【リ・フローラ編】第2話
FLORIAの楽曲が静かに流れる執務室で、Kは再び書類に向かっていた。
アンナはKの判断が下されるのを音もなく待つ。席に戻るほどの時間はかからないであろうことは両者にとって確認するまでもないことだった。
組織の都合上、ある程度の金額規模になると、Kの元に承認が来る。
しかし、最近ではよっぽどの巨額の案件か、あるいはKが興味を示すもの以外は、さっと目を通し、後はアンナに処理を一任していた。
今日も淡々と確認しながらも、Kの意識の片隅には、先ほど自分が口にした言葉がひっかかっていた。
(曲を語るには、本人たちとじゃないとダメ……か)
我ながら、白々しいことを言った。
しかし、嘘ではない。
彼は書類をめくる手を止めることなく、当然のような顔でアンナに声を掛ける。
「アンナ」
「はい」
アンナは即座に応える。
「日本に……行く用は何かなかったか」
一瞬の間。
アンナは、その質問の意図を完璧に理解した上で、完璧に理解していないふりをした。
(……「用」をお探しですか)
彼女の脳内では、Kに関わる日本案件のリストが猛烈な速度で精査されていた。
そして、数秒と経たずに、一件が浮上した。
「……一つ、ございます」
アンナはタブレットを操作しながら、淡々と告げた。
「日本政府の国家戦略諮問会議より、会長へのスペシャルアドバイザー就任の依頼が来ております。
金融庁への助言、国際金融政策および次世代経済安全保障に関する枠組み構築への協力要請です。
先方からは三ヶ月前より打診を受けておりますが、会長のご判断を仰ぐ機会がなく、ずっと保留にしておりました」
Kはその説明を聞きながら、書類から目を離さずに「ほう」と短く言った。
「受けるか受けないか、いかがなさいますか」
「やろう」
即答だった。
三ヶ月間放置されていた国家レベルの依頼が、一秒で決定された。
アンナはそれを表情一つ変えずに受け止め、タブレットに記録した。
「かしこまりました。先方への連絡と、スケジュール調整を——」
「ついでに」
Kが、やや早口で、しかし何でもないことのように言葉を挟んだ。
「あいつらにも会うか」
アンナのタブレットを操作する指が、ほんの一拍だけ止まった。
「ついでに」という言葉が、どれほど不自然か、
そして「あいつら」が誰を指すのか、言うまでもない。
日本政府のアドバイザーという国家的案件が、「本題」で、
FLORIAへの訪問が、「ついで」。
当然それは真逆であることは、この場にいる二人とも、百も承知だった。
「……スケジュールを確認しておきます」
彼女はただそれだけを、事務的に、しかし完璧な丁寧さで答えた。
そしてタブレットに向かいながら、心の中で静かに付け加えた。
(《《ついで》》に、お会いできると良いですね会長)
***
KFGから日本の事務所へ、その連絡が届いたのは数日後のことだった。
連絡は、アンナから事務所社長への直通メールという形で、しかし内容は非常に「遠回し」に伝えられた。
『会長が日本政府との公務のため近日帰国の予定です。
その際、僅かではございますが、FLORIAの皆様とご挨拶できる時間がございます。
よろしければご調整いただけますでしょうか』
文面は柔らかい。
しかし事務所社長は、その一行一行を三度読み返した後、深く椅子にもたれて天井を仰いだ。
「よろしければ」などという言葉を、KFGが使うはずがない。
これは調整の「お伺い」ではなく、決定事項の「通知」だ。
「……チーフを呼んでくれ」
社長は短く指示を出した。
チーフマネージャーが駆け込んでくるまでの数分間、社長は静かにカレンダーを眺めていた。
指定された日付に、すでに予定が入っているのは確認済みだ。
有名キャラクターIPとのミニコラボ企画。
FLORIAのメンバーたちが、以前から楽しみにしていた撮影仕事だ。
相手方の企業も、スケジュール調整に尽力してくれた案件だ。
しかし——。
「チーフ。実は……」
社長は、深いため息とともに口を開いた。
***
その指示は、チーフマネージャーから美咲へと降りてきた。
「みんなに確認して、と言われても……」
美咲は廊下でしばらく立ち尽くした。
確認、という言葉は使われた。
しかし実質的には「K会長がいらっしゃるから、他の予定は調整するように」という意味だ。
それは、全員分かっている。
分かった上で、「一応メンバーにも確認する」という体裁をとっているだけだ。
美咲は、深呼吸をひとつしてから、練習室へと向かった。
***
廊下を進むにつれ、扉の向こうから重低音のビートと、床を踏む振動が伝わってくる。
練習の真っ最中だ。
美咲は扉の小窓から中を覗いた。
4人が、汗をかきながら次の曲のダンスルーティンを繰り返している。
カエデが「そこ、もう少し早く」とミジュに声をかけ、ソユンが全体のフォーメーションを確認しながら動く。
サラは少し先を行くように一人でステップを刻み、振り返ってメンバーを引っ張っている。
(……邪魔するのは悪いな)
