【ロイヤル・ソレイユ編】第4話
ミジュの投稿に対するコメントのほとんどは、純粋な驚きと賞賛だった。
『ロイヤル・ソレイユ買ったの!?』
『ミジュちゃんすごい!』
『値段調べるのが怖いw』
『マンネ(末っ子)が大人の階段を…!』
しかし、それが「公式発表前の極秘情報」であるという事実。
そのたった一つの事実が、この無邪気な投稿を、全てを吹き飛ばす時限爆弾へと変えていた。
その爆弾の導火線に火がついていることに最初に気づいたのは、リーダーのソユンだった。
***
投稿から、20分ほどが過ぎた頃。
ソユンは自室のベッドで、特に何かを見ようと思ったわけではないが、寝る前に何気なくSNSを開いた。
普段からよく見ているFLORIA公式アカウントや、メンバーの投稿が表示される。
(あっ、この前のインタビュー記事ってもう掲載されてたんだ)
(サラ、またアルカディアの衣装の写真使ってる。ふふ、気に入ってるなぁ)
(ミジュの投稿は……なんかコメントがいつもより多い?)
ミジュの投稿に対するコメント数が気になり、コメント欄を見てみると、不自然なほど「時計」に関するコメントが投稿されていることに気づいてしまった。
そして決定的なコメントを目にする。
『その時計……ロイヤル・ソレイユじゃない?』
「……え?」
つい声が出た。
彼女は慌てて、4枚目に添付された画像を拡大する。
そこに映っていたのは、紛れもなく数時間前に社長室で見た、あの深紅の箱に入っていた、荘厳な輝きを放つ腕時計だった。
その瞬間、ソユンの全身からサーッと血の気が引いた。
頭の中が真っ白になる。
(うそ……なんで……!? どうして……!!)
守秘義務。
損害賠償。
ブランド。
Kさん。
あらゆる破滅的な言葉が、彼女の頭の中を警報のように駆け巡る。
「だ、だめ……!」
彼女はベッドから転げ落ちるように飛び起きると、スリッパも履かずに廊下へと飛び出した。そして、ミジュの部屋のドアを、ノックもせずに勢いよく開け放つ。
「ミジュ!!!!」
ミジュは寝る前のルーティンを終え、まさに今から寝ようとベッドに入る直前だった。
息を切らして飛び込んできたソユンの、死人のように青ざめた顔を見て、ミジュは驚いて身構える。
「ソユンちゃん?どうしたの、そんなに慌――」
「写真……!」
ソユンはドアに手をつき、ぜえぜえと肩で息をしながら、かろうじて言葉を絞り出す。
「……なんで時計の写真……あげてるの?」
その声は、ソユン自身も驚くほどに低く、そして冷たかった。
いつもの少し気弱で優しいリーダーの声ではない。
恐怖と焦燥、そしてほんの少しの怒りが混じってしまった声色になったことを、ソユンは喋りながら頭の片隅で冷静に自覚していた。
そのあまりにも異様な雰囲気と、ソユンの必死な形相。
そして、時計の写真。
その言葉でミジュは、瞬時に自分が何をしてしまったのか、頭の中で理解が追いついた。
しかし、理解はしたくなかった。
コンマ数秒の間に、数十分前の自分の行動がフラッシュバックする。
自分が、取り返しのつかない、とんでもないことをしてしまった可能性。
事務所に、ロイヤル・ソレイユに、メンバーに、そしてKさんに迷惑をかけてしまう可能性。
いや、可能性ではなかった。すでに彼女は自分の過ちが確信に変わっていた。
最悪の未来予想図が、一瞬で彼女の頭の中を駆け巡った。
次の瞬間、ミジュの大きな瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し始めた。
「嘘……なんで……ちが……ごめ……なさい……っ……!」
ミジュの口から漏れたのは、もはや言葉にならない嗚咽混じりの謝罪だけだった。
彼女はベッドの上で小さく身体を丸め、子供のように声を上げて泣きじゃくっている。
いつも可愛がっている19歳の末っ子の、そのあまりにも痛々しい姿に、ソユンの心臓はぎゅっと締め付けられた。
怒りをぶつけてしまったことへの後悔と、しかしこの絶望的な状況をどうすればいいのか分からないパニックで、彼女の頭の中もぐちゃぐちゃだった。
「ど、どうしよ……ミジュ、とりあえず、あの投稿、消そう…か…?」
ソユンが震える手でミジュのスマートフォンに触ろうとした、その時だった。
「どうしたの?二人とも。すごい音がしたけど」
ひょっこりと、部屋のドアから顔を覗かせたのは、最年長のカエデだった。
