【リ・フローラ編】第1話
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ロイヤル・ソレイユの騒動から、また少しの時が流れた。
日本の芸能界では、季節が変わるように話題が移り変わる。
しかし、FLORIAにとってこの数週間は、確かな手応えを感じる日々だった。
ロイヤル・ソレイユのCMが日本中に溢れ返ったあの一件以来、彼女たちの名前を知る人が、じわじわと、しかし確実に増えていた。
事務所もその潮目を感じ取っていた。
チーフマネージャーが、これまでとは明らかに違う気合いで会議室のホワイトボードを埋めていく。
「今月はここ、来月はここ、再来月にはこのタイアップの話も……」
スケジュールの密度が、以前とは段違いだった。
「最近忙しいですよねー」
「うん。でも、嬉しい忙しさだよ」
移動の車内で、ミジュとサラが小声でそんな言葉を交わす。
それは本心だった。
仕事が増えることは、アイドルとして純粋に嬉しい。
頑張れることが増えるのは、喜ばしいことだ。
しかし。
4人の心の奥底には、相も変わらず仕事の充実感とは別に、小さくて消えない灯火がともり続けていた。
次は、いつだろう。
次にKさんから、何かが来るのはいつだろう。
口には出さない。
安易に口に出してしまうと、少し雑に扱っているような気持ちになる。
それほどまでに神聖視し始めていた。
けれど、誰もがそれを待っていた。
まるで、次の奇跡を、待ち続けるように。
***
その中でも、ソユンの「待ち方」は少し4人と違っていた。
彼女の場合、ただ待つのではない。Kのことを少しでも知ろうとしていた。
少し時間が空くと、ソユンはスマートフォンを取り出す。
検索欄に打ち込む文字は、いつも同じだ。
「Kさん 最新」
「KFG 会長 インタビュー」
「Kさん ○○(その日の日付)」
芸能人と違い、Kは毎日他愛もない発言がニュースになるような存在ではない。
彼が発する言葉は、世界の経済を動かすものだから、そう頻繁に表には出てこない。
それに、ソユンはあまりインターネットに強くなく、特別な情報収集はできなかった。
それでも、世界的な経済誌が掲載するインタビュー記事や、国際サミットでの発言を取り上げた海外メディアの記事が、たまに日本語や韓国語に翻訳されて、ソユンの元まで流れてくることがある。
そういった記事を見つけた日のソユンは、まるで宝物を掘り当てた探検家のような顔になる。
「見て!Kさん、このインタビューで……」
「ソユン……また調べてたの?」
カエデに呆れたように言われても、ソユンはまったく意に介さない。
「別にいいでしょ!ねえ、見て……ここに書いてあるの、Kさんが『必要なのは、真に輝くものを見極める目を持つことだ』って言ってて……これ、私たちのことじゃないかなって……」
「それは絶対に違うと思う」
「っ……!でも可能性はゼロじゃないから!」
ミジュが「ソユンちゃんの恋は盲目だ~」とゲラゲラ笑う横で、ソユンは真っ赤になりながらも、その記事を大切にスクリーンショットしてアルバムへ保存するのだった。
そのアルバムには、すでに相当な枚数のKの記事や写真が蓄積されていた。
彼女自身は「情報収集」と呼んでいるが、どう見てもそれは、熱心なファン活動そのものだった。
***
一方、地球の反対側。
ニューヨーク、KFG本社ビル最上階。
会長専用フロアは、今日も張り詰めた静寂の中にあった。
このフロアに立ち入ることを許されているのは、Kと、ごく限られた秘書陣のみ。
世界の経済の歯車が、ここから無音で回り続けている。
しかし今日は、いつもと少しだけ違った。
アンナが巨額の買収案件の書類をいくつか抱えて、執務室の中に入ったとき、彼女の耳がその音を捉えた。
聴き慣れない、しかしどこかで聞いたことのある旋律。
(……これは)
彼女は少し眉を動かしてから、話し始める。