美咲は扉を開けず、廊下でそのまま待つことにした。
中のメンバーは、扉の外に美咲がいることに気づいていた。
小窓越しに一瞬視線が合ったカエデが、軽く目礼した。
何か用があるのだろう、とは察している。
しかし練習中に止めることもなく、お互い無言のうちに「終わってから」という了解が成立していた。
***
十数分後。
曲が区切れ、振付師から「一旦休憩にしましょう」の声がかかった。
4人は各々、その場にへたり込んだり、壁にもたれかかったりしながら、タオルで汗を拭い、ペットボトルに口をつけた。
呼吸が整う前から、美咲が練習室に入ってくる。
「お疲れ様です。少しよろしいですか」
「はーい」
サラが床に座ったまま首だけ向ける。
ミジュは壁に背中を預けたまま水を飲んでいる。
ソユンとカエデは、タオルを首にかけながら美咲の方へ顔を向けた。
全員、疲労の色は隠せない。
「あの、実は今度の、キャラクターコラボの撮影の件なんですが」
「はい」
ソユンが、水を飲みながら相槌を打つ。
「その日に……K会長が、日本に来られるとのことで」
その瞬間だった。
4人が、同時に動いた。
床に座っていたサラが弾かれたように立ち上がり、壁にもたれていたミジュが背筋を伸ばし、タオルを首にかけていたソユンとカエデが一歩前に踏み出した。
「「「「え!?」」」」
練習で疲れ果てていたはずの身体が、一瞬で別人のように活性化した。
美咲の周りに、4人がわっと集まってくる。
その目が、さっきまでの疲れた目ではない。
期待と興奮でキラキラと輝いている。
まるで、好きなお菓子を目の前に差し出された子犬のような目だ。
(……ファンが見たら失神しそう……この光景)
美咲の頭の片隅で、ごく冷静な感想がよぎった。
「会長が来られる際に、少しご挨拶できる時間があるとのことで……いかがでしょうかと連絡をいただきまして」
「行きます」
カエデが即答した。
いつもの慎重で理性的なカエデが、話が終わりきる前に即答した。
「行く行く行く!」
「当然でしょ!」
サラとミジュの声が重なる。
「……Kさんに、会える……!」
ソユンは両手を口元に当てて、目を潤ませている。
美咲は、一通り4人が感情を爆発させるのを、静かに待った。
嵐が少し収まったところで、努めて冷静な声で続けた。
「えっと……じゃあ、その、キャラクターコラボの撮影は……」
「別の日で無理なら……断るしかないですね」
カエデが、さらりと言った。
全員が、即座に頷く。
「うん、それしかないよねー」
「そうですね……」
「当然!」
美咲は、一応の義務として言葉を続けた。
「あの、一応お伝えしておくと……相手方の企業さんも日程調整してくださっていたので、このタイミングで急にお断りすると次のコラボのお話が難しくなるかもしれなくて……」
「はいはい」
「うんうん」
4人の相槌は、明らかに聞いていない人間のそれだった。
視線はすでに、来週のKとの再会という一点に向かっている。
美咲は、そこで言葉を止めた。
言っても無駄だと分かっているからではない。
いや、分かっているからだ。
(……予想通りではあったけど)
美咲は、眉間をそっと押さえた。
しかし、不思議と怒りは湧いてこなかった。
この子たちの恋は、もはや美咲の常識の枠には収まらない領域に来ている。
止められるものでも、止めるべきものでも、もはやないのかもしれなかった。
「……分かりました。では、コラボ撮影の件はお断りする方向で、社長に報告します」
「お願いします!」
とても断る返事とは思えないほどに、4人の声が気持ちよく揃った。
「ところで美咲さん」
ミジュが、目をキラキラさせたまま美咲に一歩にじり寄った。
「Kさん、今回はどのくらい時間ありそうですか?」
「……それはまだ、詳しくは……」
「前のアルカディアの時みたいに、撮影も見に来てくれたりしないかな。ロイヤル・ソレイユの時は会えなかったから……」
ソユンが夢見るように呟く。
特にミジュは、その言葉に強く反応した。
ロイヤル・ソレイユの一件で、Kは時計を送り、CMを日本中に流し、ミジュのミスさえも奇跡に変えてくれた。
しかしその全ては、遠く離れたニューヨークから。
実際に顔を合わせたのは、まだあのライブの夜と、アルカディアの撮影の一日きりだ。
「会えますよね……?今度こそ、ちゃんと……」
ミジュの声が、少しだけ揺れていた。
美咲は、その顔を見て、胸がじんとした。
「……会えますよ、きっと」
根拠はない。
でも、そう言わずにはいられなかった。
練習室に、FLORIAの4人の浮足立った熱気が、じわじわと満ちていく。
さっきまで汗だくで踊っていたとは思えない、少女たちの輝く横顔。
美咲は、そっとドアへと向かいながら、心の中で静かに思った。
(……K会長。この子たちはこんなに待ってますよ)
その想いが届くはずはない。
しかし、地球の裏側では、
その男がすでにカレンダーの一点だけを見つめていることを、美咲はまだ知らなかった。