ソユンが廊下を走る音と、部屋に飛び込む大きな音を聞きつけて、様子を見に来たのだ。
彼女は、部屋の異様な空気と、泣きじゃくるミジュ、そして顔面蒼白のソユンを見て、瞬時にただ事ではないと察した。
「ソユン、何があったの?」
いつもと変わらない冷静で落ち着いた頼れる姉の声。
それは、パニックに陥っていたソユンにとって、一筋の光のように感じられた。
「カ、カエデちゃん……!そ、それが……」
ソユンは途切れ途切れに、しかし必死に状況を説明した。
ミジュがSNSに時計の写真をあげてしまったこと。
コメント欄がすでにその話題で持ちきりになっていること。
彼女はなるべくミジュを責めるような言葉にならないよう細心の注意を払ったが、その声が震えてしまうのはどうしようもなかった。
説明を聞き終えたカエデの顔からも、サッと血の気が引いた。
(噓でしょ……)
内心では心臓が嫌な音を立てていたが、彼女はソユンのように取り乱すことはなかった。
ここで最年長の自分が崩れれば、グループが終わってしまう気がしたからだ。
「……そう。分かったわ」
彼女は深く一度息を吸い込むと、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで言った。
「ソユン、消すのはまだ待って。消す前に、事務所に報告しましょう」
「じ、事務所に…!?」
カエデのその言葉を聞いた瞬間、今まで泣きじゃくっていたミジュの肩がビクリと大きく震えた。
彼女は顔を上げる。
その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったが、それ以上に絶対的な恐怖の色に染まっていた。
事務所に報告するということは、いずれKFGに、そしてKの耳にも確実に入るということだ。
「い、いや……!いやです……!!」
ミジュの呼吸が浅くなる。
明らかに過呼吸の症状が出始めていた。
「怒られる……Kさんに、嫌われちゃう……!あぁ……」
「大丈夫よ、ミジュ」
カエデはミジュの隣に座ると、その震える身体を優しく、しかし力強く抱きしめた。
「大丈夫。私たちがついてるから。それに、正直に話せばきっと分かってくれる。ね?」
カエデの母親のような絶対的な優しさに包まれて、ミジュはかろうじてこくりと頷いた。
しかし、その身体はまだ小刻みに震え続けている。
カエデはソユンに目配せすると、衰弱しきったミジュを支えるようにして部屋を出てタクシーに乗り込む。
向かう先は、かつての地獄の断頭台よりも恐ろしい場所になってしまった、事務所の社長室。
***
社長と、その場に居合わせたチーフマネージャーは、カエデからの報告を聞いて、二人して天を仰いだ。
絶望。
その二文字が部屋の空気を支配する。
「……とにかく」
長い沈黙の後、社長が重々しく口を開いた。
「ロイヤル・ソレイユ……いや、KFGに連絡を入れるしかない。正直に全てを話す」
その言葉を聞きながら、ミジュは死にそうな声で「ごめんなさい……ごめんなさい……」と、何度も何度も泣きながら謝り続けた。
社長はそんな彼女に今は何も言うことなく、ただ「全員寮で待機しているように」とだけ命じた。
***
あまりにも重い足取りで寮のリビングに戻ると、サラが心配そうな顔で待っていた。
泣き腫らしたミジュと、暗い顔の二人を見て、サラが駆け寄ってくる。
「どうしたの?何があったの?」
衰弱しているミジュはサラの顔を見るなり、再び泣き崩れた。
「ごめんなさい……私のせいで……ごめんなさい……!」
カエデが、悲痛な面持ちで事情を説明する。
それを聞いたサラは、目を見開き、そして強く唇を噛み締めた。
「……ミジュ…。違うよ、悪いのはミジュじゃない」
サラの低い声に、全員が顔を上げる。
サラは、ミジュの前に立つと、その身体を抱きしめた。
「あの写真、私が撮ったじゃん。『記念に撮ろう』って言い出したのも私だし、『可愛い、もっと見せて』って煽ったのも私。ミジュは『恥ずかしい』って言ってたのに!……全部、私の責任だよ。なんで私こんなバカなの……!」
涙目で伝えたそれは罪の告白であり、そして傷ついた妹を一人にはしないという、姉としての覚悟だった。
「サラ……」
その言葉に、ソユンもカエデも静かに頷いた。
そうだ。これはミジュ一人の罪ではない。
仕事に集中もできていないのに、身の丈に合わないプレゼントをもらって浮かれきっていた、全員の連帯責任なのだ。
