書けばいいんですか!?今すぐ書きたい!」
「……落ち着け」
Kは、笑って彼女たちを窘めた。
「時間をくれ。少しずつ、丁寧に、作ろう」
***
Kは、ソファから背筋を伸ばして、少しだけ表情を緩めた。
「……ふふ、楽しみだ」
少年のような、無邪気な笑み。
世界の富を動かしながら、新しいおもちゃを手に入れた時のような、わずかな高揚。
ソユンは——。
その笑顔を、じっと、見つめた。
瞬き一つ、惜しむように。
(……ああ、もう、ずるすぎる……)
心の奥で、声にならない言葉が溢れる。
(かっこよすぎ……Kさん……)
網膜に、焼き付けるように。
その横顔を、その微笑みを、目に焼き付ける。
……次にいつ見られるか、分からないから。
見られる保証なんて、どこにもない。
今この一瞬を、永遠に、残すように。
ソユンの瞳は、Kの顔だけを見ていた。
***
部屋の空気が、ゆっくりと、幸福な余韻に満たされていく。
4人は、それぞれ、この時間の意味を、胸の中で噛み締めていた。
これまでKから贈られたもの。
アルカディア。ロイヤル・ソレイユ。
とんでもなく高価で、凄まじい価値のあるものだった。
そして——彼女たちは、今日も、何か高価なものを受け取るかもしれない、と、心のどこかで、少し期待していた。
もちろん、それも嬉しい。
しかし、今日。
物は、なかった。
一つも、なかった。
あったのは——。
Kが、自分の城に、FLORIAのポスターを貼ってくれていた、という「行動」。
Kが、自分たちの曲を、誰よりも真剣に聴き、誰よりも深く理解し、そして知的に語ってくれた、という「時間」。
そして、これから、5人で一つの曲を作り上げる、という「未来」。
物では、なかった。
しかし、物などよりも遥かに、彼女たちの心を、深く揺さぶるものばかりだった。
(……Kさんは、ただお金持ちなだけの人じゃない……)
ソユンは、心の中で、ゆっくりと、その事実を噛み締めた。
高価なものを与えるだけのお金持ちは、世の中に他にもいるかもしれない。
しかし、時間を、心を、創造の場を、そして「未来」を——。
そうしたものを、こんなにも自然に、こんなにも惜しみなく差し出せる男は、この男の他にはいない。
4人は、それぞれが、それぞれの形で、気づいていた。
自分たちは、もはや、物の魔法で動かされているのではない。
この男そのものの、抗いようのない魅力に——取り込まれてしまったのだ、と。
そしてその事実は、あまりにも、あまりにも、抗えないものだった。
***
甘い空気の中で、さらにしばらく会話が続いた。
「Kさん、今度は韓国にも来てください!」
「日本の冬って見たことあります?綺麗ですよ」
「次はどこで会えますか!?」
他愛のないようで、全ての言葉の裏に、「次に会える日」への期待が滲む会話。
Kもまた、それを一つ一つ、穏やかに受け止めていた。
しかし——。
アンナは、さすがに、そろそろ潮時と判断した。
(……見ているこちらが、疲れてきました)
彼女は、音もなく一歩前に出た。
「会長」
その声は、先ほどまでのどの瞬間よりも、少しだけ大きめだった。
「そろそろ、日本政府との会合へ向かう必要がございます」
その一言を——。
アンナは、あえて、FLORIAの4人に聞こえるような声量で、告げた。
「日本政府の要人の皆様が、会長のお越しをお待ちでいらっしゃいます」
それは、いつもの業務連絡としては、少し過剰な表現だった。
しかし——。
(……これくらい、言って差し上げた方が、会長もご満足でしょう)
アンナは、この瞬間、明確に主君へ華を持たせに行った。
日本政府の要人、という言葉。
それをFLORIAの前でアピールしてあげることが、Kにとってどれほどご機嫌な展開であるか——。
アンナは、長年の付き合いで熟知していた。
案の定。
「わぁ、すごい……!」
「Kさん、今日、政府の人に会うんですよね!」
「テレビで見てました、あのニュース!」
「本当にカッコよすぎます……!」
4人のFLORIAが、完璧に、期待通りのヨイショを返してくれた。
Kは、何でもないような顔をしながら、明らかに、今日何度目かの「口元の緩み」を、必死に隠していた。
