【リ・フローラ編】第6話
「Kさんこちらです!」
「階段はこっちから上がった方が早いです!」
FLORIAの4人が、まるで自宅に大切な人を招くように、Kを先導して事務所の奥へと進んでいく。
後ろには、事務所の社長、会長、役員、本部長クラスの幹部たちが、ぞろぞろと追従していた。
普段はそれぞれの執務室でふんぞり返っている彼らが、全員で一人の男の後ろを歩いている光景は、事務所の従業員たちにとっても、見たこともない異様な絵面だった。
通路ですれ違うスタッフたちは、誰もが一瞬立ち止まり、頭を下げた。
それが誰への一礼なのかは、言うまでもなかった。
***
VIP来客室は、事務所の中で最も格式高い一室だった。
年に数回、海外の大物アーティストや、大手スポンサーの代表を迎える際にのみ使用される部屋。
今日のために、数日前から徹底的に清掃され、調度品も新調されていた。
「Kさん、こちらにどうぞ」
ソユンが、部屋の中央に設えられた最高級の一人掛けソファに誘導する。
普段は、招かれた最上級の客が座る席だ。
Kは、そこへ腰を下ろした。
FLORIAの4人は、Kを取り囲むように、コの字型に配置されたソファに着席する。
しかし、その後ろから、社長、会長、幹部たちも、ぞろぞろと部屋に入ってきた。
「K会長、本日は誠にありがとうございます。改めまして、弊社社長の——」
「当グループ代表として、心より歓迎を——」
幹部たちが、挨拶の言葉を並べようとする。
しかし、Kはそれに対して軽く頷くだけで、視線を動かした。
視線の先には、アンナ。
ただ、それだけだった。
しかし、その一瞥で、アンナは全てを理解した。
(——退場させろ、ですか)
アンナは一歩前に出ると、部屋の中央に立ち、完璧な声量で告げた。
「皆様」
幹部たちの動きが、一斉に止まる。
「本日、会長はFLORIAの皆様と、今後の展望について直接お話しされる予定です。まずはご本人たちだけで、という会長のご意向です」
柔らかな口調。しかし、有無を言わせない響き。
「つきましては、ご退席いただきたく存じます」
幹部たちの顔に、一瞬、複雑な感情が走った。
世界的な大物が、自社の所属アイドルと直接話をするという、またとない機会。
そこに自分たちが同席できないことへの落胆と、明らかに好意を持ってしまっている彼女たちが密室で会議という状況への懸念。
しかしKを前にして異論を唱えるなど到底できないという事実との板挟み。
何人かは、何かを言いたげに口を開きかけた。
しかし、その口は、一言も発することなく、静かに閉じられた。
社長が、ゆっくりと頭を下げた。
「……承知いたしました。失礼いたします」
それを合図に、幹部たちも次々と深く礼をして、部屋を後にしようとした。
情けない足取りだった。
自分たちがこの瞬間、世界の王の前で、ただの「邪魔者」として静かに排除されたことを、全員が理解していた。
そんな彼らのことなど、FLORIAの4人はもはや視界に入れていなかった。
彼女たちの目は、ただ一点。
Kの顔だけを見つめて、キラキラと輝いていた。
「そうですね——」
アンナは、最後に残った一人に目を向けた。
——美咲だった。
アンナは、エントランスでの美咲の動きを観察していた。
ミジュがKに飛びついた時、彼女はパニックになりつつも、場を壊さないよう静かに控えた。
監視カメラや外部視線を気にするという最低限のマネージャー意識も、持ち合わせている。
アンナは、美咲を「余計な動きをしない、無難な女」として評価していた。
Kの邪魔をするような愚かな振る舞いは、しないだろうと。
「……あなただけは、監視として残ってください」
「えっ、わ、私ですか?」
「ええ」
「……は、はい、承知しました」
美咲は、一瞬戸惑いながらも、頷いた。
