【リ・フローラ編】第5話
FLORIAが所属する事務所は、KPOP系事務所としては業界でも名の知れた大手だ。
所属アイドルの数、制作力、海外展開力。
どれをとっても業界上位に入る。
しかし、その事務所が今日ほど緊張感に包まれた日は、過去に一度たりとも存在しなかった。
数日前から、専門の清掃業者が入り、エントランスから廊下、会議室、エレベーター、トイレに至るまで、徹底的な大清掃が行われていた。
普段は目立たない装飾も新調され、観葉植物は葉の一枚まで磨き上げられ、床の大理石は顔が映るほどに磨かれていた。
当日の朝には、事務所の会長をはじめ、社長、役員、本部長クラスまでもが全員出社していた。
全員が一分の隙もないスーツを着込み、エントランスの一角で静かに待機している。
しかし、その空気は商談や投資家を迎える時のそれとは、決定的に違っていた。
彼らは誰一人として、Kに対して他のグループも売り込むことや、ビジネスの話を持ちかけようとは考えていなかった。
Kは、決定的な事実として、FLORIAを「唯一無二のお気に入り」として囲っている。
それは、もはや経済の論理を超えた、個人的な領域の関係性だ。
そこに土足で踏み込むような愚か者は、この事務所にはいない。
いや、いたとしても、それがどういう結末を招くかを全員が理解している。
事前に周知されていた内容は、シンプルだった。
「余計な話を一切持ちかけない。FLORIAとK会長との時間を妨げない。挨拶は最小限に。」
***
事務所のエントランス前。
FLORIAの4人は、すでに外で待機していた。
「……まだ来ないね」
「あと何分だろう」
「飛行機は定刻通りって聞いたよね?」
4人は、極上のメイクと丁寧に選ばれた衣装に身を包み、しかしその仕草は完全に落ち着きを失っていた。
サラは体を前後に揺らし、ミジュは両手を口元で組んだまま動かず、カエデは一見平静を装いながらも繰り返し髪を整えており、ソユンは胸元を押さえたまま小刻みに呼吸を繰り返していた。
30分が経過した。
メイクが崩れないよう立ち続けたまま、4人は待った。
文句一つ言わなかった。
むしろ、そわそわと嬉しそうにさえ見えた。
そして——。
黒光りする巨大なリムジンが、ゆっくりと、しかし圧倒的な存在感を持って、事務所の車寄せに滑り込んできた。
「……来た」
カエデが、小さく呟いた。
4人の背筋が、同時にすっと伸びる。
エントランス横で控えていた事務所幹部一同も、無言のまま深々と頭を下げた。
運転手がドアを開ける。
先に降り立ったのは、アンナだった。
完璧なスーツ、音もない歩み。
彼女は一度周囲を一瞥すると、車の奥に向かって静かに目礼した。
そして——。
Kが、車内から降りてきた。
最高級の生地で仕立てられたロングコート。
黒曜石のような瞳。寸分の隙もない佇まい。
その姿が車外へと現れた瞬間、事務所前の空気が、目に見えないほど薄く、張り詰めた。
Kは、まず深々と頭を下げる事務所幹部たちを見た。
そして次の瞬間——視線を、FLORIAへと向けた。
「「「「Kさん!」」」」
4人の声が、ほぼ同時に漏れた。
最初に動いたのはサラだった。
「来た……!本当に来た!」
「Kさん、お待ちしてました!」
ミジュが続き、
「会いたかったです……!」
カエデが、普段の冷静さをどこかに置き忘れたように、頬を赤らめて口にした。
ソユンは、言葉を発する前に、両手を口元に当てて目を潤ませていた。
それは、推しのアーティストに初めて会ったファンの姿と、何一つ変わらなかった。
むしろ、アイドルを仕事にしている彼女たちが見せるとは思えないほど、無防備な素の反応だった。
Kは、その4人の反応を見て——。
「……ふっ」
口元を、緩めた。
ニヤリと笑う、と言ってもいい。
しかし、その表情は本人的には「余裕のある大人の微笑み」のつもりだった。
しかし、口元の緩みが、頬の僅かな上気が、明らかに隠しきれていなかった。