「会長、いくつか資料が整いました」
「ああ」
Kは巨大なモニター群に囲まれたデスクで、書類に目を通しながら短く答えた。
その、デスクの片隅にある小型の、しかし世界最高品質であろうスピーカーから、控えめな音量でその音楽は流れていた。
アンナは書類をデスクに置きながら、さりげなく、しかし確実にその音源を確認した。
再生されているのは、FLORIAの楽曲だった。
(……いつから)
アンナは表情一つ変えずに、ただそれだけを静かに認識した。
当然、彼が彼女たちの魅力にすでに浸かっていることは知っている。
プライベートサーバーの隠しフォルダに動画を保存していたことも……把握している。
しかし、執務室で業務中に流すようになったのは、おそらく最近のことだ。
「……では次の案件が整理されましたらまたお持ちします。」
アンナは何も言わなかった。
言う必要はない。
このフロアにKと秘書以外は立ち入れない。
社内への影響は皆無だ。
ただ。
アンナの頭に、ひとつの懸念がよぎった。
(……ポスターの時のように、これを「全社員に聴かせよう」などとおっしゃらなければよいのですが)
その懸念は、杞憂に終わるかもしれない。
しかし、この男に関しては、あらゆる最悪のケースを想定しておく必要がある。
それが最近のアンナの教訓だった。
***
その日の業務が一段落した夕刻。
Kは、珍しくデスクから背もたれに身を預けて、高い天井を見上げていた。
スピーカーからは、引き続きFLORIAの全楽曲が順番に流れている。
いつの間にか、ただ音楽を聴くための時間になっていた。
アンナが次の報告のために入室してきた時も、Kはその体勢のままだった。
「会長」
「ああ」
「フォルクスバンクの件、先方から回答が——」
「アンナ」
Kがアンナの言葉を遮った。
「はい」
「これ」
Kは目線でスピーカーの方を示した。
「どれが好きだ?」
間。
アンナは少しだけ顔をしかめて、一秒ほど適切な回答を考えた後、答えた。
「私はFLORIAの皆様の楽曲について、優劣を判断できるほどの基準を持ち合わせておりません」
「ふん……」
Kは怒ってはいないがつまらなさそうにした。
その答えは嘘ではなかった。
しかし本音でもなかった。
正確には、「この質問に正直に答えるのは会長にとって有益か判断しかねます」という意味だった。
Kは、アンナの回答を聞いた後、少しの間黙っていた。
そして。
「……そうだな」
独り言のように、静かに呟いた。
「やはり曲を深く語るには、本人たちとじゃないとダメか……」
アンナのこめかみに、微細な痛みが走った。
(……今、何とおっしゃいましたか)
「フォルクスバンクだったか。続けろ」
Kはけろりとした顔でそう言い、再び書類に視線を落とした。
Kの発言は、自然に、しかしあまりにも重大な意味を孕んで、執務室の静寂に溶けていった。
アンナは、フォルクスバンクの報告書を手にしたまま、しばらく動けなかった。
(……「本人たちと語る」ために、また何かなさるおつもりですか)
次は何をしたがるのか。
KFGの傘下ブランドが次々とFLORIAに吸い寄せられていく光景が、走馬灯のようにアンナの脳内を駆け抜ける。
それ自体は別に構いはしない。
元々金融帝国のKFGにとって傘下のブランドなど所詮は一事業、そもそもK自身が決めたことに誰も文句など言えやしない。
しかし、ことFLORIAとの関係性においては、この男の持つ圧倒的な力が、初めて女の子を好きになった中学生のような、想像の斜め上の行動になりかねない。
「アンナ」
「……はい」
「なぜ止まっている」
「……失礼いたしました。フォルクスバンクの件ですが——」
アンナは、感情を完璧に殺した声で報告を再開した。
しかし、その頭の片隅では、すでに「次の事態」への備えが、静かに始まっていた。
スピーカーからは、FLORIAの軽やかな歌声が、何も知らない顔で流れ続けている。