社長たちは、チラリと美咲に視線を送った。
「頼むぞ」という無言の託しだった。
そして、部屋のドアが静かに閉ざされた。
***
VIP来客室には、K、FLORIAの4人、アンナ、そして美咲。
先ほどまでの事務所幹部たちのざわめきが消え、空気が一気に澄んだ。
「Kさん、お飲み物は何がいいですか?私取ってきます!」
ソユンが、嬉しそうに腰を浮かせる。
「ありがとう、ソユン。でも大丈夫だ。先に、見せたいものがある」
Kは、落ち着いた声でそう言い、後ろに控えていたアンナに軽く目配せした。
「アンナ、あれを」
「はい」
アンナは、静かにアタッシェケースを開き、一台のノートパソコンを取り出した。
淡い光沢を放つ、漆黒のボディ。
特別な質感のある筐体に、KFGのエンブレムが控えめに刻まれている。
IT業界に身を置く者が見れば、その場で息を呑むであろう代物だった。
市販モデルではない。
世界で数台しか存在しない、特注の最高性能機。
メモリ、プロセッサ、セキュリティチップ、ディスプレイ。
全てが世界最先端のものを組み合わせた、数百万円規模の一点物。
通常のノートパソコンよりかなり大きく、それでいてスマートだった。
Kは、それをテーブルの上にそっと置くと——。
FLORIAの4人を、ちらりと横目で見た。
期待していた。
「わあ、かっこいいパソコン!」
「黒くておしゃれ!」
そういった、黄色い声援を。
しかし——。
「Kさん、それで何を見せてくださるんですか?」
ソユンは、ノートパソコンにほとんど視線を向けず、Kの顔を見つめたまま顔を斜めにして尋ねた。
「きゃー、早く早く!」
「何だろう、気になる!」
他の三人も、パソコンそのものには微塵も興味を示さず、ただKが何を見せてくれるかという一点にだけ、目を輝かせている。
Kは、一瞬、微妙な顔をした。
(……反応、ないんだな、これには)
アンナは、そのKの微妙な表情を捉えていた。
そして、心の中で、静かに深いため息をついた。
(若いアイドルの皆様が、特注のノートパソコンなんて興味あるわけないじゃないですか……)
そもそも彼女たちは、それが市販品かどうかすら、判別できない。
ハイブランドのドレスや世界最高峰の時計は分かっても、パソコンの優劣など、彼女たちの人生にとってほぼ無縁の世界なのだ。
Kも、ようやくその事実に気づいたらしい。
小さく咳払いをすると、ノートパソコンを開き、ディスプレイをソファ側に向けた。
「……これを、見てほしい」
Kが操作すると、画面に、一枚の写真が映し出された。
***
「——わあ!」
4人が、ほぼ同時に身を乗り出した。
画面に映っていたのは、どこかのエントランス。
巨大な大理石の吹き抜け、高い天井、磨き抜かれた床。
そして、その中央の壁面に、堂々と飾られたFLORIAのポスター。
「これ、どこですか!?」
サラが、目を丸くして声を上げた。
「イベントホールですか?それとも百貨店?」
ミジュも、画面に顔を近づける。
Kは、ほんの少しだけ、口元を引き上げた。
「……これは、俺の会社だ」
「「「「……えっ?」」」」
4人の声が、完璧に重なった。
「俺の」「会社」
その二語が、4人の脳内で処理されるまでに、数秒の沈黙があった。
「ここは……ニューヨーク本社」
Kは、画面を切り替える。
次に映ったのは、また別のビル。
石造りの歴史を感じさせる重厚な建築。中央に、やはりFLORIAのポスター。
「これはロンドン」
さらに切り替える。
「これはパリ」「香港」「フランクフルト」「シンガポール」
「これが……ソウルだな」
一枚、また一枚と、世界各国の大都市の中心部に聳え立つ、KFGグループのビルの写真が映し出されていく。
どれも、FLORIAの4人でさえ名前を知っているほどの、世界を代表する都市ばかり。
