【リ・フローラ編】第3話
美咲がドアへと向かいかけた、その時だった。
「……ところで」
カエデの声が、静かに、しかし明確に美咲の背中を捕まえた。
美咲は足を止めて振り返る。
カエデは、タオルを首にかけたまま、真顔で美咲を見ていた。
「美咲さん」
「は、はい」
「なんで練習を止めて、伝えてくれなかったんですか?」
その声は穏やかだった。
穏やかだったが、有無を言わせない何かが、その静けさの中に宿っていた。
美咲は、一瞬だけ「やばい」と思った。
「え、あの……練習中でしたし、邪魔をするのも悪いかと思って……」
「Kさんの話なんですよ?」
「そうですよ!」
カエデの言葉に、ソユン、サラ、ミジュが即座に加勢した。
先ほどまで疲れ果てていたはずの3人が、今や美咲を囲んでいる。
「こんな重要なこと、早く教えてくださいよ!」
ミジュが腰に手を当てて言う。
「ほんとです!Kさんのことなら、どんな時でも最優先で教えてほしいです」
サラも眉を上げてうんうんと頷いている。
そしてソユンが、一歩前に出た。
その顔は、とびきり可愛らしく、どこか儚げだった。
しかし、その口から出てきた言葉は、なかなかにハードなものだった。
「美咲さん。Kさんに関することは……今後、どんな状況でも、最優先で伝えてくださいね?」
笑顔だった。
ふんわりとした、少女漫画から抜け出てきたような笑顔だった。
しかしその要求は、控えめに言っても、マネージャー業務の通常運用からは遠く離れた要求だった。
「そ、それはまあ……できる限り……」
「できる限り、じゃなくて」
カエデが、穏やかに、しかし揺るぎなく畳み掛ける。
「最優先で、お願いします」
「あと」
今度はサラが腕を組んで言った。
「Kさんからの依頼を断るわけないですよね?だから確認も要りませんよ、次からは」
「その通りです」
ミジュが真剣な顔で頷く。
「……というか、Kさんのことで、私たちに無断で断ったりしてることはないですよね?」
その、さらりと投下された一言の圧が、じわじわと美咲に迫ってくる。
「な、ないですないです!あるわけないじゃないですか……!」
美咲は、両手を前に出してタジタジになりながら首を振った。
「わかりました、わかりましたから……次からは、どんな状況でも、すぐお伝えします……」
「ありがとうございます!」
4人は、満足げに、そして可愛らしく微笑んだ。
美咲は、深く息をついた。
この子たちは、本当に。
本当に、K会長のことになると、別の生き物になる。
(これは……私が悪かったの……?)
美咲は自問しながら、静かに練習室を後にした。
廊下を歩きながら、彼女は胸の中で小さく誓った。
次からは最優先で伝えよう。
心身の安全のために。
***
KFGニューヨーク本社。会長執務室。
アンナが、FLORIAの事務所側からの了承の旨をKへ報告したのは、その日の夕刻だった。
「FLORIAの皆様のスケジュール、調整いただけるとのことです」
「そうか」
Kはそれだけ言って、書類に視線を戻した。
たった一言。
しかし、アンナには分かった。
デスクに向かうKの横顔が、ほんの少しだけ、いつもより穏やかだった。
肩の力が、わずかに抜けている。
口元が、僅かに緩んでいる。
(……ご機嫌ですね)
アンナは、完璧な無表情でその観察を終えると、次の議題に移ろうとした。
「では、日本政府との調整に入ります。まず——」
「そういえば」
Kが、書類をめくりながら、何気ない口調で被せてきた。
「ロイヤル・ソレイユのポスターを社内に貼ったと思うが」
「はい」
「各国から……写真は、あるのか」
アンナは一瞬、その質問の意図を精査した。
各国拠点のエントランスやエレベーターホールにポスターが掲示された後、