(……はい、ご満足いただけたようですね)
アンナは、心の中で完璧な無表情を保ちながら、仕事の成功を確認した。
***
「……また、すぐ会おう」
Kが、立ち上がりながら告げた。
「次は、日本か韓国で。そう遠くない日に」
「はい!」
「絶対ですよ!」
「待ってます!」
4人が、名残惜しそうに頷く。
Kも、アンナから差し出されたコートを受け取り、席を立った。
それを、4人がそわそわと見守る——。
その時だった。
「あ、あの……」
ソユンが、小さく、しかし明確に、声を上げた。
Kが、振り向く。
「ん?」
ソユンの頬は、紅潮していた。
両手を胸の前で組んで、意を決したように——。
「あの……Kさん、頭……撫でてください……!」
***
部屋が、一瞬、沈黙した。
「ちょっ、ちょっとソユンっ……!」
美咲が思わず止めに入りかけたが——
Kは、その懇願を聞いて、笑った。
柔らかく、そして、少しだけ、意地悪く。
「……それを、いつ言おうか、ずっと待ってたのか?」
その一言に、ソユンの顔が、一気に真っ赤になった。
こくん、と、顔を赤くしたまま、小さく頷く。
図星だった。
ソユンは、今日、Kに会うと決まった瞬間から、ずっと、この一言を言うタイミングを計っていた。
そして今日、もう会える時間が終わってしまう、というタイミングで、ようやく、勇気を振り絞ったのだ。
Kは、その全てを、察していた。
そして——。
Kは、ソユンに、ゆっくりと歩み寄ると。
その真剣な顔で、ソユンの頭に、大きな手を乗せた。
そして、優しく、撫でた。
「……いつも、よく頑張ってるな、ソユン」
低い、静かな声。
「ちゃんと、見てる」
ソユンの目から、ぽろっと、涙が一粒、こぼれた。
リーダーとしての責任感。
グループを引っ張る重圧。
Kに気に入ってもらえているか、という不安。
そういった全部を、全部、その一言が、包み込んでくれた。
「……はい……」
ソユンは、小さく、しかし深く、頷いた。
***
「私も!」
「私も、お願いします!」
「ずるい、ソユンばっかり!」
他の3人も、もちろん、黙っていなかった。
Kの周りに、4人の少女たちが集まる。
Kは、仕方ない、というふうに笑いながら、一人ずつ、順番に頭を撫でていった。
一人ずつ、王からの、たった一回の「撫で」。
しかし、それは、彼女たちにとって、何物にも代え難い勲章だった。
***
美咲は、部屋の隅で、ほとんど目眩を起こしていた。
(……)
世界最高の経済界の大物が、アイドルグループのメンバーを、一人ずつ順番に撫でている。
彼女たちも、恍惚とした顔で、それを受け入れている。
この光景が、もし、仮に、万が一、誰かに目撃されることがあったら——。
(……絶対、絶対、誰にも見せられない……)
美咲は、アンナの言葉を思い出した。
「会長をネタにするような記事は、この世に出ることはありません」
あれは、真実なのだろう。
しかし、それは「出ない」だけであって、今起きている事実そのものが「異常ではない」ということを、保証するものではない。
美咲は、こめかみを押さえながら、ふらりと、壁に手をついた。
アンナは、そんな美咲に、ちらりと視線を送ると——。
ほんの少しだけ、微笑んだ。
哀れみと、共感の、両方を含んだような、微笑み。
(お疲れ様です)
その目が、そう語っているようだった。
***
そして、Kは、全員を撫で終えると、アンナを見た。
「行こう」
「はい」
王は、最後にもう一度、4人を振り返った。
「……楽しみにしてる」
その一言を、残して。
Kは、部屋を出て行った。
残されたFLORIAの4人と、美咲。
誰も、しばらく、言葉を発しなかった。
部屋の空気が、王が立ち去った余韻で、まだ、満ちていたから。
そして、ぽつり、と、サラが呟いた。
「……みんな」
「うん」
「これ、とんでもないことになるよね」
誰も、否定しなかった。
Kが、作詞を手掛ける。
サラが、作曲する。
そして、3人の言葉が、歌詞に織り込まれる。
「5人で作る曲」。
その未来が、少女たちの胸の中で、もう、静かに燃え始めていた。