「大丈夫。何があっても、私たちは4人で一つだから」
カエデの言葉に、4人は身を寄せ合う。互いの体温で不安を埋めようとした。
しかし、Kとの繋がりまでもがなくなってしまうかもしれないという恐怖は、夜の闇と共に、彼女たちの心を深く深く蝕んでいった。
***
ニューヨーク、KFG本社ビル最上階。
第一秘書アンナの元に、日本の事務所の社長から、KFGの担当本部を通じて一通のメールが届いたのは、現地の早朝のことだった。
その文面は、これ以上ないほど丁寧な言葉で綴られた、仰々しいまでの謝罪文だった。
(こんなことに取り繕った謝罪文を書く暇があるなら、一秒でも早く事実を報告すればいいものを……)
アンナは内心で深く、そして冷徹なため息をついた。
本来、SNSの投稿ミスというあまりにも末端な案件が、世界の心臓部であるこの場所に届くことなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
しかし、今回の件は自分、ひいては会長が直接指示を出した案件だ。
報告が上がるのは当然の帰結だった。
アンナは添付されていた画像ファイルを開いた。
そこに映っていたのは、満面の笑みで、数日前に自分が選んだ真新しい時計を、誇らしげに見せる、ミジュのあまりにも無垢で愛らしい姿だった。
(……日本は……もうすぐ深夜ですか)
アンナは全ての状況を流れるように整理し、その写真と謝罪文を携え、主君が待つ執務室へと向かった。
Kは、窓の外に広がる朝のニューヨークを眺めながら、機嫌良くコーヒーを飲んでいた。
「会長、FLORIAの皆様の件でご報告が」
アンナがそう切り出すと、Kは億劫そうに、しかしどこか楽しげにこちらを振り返った。
アンナは感情を一切排し、事実だけを淡々と報告する。
そして最後に、タブレットに表示させたミジュの「例の写真」を、Kの目の前に差し出した。
Kは、その写真を見た瞬間、ふっ、とその口元を緩ませた。
「……嬉しそうだな、ミジュ」
彼は、タブレットに映るミジュの頬を、愛おしそうに指でなぞった。
その声には、怒りや失望の色など微塵も感じられない。
あまりにも予想通りの反応。
アンナはもちろん驚かなかった。
「……そうですね。それで、この件いかがいたしますか?」
「いかがもなにも、このままで良いだろ」
Kは不思議そうにそう言った。
彼には、この状況の何が問題なのか、1ミリも理解できていないのだ。
いや、もちろん理解はしている。
しかし、この資本主義の頂点に君臨する男にとってはあまりにも些細なことだ。
アンナは、いつものポーカーフェイスの下で、こめかみがピクリと痙攣した。
呆れた感情を必死に抑え込みながら、この話が通じない男に、一から状況を説明してあげた。
「会長。この投稿は、公式発表前に行われたものです。守秘義務、マーケティング戦略の観点から、これは重大な情報漏洩にあたります。そして何より……」
アンナは、そこで一度言葉を切った。
「……ミジュ様ご本人は、今、ご自身の過ちに気づき、ひどく苦しんでおられるはずです」
その、最後の一言。
それが、Kの思考回路をようやく切り替えた。
彼の顔から、能天気な笑みがスゥッと消える。
ゆっくりと立ち上がると、窓際まで歩き、眼下に広がるまだ眠りから覚めきらない摩天楼をじっと見下ろした。
10秒ほどの沈黙。
やがて、彼はゆっくりとアンナの方を振り返った。
その瞳には、もはや先ほどの子供のような無邪気さはない。
絶対君主としての冷徹で、そして神の如き決断力の色だけが宿っていた。
「今すぐアンバサダーにすることを公式発表させろ。今すぐにだ」
その大胆な解決策。
情報漏洩ではなく、今この瞬間を「解禁日」にしてしまえばいい。
「そして」
とKは続けた。
「あの写真を、最初の公式ビジュアルとして使え」
アンナは、その思考の飛躍と決断の速さに、感嘆の息を漏らした。
「……承知いたしました。では、まず事務所へこの決定を――」
「いや」
Kはアンナの言葉を手で制した。
そして、その顔に再び悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「サプライズで、ミジュを驚かせてやろう」
その笑顔は、もはや世界の王のものではない。
失敗を犯し心を痛めているであろう愛しい人を、最高の形で救い出し、驚かせ、喜ばせたいと願う、ただの一人の男の顔だった。