(……全く隠せておりません)
アンナは、斜め後ろで完璧な無表情を保ちながら、心の中で今日何度目か分からない呆れを噛み締めていた。
***
その時だった。
ミジュの瞳から、不意に、ぽろりと涙がこぼれた。
「ミジュ?」
ソユンが驚いて声をかける。
ミジュの頭の中には、あの夜のことが蘇っていた。
ロイヤル・ソレイユの時計を、うっかりSNSに投稿してしまったあの夜。
絶望の底に沈んでいた自分を、Kがたった一夜で救い出してくれた。
いや、救い出すどころか、彼女のミスを世界中が歓声を上げる「奇跡」へと書き換えてくれた。
あれから、ずっと。
ずっと、会いたかった。
直接お礼を、言いたかった。
そして——。
ミジュは、もう何も考えられなかった。
「Kさん……!」
彼女は、事務所の幹部たちも、マネージャーも、メンバーも、何もかも忘れて、Kに向かって駆け出した。
そして、そのまま——飛びついた。
Kの胸元に、顔を、埋めた。
「Kさん……ありがとうございました……ずっとお礼を言いたかった……」
ミジュの声が、震えている。
「助けてくれて……ありがとうございました……!」
Kは、一瞬、驚いたように目を見開いた。
しかし、次の瞬間には——。
自然な動作で、ゆっくりと、ミジュの腰に腕を回した。
軽く、しかし確かに。
腕の中に、その身体を収めるように、抱き寄せた。
「——ッ」
事務所幹部たちの間に、息を呑む音が広がった。
「……おい」
社長が、小さく呻いた。
チーフマネージャーは、口を半開きにしたまま硬直している。
アイドル事務所の常識で言えば、この時点で、すでにありえない。
しかし、抱き寄せるKの動作があまりにも自然だった。
Kは、ミジュを抱きしめたまま、静かに見下ろしている。
ミジュもまた、涙で潤んだ瞳で、Kを見上げている。
見つめ合う二人。
距離は、あまりにも近い。
「……おい、おい、おい」
社長の顔から、さっと血の気が引いた。
「ちょ、ちょっと、まさか……」
役員の一人が、ほとんど音にならない声で呟いた。
(まさか、このまま……キス、でもするつもりなんじゃ——)
その想像が、幹部全員の頭を駆け抜けた。
公衆の面前で、事務所の入口で、アイドルが、世界の王と。
ありえない。
しかし、ありえない光景を、止める権利が、彼らにはない。
止めれば、Kの機嫌を損ねる。
止めなければ、世紀のスキャンダルが目の前で発生する可能性がある。
どちらも、事務所の存亡に関わる選択肢だった。
幹部たちは、硬直したまま、動けなかった。
美咲もまた、少し離れた場所で、息を止めていた。
その光景は、まるで時間が止まったかのようだった。
「ミジュ、ちょっと……」
「ねえ、ミジュっ……」
他の三人も、さすがに少し慌ててミジュに声をかけた。
しかしミジュは、涙でうるうるの目をKに向けたままだった。
その目を見て、三人はあの日の夜の、衰弱しきったミジュを思い出した。
——それ以上、何も言えなかった。
Kは、しばらくミジュを見下ろしていた。
そして、ゆっくりと、抱き寄せていた腕を緩めると——。
代わりに、右手を持ち上げて、その手をミジュの頭にそっと乗せた。
大きな手が、優しく、ミジュの柔らかな髪を撫でる。
「ミジュ……写真もCMも、可愛かったぞ」
静かな声だった。
しかし、その声に含まれた温度は、普段のKのそれとは比べ物にならないほど、柔らかかった。
「今日もな」
「……Kさん……」
ミジュは、Kの胸元へ、小さく顔を寄せた。
美咲は、少し離れた場所で、この光景を見ながら血の気が引いていた。
(ま、まずい……いくら事務所の敷地内とはいえ、外から見える場所で……)
もし、通りかかった誰かがスマートフォンを取り出したら。
もし、遠くの建物から誰かが見ていたら。
FLORIAのメンバーがKに飛びついて抱きしめられている——そんな画像が一枚でも流出すれば、世界がひっくり返るほどの騒ぎになる。
(声をかけないと……!)