一応の業務報告として、各支社の管理部門から経営企画本部へ、設置完了の報告写真が送られてきているのは、アンナも把握していた。
しかし、それはあくまで内部管理上の確認資料だ。
Kへ報告するような性質のものではない。
(……なぜその写真を確認したがるのか)
アンナは、次の瞬間には既にその答えを理解していた。
(見せるおつもりですね。彼女たちに)
「……一応、各拠点より設置完了の報告写真が経企に届いております」
「そうか」
Kは、書類から顔を上げた。
「あいつらに見せるか」
「……と、おっしゃいますと」
一応、相槌としてアンナも応える。
「FLORIA、だ」
当然だ、という口調で言う。
「社屋もちゃんと写るやつで、目立つ場所に貼ってある写真を用意しておけ。会う時に見せる」
「かしこまりました」
「それから」
Kは、そこで少しだけ間を置いた。
「余計なものが映り込んでるやつはなしだ。FLORIAのポスターだけが、ちゃんと見えてるやつにしろ」
「……承知いたしました」
アンナは答えながら、頭の中でその「写真」の用途を、完璧に見抜いていた。
KFGが世界に持つ、圧倒的なオフィス群。
ニューヨーク本社の大理石のエントランス。
ロンドンのテムズ川を望む支社ビル。
香港の夜景を切り取る高層フロア。
そのような、世界中の一流ロケーションに、FLORIAのポスターが堂々と掲げられている写真。
それを、FLORIAの4人に見せる。
(……「これだけの場所に、君たちのポスターを飾った」と、お伝えになりたいのですね)
そして当然、4人からの反応は——
尊敬と感嘆と、あわよくば金切り声に近い歓声——
を期待しているはずだ。
どれだけの権力と資産を持つ男が、どれだけ自分たちのために動いたか。
それをさりげなく、しかし視覚的に証明したい。
それは、好きな女の子の前で少し背伸びをしたい、どこにでもいる男の子の心理と、本質において何一つ変わらなかった。
(……世界最大の金融帝国を率いる方の御振る舞いとは思えません)
アンナは、胸の奥でほとんど聞こえないような深さの溜息をついた。
しかし、彼女の指はすでにタブレットを操作し始めていた。
経営企画本部への緊急要請。
件名は簡潔に、「各国拠点のポスター設置写真の選定」。
本文には、条件が明記された。
社屋の外観や内装が分かるアングルであること。
掲示場所が視覚的に映えること。
ポスター以外の商品や資料等が映り込まないこと。
各拠点につき、クオリティの高い写真を複数枚選定すること。
その要請は、すぐさま経営企画本部から各国の本社・支社へと伝達された。
ニューヨーク。ロンドン。パリ。香港。シンガポール。フランクフルト。東京——。
世界中のKFGグループの担当者たちが、深夜であろうと早朝であろうと、上層部からの指示に従い、カメラを持ってエントランスへと向かうことになった。
その全ての動きの発端が、一人の男の「FLORIAに自慢したい」というあまりにも微笑ましい衝動である事実は、彼らには永遠に知らされることはない。
アンナは、経企への要請を送り終えると、再びKの方へと向き直った。
「……手配いたしました」
「ああ」
Kは満足そうに頷いた。
その顔は、今日、来日の件を了承された時よりも、さらに数段、機嫌が良かった。
アンナは、そのご機嫌な横顔を一瞥すると、静かに次の書類を手に取った。
(……FLORIAの皆様が喜んでくださるといいですね、会長)
その言葉は、もちろん口には出なかった。
言わずとも、FLORIAの4人が、世界中のKFGビルに飾られた自分たちのポスター写真を見て、黄色い悲鳴を上げることは確実なのだ。
アンナには、その光景が容易に想像できた。
世界の帝国は今日も、静かに、そしてどこまでも不器用な王の意向のために動き続ける。
その事実に、アンナはもはや呆れる気力すら使い切っていた。




