【ロイヤル・ソレイユ編】第3話
社長室から解放された4人は、夢見心地のまま事務所の送迎車に乗り込み、自分たちのお城である寮へ足早に戻ってきた。
玄関の鍵をかけ、靴を脱ぎ捨て、リビングのソファに倒れ込む。
完全にプライベートな空間になったその瞬間、今までかろうじて保っていた理性のダムが、完全に決壊した。
「きゃああああっ!!」
地響きのような歓声が、リビングに炸裂する。
彼女たちは、それぞれが手にした深紅のベルベットの箱を、まるで生まれたばかりの赤ちゃんのように抱きしめながら、輪になって飛び跳ねた。
「信じられない!Kさん、私たちのこと忘れてなかったんだ!」
ソユンが、嬉し涙を浮かべながら叫ぶ。
一ヶ月間の沈黙が生んだ不安は、もはや跡形もない。
「しかも、超有名ブランドのアンバサダーだよ!?CM撮影もあるかな!?」
サラは興奮を抑えきれない様子で、隣にいたカエデの肩をバンバンと叩いている。
「ふふ……また開けて見てみましょうか」
カエデの提案で、4人は改めてテーブルを囲み、箱の中の芸術品と向き合った。
震える手で蓋を開ける。
そこにあるのは、スイスの職人が数百時間をかけて磨き上げたプラチナの輝き。
文字盤には星屑のようなダイヤモンドが埋め込まれ、秒針一つとっても芸術的な曲線を描いている。
「はぁ……きれい……」
カエデが、恍惚としたため息をつく。
彼女は、Kが自分たちにただ高価なものを与えたのではないと考えていた。
これは、歴史と品格の象徴。
Kは、自分たちがそれにふさわしい存在だと思ってくれているのだ。
その事実が、彼女のプロとしてのプライドをこれ以上ないほどに満たした。
ソユンもサラも、もらった自分の時計を見つめている。
その中で一人、ミジュだけは、他のメンバーとは少し違う種類の興奮に包まれていた。
19歳の彼女にとって腕時計といえば、スマートウォッチか、お手軽なファッションブランドのアクセサリーのようなものだった。
今目の前にあるのは、車一台分の価値を持つ、本物の宝飾品としての時計。
そんなものは、想像の世界の産物でしかなかったのだ。
その未知の世界への扉を、Kがいとも簡単に開いてくれた。
重すぎるほどの愛の証。
その事実に、普段は大人びている彼女の心も、純粋な子供のようにときめいていた。
「これさ…つけてみても、いいのかな!?」
ミジュがおずおずと聞くと、カエデが微笑んで頷く。
「もちろんよ。それはミジュがKさんからいただいたものなんだから」
「あっでも落とさないように気を付けて…!」
ソユンは傷がつかないように、と心配な様子だった。
ミジュは意を決したように、その時計を自分の手首に巻いた。
カチリ、とバックルが留まる音。
「わ……!」
少し重い。
でも、ひんやりとして心地がよい。
立ち上がって腕を掲げてみる。
パーカーにスウェットという部屋着姿の自分と、あまりにも不釣り合いな大人の世界の輝き。
そのギャップが、たまらなく刺激的だった。
「わー!ミジュ、すっごい似合ってる!」
その姿を見つけたサラが、目を輝かせて声を上げた。
そして、ポケットから自分のスマートフォンを取り出す。
「こっち向いて!記念撮影しよ!普段はつけられないんだからさ!」
「えー!恥ずかしいですよ私だけ」
「いいからいいから!ほら、ポーズ!」
カメラを向けられると、条件反射で完璧な表情を作ってしまうのがアイドルの性だ。
ミジュは少し照れながらも、時計がよく見えるように左手を顔の横に添え、小悪魔的なウインクを決めた。
パシャッ。
「最高!超可愛い!」
「どれどれ? わ!本当だ。ミジュ、なんか急に大人っぽく見える」
ソユンも覗き込んで絶賛する。
「えへ……そうですか?」
ミジュは満更でもなさそうに笑うと、自分の手首で輝く「時計の王」を、愛おしそうに撫でた。
「美咲さんに言って、Kさんに写真送ってもらう?」
「えー!それは恥ずかしいからダメです!」
「迷惑がかかるからやめなさい」
「そうだよ!Kさんに気軽に連絡なんてできないんだから!」
彼女たちのお祭り騒ぎはしばらく続いた。
その光景は、あまりにも平和で幸福に満ちていた。
***
一方、その頃。
ニューヨーク、KFG本社ビル最上階の執務室。
アンナからの報告を受け、Kは満足げに頷いていた。
「そうか。受けるのか」
「はい。皆様、大変お喜びとのことでした」
Kは、その光景を想像し、口元にニヤリと笑みを浮かべた。
結果的にとはいえ、一ヶ月間焦らした甲斐があったというものだ。
彼はふと、何かを思い出したようにアンナに問いかけた。