美咲は一歩踏み出そうとして——そして、立ち止まった。
目の前で、Kとミジュが見つめ合っている。
お互いの瞳に、お互いだけが映っているような、そんな時間。
(……入れない)
そこに割って入る勇気を、美咲は持てなかった。
世界の王と、想い人の時間。
常人たちには、到底踏み込めない領域だった。
その時——。
「会長」
静かな、しかし揺るぎない声が響いた。
アンナだった。
彼女は、Kとミジュの間に、何の躊躇いもなく、淡々と、しかし完璧なタイミングで歩み寄った。
彼女こそが、この世で唯一、Kに対して、この瞬間に声をかけることを許されている存在だった。
「皆様、続きは中で話しましょう」
その声に、Kは顔を上げた。
「……ああ、そうだな」
あまりにも自然に、Kは頷いた。
まるで今の行動が、国家的な会合の一環であるかのような、落ち着いた声で。
「行こうか」
Kはそう言って、ミジュの肩にそっと手を添えると、そのまま事務所の中へと歩き出した。
その瞬間——。
「ちょっとミジュ、ずるい!」
「私もー!」
「Kさん!」
他の三人が、我先にとKの横へ駆け寄った。
そして、何の遠慮もなく、Kの手を握り、腕に腕を絡め、すっかり大胆になった少女たちが、まるで長年の恋人のようにKを取り囲んで、事務所の中へと消えていった。
***
残された者たちは、その場に棒立ちになっていた。
美咲も当然その一人だった。
頭痛どころの話ではない。
頭を抱えて、周囲をぐるぐると見回した。
(だ、誰か見てなかった?見てないよね?見てたらどうしよう……!)
冷や汗が、背中を伝う。
そんな美咲の横に、静かに、アンナが歩み寄ってきた。
「大丈夫ですよ」
美咲は、弾かれたように顔を上げた。
アンナは、事務所の外の通りに一度だけ視線を向けたあと、美咲の目を見て、静かに、しかしはっきりと言った。
「付近には監視を置いておきました。それに……会長をネタにするような記事は、この世に出ることはありません」
「……え?」
「会長に恩を売りたい人はいくらでもいます。スキャンダルを掲載する前に、誰かに消されますよ」
淡々と、しかし、絶対的な事実として。
美咲は、その一瞬、言葉を失った。
もし万が一、今の光景を誰かが撮影し、どこかのメディアに持ち込んだとしたら。
そのメディアは、Kの不利益になりうる記事を、本当に世に出すことができるだろうか——。
世界経済の「心臓」を鷲掴みにしている男。
世界の金融を、広告市場を、投資フローを、全て掌握している男。
そんな男の機嫌を損ねる記事を掲載することが、どのメディアにとって、どれほどの代償を伴うか——。
答えは、考えるまでもなかった。
(……ああ)
美咲は、ようやく理解した。
自分たちが今まで「常識」だと思っていた業界のルール、スキャンダル対応、情報管理——。
そういった次元の話が、Kという存在の前では、一切意味をなさない。
この人の周りでは、世界の方が動くのだ。
情報さえも、彼の意向の前に形を変える。
美咲が呆然と立ち尽くしていると、アンナは小さく頷くように会釈をした。
「行きましょう」
その一言に、美咲はようやく我に返り、慌てて後を追った。
事務所の中からは、ミジュの、そしてサラの、少し興奮気味の声が漏れ聞こえてくる。
王と、その王に心を奪われた4人の少女たち。
そして、その周りで、世界の常識が、音もなく書き換えられていく。
諦めと、少しの微笑みを浮かべて、美咲はアンナの後ろを歩いていった。