そして、その全てのビルのエントランスに、FLORIAを起用したロイヤル・ソレイユのポスターが、掲げられている。
「「「「うそぉぉぉぉ!」」」」
4人の歓声が、VIP来客室に炸裂した。
「待って、待って!世界中じゃないですか!」
「こんな大きなビル、全部Kさんのなんですか!?」
「えっ、Kさんのビル、こんなにかっこいいんですか!?」
「これがKさんの会社……」
当初彼女たちが一番喜ぶと想定されていた「世界中にポスターが飾られている」という事実よりも、「これがKさんの会社」という一点に、より強いリアクションが集まっていた。
「Kさん、すごすぎます!世界中にこんなビル持ってるなんて……」
カエデが、まるで夢見るように呟く。
「世界の王様……」
ソユンが、胸に手を当てながら、ほとんど無意識に漏らした。
Kは、その反応を受けて——。
明らかに、口元の緩みを、抑えられずにいた。
「……まあ、大したことはない」
そう言いながら、さらに画面を切り替える。
「こっちは、東京の本社だ」
「東京にもあるんですか!?」
「行きたい行きたい!」
「いつか、Kさんの会社、見学させてください!」
「ああ」
(——ご機嫌ですね、会長)
アンナは、ソファの後ろに控えたまま、感情を殺した目でKの横顔を見つめていた。
必死に「余裕のある大人」を装おうとしているが、明らかに頬が緩み、声のトーンが普段より少し高い。
隣に並んで写真を食い入るように見つめるFLORIAの4人から絶え間なく浴びせられる「すごい」「かっこいい」の言葉のシャワーに、この男は完全に浸りきっていた。
(……よかったですね)
アンナは、哀れみにも似た眼差しを、主君の背中に送った。
そしてふと、部屋の隅に視線を移す。
そこには、美咲が立ち尽くしていた。
口を半開きにしたまま、画面に映し出される世界各国のビルを見つめて、放心している。
(……すごい……本当に別世界の人……)
美咲は、頭のどこかで、そんな陳腐な感想を漏らしていた。
普段自分がマネージメントしている、近所の商業施設の撮影現場や、都内のテレビ局のスタジオ——そういった「仕事の場」とは、あまりにも隔絶した世界が、ノートパソコンの画面の中に広がっていた。
そこに、自分が担当する4人のアイドルの顔が、堂々と飾られている。
(……現実感が、ない)
美咲は、ただ、その事実を、じっと受け止めるしかなかった。
***
一通り、世界各国のポスター写真を見せびらかしたあと。
Kは、ノートパソコンをそっと閉じた。
「……ところで」
その時、Kの声のトーンが、少しだけ変わった。
先ほどまでの「ご機嫌さを隠しきれていない」声から、ほんの少しだけ、静かで、落ち着いた声へ。
「最近……いや、以前からだが……」
Kは、4人を順番に見渡した。
「みんなの曲を、よく聴いている」
その言葉に——。
4人の表情が、ぱっと、今まで以上に輝いた。
「「「「えっ!!」」」」
「ほんとですか!?」
「嬉しい……!」
「どれ聴いてるんですか!?教えてください!」
「どの曲が好きですか!?」
四方から、気持ちの良いほどに前のめりな質問が、Kに向かって飛んできた。
Kは、その全ての質問を、満足げに受け止めた。
「……色々、曲について話したいと思ってた」
その、Kの言葉を待っていた。
「お願いします!」
「なんでも聞いてください!」
「Kさんの意見、知りたいです!」
Kは、ソファに深く座り直した。
そして、今まで——。
秘書のアンナに「どれが好きか」と訊き、「特に優劣はございません」と冷淡にあしらわれ続けた、ずっと言いたかった曲の話を。
一人、誰もいない執務室で考え続けた、彼なりの「FLORIAの楽曲論」を。
ついに、語り始めた。