「そういえば、アンナ。あのブランドを買収した時に、俺も何か時計をもらってなかったか?」
「はい、ございます」
「あれは良いやつか?」
そのあまりにも無頓着な問いに、アンナは完璧な無表情のまま答える。
「……あれは『ロイヤル・ソレイユ』の本社工房が、会長のためだけに半年をかけて制作した、世界に一本しか存在しない特注品でございます」
文字盤には希少なブルーダイヤモンドを使用し、内部機構はKFGのロゴを模した特別仕様。非売品だが、価格をつけるならFLORIAに贈ったモデルの軽く20倍は下らない代物だ。
「そうか」
Kは、初めてその時計に僅かな興味を示した。
しかし、それはその「資産価値」に対してではない。
「それ、出しておけ」
彼は、短くそう命じた。
アンナは、その意図を瞬時に、そして完璧に理解した。
(……FLORIAの皆様に、見せびらかすおつもりですか)
この男は、時計そのものには何の興味もない。
ただ、「君たちとお揃いのブランドだよ」と言いつつ、自分だけが持つ「高み」を見せつけたいのだ。「うんうん、俺たち、気が合うな」と共通点をアピールしつつ、その驚きと尊敬の眼差しを一身に浴びたいという、あまりにも子供じみた独占欲。
(しかし…FLORIAの皆様なら望む反応をしてくれそうですね)
アンナは、もちろんそんなことを口にはせず、静かに、そして深く一礼した。
「かしこまりました。メンテナンスを済ませてご用意しておきます」
こうして王の新たな「遊び」の準備が、静かに整えられていく。
***
再び日本。
驚きと幸福に包まれていたはずのFLORIAの寮。
事件は、その日の夜に起きた。
寮に戻り、それぞれの自室で過ごしていた夜。
ベッドの上に寝転がったミジュは、まだ今日の出来事の興奮冷めやらぬまま、スマートフォンを眺めていた。
Kさんからの、突然の贈り物。
そして、新しいグローバル・アンバサダーへの抜擢。
その幸福感は、賢いはずの彼女の理性を完全に麻痺させていた。
(ファンの皆にも共有したいな!今日のこの嬉しい気持ち!)
ミジュは、SNSのアプリを開いた。
もちろん、時計のことやアンバサダーのことを書くつもりなど毛頭ない。
そんなことをすれば、情報解禁前の守秘義務違反でどれだけ大変なことになるか、彼女だって、百も承知だ。
ただ、今日のこの「浮かれた気持ち」を、少しだけお裾分けしたかった。
「最近元気がない」と心配してくれていたファンたちを、安心させたかったのだ。
彼女は、当たり障りのない言葉を打ち込む。
『今日はとっても楽しい一日だったよ~!』
そして、その投稿にいつも通り、4枚の写真を添付しようと写真を選び始めた。
練習中のオフショット、サラとのふざけた自撮り、今日食べたスイーツの写真。
そして…最後の一枚。
メンバーたちが「可愛い」と言って撮ってくれた、あの時計をつけた自分の写真。
彼女の中に、他意や計算など微塵もなかった。
この写真を選んではいけないことは、数分前には理解していた、選ぶつもりもなかった。
ただ、今日の幸福な記憶の象徴として、1日の写真を見ている中で、ついその一枚を無邪気に選んでしまった。
「送信」ボタンをタップする。
投稿して数分。コメント欄には、すぐにファンからの温かいメッセージが届き始めた。
『ミジュちゃんお疲れ様!』
『今日も可愛い!』
『スイーツ美味しそう~!』
『元気そうでよかった!』
いつも通りの平和な反応に、ミジュは満足げに微笑むと、スマートフォンを充電ケーブルに繋ぎ、サイドテーブルに伏せて置いた。
「ふぁ……明日からまた頑張ろうっと!」
彼女は一伸びすると、鏡台の前に座り、丁寧に化粧水をパッティングして肌を整え始めた。仕上げにリップバームを塗りながら、鏡に映る自分に向かって、にこりと微笑んでみた。歯磨きをする間も、つい鼻歌が漏れてしまうほど気分が良かった。
またKに会えるかもしれない。
そんな幸せな予感を抱えていると、いつもなら眠気と戦いながらこなす毎日のルーティンも、今日だけは少し特別な儀式のように楽しく感じた。
そのとき、「あの時計」に関するコメントが増え始めていることなど、知る由もなかった。
『え、その時計…ロイヤル・ソレイユじゃない!?』
『すごすぎ!ミジュ、時計に興味あったんだ!』
『めっちゃ似合ってる!』
『もうそんなに稼いでるんだ』
世界最高峰の輝きは、スマートフォンの画面越しでも隠しきれるものではなかった。
平和な夜は、静かに、しかし確実に終わりを告げようとしていた。