「そうだな……シングルの二曲目——あれは、イントロの構成が面白い。サビの直前で、一瞬だけ音が下がるところがあるよな、あの空白があることで、声の入り方が際立つようになっている」
「ええっ、そこ!?」
「そんな細かいところまで聴いてくれてるんですか!?」
「ああ、それから——」
Kは続ける。
語れば語るほど、FLORIAの4人の目は、輝きを増していった。
推しのアイドルが、自分のために一言を発するたびに、一字一句を聞き逃すまいと身を乗り出すファンのように。
いや、今この瞬間、彼女たちは、まさにそのファンだった。
Kの言葉への反応が、絶え間ない。
「へぇ!」
「そうなんですね!」
「すごい!そんなこと考えたことなかったです!」
「Kさん、プロの音楽家より詳しいんじゃないですか!?」
Kが、少し難しい音楽理論の話を始めると、4人は「そうなんですね……かっこいい……」と感嘆する。
Kが、楽曲の構成について持論を述べると、「すごい……」と小声で呟くメンバーがいる。
Kが、ある曲の歌詞について「ここの言葉選びが好きだ」と言えば、「えー!Kさんが好きって言ってくれた!」と全員が歓喜する。
褒め称えるシャワーが、次から次へと、Kに浴びせられていく。
Kは、否定しなかった。
ただ、4人の反応を全身で受け止めながら、満足げに、次々と持論を展開していた。
***
アンナは、そのやり取りを、部屋の後ろから静かに観察していた。
(……これは)
これは、まずい、と思った。
これは、このペースで褒められ続けると——。
(会長が、ますますひどくなりますね……)
甘やかす、という言葉が、これほど的確に当てはまる光景を、アンナは久しぶりに見た。
世界中の部下が、会長に対して行き過ぎた忖度や称賛を送ることはもちろんある。
しかし、それは「ビジネス上の格付け」であり、中年や初老の男たちからの称賛などでは、Kは少しも気分を良くはしない。
今、若く、飛び切り可愛いお気に入りの4人がKに送っている「尊敬」や「称賛」は、一切の計算がない、純度100パーセントの感情だった。
そして、それを浴び続けたKが、今後どうなるか——。
アンナは、その未来を考えるだけで、頭が痛くなった。
(……この調子では、もう後戻りはできません)
***
そして、美咲もまた、別の意味で頭を抱えていた。
彼女は、これまでFLORIAの仕事現場で、少女たちがイケメン俳優や人気アイドルと共演する場面を何度も見てきた。
バラエティ収録で笑顔を作る姿。
雑誌の取材で、共演者を上手に立てる会話術。
音楽番組で、大物歌手に丁寧に礼をする礼儀正しさ。
彼女たちは、プロのアイドルとして、相手を持ち上げるスキルを十分に持っていた。
しかし——。
今、目の前で繰り広げられている光景は、そのどれとも、決定的に違っていた。
作り物の笑顔ではない。
気遣いの相槌ではない。
計算された持ち上げ方ではない。
心の底から、本気で、本気で、Kを尊敬し、称賛し、感動している。
それが、言葉の一つ一つから、表情の一瞬一瞬から、溢れ出ていた。
(……こんな姿、初めて見た)
美咲は、思わずごくりと唾を飲んだ。
4人のメンバーは、もはやアイドルとしての職業人格ではなく、ただの一人の少女として、目の前の男に心を奪われていた。
そしてその事実が、美咲に改めて、深く、深く突きつけていた。
——Kという存在が、この4人の少女たちにとって、どれほど大きなものになってしまっているか、を。
もはや、仕事上の関係者ではない。
ある種の、絶対的な存在として、彼女たちの世界の中心に、Kは鎮座している。
美咲は、静かに、胸の前で手を組んだ。
(……この子たちの恋は、どこまで行くんだろう)
VIP来客室の中で、王の楽曲論は、なおも止まらず。
4人の少女たちの輝く瞳もまた、一瞬も曇ることなく、Kの一言一言を追い続けていた。




